トウ小平

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  本来の表記は「鄧小平」です。この記事に付けられた題名は記事名の制約から不正確なものとなっています。
中華人民共和国の旗 中華人民共和国の政治家
鄧小平
小平
Deng Xiaoping
トウ小平
鄧小平(1979年)
生年月日 1904年8月22日
出生地 China Qing Dynasty Flag 1889.svg 四川省広安県(現在の広安市)
没年月日 1997年2月19日(92歳)
死没地 Flag of the People's Republic of China.svg 北京市
所属政党 Flag of the Chinese Communist Party.svg 中国共産党
親族 鄧樸方(長男、全国政協副主席)
配偶者 卓琳
サイン Deng Xiaoping Sign.png

中華人民共和国の旗 初代国家中央軍事委員会主席
任期 1983年6月6日 - 1990年3月19日
国家主席 李先念
楊尚昆

中華人民共和国の旗 第3代中国人民政治協商会議主席
任期 1978年3月8日 - 1983年6月17日

中華人民共和国の旗 国務院常務副総理
内閣 周恩来内閣
華国鋒内閣
任期 1975年1月17日 - 1976年4月7日
1977年7月16日 - 1980年9月10日

第3代中国共産党中央軍事委員会主席
任期 1981年6月29日 - 1989年11月9日

中国共産党中央書記処総書記
任期 1956年9月28日 - 1968年10月31日

その他の職歴
中華人民共和国の旗 政務院副総理
(1952年8月7日 -1954年9月27日)
中華人民共和国の旗 第2代財政部長
(1953年9月18日 -1954年6月19日)
中華人民共和国の旗 国務院副総理
(1954年9月27日[1] -1968年10月31日
1973年3月10日 - 1975年1月17日)
中華人民共和国の旗 第6代中国人民解放軍総参謀長
(1973年12月12日 -1976年4月7日
1977年7月16日 - 1980年3月2日)
中国共産党中央委員会副主席
(1973年12月12日 -1976年4月7日
1977年7月16日 - 1982年9月12日)
初代中国共産党中央顧問委員会主任
(1982年9月12日 -1987年11月2日)
鄧小平
各種表記
繁体字: 鄧小平
簡体字: 邓小平
音: Dèng Xiǎopíng
和名表記: とうしょうへい
発音転記: ダン・シャオピン
英語名: Deng Xiaoping
  

鄧 小平(とう しょうへい、ダン・シャオピン、1904年8月22日-1997年2月19日)は、中華人民共和国の政治家。生涯に3回の失脚を乗り越え、史的唯物論の視点に基づく「改革開放」政策によって、中華人民共和国の市場経済化に着手した。1978年から1992年までの、事実上の中華人民共和国の最高指導者であった。

目次

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  • 1 生涯
    • 1.1 フランス留学時代
    • 1.2 共産主義者として
    • 1.3 文革期
    • 1.4 権力の掌握
    • 1.5 第二次天安門事件
    • 1.6 鄧小平の政策
    • 1.7 死去
  • 2 否定的評価
  • 3 パーキンソン病と鄧小平の言葉
  • 4 あだ名
  • 5 逸話
  • 6 参考文献
  • 7 脚注
  • 8 関連項目
  • 9 外部リンク

生涯 [編集]

1904年、四川省広安県の裕福な客家系地主の家庭に生まれる。初め鄧先聖と名づけられ、幼時には鄧希賢の名も用いる。1920年、16歳のときにフランスに留学する。第一次世界大戦後の労働力不足に応じた「勤工倹学」という形の苦学生であった。ちなみに鄧小平はこの後一度も帰郷したことはない。

フランス留学時代 [編集]

鄧が留学した時代、フランスは第一次世界大戦直後の不景気だったため、パリから遠く離れた市立中等校に入学して節約に励むも、半年で生活費を稼ぐため学校を辞めてしまう。鉄鋼工場、レストランのボーイ、清掃など、職を転々と変えながらも、堅実に貯金して、1922年10月に再び田舎町の市立中等学校に入学して3ヶ月間学び、パリ近郊のルノーの自動車工場で仕上げ工員として勤務する。

共産主義者として [編集]

鄧小平(1941年)

フランス留学中の1922年に中国少年共産党に入党し、機関誌の作成を担当。「ガリ版博士」とあだ名され好評を博す。1925年、中国共産党ヨーロッパ支部の指導者となり、フランス政府に危険分子と見なされ、フランスでの居心地が悪くなり、1926年、モスクワに渡り、東方勤労者共産大学・モスクワ中山大学で共産主義を学ぶ。鄧小平がパリを出発した数時間後、フランスの警察が鄧小平のアパートを捜査に入り、10日後に国外追放令を出されていた。

1927年に帰国し、ゲリラ活動を開始。紅七軍を政治委員として指揮するが、冒険的で無計画な李立三路線に振り回される。1931年、蜂起したものの根拠地を失った部隊と共に毛沢東率いる江西ソヴィエトに合流し、瑞金県書記となる。しかしコミンテルンの指令に忠実なソ連留学組が多数派を占める党指導部は、農村でのゲリラ戦を重視する毛沢東路線に従う鄧小平を失脚させる。

1935年、周恩来の助力で中央秘書長に復帰、長征に参加し八路軍一二九師政治委員となる。この後、華北方面での抗日ゲリラ戦や、1946年以降に国民党と戦った国共内戦で行われた淮海戦役・揚子江渡河作戦などで大きな戦果を収める。1949年の中華人民共和国の成立後も西南部の解放戦を指導し、解放地域の復興に努める。

1952年、毛沢東により政務院副総理に任命され、翌1953年には財政部長(大臣)を兼任する。1954年9月に政務院が国務院に改組されると、引き続き副総理を務める。1955年4月、第7期5中全会において中央政治局委員に選出。さらに1956年の第8期1中全会で党中央政治局常務委員に選出されて党内序列第6位となり、中央書記処総書記として党の日常業務を統括することとなる。

1957年には総書記として反右派闘争の指揮を取る。約55万人が迫害を受け、毛沢東の死後にその99%以上が冤罪であったと認められた事件であった[2]

文革期 [編集]

鄧小平は、毛沢東の指揮した大躍進政策の失敗以降、次第に彼との対立を深めていく。大躍進政策失敗の責任を取って毛沢東が政務の第一線を退いた後、総書記の鄧小平は国家主席の劉少奇とともに経済の立て直しに従事した。この時期には部分的に農家に自主的な生産を認めるなどの調整政策がとられ、一定の成果を挙げていったが、毛沢東はこれを「革命の否定」と捉えた。その結果、文化大革命の勃発以降は「劉少奇に次ぐ党内第二の走資派」と批判されて権力を失うことになる。

1968年には全役職を追われ、さらに翌年、江西省南昌に追放された。「走資派のトップ」とされた劉少奇は文化大革命で非業の死を遂げるが、鄧小平は「あれはまだ使える」という毛沢東の意向で完全な抹殺にまでは至らず、党籍だけは剥奪されなかった。南昌ではトラクター工場や農場での労働に従事するが、与えられた住居には暖房設備もなく(南昌は冬は極寒の地である)、強制労働は過酷なもので、鄧は何度か倒れたが砂糖水を飲んで凌ぐことしか許されなかった。

1973年3月、周恩来の復活工作が功を奏し、鄧小平は党の活動と国務院副総理の職務に復活、病身の周恩来を補佐して経済の立て直しに着手する。同年8月の第10回党大会で中央委員に返り咲き、12月には毛沢東の指示によって党中央委員会副主席、中央軍事委員会副主席、中国人民解放軍総参謀長となり、政治局を統括。1974年4月、国連資源総会に中国代表団の団長として出席し、演説。その際訪れたニューヨークの威容に驚嘆し、国家発展のためには製鉄業の拡充が急務と考え、新日本製鐵(新日鉄)などから技術導入を図る。1975年1月、国務院常務副総理(第一副首相)に昇格し、周恩来の病気が重くなると、党と政府の日常業務を主宰するようになる。

着々と失脚以前の地位を取り戻して行ったかに見えたが、1976年1月8日に周恩来が没すると、鄧小平の運命は暗転する。清明節の4月4日から5日未明にかけて、江青ら四人組が率いる武装警察や民兵が、天安門広場で行われていた周恩来追悼デモを弾圧した。すなわち第一次天安門事件である。この事件において周恩来追悼デモは反革命動乱とされ、鄧小平はこのデモの首謀者とされて再び失脚、全ての職務を剥奪された。しかし、党籍のみは留められ、広州軍区司令員の許世友に庇護される。同年9月に毛沢東が死去すると、後継者の華国鋒を支持して職務復帰を希望し、四人組の逮捕後、1977年に三度目の復活を果たす。

権力の掌握 [編集]

1977年7月の第10期3中全会において、国務院常務副総理、党副主席、中央軍事委員会副主席兼人民解放軍総参謀長に正式に復帰。翌8月に開催された第11回党大会において、文化大革命の終了が宣言される。鄧小平は文革で混乱した人民解放軍の整理に着手するとともに、科学技術と教育の再建に取り組み、同年、大学統一入学試験を復活させる。

1978年10月、日中平和友好条約の批准書交換のため、中国首脳として初めて訪日し、昭和天皇や日本政府首脳と会談したほか、千葉県君津市の新日鉄君津製鉄所、東海道新幹線やトヨタ自動車などの先進技術、施設の視察に精力的に行い、京都や奈良にも訪れた。この訪日で鄧小平が目の当たりにした日本の躍進振りは、後の改革開放政策の動機になったとされる。また、新日鉄との提携で、上海に宝山製鉄所を建設することが決定された。

同年11月10日から12月15日にかけて開かれた党中央工作会議と、その直後の12月18日から22日にかけて開催された第11期3中全会において文化大革命が否定されるとともに、「社会主義近代化建設への移行」すなわち改革開放路線が決定され、歴史的な政策転換が図られた。また、1976年の第一次天安門事件の再評価が行われ、周恩来の追悼デモは四人組に反対する「偉大な革命的大衆運動」とされた。鄧小平はこの会議で中心的なリーダーシップを発揮し[3]、事実上中国共産党の実権を掌握したとされる。この会議の決議内容が発表されたときは全国的な歓喜の渦に包まれたという逸話が残っている。

ジミー・カーター(右)と(1979年の訪米にて)

1979年1月1日に米中国交が正式に樹立されると、鄧小平は同28日から2月5日にかけて訪米。首都ワシントンDCで大統領ジミー・カーターとの会談に臨んだ後、ヒューストン、シアトル、アトランタなどの工業地帯を訪れ、ロケットや航空機、自動車、通信技術産業を視察。前年の日本訪問とこの訪米で立ち遅れた中国という現実を直視した鄧は改革解放の強力な推進を決意、同年7月、党中央は深圳市など4つの経済特別区の設置を決定する。

鄧小平が推進する経済改革は、民主化を求める風潮をも醸成した。この風潮を利用して、鄧小平は華国鋒の追い落としを目論む。華国鋒は「二つのすべて」と呼ばれる教条主義的毛沢東崇拝路線を掲げていたが、これを批判する論文が、鄧小平の最も信頼する部下である胡耀邦らにより人民日報、解放軍報、新華社通信に掲載されたのを機に、国家的な論争に発展。北京には「民主の壁」とよばれる掲示板が現れ、人民による自由な発言が書き込まれた。その多くは華国鋒体制を批判し、鄧小平を支持するものであった。華国鋒は追いつめられ、前述の1978年12月の党中央工作会議において毛沢東路線を自己批判せざるを得なくなり、党内における指導力を失っていった。最終的に華国鋒は1981年6月の第11期6中全会において党中央委員会主席兼中央軍事委員会主席を解任され、胡耀邦が党主席(1982年9月以降、党中央委員会総書記[4])に就任し、鄧小平が党中央軍事委員会主席に就任した。前年の1980年には鄧小平の信頼厚い趙紫陽が国務院総理(首相)に就任しており、ここに鄧小平体制が確立した。

鄧小平は当初民主化を擁護していたが、1980年にポーランドで独立自主管理労働組合「連帯」が結成されると、自己の政策に反する活動家を投獄するなど一転して反動化した。1986年には、反右派闘争などで冤罪となった人々の名誉回復に取り組む総書記の胡耀邦、国務院総理の趙紫陽(いずれも当時)らに対する談話で「自由化して党の指導が否定されたら建設などできない」「少なくともあと20年は反自由化をやらねばならない」と釘を刺している[5]。翌1987年、政治体制改革をめぐって改革推進派の胡耀邦と対立し、胡を失脚させる。しかし、政治改革に全く反対だというわけではなく、鄧は、国共内戦などから党に在籍し「革命第一世代」と呼ばれる老幹部たちを自らと共に党中央顧問委員会へ移して政策決定の第一線から離すなどの措置を執った。ただし、鄧自身は党内序列1位には決してならなかったものの、党中央軍事委員会主席として軍部を掌握、1987年に党中央委員を退いて表向きは一般党員となっても、2年後の1989年までこの地位を保持し続けた。

後に趙紫陽がゴルバチョフとの会談で明らかにしたところでは、1987年の第13期1中全会で「以後も重要な問題には鄧小平同志の指示を仰ぐ」との秘密決議がなされた。1989年の第二次天安門事件後には一切の役職を退くが、以後もカリスマ的な影響力を持った。

第二次天安門事件 [編集]

生涯に三度の失脚(奇しくもうち二回は学生が起こした暴動が一因)を味わったためか、鄧小平は中国共産党の指導性をゆるがす動き(すなわち、自らに敵対する動き)には厳しい態度で臨み、1989年6月には第二次天安門事件で学生運動の武力弾圧に踏み切った。この事件については初め趙紫陽総書記などが学生運動に理解を示したのに対して、軍部を掌握していた鄧小平が陳雲、李先念ら長老や李鵬らの強硬路線を支持し、最終的に中国人民解放軍による武力弾圧を決断したといわれる。

鄧小平は、武力弾圧に反対した趙紫陽の解任を決定。武力弾圧に理解を示し、上海における学生デモの処理を評価された江沢民(当時上海市党委書記)を党総書記へ抜擢し、同年11月には党中央軍事委員会主席の職も江に譲った。

鄧小平の政策 [編集]

深圳に立つ鄧小平像

1978年に日中平和友好条約を結び、同年10月に日本を訪れた鄧小平は、後述の新幹線への乗車で日本の経済と技術力に圧倒された。中国に帰国した鄧小平は、中国共産党第十一期中央委員会第三回全体会議にて、それまでの階級闘争路線を放棄し、「経済がほかの一切を圧倒する」という政策を打ち出す。代表的な経済政策として、「改革・開放」政策の一環である経済特区の設置がある。外資の導入を一部地域に限り許可・促進することにより経済成長を目指すこの政策は大きな成果を収めた。しかし、政治面では共産主義による中国共産党の指導と一党独裁を強調し、経済面では生産力主義に基づく経済政策を取った。生産力の増大を第一に考える彼の政策は「白猫であれ黒猫であれ、鼠を捕るのが良い猫である」(不管黑猫白猫,捉到老鼠就是好猫)という「白猫黒猫論」[6]に表れている。

1989年に公職から退いて表面的には引退したものの、影響力を未だ維持していた鄧小平は、1992年の春節の頃の1月18日から2月21日にかけて、深圳や上海などを視察し、南巡講話を発表した。経済発展の重要性を主張し、ソビエト連邦の解体などを例にして「経済改革は和平演変による共産党支配体制の崩壊につながる」と主張する党内保守派を厳しく批判したこの講話は、天安門事件後に起きた党内の路線対立を収束し、改革開放路線を推進するのに決定的な役割を果たした。以後、中華人民共和国は急速な経済発展を進めることになった。

また1984年12月には、「一国二制度」構想のもと、イギリスの植民地であった香港の返還に関する合意文書に、首相のマーガレット・サッチャー(当時)とともに調印している。

死去 [編集]

鄧小平は香港返還を見ることなく、パーキンソン病に肺の感染の併発で呼吸不全に陥り、1997年2月19日21時8分に亡くなった。遺言は唯物主義にのっとり、角膜などを移植に寄付した。本人は自身の遺体の献体を望んだが、これは鄧楠の希望で実施されなかった。同年3月2日11時25分、遺灰は親族によって中華人民共和国の領海に撒かれた。

鄧小平追悼大会の様子

中国中央電視台は鄧の死をトップに報道し、江沢民は弔意を表し、天安門には半旗が掲げられた。死後翌日の2月20日、ニューヨークの国連本部でも追悼の意を表すために半旗が掲げられた。しかし、中華人民共和国各地の市民の生活は平常どおり営まれていた。これは毛沢東が死んだときに盛大に国葬が営まれたのと対照をなす。

鄧小平の死後、鄧が唱えた社会主義市場経済や中国共産党の正当化などの理論は、鄧小平理論として中国共産党の指導思想に残された。

否定的評価 [編集]

鄧小平の改革開放政策は、中国に経済成長をもたらしたが、同時に負の遺産をも生み出した。改革開放政策により、中国全土に拝金主義が蔓延した。拝金主義は、官民間の癒着・腐敗、貧富二極間、格差の拡大、中国の全土を覆う環境破壊をももたらした。儒教の道徳観は拝金主義の前にかき消され、代わりに中国人の頭の中を「急功近利」(功を急ぎ、目前の利を求める)の思想が支配するようになる。裏切りも、癒着も、捏造も、「銭」の前ではすべてが正当化され、巨額の賄賂が飛び交い、手抜き工事が横行し、契約不履行、労働者への給料の未払い、研究開発の時間と費用を惜しむために知的財産権を巡っての外国とのトラブルも絶えず起こるという。有害食品、猛毒製品、環境破壊、粗製濫造される海賊版、違法コピー商品、国内で絶えず起こる偽札事件、これらはいずれも近視眼的な拝金主義によってもたらされたと指摘する者もいる[7]

「先に豊かになれる者から豊かになれ」という先豊論の言葉は鄧小平の言葉とされているが、実際にこの言葉を話す鄧小平の姿が映し出されたことは一度もなく、記録もないという[8]

パーキンソン病と鄧小平の言葉 [編集]

日本に帰化した元中国人の陳惠運は、以下のような分析をしている。

1978年の日本訪問後、中国に戻った鄧小平が「極端な平等主義はもうやめよう」という意味で使ったのが、先豊論の最初とされる。鄧小平の死因はパーキンソン病であると発表された。認知症の一種であるこの病気は、発症までに20年ほどかかる。1994年、1995年頃の鄧小平は寝たきりで、その後は公の場に姿を2度と姿を現さなかった。92年頃には、病状はかなり進行していたことが分かる。四川訛りが強く、言語能力も低下していたため、娘の鄧楠が通訳として付き添っていた。当時、テレビ画面に映し出された鄧小平の顔には褐色の大きなシミがたくさんあり、体の酸化が大きく進んでいた。このような酸化物質が脳に蓄積すると、認知症となり、思考能力と記憶力を低下させる。これらのことから、「先に豊かになれる者から豊かになれ」「改革開放を加速せよ」という言葉は、鄧小平の口から発せられたものではなかったという可能性は否定できず、仮に鄧小平の言葉であったとしても、どれほど緻密な論理構成に基づいて発せられたものだったのかという疑問がわく、という[9]

あだ名 [編集]

名前の小平(シャオピン)の発音が小瓶と同じことから、しばしば「小瓶」と渾名されている。また、身長150センチと小柄ながら頭の回転が速く、眼光人を刺す如く鋭かったことから「唐辛子風味のナポレオン」、「鄧蝟子(ハリネズミの鄧)」、「鄧矮子(チビの鄧)」と呼ばれたりもした。毛沢東は鄧小平の人となりを「綿中に針を蔵す」と評した。

逸話 [編集]