ファシリテイテッド・コミュニケーション、歴史と論争 Natalie Rosso ある人々はファシリテイテッド・コミュニケーション(FC)をハビリテーションの道具として賞賛し、ほかの人々はインチキだといっています。どちらの意見に組みするにしても、FCが受け入れられるには現在までかなりの抵抗がありました。医師、研究者、教育者、障碍者の家族や友人、そして障碍者本人も含んでの議論がかわされています。 文献から得られる情報は? FCとは何だろうか? FCを用いた初期の試みのうち有名なものには、1970年代オーストラリアでのRosemary Crossleyによるものがあります(Crossley(1992))。FCは後にシラキュース大学のDouglas Biklen博士によって紹介され、障碍を持つ人々、特に自閉症の人々への治療法として広く知られるようになりました。 FCという用語は広まりましたが、それを正確に定義するならば”(身体を動かして)意志を伝えようとする人の手、手首、肘、肩を支えて文字盤(板)タイプライター、またはワープロなどへの入力を支援する方法”(Smith & Belcher (1993))と言うことができるでしょう。 自閉症や、その他の発達障害(知的障害、脳性麻痺など)を持つ人たちと深く関わっている介護者は、言語を全く、あるいはほとんど持たない人でも、ファシリテーションによって、人生経験、思考、感情、選択、意向、そして決断を表明することができると報告しています。 議論が起こる理由は? FCを取り巻く議論の中心となっているのは、物理的介助を受けている人間の意志の疎通が(介助者から)どれだけ独立したものであるか、という問題です。(Hudson, Melita, and Arnold (1993)) もっと簡単に言えば、「コミュニケーションをしているのは、障碍者本人なのか、それとも介護者なのか?」という疑問があるのです。 Biklen(1990)は、介助者の存在が、コミュニケーションに潜在的に影響を及ぼすということを認識していました。しかし、(FCによって)障碍者のコミュニケーションがそれ以前より非常に洗練されたものになったという事実に、介助者の影響を疑問視することはあってはならないと明言しました。もっとも彼は最近では少々主張を変えましたが。その一方でBiklenと、FCの推進者たちは、客観的、かつ経験的な実験に基づいた裏付けとはかけ離れたところにいます。彼らの主張は、実験は障碍者の自信を傷つけ、プレッシャーを与え、否定的な考えがコミュニケーションを阻害するというのです。 Smith and Belcher (1993)によれば、FCが刺激的なのは、FCで意志を表現することによって人は知的障碍者ではなくなるという考えです。つまり、FCする人は、表向きは自閉症でも内側では普通の人と同じ認知機構を持った人間であるという考えです。Smith とBelcherは、これは障碍者本人の家族、医療関係者、そして介護者の側が障碍をそのまま受け入れることにわだかまりを持っていることを示す、と言います。障碍そのものよりも、まわりの人間の躊躇が障碍者の価値を下げているのです。 Thompson (1993) は、FCを、予定調和の古典的な例だと説明します。重い認知・言語障害を持った人が、実際は平均的あるいはそれ以上の知的能力を持っていると、介助者は信じたがるわけです。。特に両親は、自分の子供を閉じこめていた扉のカギがついに見つかったと思いたいでしょう。 つまりこういうことです。人はFCが本当であったらいいと思うのです。新聞の見出しには”自閉症の心の扉を開く:社会から断絶された人々に表現の手段を与える新技術”といった文が踊り、両親や医療関係者がどれだけ自閉症、その他の重度精神障碍の人々をふつうの社会に呼び寄せて、FC以外では表現し得ない考えを聞きたいと思っているかを反映しています。 Sharisa Kochmeisterさんは以前FCをしていましたが、今では介助者なしでタイピングができます。自分に貼られていた重い精神障碍というラベルをはがし、ふつうの知性を見せるようになった彼女はこう語ってくれました。 「私は自分の言葉を聞いてもらう権利があります。だって、私の名前や顔は使われているのに、私のことばが使われないなんておかしいじゃないですか。私たち(自閉症者)は頑固な偏見に声を一つにして戦わなくてはいけないのです。 今では私には声があります。もう誰も私を牢獄に戻すことはできません。ヘレン・ケラーに障碍者の偏見を押しつけて非難されないことはないでしょう?私たちにだってそんなことはできないのです。今度は私たちの番なのです。 皆様、ご静聴ありがとうございました。」 (コミュニティ参加編纂物より) 「FCを試してみて損する訳ではないし」と、否定する人に対してFCの推進者がよくいうせりふがあります。Bilkenも同意見で、「指さしによるコミュニケーションを教えることは害のないものだ」と述べています。しかしながら、この主張は無制限で有効なわけではありません。介助者が(被介助者のいっていることを)拡大解釈しないこと、目の動きをきちんとみること、被介助者がFC以外のことに目を向けているときにFCしないこと、被介助者を誘導する危険性に気づいていること、そして確認というより誘導になるような質問をしないように気をつけることが重要です。これらのことが守れない限りは、FCに害がないとはいえないのです。 FCの潜在的に持つ利点に関して、より悲観的な人々もいます。FCによってもたらされる「嘘のコミュニケーション」は、自閉症やその他の発達障碍を持つ人々のリハビリテーションに関する信念や理解をひずませかねないというのです。さらに、最近数年、FCによって虐待の申し立てがなされるケースが多いという事実があります。これらはほとんどの場合、介助なしでは意志の表現が困難な人が、家族あるいは第三者の介護者を告発するという形になっています。(Levine, Shane, and Wharton (1994); Mulick, Jacobsen, and Kobe (1993)) このような申し立てが激増するのを受けて、「光輝く突破口」とたとえる人もいたFCの有効性を問うことが急務になりました。また、FCを用いたコミュニケーションについての合意と経験的な検証の必要性も唆されました。米国内では、FCを用いた性的虐待の法廷への申し立てが少なくとも50はあります。(Berger (1994))オーストラリアやヨーロッパでも似たケースが報告されています。(Green (1992)) 1993年3月にニューヨーク最高裁判所Appellate支部が出した判決は後の判例となりました。判決はFCを使用した証言が法廷で有効であるためには以下の事項についての合意を得るための手続きが必要であるとしました。「介助者が正確で信頼できること、FCを使った証言は証人(被介助者)の発言を字句通り一語一語追ったものであること、証人の自閉症が重度で証言できないほどのものであること、証人が宣誓の言葉を理解できること、その他」これによって、ニューヨークの法廷ではFCを用いた証言が受理される前にそのの有効性の正式な実証が必須となっています。 証拠はどこにあるのか? FCについて、予備的な有効性を議論した経験的研究には3つあります。(Intellectual Disability Review Panel (1989), Calculator and SInger (1992), and Velazkez (in press))これらの例外を除いてはFCの有効性を援護する議論のほとんどは逸話的な報告に基づくものです。 BiklenがFCの使用を観察し、まとめた報告は「FCは有効である」と一般的な結論で結ばれています。彼の著作では、それよりもよく知られている質的な研究「境界のないコミュニケーション:自閉症と実習」は1990年8月にHarvard Educational Reviewに掲載されました。この論文を発端に、以前は考えられなかったやり方で自閉症者がコミュニケーションする例を扱った論文が多数米国で発表されるようになりました。 介助者たちは、一貫して喜びや感嘆、そしてタイピングを通して障碍を乗り越え自己実現をはかる人たちにとって自分たちがいかに重要であるかを語ります。さらに、被介助者が(FCを通して)はじめて発見した価値、知性、そして力といった、感情を込めたメッセージも伝えているといいます。また、被介助者は過去に感じた心の痛みや否定的な経験までも語り、FCを得て自分が何者であるか、何が欲しいのかを自由に表現できるようになって本当によかったとタイプしているということです。 残念ながら、FCの有効性に関する疑問は、これらの逸話的報告のまわりに山積みです。一般的に言って、上に挙げたような逸話タイプの報告からは実験者の先入観や信頼性、そして有効性への脅威となる要因を取り除くための制御機構が抜け落ちています。(Cummins and Prior (1992), Jacobseb, Eberlinm Mulick, Schwartz, Szempruch, and Wheeler (1994)) Biklen (1990)は介助者の影響が見逃せない可能性であると認めていますが、FCを用いたコミュニケーションはだいたいの場合障碍者の本当の言葉であるとして報告されています。最近になってやっと、熱心な経験的研究によって逸話的報告の有効性を検証する研究がされるようになってきました。これらの研究は例外なくFCによって語られた言葉が介助者ではなく障碍者本人のものであるという主張に疑問を提示しています。もっともよく言及される論文に、Cummins and Prior (1992)によるInterdisciplinary Party Report (1988)の検証とIntellectual Disability Review Panel (1989)があります。両研究ともオーストラリア在住の人によるFCをあつかっていて、そのコミュニケーションには介助者の強い影響が見られるという強力な証拠を見つけました。 Smith and Belcher (1993)の研究もまた、自閉症の大人がFCによる介助者の影響なしで、予測されない知的能力を示すという証拠を発見できなかった、としました。また、Szempruch and Jacobsen (1992)は介助者には見せられず、被介助者にのみ見せられた絵について、正確な描写を(被介助者から)得ることができなかったと報告しました。 ニューイングランド自閉症センターの所長であり、E.K. Shriver精神障碍センター株式会社の研究員であるGina Greenさんは経験的な実験がなされた150以上のケースを検証し、自閉症や、その他の精神障碍を持った136人の人に関する15のケースに関して別個に評価を行いました。そのうちのどのケースでも、136人の人のうち誰一人としてFCを肯定するような結果を見つけることはできませんでした。 現在、FCの使用と評価はどのようにされているのか? OMRDD(ニューヨーク州立精神障碍・発達障碍センター)は、FCを巡る議論の産物として"Advisory to the Field"と"Model Agency Guideline"を発行しました。後者には(1994年2月)FC使用時のインフォームド・コンセントに関する声明が含まれています。 OMRDD職員によると、この2つの発行物とも強制力のあるものではなく、「消費者、(障碍者の)両親、医療関係者、介護提供団体の人々にFCが教育的手段であること、その使用が潜在的に生み出す危険性、そしてその危険から障碍者を守る手続き、についての情報を提供するものです。そしてその目的はFCの治療的な教育としての慎重な使用を保証することです。」 基本的に、OMRDDのAdvisoryは、FCに関わる職員が「気をつける」ことを勧めています。Model Agency Guidelineの方は、FCを(施設内で)使う場合に、「安全に」使うべきだ、と要約できます。つまり ・FCを受けようとする人をしっかり検査し、当事者の同意を得ること ・当事者がどこまで(自発的な)コミュニケーションが可能か評価すること ・各分野にまたがったプログラムのもとで、実行計画を立てること ・職員に必要な知識を与え、訓練すること、特にFCの有効性と経験的検証について 参考文献 (省略)