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ファシリテーテッド・コミュニケーション:懐疑論と超自然論の百科辞典

解説

 ファシリテイテッド・コミュニケーション(以下FC)は、人々に、典型的には自閉症や他の重篤な発達障害を持つ人々に、彼らが別の意思伝達方法を用いた場合をはるかにしのぐレベルでのコミュニケーションを可能とする技法であると主張されている。FCは、ファシリテーターに、FCユーザーの前腕を支えてその手をキーボードや文字盤、その他類似の装置の上に保持してもらうことで機能する。腕をこのように保持された状態で、FCユーザーはキーボード上の文字に触れ、メッセージを綴るのである。

 近年、論争はメッセージの真の発信者は誰かという問題に集中している。FCの批判者は、幾つかの(多分実際にはほとんどの)FCの事例において、メッセージの発信者はFCユーザーではなくファシリテーター(ファシリテーター自身がその事実を認識している必要はない)であると主張している。多くの研究がこの結論を支持している(下記参照)。FCの擁護者達も、幾つかの研究においては、確かにメッセージはファシリテーターの影響を受けているようだと概ね認めている。しかし擁護者達は、FCユーザーがファシリテーターの知らない情報を伝えられることを示す研究もあると主張し、FCは時として有効なコミュニケーション手段たりうると示唆している。

懐疑的見地

 FCに関する最も著名な研究の一つ(Wheeler et al., 1993)においては、FCユーザーは日常馴染み深い品物の絵を識別するよう求められた。ファシリテーターがFCユーザーに提示された絵を見ることができない状況下での180回の試験では、正答は0回だった。このWheelerの研究の別の部分も、ファシリテーターがメッセージの源であることを強く示唆している。たとえば、多くのFCユーザーはメッセージをタイプしているとされている間キーボードを見ていなかった。これは、熟練したタイピストにすら明らかに不可能な仕事である。相当数の研究に同様の結果が現れている。一般的に、言葉が話せなかったりタイプが出来なかったりといった、補助なしの状態では低い言語能力しか持たない人々の例に限っていえば、このような人達がコミュニケーションを図る上でFCは役に立たないと研究は一貫して示してきた。

 このような現象は、イデオモーター(観念運動)効果で一番良く説明できるだろう。観念運動効果とは、人が潜在意識下で自身の行動を制御できる能力のことである。例の一つは、複数の参加者がそれぞれの手を一つの駒の上に置くと、その駒が超自然的な力でメッセージを綴り始めるというウィジャ・ボード(コックリさん)の場合だが、これとて参加者が盤上の文字を見られる場合だけである。もう一つの例はダウジングである。試みる者がその探知の目的物の在り処を知っているときに、しかるべき瞬間に潜在意識下でダウジング棒を動かせるのである。しかし、目の見えない状態にされると、棒は行き当たりばったりな動きをする。それゆえ、ファシリテーターは、メッセージをタイプしているのは自分自身だという事実を自覚していないのである。

 補助なしの状態でもある程度の言語能力を有するFCユーザー(例えば、テストの場面で、第三者の助力無しで、まぐれ当たり以上の割合で正答をタイプできる人々)については、幾つかの研究(例えば、Cardinal et al., 1997)は、そうした人達がファシリテーターの知らない情報をコミュニケーションすることは、FC無しでやる場合よりも高い割合で可能かもしれないと示唆している。これらの研究はしかし、真にコミュニケーションであったことを保証するに足るほど厳密な統制が加えられたものではなかった。これらの研究における問題点の数々を考慮に入れなかったとしても、FCではせいぜい最も広い意味での単語の単位でしか“コミュニケーション”できないということは留意しておく価値がある。例として、前述の研究(Cardinal et al., 1997)を考えてみよう。単に言われた単語を指し示すだけのテストでさえ、その正答率の平均値は5回に1回より低かったのである。このように、FC擁護者によってFCに好意的として引き合いに出される研究においてすら、FCは意味のあるコミュニケーションの手段として有益だとする確かな証拠は得られていないのである。

 FCの心理学的な側面も考慮されるべきである。親達が、ずっと重い精神遅滞だと思いこんでいた自分たちの子供が、今や詩を書いたり、「パパ、ママ大好き」と言ったりできると、いかにして信たがるのかは容易に理解できる。ファシリテーターもまた、彼らの介助によってクライアントを、単に意思表示するための筋肉運動機能が欠けているということだけで、世間から隔絶され、周りから精神遅滞だと見なされている状態から救い出したのだと、強く信じたがっている。FCについての文献はこうした心動かされる魅力に満ちている。しかしながら、このような誤った希望を植えつけることは、心理的な大打撃となりうる。多くの親は、彼らとコミュニケーションしていたのは子供の善意のファシリテーターであって、彼らの子供ではないという事実を受け入れなければならなったのだから。多くのファシリテーターもまた、得るところの無い不毛な試みに何年にもわたって彼らの職歴を浪費してしまった。さらには、子供達がFCによって、親や介護従事者を性的虐待のかどで告発し、これらの冤罪の犠牲者達を破滅に至らせるという事例も数多く生じてきたのである。

引用文献:

FACILITATED COMMUNICATION: MENTAL MIRACLE OR SLEIGHT OF HAND? By Gina Green, Ph.D. http://www.skeptic.com/02.3.green-fc.html

Biklen, D. and Cardinal, D. (eds) (1997), _Contested Words, Contested Science: Unraveling the Facilitated Communication Controversy_, New York: Teachers College Press.

Cardinal, D., Hanson, D. and Wakeham, J. (1997), "Who's Doing the Typing?: An Experimental Study," in Biklen and Cardinal (1997), pp. 34-53.

Wheeler, D., Jacobson, J., Paglieri, R., and Schwartz, A. (1993), "An Experimental Assessment of Facilitated Communication," _Mental Retardation_ vol. 31, no. 1, pp. 49-60.


原文:Facilitated communication: Encyclopedia of Skepticism and the Paranormal (The New England Skeptical Society)
翻訳:緑の手の名無し
初出サイト:Facilitated Communication と Doman Method 海外文献翻訳資料集
掲載者:「奇跡の詩人」検証文献翻訳班@2ちゃんねる
更新履歴:2002年6月26日 初出

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