原文:http://soeweb.syr.edu/thefci/5-1toc.htm FCダイジェスト シラキュース大学FC研究所のニューズレター 第5巻、第1号 1996年12月 目次 ・Rosemary Crossley 著 “タンゴを踊るには2が必要”:コミュニケーションにおけるフィードバックの重要性 ・Doug Biklen 著 沈黙していられる時間などない ・Mayer Shevin 著 FCユーザーによる手がかり探しの理解と交渉 ====================================================== 原文:http://soeweb.syr.edu/thefci/5-1cro.htm 初出 DEALニューズレター 1996年3月号 “タンゴを踊るには2が必要”:コミュニケーションにおけるフィードバックの重要性 Rosemary Crossley DEAL Communication Centre オーストラリア、メルボルン 社会的交流 すべての交流にはフィードバック・ループが含まれている。私があなたに話す、あなたは私に答える(あるいは無視する)、私は反応する、といった具合に。私たちは会話のパートナーからの反応を見ながら社会に適応していき、たとえ不合理であっても、それに従って、交流を調節する。声を失って、ささやかねばならなくなった際、皆があなたにささやき返していることに気づいたことはないだろうか。重度のコミュニケーション障害者、特に顔の表情に障害がある人たちは、標準的なフィードバックができないがために、交流も偏ったものとなるかもしれない。 もし話しかけても反応しない人がいたら、もっと大きな声でもう一度繰り返して話しかける。普通の会話に反応しない人たちには三つのグループがある─外国人、難聴者と赤ん坊だが─彼らに私たちが適応するやり方は、答えを返さないどの人にも適用されるのかもしれない。話すことができない大学卒業生は、ゆっくりと大声で赤ちゃん言葉で呼ばれることになるかもしれない。 人間のコミュニケーションのモデル コミュニケーションの単純なモデルは、数学者Claude Shannonの雑音(もしくは干渉)についての仕事と、Norbert Weinerのフィードバックについての仕事を取り入れている。メッセージが送り手から発せられる。メッセージはコミュニケーション・チャネルを通じて送られる。送信の過程で、いろいろな量の雑音が信号にかぶさっていく。コミュニケーションを受け取る人の仕事は、まず信号と雑音を切り分け、次に、もしメッセージが歪められていたり誤解されていたりしたら、送り手が修正できるように十分なフィードバックを提供しながら、メッセージを解読することだ。 コミュニケーションの有効性 コミュニケーションが難しければ難しいほど、相手からのフィードバックは重要になる。Rachelは、発語が不明瞭なのだが、電話で話しをするのが好きだ。上手く話しをするために、聴き手に彼女の言った言葉を復唱してもらう。もし復唱が正しくなければ、正しく復唱されるまで、彼女はその言葉を繰り返す、あるいは、大きな声で一文字ずつ読み上げて、一文字ずつ復唱してもらう。明らかに、こうした交流が成功するためには、聴き手に技能と忍耐がある必要がある。全体のシステムは、話す、繰り返す、確認するといったフィードバックによっている。Rachelとその聴き手が同程度の読み書き能力を有し、聴き手がRachelの明確化のやり方を知らなければならない。最も重要なことは、両者が高度に動機付けられていて、コミュニケーションが生じるためにかなりの時間と労力を費やす覚悟ができている必要がある。 文字盤を使う場合にも、同じようなフィードバックが必要になる。文字盤は、印字しないし、発話もしてくれないので、文字盤のユーザーは、会話のパートナーに語ってもらわなければ、メッセージがどのように受け取られているのか知ることができない。コミュニケーションが成り立たない多くの場合は、聴き手がユーザーにその場でフィードバックを提供しないがために、生じている。フィードバックがあれば、誤解は(文字盤のユーザーが訂正する方法を持っていると前提して)直ちに訂正できるのだが。メッセージを作り上げるために(文字やシンボルの)多くの選択が含まれるほど、継続的なフィードバックはますます重要になってくる。数百文字を含む長い文章を綴り終えようとしているときに、あなたのパートナーが始めの方で何かを読み違えていたことを発見したと想像してみよう。もう一度最初からメッセージを綴り直す以外に、どうやって誤解を訂正できるだろうか。 メッセージが作り上げられている最中にメッセージを繰り返すことの今ひとつの理由は、送り手と受け手の心の中でメッセージを新鮮に保つためだ。何分もかけて、ゆっくり作り上げられるメッセージは、送り手と受け手双方に相当の記憶力を要求する。数秒の文章でさえ何を言っているのか話し手が忘れることもありえる。5分とか10分とかかけて綴る文章を記憶することを想像してみよう。各語の終わりにメッセージを復唱することは、送り手から記憶力の負担を解き、聴き手が文が終わりに達するまで、文の始まりを忘れていないことを確かにする。 フィードバックとFC ある会合のこと、あるご婦人が私に話しをさせるために息子さんを連れてきた。ご婦人は、アルファベットの文字の含まれる、しかし、「削除」や「いいえ」の含まれないカードの上に、息子さんの手をつかんでかざした。息子さんの手が文字盤上を動きまわっている間、彼の眼は天井を向いていた。数分の沈黙の後、ご婦人は言った。“彼はこう綴りました。『FCを発見してくれてありがとうと言いたい。私はいつも使っています。』”見たところ、この少年がFCを使った、自分自身の考えをコミュニケーションするためにFCを使った、ようには思えなかった。この種のFCが、私にも理解できる懐疑を生み出している。 もし少年が綴る技能があったとして、それでも彼自身のメッセージを伝えていくためには何カ所か変える必要があった。 1.意図した文字を確実に打っているためには、少年は文字盤を見ている必要があった。 2.母親は少年の指し示した文字を読み上げ、言葉が完成するたびに言葉を読み上げる必要があった。 3.コミュニケーション文字盤には訂正とフィードバックが可能なように、「削除」「おっと!」「はい、と、いいえ」「その通り」「そうじゃない」「冗談」「良い」「もしもし」「そいつは重要じゃない」といったものが含まれている必要があった。 4.少年は、誤りを訂正するために必要なやり方を教えられ、パートナーが文字や言葉を読み上げ違いをした場合、訂正できる確信を与えられている必要があった。 5.母親は、私にメッセージを伝える前に、メッセージ全体を息子さんに確認する必要があった。 少年が本当にメッセージを生み出したがっており、文字盤のレイアウトについて知っており、過ちを訂正するのに多くの時間を費やす覚悟ができていたとするならば、実のところ、2〜5の4つの注意が守られていれば、少年が文字盤を見ていることは本質的に必要ではなかったろう。 フィードバックがない場合、視力が悪い人たちや自己監視ができない人たちは、とりわけ弱い立場に置かれる。そういった人たちは、たとえ印字の補助器具を使っているとしても、パートナーに選択毎に復唱してもらう必要があるかもしれない。 信頼できる誤り訂正手法を伴った良いフィードバックは、それがなければ深刻な問題となったであろう問題があったとしても、コミュニケーションの成功を可能としうる。 人間のパートナーよりもむしろコミュニケーション補助器具の声がフィードバックを提供することもありえよう。 Taraは、盲目で、たいした公式教育を受けたことのない、脳性麻痺で話せない者だが、FCによって有効に綴ることができる。彼女が使っている補助器具には、文字盤の上に格子があり、各行の始めには触覚の手がかりがある。Taraの選ぶ各項目(文字、音素や言葉)は大きな声で読み上げられ、彼女が綴ってスペース・キーを押すと、前のスペース以降に選ばれた項目が言葉として発音される。Taraは、正しく聞こえなかった項目を、大きくて打ちやすい「削除」キーを使って、訂正する。彼女は、どの文字や音素がどの音を生み出すのか学んでおり、彼女はそれらを組み合わせて、メッセージを書き出すのではなく、スピーチを作り出すことができる。 テストにおけるフィードバック テストの状況においては、フィードバックが故意に排除され、文字や言葉が選ばれる毎にコミュニケーションのパートナーが復唱することも禁じられることがある。口頭によるフィードバックが排除される実務的理由がある場合、同じテストをしている他の学生の妨げになるとか、助けになるとかといった場合だが、そういった場合もたまにはあろうが、一般的には、フィードバックの排除は、メッセージ創造におけるフィードバックの役割についての誤解に基づいている。たぶん、私たちのように話せる人たちは、静けさがテストの過程の統合された一部であることにとても馴れているために、テストというと自動的に静けさを押し付けたり、テスト中のおしゃべりをカンニングと同一視してしまう。コミュニケーションの有効性をフィードバックに頼っている人たちにとって、テストの手順を決める際にはそのことを認識してもらい、適当な融通が整えられることが大切だ。 ====================================================== 原文:http://soeweb.syr.edu/thefci/5-1bik.htm 初出 TASH Newsletter(重度障害者協会ニューズレター)1997年1月号 沈黙していられる時間などない Douglas Biklen FC研究所 近年、TASHは障害者に自らによる主唱と決断を支持すべく手を伸ばしてきた。TASH会合における、今年は Sandra Jensenだったが、障害者による基調演説、会合や理事会における障害者自らによる主唱への参加、「あなた自身の家庭」連合への支持、ADAPT他の障害者権利保護団体との協力にも、このことは反映されている。また、障害者自らによる決断と(通常のクラスへの)統合を支持することにより、人々の暮らしを変えていく科学を追究することへTASHがコミットメントしていることにも反映されている。 FCの件は、しばしば科学的問題として、つまり、本物か否かという問題として、投げかけられてきた。それはまた政治的問題、つまり、どんな種類の研究を何を目指して我々は行うべきか、我々はFCユーザーを補助するべきなのか、もしそうなら、いかにして、そして学校などの施設はFCを許したり支持したりすることによってどんな責任を負うのか、という問題でもある。TASHのメンバーがFCの論争について沈黙したままでは、障害者自らによる自己決断の協議項目を支持したことにならないと本論文は示唆している。 我々は誰の側にいるのか? Lucy Harrisonは自閉症で、10代の初めまでは軽度の遅滞で読むことはできないと思われていた。1989年、彼女はFCによって自己を表現することを学び始めた。それ以来、彼女は2つのテレビ番組(ABC Primetime Live とNBC NOW)に出演し、New York Times Magazineにおいても記事にされた。今では、彼女は大学予備高校で英文学、数学、科学、歴史のコースをとり、来年には大学に行く計画である。 2カ月前、カナダ、オンタリオ州でのGeneva Centre主催の自閉症に関する会合においてLucy Harrisonはプレゼンを行った。彼女は演説した。最近彼女はFCによってタイプしたことを声を出して読むことができるようになったのだ。文章で会話するところまではまだいっていないが、彼女自身の用意されたテキストを読むことはできる。 彼女の成功にもかかわらず、彼女はFCをめぐる論争について知り悩んでいる。世間は論争を、一種のコンテストとみなして、良いこととするかもしれないが、彼女はそのためのコストはどれほどだろうかと思っている。“声は永遠に沈黙させられるの?これが私をとらえる恐怖よ。”彼女は書く“たぶんいつの日か、私は真に自由な人々を観る…見るだろう。しかし、今は厚い混乱とあまりの苦痛と夢のごみ箱があるだけ。” TASHメンバーやこの分野の他の人々に直に投げかけられている質問は、この論争のどこに我が身を位置付けるのか、ということのように私には思われる。その手法が本物か否か、道理にかなったものかインチキか、コミュニケーションに障害を抱える者の言葉なのかファシリテイターの言葉なのか、といったことに論争は通常堕ちていってしまうことは不幸なことだ。この問題をこうした枠組みに入れてしまうことは真の理解を曇らせる。 ある研究においては、すべてのFCユーザーが、自分がFCによってタイプした言葉の著者であることを証明できなかったことを我々は既に知っている。しかしながら、他の研究においては、テストされた過半数が自分の言葉をタイプしていることを証明できたこともまた我々は知っている。(この件に関する両方の種類の研究例については注釈の付いた参考文献を参照されたし)予見できることだが、研究者たちは、著作者は誰なのか、この手法をめぐる他の多くの質問について、研究を続けるだろう。 しかし、Lucy Harrisonがその書の中で説明したように、これは学術的論争を超えている。それは、ある人たちがすべての声を持つか失うか、世間に声を聞いてもらえるか否か、を巡る闘争なのだ。 闘いは続くだろうし、多くの負傷者が出るだろう。家族に話しをする機会を持つことなしに、彼らが体の中にいることを示す機会を持つことなしに、人生の最期を迎える人たちもあるだろう。彼らがついに自由になれる天国があることを私は望む。 変化のための行動ステップ 過去7年間のFC研究と経験が、FCについての段階的協議項目を定式化する堅牢な基礎を与えてくれる。以下に記したのは、FCを使う人たちやFCによってコミュニケーションすることを学ぶことが利益になりうる人たちを支持するために、TASHメンバーがとれる行動ステップである。(これらのことは、FCだけでなく、過去コミュニケーションがないものとされきた、あるいは抑圧されてきた人たちを含むどんな状況にもあてはまることに注意していただきたい) 1.この手法が何であり何でないかを知る FCは、コミュニケーション・パートナーからの物理的、感情的補助を伴って指差しを通じてコミュニケーションする手段である。話しができない人々、発話が限定されている人々、安定して指差しができない人々、にとって役立ちうる。FCは、自閉症の治療ではない。すべての人に上手くいくものではない。使用者のすべてに高度のコミュニケーションを保証するものではない。 2.人々のコミュニケーションする権利、コミュニケーションしているのが自分であることを証明する権利、を支持する FCに関するTASH決議は、個人が助けになるかもしれないどんな手法にもアクセスできる権利、自由に発言する権利、自分自身の考えをコミュニケーションしていることを証明する権利、を支持している。教育者がどんな手法を用いるときでも、所与の個人についてそれが成功するか否か確信していることはない。しかし、FCやすべての他の手法については、確かなことが一つだけある。やってみないと、その手法が上手くいくことはない、ということである。やってみないと、その手法が上手くいったかどうか、知ることはないのだ。 3.人々が日常生活の中でこの手法を使うことを支持する これは、家族がこの手法について学べるように、学校が器具、ファシリテイター、適切な訓練と援助を提供するよう確保するということである。1994年、Sharisa Kochmeisterは、TASH会合でタイプを通じて演説した。彼女はかつてIQ10と測定されていた人物で、発話できない。FCを通じて最初にコミュニケーションすることを覚え、今では物理的補助なしにタイプしている。彼女の父親、義理の母親、妹がただ近くに座って感情的補助を与えてくれるだけでいい。Sharisaは、数年間この手法を用いることと、家族、学校、他の関心を寄せる友人からの手厚い支持によって、このレベルの知性に達した。 米国自閉症協会の1996年会合において、Lucy Blachmanは物理的補助なしにタイプした。しかしながら、母親に近くに座ってもらう必要はあった。私が彼女に1989年オーストラリアで初めて会って以降、彼女はDeakin Universityで学士の学位を取得し、今ではMelbourne Universityの修士課程に就学している。 ビクトリア州の高校で、私が彼女を最初に観察したとき、彼女は教諭助手兼ファシリテイターから腕の補助を受ける必要があった。そしてある条件下では、どんなコミュニケーションも困難だった。しかし、1989年当時であっても、母親かRosemary Crossleyが彼女の肩に手を添えることで、彼女が会話になるテキストを打ち出すことを私は観察していた。 Lucy Blachman、Sharisa Kochmeister、Lucy Harrisonなどの多くの人たちが、FCで上手くやってきている。皆、通常のクラスに出席し、学校でファシリテイターの補助を受け、コミュニケーション器具を提供され、FCの素晴らしい訓練を受け、家族から厚い支援を受けたのだ。 4.この手法の最も論争の多い側面について知識を持つ FCユーザーが性的虐待の告発なるものをタイプしたとき、FCは特に論争を呼ぶことになった。根拠のないことが分かった告発もあった。告発の通りだったことが分かったこともあった。最近の法律レビューの論文(Dwyer, 1996; Phipps & Ells, 1995; Maurer, 1995; Luxton, 1995)や法廷の決定(Kansas v. Warden)は、FCを使う人たちが、単に非伝統的なコミュニケーション手段を用いるというだけで、法廷へのアクセスを否定されてはならない、法廷へのアクセスを否定することは米国障害者法と憲法上の適正な司法手順条項に違反する、と結論づけている。簡単に言うと、告発をなす個人は、その言葉は自分自身のものであることを証明する機会を与えられなければならないということ。そして、法廷は、発話できる個人を含む訴訟と同様に、次に、特定の告発が真実か否かを決さなければならない。 5.人々の障害に思いやりのある研究を求める いくつかの研究においては、統制された条件下でFCによってタイプした言葉の著者が自分であることを証明することに、テストされた個人のほとんどが成功している。(例、Cardinal, Hanson, & Wakeham, 1996; Sheehan & Matuozzi, 1996; and Weiss, Wagner, & Bauman, 1996)これらの研究は、テストされたすべての、あるいは、ほとんどの個人が失敗したたいていの研究とは異なった、障害に思いやりのある手順条件を含んでいるようである。そうした条件には、十分な訓練、テストのための自然な環境、反応に与えられた十分に長い時間、研究条件設定へのFCユーザーの参加、絶え間ないフィードバックなどが含まれる。そうしたテストは、FCをテストすることが可能であり、古いテストはどれも役に立たないことを証明している。教育者や両親は障害に思いやりのあるテスト手順を求めて主唱する必要がある。さもなければ、研究がテストされる人たちを差別することを許すことになる。 6.FCユーザーが自らの言葉をコントロールすることを支持する FCの大きな限界は、少なくともある人たちにとって、コミュニケーションに影響を与えたり、手がかりを与えたりすることが容易であることである。もちろん、すべての増幅コミュニケーションを含む、すべてのコミュニケーションはいろんな種類の、いろんなレベルの手がかりを伴っていることを認識することは重要ではあるが。そして、複雑な方法で、すべてのコミュニケーションは送り手、受け手双方によって構成されている。関係者の間に実際上の、あるいは、潜在的な力の不均衡があるコミュニケーション状況においては、このことは重大な問題となる。その手法を用いている人々が自分自身の言葉を著作するべく補助されていることをいかにして確保するのか。以下、いくつか提案する。 ・気を長くもって、人が何をタイプするのか予期しないように努めなさい。FCは、すべての増幅コミュニケーションと同様、発話よりもずっとゆっくりとしており、コミュニケーション・パートナーには何が生み出されてくるのか待つことを要求する。 ・フィードバックを提供しなさい。指差しから何を読み取ったか教えなさい。そして、何を指差したのかはっきりしないときは、そう言って、もう一度指差すように求めなさい。また、どのようにタイプしているのかについても、フィードバックと支持を提供しなさい。ユーザーが文字盤、コンピューター・キーボード他の目標から眼をそらしている場合、ファシリテイトしてはいけない。眼をそらしていると、指差しに多くの間違いが生じたり、ファシリテイターがFCユーザーの意図することを推測することに頼ることになってしまう。 ・はっきりさせるための質問をしなさい。会話において、FCユーザーが何を言いたいのか確信が持てないような場面が多くあるはず。はっきりさせるよう求めなさい。“何が言いたいのかはっきりしません。説明してもらえませんか?”という具合に。 ・FCユーザーが本当の選択をするのが心地よいように勇気付けてあげなさい。 ・FCユーザーが自分自身の意見を自由に述べるよう、ファシリテイターとどれだけ意見が違っても構わないと勇気付けてあげなさい。もし、FCユーザーがファシリテイターと決して意見が違わないとしたら、おそらくFCユーザーがコミュニケーションを支配していない徴候である。 ・FCユーザーがコミュニケーションの一部、もしくは、すべてを、一人でタイプできるようになるために努力し、達成することを勇気付けてあげなさい。 Rosemary Crossley (1994) が説明しているように、一人でタイプできるようになることは、ほとんどのFCユーザーにとって現実的な目標である。しかし、我々が研究の中で見出したように、FCを使う人たちは、しばしばこの目標が達成可能なのか、そのために努力する価値があるのか、そうするように多くの支持がなければ、確信が持てないでいるのだ。(印刷中のBiklen and Cardinalを参照) ・FCユーザーが多くのファシリテイターを持つよう薦めなさい。そうすることで、複数の異なった設定でコミュニケーションする機会を最大化できる。また、複数のファシリテイターが、この手法を使う個人がその人特有のスタイルやテーマを持っていることに気付き、ファシリテイター間で情報を共有することになるだろう。同僚と私はこのことについて、JASHの1995年春号に出た“いかにして教師はFCの著者を確認するか”と題した論文で議論している。 7.この手法を使っている著者の著作を読む この手法を使うことに上達すると、一人でできるレベルを向上させる者もいれば、非常に特徴のある作文スタイルを作り上げる者もいる。障害者のグループが障害をいかに体験しているのか知る新しい機会を持つことになる。特に、最近ドイツ語から翻訳されたBirger Sellinの自伝、I Can't Live Inside Me Anymore (1994) と Sue RubinのLos Angeles Timesでの社説(1995a, 1995b)を薦める。コミュニケーションが崩れ落ちる場合や、環境の過度の刺激にともなう問題や、現状の精神遅滞評価手法の危険性にも洞察を与えてくれる、挑発的な著作である。 8.FCを用いる人たちの成果について語ることを恐れない Sharisa Kochmeisterは今では物理的補助なしにタイプしている。Sue Rubin と Lucy Harrisonは大学に行くことを計画している。Jeff Powellは詩集を出版している。Birger Sellinの本は自閉症について新しい価値ある洞察を与えてくれる。我々はこうした情報を教育者やコミュニケーションの専門家と共有する必要がある。これらは、何千人という他の人たちを勇気付けられる重要な成果なのだ。 9.いかにこの手法が機能し、いかに一番良くテストしうるのか、障害をもった人たちから学ぶ この手法について思慮深い研究を、特にFCユーザーを含む障害者の観点と助言を尊重する研究を、鼓舞しなさい。Somebody Somewhere, Nobody Nowhereや Like Color to the Blindの著作のあるDonna Williamsは、自閉症の人たちに耳を傾けることを学ばないと、自閉症の人たちが世界をどう体験しているのかについての手がかりを得ることができないことを我々に思い起こさせてくれる。以下は、彼女がJASH 1994年号の論文でテストについて語っているものである。 私の見解では、自閉症の人は自閉症でない人たちのやり方が自分には機能しないことを早く知ってしまう。さらに、自閉症の人たちが自分自身のシステムの混乱を管理し、正そうとする(すると、不可避的に混乱に反応し、不満を感じる)と、自閉症でない人たちは一般にその試みを“問題”として扱い、自分のやり方が唯一理解可能で正しい物事を管理し学ぶやり方とは限らないと認めることを拒否する、庭木道具をもって働く歯医者みたいに干渉してくることを早く知ってしまうと私は感じている。こうしたことの結果の一つは、自閉症の人たちは一般に、庭木道具と傲慢な前提をもってやってくる歯医者を“嗅ぎ分ける”ようになるということだ。 肩に手を添えるだけの補助でタイプするFCユーザーであるLarry Bissonnetteも、以下のように書いて、同じような指摘をしている。 評価された科学的探究の財産に持続的に重きを置くことの限界とともに生きる人たちには、障害を実体験してもらわない限り、障害の意味を知ってもらうことはできない。 ニューヨーク州のO.D. HECK institutionでWheelerと彼の同僚によって最初に描写された、絵の名前を言って式のFC著作者テストのやり方をいかにして学んだかを、1995年のTASH会合でEugene Marcusがプレゼンした。彼は当初テストの様式がとても難しいことを見出したが、練習といくつかの些細な修正によって、その手順を使って、自分自身の言葉をコミュニケーションしていることを証明することができた。彼の研究は私の近刊(Don Cardinalとの共編)“争われた言葉、争われた科学:FC論争を解きほぐす”に載ることになる。 10.無能ではなく有能を前提に置く 精神遅滞についての現在の見解は、依然、できないこと(つまり、この人の限界は何か)に焦点が合っている。今や、精神遅滞が評価されるやり方に挑戦を始める時だ。有能さを前提とする考えは、教育者にとって重要なルールだ。そうすることで、成功にいたる負担を教師と生徒の双方で等しく担うことができる。有能さの証明を引き出すことができないとき、いつも、新しい戦略やアプローチ、新しい能力の見つけ方を請い求めることになる。Christy Brown (My Left Foot)、Ruth Sienkiewicz-Mercer (I Raise My Eyes to Say Yes)、Christopher Nolan (Under the Eye of the Clock)といった他の増幅コミュニケーション補助ユーザーの体験談からと同様、我々はFCからも、彼らの両親や教師がそれらを試し続けなかったら、今のレベルにまで成功することはできなかったであろう、十分な証拠を持っている。それらのどれもが、話すことができないことは話すことがないことと同じではないというポイントを証明している。今日ではとても能力があると認識されている多くの人たちが、歴史上、かつて、沈黙を守らされ、遅滞しているとされてきた。おそらく、いまだ多くの人たちが沈黙を守らされている。何ができないかというモデルを放棄し、有能さの前提を受け容れる時なのだ。 FCについての注釈付き参考文献(http://soeweb.syr.edu/thefci/shortbib.htm) ====================================================== 原文:http://soeweb.syr.edu/thefci/5-1she.htm FCユーザーによる手がかり探しの理解と交渉 Mayer Shevin FC研究所 1994年8月、私はダイジェストに「言語における実務的シフトの提案」と題する論文を書いた。その中で、注目の焦点を、ファシリテイターがしていること(しばしば、FCの使用を拒否する人たちから“影響”とか“支配”とか言われていること)を見ることから、FCユーザーの行動と積極的参加(私が“手がかり探し”と呼ぶもの)へ焦点を合わせるようにシフトするよう推奨した。FCユーザーは、いかにして効率よくコミュニケーションするかの挑戦に日々直面しているのだから。本論文は、FCユーザーが自分の手がかり探しの戦略を理解し、FCユーザーに権限を与えることに寄与する有効で社会的に受け入れられる戦略を身に付け、そうでない戦略を認識し回避するように、ファシリテイターが助けられるやり方を描写する試みである。 Rae Sonnenmeier (1993) が描写したように、コミュニケーションはその性質上、単方向であることはまれである。我々の日常のコミュニケーションでは、コミュニケーションを続けていくために、パートナーの言葉と言葉以外の行動に、しばしば無意識のうちに、頼っている。目配せとか、“うんうん”という声とか、そうだよねという賛意を示すうなずきとか、我々はそれらがないときに初めてそれらに気付くのだが、そういったものをやり取りしている。例えば、電話中に相手方からしばらく声が返ってこないときに、“まだそこにいるの?”と尋ねた経験がほとんどの人にあるはずだ。 教師、ファシリテイターなど他人のコミュニケーションの補助者の役割にあるとき、自分が提供しているフィードバックを意識しやすく、科学的に構成されたやり方でフィードバックを提供しやすい。本号の他稿で、 コミュニケーションに困難をもつ人たちや、特にFCユーザーのコミュニケーションを補助するために、良心的なコミュニケーションのパートナーが提供すべき多くのフィードバックの形をRosemary Crossley (1996) が指摘している。Crossleyの論文の焦点は、重度のコミュニケーション障害をもつ人からタイプされてきたアウトプットを聴いたり、読んだりする際に生じやすい誤解の修正におけるファシリテイターの熱心なフィードバックの重要性に合わせてある。 本論文はコミュニケーション交流における別の側面に焦点を合わせている。日々の会話の中で、特に他人のコミュニケーションの補助者としての役割に没頭していないときに提供している、秩序立っていない、しばしば無意識のフィードバックに焦点を当てる。そうしたフィードバックが、ある人のコミュニケーションに与える効果は、環境から役に立つ情報を獲得し、等しく重要なことだが同時に誤解を招く情報を無視する、その人の能力に大きく依存している。 手がかり探し物語 その1 二人の船乗りが外国で日曜礼拝に教会へ行くことにしました。彼らは現地の言葉が話せませんでしたので、前に座っている人のやる通りにすることにしました。礼拝の間のある時に、前の人が立ち上がったので、彼らも立ち上がりました。それを見て、教会にいた皆は笑いました。 礼拝が終わって、彼らは牧師さんに会って、何がそんなに可笑しかったのか尋ねました。 牧師さんは言いました。“新しい赤ちゃんの誕生を丁度公表して、その祖父に祝福を受けるために立ち上がりなさいと言ったところだったのですよ。” FCユーザーが、他人や環境から情報を獲得する際に、とても積極的な役割を果たすことを、認識し尊重することから始めなければならない。そうすることによって初めて、ある面ではその人が必要とする補助に関し、他の面ではその人がコミュニケーション能力があると見なされた後の社会的会話に関し、我々は交渉する立場になれる。 手がかり探しの政治 我々すべてが、生活の様々な場面で、コミュニケーションを行う者として、手がかり探し行動を行っている。私の個人的経験において、以下のような状況下では、人々は手がかり探しを熱心にしようとはしないことに気付いた。 1.支配的なグループや文化の一員であることがはっきりしているとき 2.言語が流暢に操れるとき 3.権威ある立場にあるとき 4.リスクの低いコミュニケーションであるとき 他方、以下のような状況下では、コミュニケーションを行う前に、人々は熱心に、時には長い時間をかけて、手がかり探しをしようとする。 1.歓迎されないグループや文化の一員であることがはっきりしているとき 2.言語が流暢でないとき、言い換えれば、発音、文法、語彙、綴りなどに確信が持てないとき 3.劣位と感じられる地位におかれたとき 4.以下のような理由で、潜在的にリスクの高いコミュニケーションであるとき ・評価されそうなとき(例えば、口頭尋問) ・生活に大きな影響を与えそうなとき ・自分の地位が疑問視され、コミュニケーションの“正しさ”に影響されるかもしれないとき 手がかり探し物語 その2 インタビュアー:“2+2はいくら?” 求職者:“いくらがお気に召しますか?” 重度のコミュニケーション障害をもつ人たちは、我々よりもはるかにしばしば、劣位の地位でリスクの高いコミュニケーションをする状況に対処しなければならないこと、それゆえ、重度コミュニケーション障害をもつ多くの人たちが、FC訓練のような新しいコミュニケーションの企てに入る際に、熱心に手がかり探しをするであろうことに留意しておくことは価値がある。これらの力の入った手がかり探し戦略は過去の多くの場合上手く機能してきたものと思われる。学校のプログラムのように言われた通りにしたり、“正しい答えを得る”ことに焦点がある場合、熱心に手がかり探しをする戦略は、その人が前進するために最も有効な道具であったかもしれない。 不幸なことに、ある状況ではとても有益に思えた同じ戦略が、他の状況ではその人の信頼性を傷つけ、その人の権限への障害となりえるのである。 手がかり探し物語 その3 Robert Benchleyはあるとき列車で以前会ったことのあるご婦人の隣に座りました。彼女は彼に暖かく挨拶をしてくれましたが、彼は彼女の名前を思い出せません。彼は名前の手がかりを与えてくれそうな会話に彼女を誘導してみることにしました。 会話のある時点で、彼女は兄についてつかの間言及しました。Benchleyは機会がやってきたと思いました。 “ああ、そうですね。”彼は言います。“あなたのお兄さん、ええと思い出しているところですが、最近は何をなさっていますか?” ご婦人は彼を冷たい眼で見つめると、言いました。“兄は今でも合衆国大統領ですのよ。” Eugene Marcusは、FCの有効性を彼個人が研究したことについて私と一章を共著したことのある、私の自閉症の友人である。彼自身の手がかり探し行動と、それがいかにしてコミュニケーションの有効性を示すための妨げとなってしまったかを描写して、Eugeneはこう述べている。 一つの妨げは私自身の言葉探しのみっともないやり方だった。何年もかけて、私は良い生徒であろうとした。そうした考えは、もし私の質問に教師が期待する答えがあるならば、何を期待しているか教師は小さな手がかりを与えており、期待する答えを私が知っていることを教師が知るとしばしば喜ぶということだった。彼が何を考えているのかについてのMayerの小さな手の動きやその他の手がかりを読むのに似た技能を自分が持っていることに気付いた。そのため、自分自身のはっきりした考えを彼のもので代用せざるをえなかった。(Marcus & Shevin、印刷中) 日々の交流において、FCユーザーが手がかり探しから得られた重要でない情報に間違って頼っていることは、FCユーザーがタイプして述べていることがコミュニケーションのパートナーから完全には信頼されない状況へとつながっている。また、ファシリテイターが、コミュニケーションを共同で構築している役割に気付かずに、まことしやかではあるが事実ではない体験談を構築する無意識のパートナーとなる状況にもつながっている。 FCユーザーが手がかり探し活動から得られた情報に無批判に頼ってしまうことのマイナスの効果は、FCの著作者を巡るいくつかの実験の結果に最も如実にあらわれている。Biklen、Cardinal (印刷中)などは著作者を検証する実験的研究が否定的結果になってしまった多くの要因について書いている。それらの研究であまり探究されていない一つの要因は、効果のあるレベルの手がかり探しと逆効果になるレベルの手がかり探しとを区別することについて、FCユーザーへの意味のある助けがなされなかったことである。最も単純な項目としては、誰かわざわざFCユーザーに“ゲームのルール”を─あなたが見ている絵の名前を言ってもらうことになっているのであって、あなたのファシリテイターがあなたが見ているであろうと思う絵の名前を言うのではないよ、と─説明したのかを尋ねなければならなかったろう。さらに、あなたのファシリテイターが既に質問への答えを知っているときにタイプすることが、知らないときにタイプするときと比べて、どんな感じなのか練習したり、後で報告したり、問題解決してみる機会はあったのか? 手がかり探しに過度に依存することになる要因 過去数年の間、私は何十人という人たちと直接FCをしてきたし、FCを生活の中でもっと役立つものとするために、さらに多くの人たちや補助者たちの相談に乗ってきた。他人や環境からの手がかりに過度に依存してしまう状況につながるように思われる、頻繁に起こる要因には以下のようなものがある。 1.正しい解答をすることが大切な状況 最もよくある例は、教師がある事実について質問をし、回答は正しいか間違っているかどちらかであるような、典型的な教室での状況。 2.コミュニケーションをする二人が孤立している状況 例としては、FCユーザーにファシリテイターが一人しかおらず、ほとんどの会話がそのファシリテイターと行われ、ファシリテイターもそのユーザー以外のユーザーや他のファシリテイターやコンサルタントなどとほとんど、もしくは、全く接触がない場合があげられよう。これは、FCユーザーが、コミュニケーションしている共同体全体に通用し受け入れられている手がかりと同じなのか洞察を得ることなしに、一人の人からの手がかりを“読む”ようになりうる状況である。 3.“合格”することが大切な状況 多くのFCユーザーは他人が自分の知性や自律を認識してくれているのか否か確信が持てないでいる。自分のことを知性がないとかあってもわずかな知性しかないと見なしている人たちがいる前では、“分かりません”とか“理解できません”などと言うと、社会的イメージがさらに否定的に思われるのではないかと考えて、言いづらいかもしれない。 4.反応するスピードが大切な状況 思慮深い反応を定式化するのに時間をかける人たちや、そうすることに長い時間が必要な人たちが、時間のプレッシャーを受けると、“環境から摘み取られた”反応をしてしまう。私の14歳のFCユーザーの知人は、補助者から急いで仕上げてとせかされると、教室のどこかに見える言葉をしばしばタイプしてしまう。時間をたっぷり与えられると、彼の回答はもっと“目標にかなったもの”になった。 手がかり探しの建設的使用へのシフト コミュニケーションにおいて手がかり探しに過度に依存することにより起こりうる弊害を前提とすれば、我々はコミュニケーション・パートナーが、物理的、あるいは、社会的な環境から情報を探らずにコミュニケーションに突き進むよう助けるべきなのだろうか?そんな目的は明らかに不可能だ。さらに重要なことに、社会的、物的環境を忘却することは、典型的なFCユーザーにとって望ましい状況ではないだろう。 それでは、何を目的とすればよいのだろう? これが、Eugene Marcus と私が15カ月の間悩んでいた疑問だった。その15カ月の間に、彼は“O.D. Heck”手順 (Wheeler et al., 1993)を用いた“二重盲検”の絵の名前を言うテストに合格しようと企て、自分自身でタイプしていることを実証しようとしていた。その経験を描写した章のあとがきの中で、Eugeneはファシリテイターによる“影響”の件について自問し答えている。彼の答えは、FCユーザーが手がかり探しの技能を積極的に使うことを学ぶ際になす仕事を、正確に指摘している。 質問:思考はタイプされることへとたどり着く。どうしてそうなのですか? 答え:思考はあなたの感情と思想の両方をあらわにします。接触から誰かの思考を読み取ることは、声から怒りを聞きとることや、汗から怖れを嗅ぎとることと違いません。ほとんどの思想は、感情と無関係ではありえないし、手を通じて、魅力、混乱、明瞭さ、はい、いいえなどの信号を発しています。だから私が感情を拾い上げることができるのなら、彼らの関連した思想をとらえることは、率直なところ、簡単なのです。 質問:どうやってMayerの影響に打ち勝ったのか教えて下さい。 答え:Mayerの影響は悪いものではないので、私は打ち勝ちたいと望んだわけではありません。ただ、影響を理解する必要はあったので、練習している間いろんなことをやってみることで、私は影響を研究する方法を見出しました。いろんな物理的練習やいろんな心的練習を私たちはやってみました。心的練習が最も有益でした。というのも、最も大きな干渉はMayerの絶え間ない推測だったからです。 質問:今ではその干渉を受けていないのはなぜなのか、教えて下さい。 答え:干渉は受けています。しかし、いったんそれを乗り越えて実験してみると、それはもはや干渉ではありません。それは今では、私の旋律に対する対位旋律のようなものです。 (Marcus and Shevin、印刷中) コミュニケーション・パートナーの双方が手がかりと手がかり探しがいつもコミュニケーション交流の一部であることを知っており、双方がFCユーザーが開始した著述の支配を握るようコミットしているときには、彼らは手がかり探しを交流のプラスの側面にできる方に向かっている。そうしたシフトを助長する特定の戦略は以下の通り。 1.パートナーの双方が、FCのパートナーを多く持つようにする。 ・FCユーザーは、多くの異なったファシリテイターから補助を受けるとはどうゆうことなのか、経験し、議論する機会を持つべきである。 ・ファシリテイターは多くの異なったFCユーザーをファシリテイトするとはどんなことなのか感じる機会を持つべきである。 ・ファシリテイターとFCユーザーは、二人の間で話すだけでなく、他の人たちにも会話のパートナーとして加わってもらうようにするべきであり、ファシリテイターとFCユーザーはその経験について後で報告できる。 2.ファシリテイターは自らの典型的な手がかり行動を知る必要がある。このことは、以下のようにすればできる。 ・Annegret Schubert (1994)が描写したようなシミュレーション行動 ・FCユーザーとファシリテイトしているところを、他のファシリテイターに観察してもらい、コメントをもらう ・このことについて、FCユーザーと会話する 3.ファシリテイターとFCユーザーの双方が、手がかり探しが最も頼られそうな状況について知るべきである。これは、個人差が非常に大きい。例えば、私の知っているFCユーザーの中にも、単語の綴りに不安があるときに、とても躊躇し、視覚による環境を探り、ファシリテイターからの物理的手がかりを探す人もいれば、綴りが不安でも、言いたい単語を大雑把に綴っておいて、状況から“自ずと明らか”になるだろうと信頼する人もいる。新奇な社会的状況下で、知性があると見られたい、社会的に適当な流儀で行動したいという願望が、手がかり探しを一生懸命に行う設定となる人もいる。 これらが、手がかり探しが避けられれば理想的な状況である、と言っているわけではない。むしろ、ファシリテイターとFCユーザーの双方が、これらが手がかり探しが活発に行われやすい状況であることを知ることにより、こうした設定下でどの形式の補助がとられるべきか合意する位置に立つことができる。 4.ファシリテイターなどのコミュニケーション補助者は、“確信構築”のための方策に従事するべきである。人々はしばしば、彼ら自身の知性、能力、思考の明瞭さについての疑念に打ち勝つのに、補助を必要としている。人々が“自分自身の思考を信頼する”ために、そうした補助が必要かもしれない。そうした補助の形式には以下のようなものがある。 ・たとえメッセージが不明瞭なときでも、あなたがユーザーの知性を尊敬していることを保証する ・不明瞭であることの責任をとる。例えば、“あなたの書いたことは意味をなさない”と言うのではなく、“あなたが書いたことを私は理解できない”と言う。 ・他人がユーザーをからかったり、やりこめるのを中断させる ・“知らない”とか“分からない”と言うことは正確かつ有益な回答であることを、ユーザーに思い出させる 要約すると、手がかり探しはすべてのコミュニケーションのパートナーシップにおいて大切な特性である。それは、FCの関係においては、補助の源泉にもなりうるし、混乱の源泉にもなりうる。手がかり探しを認識され、理解され、交渉された関係の一部とすることにより、重度のコミュニケーション障害を抱える我々の友人が真に彼らの心にあることを言うことを、我々はよりよく助けられるようになる。 引用文献: * Crossley, R. (1996) "It Takes Two to Tango": The Importance of Feedback in Communication. Facilitated Communication Digest, 5(1), December. * Marcus, E., and M. Shevin (in press). Sorting it out under fire: Our Journey. In D. Biklen and D. Cardinal (eds., ) Contested Words, Contested Science. New York: Teacher's College Press. * Schubert, A. (1994) Keep Learning: Know the Feel of Facilitated Communication. Facilitated Communication Digest, 2(2), February, 2-3. * Shevin, M. (1994) Proposal for a practical shift in our language. Facilitated Communication Digest, 2(4), August, 12-14. * Sonnenmeier, R. (1993) Co-construction of messages during facilitated communication. Facilitated Communication Digest, 1(2), February, 7-9. * Wheeler, D.L., Jacobson, J.W., Paglieri, R. A., and Schwartz, A.A. (1993). An experimental assessment of facilitated communication. Mental Retardation, 31(1), 49-60.