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注意
この訳文は「奇跡の詩人」検証文献翻訳班の最終チェックを受けておらず、現状ベースの試験公開版です。最終チェック完了後に正式版として再掲されます。


ファシリテーテッド・コミュニケーション:奇跡か手品か?

By Gina Green, Ph.D.

目次

「太陽の下に未知の事象は無い」という慣用句は、今日ではメンタルヘルスの分野に 従事する者にもこれまでになく関わって来ている。我々は、Facilitated Communicationに代表される、発達障害を治療するための無数の新しい技法を体験しているところである。とはいえ、それらの基本的特性はまだ十分解明されているわけではない。これらの内容は、社会運動を検証する上でどういった要素が考慮されるべきかの体系を作り上げた。

 類似の現象は、AIDSやガン、その他の精神面の問題での治療法など別の分野にも見ら れる。現在、発達障害学(特に自閉症)の分野は、新奇な技法(または“干渉”と呼ばれて いる)の大流行の状態を呈しているようだ。その他の技法との類似性にもかかわらず、ファシリテーティド・コミュニケーション(以下FC)は、障害を持つ人々にこれまでのどの新奇な流行より強力なインパクトを与えたに違いない。

FCはどのように働くか

 FCはどのように働くのだろうか?もし、今までそれを実際に目にしたことがないのな ら、それはさぞかし「見物」に違いない。重度のコミュケーション障害(重篤な精神発達遅滞や自閉症など)を有する人達は、文字を綴る際、ほとんど(少なくとも初めは)彼らがキーボードまたは文字盤上の文字を指し示すのを手や手首、あるいは腕を持つことによって身体的な支持を与えるファシリテーター(教師または親)の介助を受ける。あなたの眼前で、その直前まで全く意思表示能力など持たないように見えた精神障害者が、突然単語や文章、さらには段落まるまる一節をつづり始めるのである。  物語が語られ、質問に答が返される。  犬と象の区別もおぼつかないように見えた子が、一連の絵を見せられるやその腕はキ ーボード上をすべるように巧みに動き回り、正しい文字を指して行き、適格に絵の一枚 一枚を言葉と結びつけて行く。  もちろん、この前提はこうした方法で示された言葉のほとんどは、ファシリテーター ではなく、正しく障害を持つパートナーによって発せられたものだということである。

表面的には、FCは簡単で害がなく、そしてしばしば非常に説得力を持つように 見えるのである。  FCの中心的な提唱者は、時としてFCを、個人の意思疎通の機会を拡大するための人工 の言語装置とキーボードのようなシステムを利用するために、指でさすことを教える方 策にすぎないと位置付けている。  同時に、彼らはFCはそれまでは重篤な学習障害を持っていると思われていた大勢の 人々の思いがけず高度に発達した識字能力、計算能力、および意思表示能力を明かに する革命的な手段であると主張した。 For all the world it looks like a mental miracle, the kind of stuff they make movies about, as in "Awakenings."  彼らが製作した「覚醒」と題された映画は、誰にとっても精神的な奇跡に見える。

 その理論は、障害者の多くは認知的欠陥は全く無く、おそらくは神経伝達系統の障害 から、言葉を発することとそれを上手くコントロールすることができないのだという。  彼らの平均的な、あるいは平均以上の知性は封じ込められ、解放されることを待ち わびている。  神経伝達系の障害は、手腕の運動機能にも悪影響を及ぼすと考えられている。そのた め、文字を選択している間、指をさしたり、その手を引き戻したりするには、衝撃を和 らげたり微弱な反応を補なったりするために、誰かに手や腕を固定していてもらう必要 があるのである。  FCの志望者は、自分自身の能力に対する自信に欠けていると思われる。そのため、意 思の疎通をはかるためには、ファシリテーターの特別な接触と感情面での支持が不可欠 なのである。(すなわち、腕などを持ち上げて固定するためにヒモや装置などを使って も効果は生じない。)

 FCは、それまで辛抱強く働きかけても「ノレンに腕押し」状態の障害者を、何と か理解し、意思の疎通をはかろうと苦闘してきた親や教師、そしてその他の介護者 にとってはほとんど抵抗できない魅力的存在である。  しかし、FCをかくも魅力的な存在たらしめるまさにその特性が、他の幾つかの強力 な要因と結びついて、20年近く以前にFCがオーストラリアで「発見」されて以来、信 奉者と懐疑論者の間での白熱した論争を巻き起こす原因となったのである。

オーストラリアでの創始

 それは全て、1970年代オーストラリアのビクトリア州メルボルンの研究機関の教師で あったRosemary Crossleyによって創められた。  彼女は、担任していた脳性麻痺児の中には、その身体の障害のゆえに表すことができ ずにいる豊かな才能を秘めている者もいるのではないかと感じていた。  Crossleyは、障害児が絵や文字、その他の刺激材料を指し示すとき、その手や腕を支 えてやると、その中の何人かの子供はそれまでのほとんどの人生を殺伐とした施設で過 ごしてきたにもかかわらず、どういうわけか全く知る術もなかったり、教えられてもい なかった読み書きの能力や算数の能力を示すことに気付いた。

 直ちに、CrossleyがFacilitated Communication Trainingと名づけた技法について の論争が起こった。 メッセージを伝えるためには2人の人間が関わることになるが、単純な観察では双方が どの程度の割合で影響しあっているのかを究明することはできなかった。  加えて、Crossleyが施設に収容されている障害者が発したとした多くのメッセージ のわざとらしさは無視された。  「媒介」によって明かにされた虐待の訴えや施設を出るといった生活の大幅な変革 を望む声は、そうした意思表示が本当にその障害者自身から発せられたのか、ファシリ テーターによるものかの判別を早急につけなければならない状況を出来させた。  事態は、Crossleyが新たに担うこととなった、身心障害者を施設の外で生活できる よう支援する運動のヒロインとしての役割によって、込み入ったものとなった。  結局、一連の訴訟手続の後、CrossleyがFCを介して特別な関わりを持っていた脳性麻 痺の若い女性は、Crossleyと同居するため施設から退院することを許された。  施設は閉鎖され、1986年にはCrossleyは国家の財政的支援を得て、重篤なコミュニケ ーション障害を抱える人達のために、FCを主眼とした代替意思表示法を広めるための DEAL(Dignity through Education and Language)センターを開設した。  FCの使用法は、ヴィクトリア州でさまざまな障害を持つ公務員のプログラムにまで広 がりを見せたが、同時に、主観的な基準のみでFCユーザーによってなされたとされた意 思表示についての論争が起こった。

 非常に重大な問題が提起されたことから、1988年には専門家と親から関係者の公式見 解が求められることとなり、1989年には政府の後援による調査が実施された。  FCユーザーが彼らの能力が問われるような場合には協力を拒むことを理由とした、客 観的な検証に対するCrossleyの反対にも関わらず、小規模な対照評価実験がその調査の 一環として実施された。  ファシリテーターの予期しているメッセージについての知識が、十分統制され(これ 以後はより厳格に)ている状況で、メッセージの正確さを客観的に検証したところ、FC の効果は消えうせてしまった。  障害者は、普段の状態以上に良好な意思表示をすることができなかった。  代わりに、ファシリテーターがほとんどのFCメッセージを、明かに無意識に作り出 していたことが判明した。  これら初期の研究は、FCはちょっとした異常な類の扱いに影響されやすく、第三者 の願望や恐怖、望み、そして主義が、話せない人達に転嫁される余地があることを示 唆している。

社会運動の誕生

 ちょうどその頃、シラキュース大学の特殊教育の教授であるDouglas Biklenは、自閉症 の傾向ありとされた21人のDEALの学生で、ファシリテーターの介助によって高度な言語 による遣り取りを行っていると報告されているものを対象とした4週間の観察調査を実 施した。  Biklen教授は当時既に、障害を持つ生徒全員を、その能力やニーズを考慮することな く、一律に普通学級でフルタイム過ごさせることを掲げた「総合的学級編成運動」のリ ーダーとしての地位を固めていた。  Biklen教授が「仮説を証明するよりも、それを生み出すための試み」と語った、彼の 最初のFCに関する研究を評したレポートは、1990年にHarvard Educational Reviewに発 表された。  Biklen教授は、彼が観察した障害者(FCを初めて体験する被験者も含む)によるコミ ュニケーションは、内容、概念化や語彙も洗練されており、「普通に扱って欲しい。普 通学校に行きたい」といった希望や、障害者に対する世間の扱いについての彼らの感情 にも度々言及していたと報告した。

 これは、十分な資料的裏付けのある現行の自閉症の診断領域(こうした診断は難し く、広範な能力と欠陥を持つ全ての領域の障害者に適用されるものであることには言 及していない)を構成する社会的、遊戯、認知、そしてコミュニケーション技法の問 題とはきわだった対照をなすものであった。  その独創的な論文の中で、Biklen教授はオーストラリアでの実験結果に対する反論を 述べたが、その論拠は「意思表示がその個人自身のものであったとした指標は、私見で は、FCの有効性に関するこれまでの仮定を正しいとするに十分強固なものである」とい う、型破りなものであった。

 彼が観察したと報告した指標は、障害を抱える人が単独で、あるいはファシリテータ ーから必要最低限の介助を受けながらタイプした内容(スペルミス、突飛な言葉遣いな ど)および各人がコミュニケーションを理解したという表情表現やその他のサインが、 それぞれに個性的だったというものであった。  彼もまた、ファシリテーターがしばしば誰が文字を綴っていたのかを区別できていな かったことや、ファシリテーターが無意識にではあるがFCに微妙に影響を与えていたで あろうこと、そしてそれが問題あることに気付いていた。  とうとうBiklenは、彼の非対照法による実験およびCrossley他のファシリテーター のレポートを基に、自閉症は認知や情緒の問題ではなく、随意の筋肉運動制御の問題 として再定義されるべきだと結論を下した。  彼はシラキゥス大学にFacilitated Communication Institute (FCI)を設立するため オーストラリアから帰国し、北米におけるFC運動が会しされることとなった。

運動の流行

 FCという言葉は、複数のメディアがFCの奇跡を報道したおかげもあって、急速に広ま っていった。  情報が交換される度合いが幾何級数的に増加したことが、組織を力付け運動を一層推 進させた。  FCニュースレター、会議、そして支援者ネットワークが、FCによって書かれたとされ た散文や詩の例と併せて驚くべき成功事例を広める上で大いなる貢献を果たした。  シラキウスFCIは、数時間から2・3日間に及ぶワークショップで、熱心な新しいファ シリテーターの訓練を開始した。  少なくとも米国北東部の6州の大学のうち2校が、シラキウスFC研究所のサテライト プログラムを提供し、他の多くの公私の研究機関もこれに追随してファシリテーターの 訓練と支援の提供を行った。  両親、各種の訓練法の専門職助手や専門職ら手ほどきをうけた人々は、しばしばこの 技法は簡単で特別な訓練は必要ないと言われていた。  彼らは新しい人材を訓練し、積極的に機会を求めて障害を持つ人々にFCを実践する ようかりたてられた。  大勢がこれに従った。瞬く間にFCは、重篤な障害を持つ人々が自身の意思決定を なし、社会参加を実現するための手段として喧伝されることとなった。  FCは急速に選択の自由に照らして偏見のない取り扱いとみなされていった。

 Biklenの論文出版の直後、シラキウス周辺の特殊教育職員や親に始まり、やがては 合衆国全国そしてカナダまで、FCは熱狂的に受け入れられて行った。  大勢の子供達が普通学級に配されて、介助のもとに一般課程の授業を受けた。  成人の障害者の実生活に関わる決定(生活様式の手配、医療他の治療について、補聴 器の使用についてなどなど)は、発信の根源を客観的に確認する試みのなされぬままの 「媒介された」メッセージに基づいていた  多くの事例において、FCは発話や意思疎通の機会を拡大するための装置などメッセー ジの創作に第三者の手を必要としない他のコミュニケーション方法に取って代わってい た。  心理学者や医療言語聴覚士他が、知能テストや他の一般的なテストを「介助付」で 行うようになったところ、「介助付」テストの結果によって診断やプログラムの推薦 を変更しなければならなくなった。  突然、「遅れていた」人々が、平均もしくは平均以上の知能を有していることが 公然と示されたのである。  「介助付」カウンセリングや心理療法が、FCユーザーの個人的な問題を支援すべく 実施され、専門教育機関や大学にFCのコースが設けられた。  巨額の税収がFCの広範な普及活動のために投入されたが、その正当性や有効性の客観 的検証については全く顧みられなかった。

超常現象への踏み込み、科学からの脱却

 驚くには当たらないが、障害を打開することを成し遂げ、運動に参加することは多く のファシリテーターにとって陶酔に等しい経験であった。  しかし、そのうちの何人かはFCによって生み出される言葉は本当に障害者であるパー トナーから発せられたものなのかどうかについてずっと疑いを抱いてきたと報告してい る。  両親や同僚、そして安直に疑うこともなくこの方法を採用した利用者達からの相当な プレッシャーにさらされている状況に気付いたことで、最初からこの方法に重大な疑念 を抱く者もいた。  ファシリテーターの個人的な思惑がFCを介して表現されているとしたレポートは、一 部の人達に自閉症を抱える人達は他の人達との間にテレパシーを持っているに違いない との結論を抱かせた。この説は、ウィスコンシン大学特殊教育学科のある教授と、その他の人々に信奉されている。

 更にファシリテーターは、あからさまにまた暗黙のうちに、FCは本当は誰の意 思を表しているのかを知りたいと望んだ多くのファシリテーターにジレンマを生 じさせることとなる強力な観念を吹きこまれていた。 この観念の要素の幾つかは以下の内容を含んでいる

 オーストラリアや、後にアメリカで行われた対照評価法のデータでFCに都合の悪い ものは、FCのトレーニング用教材やニュースレターの中にめったに、いや全くといっ ていいほど、取り上げられることはなかった。  そうしたデータが取り上げられるとすれば、それは検証方法やその実験に携わった 人達を批判するもので、FCはテストできるようなものではないと主張することで言い 逃れようとするものだった。  要するに、FCの有効性はほとんどが信仰心によって受容されているといえるだろう。 これによって、科学は捨て去られた。

 Biklen、Crossleyおよびその同僚は、FCは相当な割合の重篤な自閉症、精神発達遅滞 ほかの障害を抱える人達が秘めている読み書きの能力を引き出すうえで非常に効果的で あることを提唱したFCの性質的研究に関する詳細な研究報告書を同時期に出版した。 How, then, had they developed age-level or even precocious literacy skills?  では、そうした障害を持つ人達は、いかにして年齢相応の、あるいは早熟な読み書き 能力を発達させたのだろうか?  これらの人々の多くは、読み書きの指導をほとんど受けていないか、受けていたとし ても多くを学んだようには見うけられなかった。  Biklenによれば、彼らはこれらの技能をテレビを観たり、きょうだいが宿題をするの を目にしていたり、また単に彼らの生育環境の中に飛び交う言葉に日常接していたこと によって身につけたのだという。  あるいは、中には予想に反して最初から教育が効を奏していた場合もあるのかもしれ ない。しかし、彼らの言語表現が限られていたために、その成果を示すことができなか ったのである。

 彼らはこの主張をいかに証明したであろうか?Biklenとその同僚は、参加者を観察 することに加えて、人類学者や社会学者、および文化と社会制度の分野の研究に関わ る教育者が採用している他の手法を用いた。  調査はまったく記述的で、実証的ではなく、客観的な測定法または観察者の先入観を 軽減するための処置も採られていなかった。FCにおけるファシリテーターの影響力につ いての実質的可能性に対する彼らの認識にも関わらず、この研究においては重要な可変 要素についての対照検討がなされていなかった。

 1991年後半、私が調査部門の長として勤務しているNew England Center for Autism の生徒の親数組が、FCを我々の授業に採りいれるよう動き始めた。  その親達は、FCを用いて表明されるメッセージは子供達の真の望みや能力を表してい るという前提のもとに、彼らの子供達の人生に劇的な変化をもたらすべく我々に要請し たのであった。   我々が、FCを採用するのであれば、我々が全ての技法に適用するようにしている客観 的評価を下すための小規模な実験的研究の場合のみとすると決定したことに腹を立てる 親もいた。  当時、我々は研究文献からFCについての情報を一切見つけ出すことが出来なかったの で、国内外の諸権威に助言を仰ぐこととした。  FCなど聞いたこともない(カリフォルニアには、驚くほど多かった)という研究者 も少なくなかった。他は、ウィジャ・ボードの仕組みや天才馬ハンスを引き合いに出 して、FCは一過性のブームで終わるだろうとの意見だった。FCについての客観的根拠 について知るものは皆無だった。  残念でならないのは、この時我々は科学的な教育を受けながら、FCは誰の意思が表れ るのかというFCについての根源的な疑問を検討せずに、それを推進している人達とも出 会っていたことである。

性的虐待の構成要素

 「媒介された」言葉がファシリテーターのものであるという現実的な可能性について は、その方法が善意に満ちた様相を呈しているうちはたいした問題とされなかった。  画期的な打開策についての研究報告がもたらした高揚感に水を指そうとするものなど いなかった。  しかしその当初から、奇妙なことが起こり始めた。数例のFCメッセージは、障害を抱 えた複数のFCユーザーが家族や介護者から虐待を受けたことがあると言ったり、あるい はファシリテーターによって伝えられたのである。しばしば、そうした虐待は性的なも のだったと主張され、それらの多くはことこまかで、あからさまな、まるでポルノのよ うな内容を含むものであった。

 非常に多くの社会運動は性的な構成要素を内在するものであるが、FCもその例外では なかった。  性的虐待の主張の創出は、普通は容赦無い一連の出来事の一つとして始められる。  FCに対する信頼、その方法が本来的に有している複雑さに加えて、特にその犠牲者が 障害者という社会的な弱者とみなされる存在であることが、今や性的虐待の主張の捜査 の特徴とも言える過熱した追求とあいまって、より大きな影響を及ぼしはじめている。  学校やFCプログラムの管理者達は、だれがその結果社会福祉の窓口や警察を呼んだか 知らされた。  もし訴えられた人間がFCユーザーと同居している家族の場合は、その人物が家を 出るよう命じられるか、あるいはFCユーザーが里親の保護の下に置かれることとな った。  もし親のいずれかが告発の対象だった場合で、虐待したのは一方であったとしても、 もう一方の親がその事実を知っていながら見過ごしにしていた場合には、たいてい両親 ともに刑事訴追されることとなった。  訴えは、しばしば親権や監護権を打ち切るために社会福祉サービスに携わる人達から 提起されることもあった。もし、訴えられたのが学校やFCプログラムの職員だった場合 には、停職処分とされ、はなはだしくは解雇されるも場合も考えられた。  巻きこまれた人々には、長く苦しい試練が待ち構えていた。  捜査が開始された。警察は被疑者を尋問すると同時に、ファシリテーターを介して 被害者への聞き取りも行った。  その他の証拠として、被害者の医学的および心理学的検査結果や虐待について知って いた可能性のある第三者の証言などが取り上げられた。  陳述を裏付ける目的で折々召喚された中立的立場のファシリテーターによって、別の 複雑な面が持ち出されることとなった。自立的なファシリテーターが、実際に裁判の情 報を知る手段を持たなかったことや、「媒介された」内容を裏付けるには何を決め手と すべきかについての、確立された保護手段や客観的な基準は存在しなかった。

 言われのない訴追は、被疑者とその家族の情緒面および経済面に壊滅的な影響を及ぼ すが、告訴されるかもしれないという状況に人間を置くことも、その精神や情緒の安定 を脅かす。  このようなことから、証拠については細心な注意と厳格なルールが摘要されてしかる べきであろう。  明白な証拠や自白の裏付けが得られられた訴訟例も報告されているが、一方で「媒介 された」陳述のみを証拠とする相当数の訴訟が提起された。  FCを介した陳述が為されたときには、「陳述したのは誰ですか」そして「陳述された 事件は確かに起こったのですか」という、別個ではあるが関連性を有する2つの質問が 是非とも為されるべきである。  オーストラリアやアメリカ、そしてカナダの幾つかの裁判所や捜査機関は、「陳述し たのは誰ですか」という最初の質問は、独立した観察者によって、ファシリテーターが 意思表示をするために必要な情報を持っているか否かを確認できるという状況の下での FCの対照テストとして回答されなければならないと規程した。  もし、FCユーザーがそのような状況下において情報を適切で信頼できる形で伝えるこ とができず、そして自身の陳述以外の確たる証拠が存在しない場合には、訴訟は通例と して終結される。  これが、私の知る範囲での全ての訴訟における結果である。しかし、裁定が下される までの間、被疑者は一年の大半を悲嘆のどん底で過ごし、身の潔白を明かすために莫大 な費用を費やさなければならないのである。  陳述の信憑性についての確たる裏づけは「虐待はあったのですか」というニ番目の質 問にも、当然求められることであろう。しかしそれは論理上、誰が「媒介された」陳述 を生み出したのかという質問に答えたことにはならないのである。

 残念なことに、何件ものいわれのない「媒介された」性的虐待の申立が注目されるよ うになってようやく、FCは綿密に検証されることとなったのである。  米国内での法廷におけるFCの有効性と信頼性に関する問題についての、批判的、懐疑 的な記事が印刷媒体や電子メディアに掲載された。同時に(幾分遅くはあったが)、急 速にその数を増していた対照テストの結果があちこちで発表されるようになり、更なる 疑念を表明する声が湧きあがった。

FCの検証方法

 FCにおけるメッセージの真の発信者を明かにするために実験的観察を実施する論理的 根拠は直接的である。もし障害を抱えているFCユーザーが実際にメッセージの発信源で あるとするならば、ファシリテーターが予期されるメッセージについての知識を持ち合 わせていなくとも、いずれの場合においても正確で適切なメッセージが生み出されるは ずでなくてはならない。  幾つかのFCの対照評価法は前述のような裁判での尋問という強制力を伴う形で執り行 われた。しかし、相当数はFCについての裁定を下すに当たっての客観的実験的基準を望 むのみの臨床医や研究者、FCプログラム管理者によって実施された。  ある者はFCに不正行為やごまかしがないことを明らかにするために、他は真にFCは精 神的な力によって生じるのではないかとの疑問を抱いていたことから、“驚異の超能力 者”James Randiまでがテストの初期段階から助言を求められていた。  RandiのFC現象に対する懐疑的な態度は、FC支持者からは歓迎されなかった。  アメリカにおける最初の主要な研究は、心理学者Douglas Wheelerと同僚により、ニ ューヨーク州SchenectadyのO. D. Heck Developmental Centerにおいて、FCに懐疑的な 立場の人々にFCは効果を有することを納得させるに足る客観的な証拠を得るべく行われ た。

どのようにFCの対照実験を行いましたか?  私は最近、FCについてメディアなどに取り上げられたり、学界誌に掲載された17の 検証に関する論文および科学学会で発表された8つの論文の分析を行った。  その一般的および批判的内容は

  1. 実験に参加することについての同意
  2. 評価基準:すなわち、FCによる言葉や文章の精度を記録したり評価する観察者や審査 員について、FCの現状についての予備知識が無く、自主的な判断を下すことができ、実 験に関与することのない者を使うこと。
  3. ファシリテーターによる身体面・情緒面への支援の維持
  4. 数組の例外を除いて、正式な検証の相当以前から一緒にFCにいそしんできて、相応の 成果を上げているファシリテーターとFCユーザーのペアによって実施されること。
  5. 良く使われる、一般的な交流場面(たとえば、日常の出来事を話し合ったり、良く知 っている絵や品物の名前を上げたり説明したりといった、教育現場や言語能力開発で一 般的に行われている活動など)
  6. 検証場面におけるFCの明確な成功例の確立
  7. ファシリテーターが入手できる情報の管理

 必要な統制法には様々なやり方が確立されている。幾つかの実験においては、ファ シリテーターは文字盤ではなくパートナーを注視するよう要請されるか、実際に文字 盤を遮蔽される。この種のテストは、多くのファシリテーターがパートナーがたまに しか、あるいは全然文字を見ていない間も、文字に注意力を集中しているという観察 結果から提案された方法である。  他には、絵や品物、または印刷物など視覚を刺激する材料を、ファシリテーターが見 ることのできない状況でFCユーザーのみに提示する方法がある。  もう一つは、口頭での質問はファシリテーターが耳栓や、周囲の音声が聞こえないよ うノイズが流されているヘッドホンを着けた状態で、FCユーザーのみに提示される方法 である。  幾つかの評価法は、FCユーザーがファシリテーターが同席しない状況でいつもし慣れ ている活動をし、その後ファシリテーターがFCを用いてその活動の様子を聞き出すとい う「メッセージ・パッシング」という方法が採用されている。  2・3の評価法は、FCユーザーとは馴染みが薄く、自主性を持ったファシリテーター に、彼らの知り得ない、たとえばFCユーザーの好きな食べ物とか最近の出来事、家族の 名前などといった情報を聞き出させることを課している。

結果

 最も有効な評価方法として、ファシリテーターや両親に試行のうち何回かはFCのパー トナーとは違ったものを、それ以外の場合には同じものを見聞させるという二重盲検法 が用いられた。  いずれの場合も、彼らのFCのパートナーがどのような情報を受けとっていたかを答え ることはできなかった。  ファシリテーターには提示されたが彼らのパートナーには知らされなかった情報に対 する回答は、ファシリテーターがこうしたFCによる成果を操作しているという端的な証 拠足り得るものであった。  多重タスクと制御手続が各々の調査で用いられた。  全ての実験のファシリテーターは、一流のFCの提唱者によって訓練されたか、あるいは一流の提唱者の訓練を受けた者の指導を受けていた。  両親、専門職助手、教師、医療言語聴覚士、福祉事業従事者などは、ファシリテータ ーの一般的な構成員の典型例に思われた。  これらの検証における、自閉症、精神発達遅滞、脳性麻痺や同様の障害を持つ子供と 成人194名というFCユーザーのサンプルは、これも典型的なものに見える。

 これらの対照テストの一つとして、FCが障害を持つ人々がファシリテーターの影響 を受けない状態においても、予想外の読み書き能力と意思疎通能力を発揮させうるこ とを証明する、説得力ある証拠を生んではいなかった。  多くの実験・試験において膨大なメッセージが生み出された。しかしそれらのほと んどはファシリテーターがどう答えるべきかを知っているときに限って正確であり、 適切に状況と合致するものであった。  この結果から強く推察されるのは、ほとんどの場合においてファシリテーターがそ うしているという自覚はなかったとの報告がなされているとはいえ、ファシリテータ ーが大部分のメッセージを作り出しているということである。  16の検証実験において、論理的に妥当な成果を示す証拠は全く見出せなかった。  総計23人の様々な障害を持つ人々は、9種類の検証の幾つかの場面においては彼らの ファシリテーターが回答を知らない場合でも正解することができた。しかし、それらの 成果のほとんどはその人々がFC無しで行えると立証されていた技量と同等もしくは幾分 か容易な程度のものであった。  つまり、幾つかの試行の場面での成果、それはおおむね単語や簡単な熟語であった が、それらは音声あるいは身振りによって単語や簡単な熟語での意志表示の水準を超 えていた個人(その中の何人かはFCを始める以前から読解能力を有していたことが立 証されている)によって発せられたものであった。  これらの大部分の人々に関しては、それ以外の多くの検証場面においては彼らのフ ァシリテーターが成果を制御していたという明白な証拠が得られた。  対照評価法は、ほとんどのファシリテーターが“媒介された”メッセージの源を確認 するためには系統的かつ実験的な観察が重要であると強調しながらも、いつ、どの程度 に彼らがパートナーを察知しているのか全く説明できないことをも明らかにしている。  これらの結果の法的、倫理的、そして現実的な影響は明白かつ重大である。  これらの結果は、複数の訴訟事件およびメディアの批判的報道と併せて、FCに対する 懐疑論を幾分かは表明しやすい状況とした。

支持者の反応:超能力者との類似

 FCの提唱者達は複数の観点から対照評価法を批判している。  提唱者達の反応とJames Randiが超能力者のテストを行った際によせられた反応の類似 は驚くほどである。たとえばFC支援者は、回答を間違えたのは自分達の能力を実証する 機会に挑むに当たって、上がってしまったかビビったかして自信を喪失したり、不安に かられたりしたか、あるいは一部のFCユーザーの反抗のせいだと主張している。  同様に、超能力者は、ビデオカメラや彼らに不安感を与える懐疑論者が同席している 場では行えないと主張する。  FCの場合、もし、この“検証を加えることがFCのプロセスをぶち壊してしまう”と いう主張が真実であるなら、対照評価法の参加者はファシリテーターが答を知らない 場合のみならず、全く回答できないハメに陥るか、終始不正確な回答をすることとな ってしまうだろう。  にもかかわらず、多くの正確な言葉、描写、そしてその他の反応が見られた。 しかし、そうした場合のほとんどはファシリテーターが答えを予測できた場合に 限られていた。

 加えて、多くの検証は被験者達が、いつものファシリテーターといつもの文字盤を使 い、それまで膨大なFCセッションを行って来た慣れ親しんだ環境下で実施されているの である。  セッションは、通例として苦痛や続けるのは気が進まない様子が少しでも見うけられ た場合には、実施を見合わせるか中断された。  拒絶された例はほとんど報告されていない。  参加者はほとんどの検証場面で膨大な課題やセッションを、長時間に渡って集中的に こなした。  ほとんどの参加者は終始検証に協力的で、熱中しているようにさえ見うけられた。  幾つかの検証は、これまでも参加者が上手く答えられたものと同じタイプの題材と 質問を使って、通常のFCセッションの状況設定の下で行われた。  質問は、通常のFCセッションでしばしば出題されていたものより(多少なりとは)、 正誤の結果が判然としたり立ち入ったものではなかった。事実、多くの課題は、状況が 設定されていたためファシリテーターの予測の及ぶすべがなかった点を除けば、FC訓練 で推奨されているものと同一のものであった。  最後に、もしFCユーザーが実験に望むぐらいのことで意志表示をするのが不安で たまらなくなってしまうなら、彼らはどうやって普段の学校での授業、知能テスト やその他のテスト、TVカメラの前やFCの会合に集った大勢の観衆の面前でFCをやり おおせているのだろうとは誰もが疑問に感じるはずである。  まして、現在係争中の彼らの人権に関わる数件の性的虐待申立における訴追者として、裁判官や弁護士(誰にとっても不安を抱かせる存在である)の質問にさらされながら、 彼らはいかに「媒介された」証言を為し得るのであろうか。

 ファシリテーターがパートナーと打解けていなかったとか、充分な訓練を積んでいな かった、あるいは適切な「媒介」をしなかったといった、対象評価法に対する批判もあ るが、これは全く事実ではない。  冒頭の概要で述べたごとく、FCユーザーはほとんどの実験を彼らと共にしたファシリ テーターを選んでいる。  唯一の例外は、検証開始時においてFC未経験のファシリテーターおよびFCユーザーの 初期の感応性、および馴染みのないファシリテーター(にもかかわらず、対照テスト開 始前にはFCユーザーの意思を首尾良く媒介していた)が関与した2・3の訴訟事件を査 定した2つの研究であった。 多くのファシリテーターは第一線のFC提唱者の訓練を受けていた。  彼らのほとんどは、検証の間に彼らがしたいと思った身体的および情緒的支援は何で も供与するよう奨励されていた。  もし彼らが適切な“媒介”をしなければ、第三者にも理解可能な意思表示はほとんど 為されなかったであろう。 実は、真実はその逆であったのである。  提唱者がファシリテーターたるに充分な訓練や経験とはどういった要素であるのかに ついての一定のガイドラインや基準を示さない限り、この批判は妙な皮肉を内在するこ とになってしまう。  ファシリテーターの何割かは、文献を読んだり、ビデオテープを観たり、短期間の ワークショップに参加した後にその実践を開始している。  たとえば、New England Center for AutismがFCに着目しはじめた頃、当センターの 3人の医療言語聴覚士はBiklenの2日間のワークショップを受講している。  この程度の期間の講座は、1991年後半の当時においては標準的なものであった。  さらなる矛盾は、FCに関する解説的文献のいたるところに、全く面識の無いファシリ テーターと重篤な障害を持つ患者が出会った、まさに初回のセッションから媒介によっ て文章(ときにはそれ以上)を綴ったとする、複数のレポートが存在することである。

希薄な信憑性と矛盾

 しばしば引き合いに出される対照群テストへの批判は、このテストがFCユーザーに、 正誤の結果が歴然と露呈してしまう人や物の名前を挙げる課題を与えていることに対し てである。FCの支持者達は、自閉症を持つ人々は万国共通に言語化能力に問題を有して いるとの理由から、この課題は不適切との判断を下している。  この論点は、幾つかの理由から信憑性を問題視されている。  まず、多くの評価方法はFCユーザーにそのものズバリの正答しか認めないわけではな い。描写、模倣、複数の選択肢、二択回答や自由表現形式など、その他の回答方法も許 容されているのである。  第二に、そうした言語化障害が自閉症を持つ人々に見られる兆候であるという確たる 証拠はない。たとえ、かつては十分に発達した言語能力を有していた人達(たとえば脳 神経系統の異常や損傷による障害を持つ患者)との間であったとしても、個人がおそら く知っているであろうけれども言語化できないことと、単に知らないことを識別するこ とは困難に違いない。  これでは、自閉症を持つ人との接し方はよりやっかいになってまう。  もし、このコジツケが自閉症を持つ人々に当てはまるとしても、自閉症ではない 他のFCユーザーにとって何の特になるのだろうか。  更に、少なくとも3つの研究は、自閉症を持つFCユーザーが自力で回答を声に出 した場合の方が、介助つきの回答よりもずっと正確だったことを充分な資料つきで 報告している。  これは明かに、自力では意志疎通が図れないとされる人々の「言語化能力」仮説 と拮抗した結果である。

 一部のFC支持者は、否定的な結果については、ほとんどのFCユーザーが対照群テスト の場面で彼らに出題された類の課題に不慣れであったことに起因するものとしている。  この批判は、特に不可解である。  法律で、特別な支援が必要な人の能力の程度については定期的な判定を受けなければ ならないとされてる。とすれば、ほとんどのFCユーザーは豊富なテスト経験を有してい ると考えて差し支えあるまい。  ほとんどの対照テストに採用されている課題は、広く一般の教育機関や訓練プログ ラムで用いられている知能と言語能力を指導・考査するものと同様である。  事実、その多くはFCトレーニングでも推奨されている活動の類で、これについてはFC ユーザーは対照群テストにおいても優秀な成績を示したとの結果が出ている。  重ねて言うが、もし課題に習熟していないことが筋の通る説明であるなら、ファシリ テーターが質問の答えを知っていようがいまいが、FCユーザーのテスト結果は一様に悪 いはずではないか。  これは、対照テストの場合だけに言えることではない。

 とうとう、FC支持者達は対照テストはFCユーザーの尊厳を損なうものであるとの 無節操な言い分を主張する一方で、今度はその舌の根も乾かぬうちから、対照テスト での幾つかの事例においてFCは効能を有するという証明が得られたとするレポートをや っきになって喧伝してまわっている。  別の言い方をすれば、データが彼らの主張に反する場合は、検証は無効であり、 データが彼らの主張を支持する結果であれば、検証は有効なのである。  オーストラリアのあるレポート(IDRPレポートで参照)によれば、3人の障害者がフ ァシリテーターが不在の間に手渡された贈り物の名前を意志表示することに成功したと 報じている。しかし、各人はFCによらずに答を自由にタイプで打つよう言われていた。  このレポートには、実験の背景やそれぞれの被験者の情報、実験方法の詳細が欠けて おり、また各被験者には1回の実験が行われたのみだと記述されている。  別の実験は言語障害関係雑誌の編集者に宛てた手紙に書かれたもので、重度の言語発 達障害を持つ生徒の5人のうち4人は、読み上げられた言葉とその絵を結びつけるテス トにおいて、FCを用いた場合の方が用いない場合に比べて目覚しく良好な成績を収めて いるとの内容である。  ファシリテーターはヘッドフォンを着けてはいるものの、言葉を読み上げる試験官か ら視覚的に遮蔽されていたわけではない。それに、FCユーザーに細かな感情の交流が求 められるような類のテストでもない。  最も良いのは、これらの実験は、支持者によってFCが科学的にも有効であることを裏 付ける材料として引き合いに出されてはいるが、決定的な証拠となるものではないと位 置付けることだろう。  このような実験は是認しながら、対照群テストはFCを詐害するものだとの論議を展開 することの根源的な矛盾は、彼らの関知するところではないようだ。  FCの信用を裏付ける証拠を提供するテストは良しとし、悪い結果を示すものはダメだ との恣意的姿勢が見うけられる。

声無き懐疑論

 もしFCが、支持者の主張する精神的な奇跡と呼べるほど卓越したものでないのなら、 なぜその運動は発展しつづけるのであろうか?なぜ科学界は、これまでFCに対する反対 の公式見解を表明しなかったのだろう?  最初に、そしてそれに続いて発表されたFCについての多くの懐疑的立場からの意見に あまり覇気が感じられないのには、幾つかの要因を考慮する必要があるだろう。  そもそも、一般に科学者はデータ無しで判定を下すことに慎重である。FCが最初に北 アメリカの障害者社会で人気を呼んだときには、客観的なデータすら無かった。  オーストラリアの心理学者Robert CumminsとMargot PriorによるBilkenの最初のレポ ートに対する反論がHarvard Educational Reviewに掲載されたのは1991年初頭のことな のである。  彼らの論文は、FCの有効性に関する対照テストの結果とFCがオーストラリアで巻き起 こした法的・倫理的問題についてまとめたものであった。その論文は1992年の晩夏まで 出版されず、その頃すでにFC運動は時代の趨勢に乗っていたのである。  その頃でさえ、オーストラリアでのデータが限られているということから懐疑的な考 えの持ち主の中には、FCに対する判断を留保するものが多かった。これはニューイング ランド自閉症センターにおける我々の方法論にも通じるものである。  すなわち、自閉症患者の中には話すより手やタイプで字を書く方が得手である者もい るかもしれないし(幾つかの実例もある)、それがFCについて言われている利点と合致 しているならば、客観的な手法を用いた慎重な研究によって解明されるはずである。

 しかし時を同じくして、我々はFCが人々の間にあまりに速く過熱気味に受け入れられ て行くこと、批判的な調査を受け入れないことや多くの信奉者達の非科学的な姿勢に一 抹の不吉なものを感じていた。  FCの暗部にまつわる逸話が徐々に明かにされ始めても、FCが主張するところをいかに 検証すべきか心得ている発達障害学界にあって関わりを持とうとする者は皆無に近かっ た。  おそらくそれぞれの分野での適切な調査を継続することが最善の対応策であるとの考 えからであろう。それ以外は、反対論者や告発者とみなされることをよしとしなかっ た。

 ともに発達障害学の論述と調査に長い関わりを持つCumminsとPriorは、最初はビクト リアでFCについての彼らの懸念を公にした。  彼らのFCに対する懐疑的意見の表明と注意の喚起は、オーストラリアでFC支持者から の敵対行為と個人攻撃に遭遇することとなった。同様のシナリオがアメリカでも繰り返 された。  こうした事実は別の心模様を示唆している。個人的に最もうなづけるものは:FCは一 般に言われているようなものではないかもしれないとか、その実態を見極めるためには 客観的な検証が必要であるなどと提案することは、過去は言うまでもなく今日において も、多くの社会で偏見的な発言と受け取られてしまうのである。  そんなことを言おうものなら異端の烙印を押され、障害者にとっての抑圧者、非人道 的で敵対的、他人の新発見を嫉み、新しいアイディアを受け入れられない旧弊な人間で あり、経済的な恩恵にも縁の無い存在にされてしまいそうである。

FCの未来

 言うまでもないことだが、FC運動の指導者達には相当の注目と賞賛が寄せられる。し かしその一方で、データが増えるとともにさまざまな被害も増大する。批判もまたしか りである。  この数ヶ月、「PrimeTime Live」がその例であるが、FCは奇跡に他ならないものと位 置付けている数家族を取り上げて、客観的な検証をほとんどせぬまま、人知を超えた出 来事を熱狂的にレポートした幾つかの番組について、メディアの報道姿勢に明かな転換 が見られる。  PBSの検証ニュース番組で放映されたドキュメンタリー「Frontline」は、実験によっ てほとんどのFCはファシリテーターの意思表示であるということを疑う余地もないほど 示している証拠とあわせて、Biklen教授の初期の主張について信憑性が薄いことと実験 的見地からの立証が不充分であることを問題として取り上げている。

 シラキュース大学側の公式見解は、Biklen教授の意見はこれまでも革新的なアイディア が被ってきたような熱狂的賞賛と反発を招いているにすぎないと受けとめているよう だ。これは多分、時間と客観的な資料がいずれ真実を明かにしてくれる事例かと思う。  時間は、司法制度がFC運動の今後を決定づける役割を担うに当たって、もっとも必要 なものであろう。ファシリテーターを介して申し立てられた性的虐待の幾つかのケース は、この原稿を執筆している時点でも審理中である。  私の知る限りでは、現在のところ一件の有罪判決があるのみである。虚偽の申立から 免れることのできた複数の個人や家族は、介助者、学校とプログラム運営者、そして関 係社会福祉事務所を相手方として賠償請求の反訴を提起している。  1994年1月10日、ニューヨーク北部連邦管区裁判所に合衆国内で最初のFCによる申立 事件の犠牲者の一人であった一家から、1000万ドルの賠償を求める民事訴訟が提起され た。Biklenとシラキウス大学もその10人の被告の中に含まれている。

 結局、FCが精神的奇跡でないとするなら、それは手品なのだろうか?これは、ファシ リテーターがその役割において作為的に詐術を用いているというつもりではない。  それどころか、彼らのほとんどは自分の職務に最善をつくしたいと望んでいる誠実で 正直、世話好きな人達である。ここにこそ説明が見出せるのである。  思考と動作を管掌する信念の力は圧倒的である。FC現象についての十分な解明はまだ 時を待たなくてはならない。しかし、ダウジング棒やウィジャ・ボード(コックリさん のような遊び)にみられる表意運動反応との類似点があることは明かである。  ファシリテーターがタイピングを始めるべくそっと手を導くと、幾つかの文字から単 語が形成され、単語から文章が綴られて行く。ちょうどウィジャ・ボードで、参加者そ れぞれが駒を文字盤の上で動かさないよう意識しているうちに、凝った意図がかすかな 雰囲気の中から醸成されてくるのと同じく、無意識に見えるファシリテーターの、その 無意識こそが意思表示を生じさせているのである。  自閉症児があらぬ方を向いていようが、目を閉じて何も見ていなかろうが、手指はま さしく奇跡のごとく目まぐるしく板上の文字を叩いている。残念ではあるが、メンタル ヘルスにおいては奇跡はあり得ない。  FCが真実であればどれほどよいかとは誰もが願うところである。しかし厳然たる事実 は、科学者や批判的考えの持ち主にFCが真実であるという願望を既得の知識に取って代 わらせることを容認しないのである。

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原文権利表記

From Skeptic vol. 2, no. 3, 1994, pp. 68-76.
The following article is copyright c 1994 by the Skeptics Society, P.O. Box 338, Altadena, CA 91001, (818) 794-3119. Permission has been granted for noncommercial electronic circulation of this article in its entirety, including this notice. A special Internet introductory subscription rate to Skeptic is available. For more information, contact Jim Lippard ([email protected]).


原文: FACILITATED COMMUNICATION:MENTAL MIRACLE OR SLEIGHT OF HAND? (Skeptics Society)
翻訳:緑の手の名無し
初出サイト:Facilitated Communication と Doman Method 海外文献翻訳資料集
掲載者:「奇跡の詩人」検証文献翻訳班@2ちゃんねる
更新履歴:2002年6月30日 試験公開にて初出

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