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この訳文は「奇跡の詩人」検証文献翻訳班の最終チェックを受けておらず、現状ベースの試験公開版です。最終チェック完了後に正式版として再掲されます。


ファシリテーテッド・コミュニケーションと自閉症:事実の虚構からの分離

By Marcia Datlow Smith and Ronald G. Belcher

この論文は、FC法を自閉症について判明している事柄に関しての見地から検証することを目的とするものである。

はじめに、この論文ではFC法およびその有効性に関する実験上の問題について主張されていることを検証する。次に、それはなぜ有効なのかおよびなぜ効果があるかもしれないと言われるのかについての主張が、自閉症の心理との関連において検討されている。最後に、文献の再検討と自閉症を抱える人達との16年間に及ぶ我々の研究成果を情報源とした、倫理上の懸念が述べられている。我々は、FC法の手順は実験に基づいて考察されるべきであり、その利用は科学的調査に限られるべきだとの結論に達した。

Keywords: Autism; Work and autism; Supported employment; Supported employment and autism; Developmental disabilities; Vocational and autism

自閉症は広く一般に見られる重篤な発達障害で、学習、意思疎通、および社会的行動に破壊的な影響を与えかねないものである。言語表現はまず備わっておらず、もし見られたとしても非常に限られた範囲においてで、異常な抑揚または口調、代名詞の反転や単語のオウム返しに特徴づけられる。結果的に、言語はたいてい具象的で、自閉症を持つ人々は抽象的な概念についての理解力をまったく、あるいはほとんど持たないものと思われる。

自閉症はしばしば精神遅滞をともなう。しかし、自閉症はすべての機能の領域に等しく影響を及ぼすわけではなく、多くの自閉症を抱えた人々は著しく脆弱な特定の領域を有するということなのである。優越した領域は、平均以上の値域に達していることさえある。たとえば、自閉症と併せてサヴァンの能力を有する人は、複雑な計算問題を解いたり驚異的な記憶力による妙技を披露することが可能である。

自閉症は長い間、理解しにくい障害であった。自閉症を抱える人々の、見た目には普通で、時には知的でさえある身体的外見は、彼らにしばしば垣間見られる才能の片鱗と相まって、人々をして自閉症の見かけの下には非常な潜在的能力、隠された天才的資質さえ備えた人格が存在するのではないかと信じ込ませてしまう。Olley(1992)が言及したように、「自閉症児を潜在的天才とみなすこの神話は語り継がれ、そして仮定の天才を解き放つ鍵を探し出すことにことごとく失敗してきた家族や教師に、非常な苦悩をもたらすこととなった。」この神話はその影響を現場で実際に使われている訓練にも及ぼし、近年はfacilitated communicationと称される新しい技法の信憑性の裏付けとされている。

facilitated communicationとは、言語能力を欠く自閉症の人々に正常かそれに近いレベルでの自己表現を可能とするとされている技法である(Biklen et al., 1992; Biklen and Schubert, 1991)。その技法は、自閉症の人の腕を、通常は手首か前腕の部分で支持し、その人が文字盤またはキーボード上の文字を選択するのを補助するため、後向きに引き戻す力を与えることが要件である。技法の擁護者は、タイピングの過程での身体的な補助が不可欠であるとはいえ、ファシリテーターが文字の選択に影響を与えることはないと強調している(Biklen, 1990; Biklen et al., 1991)。

FC法の唱導者は、この技法を用いれば言葉を話せる自閉症の人も話せない人も、これまでは不可能だとされてきたレベルでのコミュニケーションが可能となると主張している。(Biklen, 1990; Biklen et al., 1992; Crossley, 1990; Crossley and Remington-Gurney, 1992)ファシリテーターは、自閉症の人々は、自閉症的言語表現の多くの特徴、すなわち、代名詞の反転、逐語表現、オウム返し、具象的な語句などの見られない概念的で情緒的な内容の複雑な言語表現を用いていると報告している。

FC法は、自閉症児および自閉症の成人の双方に、さまざまな状況で用いられている。FC法は知能テストの実施に際して用いられており、それまでは重篤で深刻な精神遅滞の域にあることを示していた人々が、平均的な知性を有していると類別され直すこととなった。FC法によって生み出された文の質によって、自閉症で精神遅滞の子供達は普通学級に編入され、その学年の学業課程をこなしていると報告されている。親と専門家は一様に、彼らの自閉症の子供や患者が「介助」されるよう要請している。支持者は、個人教育プログラムおよび個人家庭プログラムもそれに含めるよう強く求めている。かつて自閉症を伴う精神遅滞と診断された女性が、ファシリテーターの援助を得て大学レベルの講座に登録した。

FC法は、刑事、家事および保護処分といった司法制度にも影響を与えた(Dillow, 1993; Rimland, 1992; Seligman and Chidrya, 1992)。スタッフや家族に対する複数の虐待の告発がFC法を介して為された。そして、その意思表示は障害を持つ人々を家族の暮らす家庭から引き離し、起訴されたスタッフを解雇するための証拠として用いられている。「介助」による性的暴行の告発も、起訴された家族やスタッフを投獄するための証拠とされている。

出現後の短期間に、FC法の技法は実践現場とメディア(Makarushka, 1991; Spake, 1992)の双方で、その驚くべき成果についての幾つかの間接的な報告に基づいて、広範な支持を獲得した。つい最近まで、FC法が公の批判や論争にさらされることは一切なかった(Cummins and Prior, 1992; Hudson, Melita, and Arnold, 1993; Prior and Cummins, 1992; Smith and Belcher, 1993; Silliman, 1992; Wheeler et al., 1993)。ファシリテーターの技術の妥当性とファシリテーターがコミュニケーションに及ぼしかねない影響についての疑義が起こった。この論文の目的は、FC法の問題点を調査し、FC法を自閉症について判明している事柄に関する見地から検証すること、およびなぜこの技法が自閉症の人々に効果ありとされるのかについての幾つかの解釈を提起することである。

実験上の問題

FC法にまつわる実験上の問題は山積しており、科学的方法論の核心を突くものである。提唱者は観察者の関与を要件とする定性調査法を用いて、この方式は妥当なものであり、定量的実験調査はFC法の正当性を立証するためには不要であると主張している(Biklen et al., 1991, 1992)。しかし、信頼性に関しては、定性調査法は実験施行者のバイアスに左右された定義づけに基づくという事実は不動のままであり、正当性を脅かすものとなっている。ということは、支持者は要するにFC法を彼等自身効力が疑わしいとしている方法を用いて評価するよう提案しているのである。

これまでのところ、FC法による意思表示はその障害者からのものでファシリテーターのものではないことを証明する実験的なデータベースは皆無である。逆に、FC法の成功例についてはおびただしい数におよぶ逸話的なレポートが存在する。これらの逸話的なレポートは、概して明白な診断、対照選択基準、hyperplexiaなど読み書きの技能に関する基礎的な情報が欠落していた。この情報無しには、誰であれ、その技法が有効であると断定することは不可能である。

満足のゆく回答がなされていない基本的な質問は、タイプによる意思表示の妥当性に関するものである。何をタイプするかを決めているのは、ファシリテーターなのか、あるいは発信者なのか、いったい誰なのだろう?Biklen(1990)は、ファシリテーターの影響が現実的にありえることを認めている。しかし、この警告にもかかわらず、そしてファシリテーターの影響の可能性にもかかわらず、その妥当性を判定するための矛盾のない試みのないまま、FC法はあたかもそれが障害を持つ人の言葉であるかのごとくにいつも報道されている。

最近の実験的調査がファシリテーターの影響の証拠を明らかにした。Wheelerら(1993)が、FC法によって意思表示することに成功していると報告されていた12人の自閉症の人々のグループの身近な絵に対するタイプによる回答の内容を調査したところ、ファシリテーターが影響を与えるのみならず、支配し決定していたことが判明した(p. 58)。CumminsとPrior(1992)がInterdisciplinary Working Party report(1988)とIntellectual Disability Review Panel(1989)からのデータを再検討したところ、両者ともにオーストラリアの人々によってなされたFC法による意思表示の発信源について調査したものであるが、「介助」によってなされたそれらの回答はファシリテーターの影響を被っているという説得力のある証拠が得られた。SzempruchとJacobson(1992)は、ファシリテーターではなく被介助者に対して提示された何かを描いた絵についての正確な説明を全く見出せなかった。Everlinら(1992)による実験では、ファシリテーター付のセッションの事前および事後テストの間に、思いもかけぬ読み書き能力を発揮した学生は現れなかったし、6〜10人のファシリテーターによる無意識の影響を示す証拠を見つけることもできなかった。同様に、Hudson (1992)とHudson, Melita, およびArnold(1993)では、FC法によって性的虐待を告発した深刻で重い精神遅滞の女性のタイプした文を査定し、FC法による回答は彼女とそのファシリテーターがヘッドフォンを通じて同一の質問を聞いたときに限って正しいことを発見している。ファシリテーターが別の質問を聞いたときは、その女性は彼女だけが聞いた質問には答えなかった。時として、ファシリテーターへの質問に対する回答が表示された。SmithとBelcher(1993)は、ファシリテーターの影響を遮断した状態で実験が行われた場合には、自閉症を持つ成人の隠された読み書き能力の証拠を見出すことに失敗した。両者を考え合わせると、これらの論文はFC法の提唱者によってなされたFC法の有効性とファシリテーターの影響力は無いとする主張の根底を揺るがすものである。

自閉症とFC法の心理学

FC法は重篤な言語能力の欠陥を有する人の手を取って、その人がタイプするのを手助けすることが要件である。タイプされた文章はしばしば伝えられるところによれば、その自閉症を抱える人のそれまでの識字能力と認知技量を上回っている。反対の結果を示す実験的な証拠にも関わらず、技法の提唱者はその無欠性を証言している。実験による証拠は別として、明白な疑問が生じた。誰かの腕を持つという行為がそれ以前には発揮されることのなかった読み書き能力や認知技量を解き放つとはいかなることなのか?なぜその人はタイプによって文章を表す際に第三者によって身体の一部に触れられていなくてはならないのか?それが有効に働くためには必要なのは何なのか?FC法の提唱者は、なぜFC法が機能するか、そしてそれを評価することがなぜ難しいかについての幾つかの説明を提示している。これらの説明を自閉症の心理について判明している事柄を考慮しつつ検証することは有益である。

自閉症を抱える人達の学習スタイル

FC法の提唱者は、自閉症を抱える人達がタイプで文章を表すためには第三者によって体の一部に触れられていることが必要であることを強調している。自閉症の人が、意思表示を行う技術を習得したり維持したりするために、身体の一部に触れらていることの必要性について支持した説は研究文献には見当たらない。デモンストレーション、モデリング、リハーサル、および刺激制御法、般化法、不随意反応操作を含む行動修正法は、自閉症の人達に教育的、職業的、社会的、そして意思疎通のための多様な技法を教えるのに有効だとされている。身体への接触は、通常段階的な指導の形で行われる。身体的な補助は、まず正しい動作を教えるために用いられ、そして次に、引き戻す際には素早く弱められる。指導課程において、進歩はしばしば、初期段階での身体への接触の必要すらなしで起こった。

情緒面への支持の必要性

 FC法の提唱者達は、FCユーザーの情緒面への支援を与えるという理由から、FCユーザーの手をファシリテーターの手で覆う形またはFCユーザーの前腕にファシリテーターが手を添える形での保持が必要であり、それなしではFCユーザーは読み書き能力を発揮することが出来ないとしている(Biklen, 1990; Biklen et al., 1992; Crossley and Remington-Gurney, 1992; Donnelan, Sabin, and Jamur, 1992.) 。さらに、提唱者達はこれらのFCユーザー達はこの情緒面への支援に対する絶え間無い欲求を持っており、これなしでは読み書き能力はほとんどもしくは全く発揮されない。

現に、自閉症を抱えた人々が他の能力を維持するためには、身体への接触という形での継続的な情緒面への支援が明白に必要だとはされていない。多様な就業助成策を採り入れた職場や差別の無いコミュニティーでの生活状況においては、自閉症の人々は多段階的な作業を学び、そしてそれらの作業を健常者の同僚と少なくとも同じぐらい早くこなしている(Smith, 1990)。これらの自閉症の人々の多くは、言葉を話せず、重い精神遅滞を有するが、複雑な仕事上の技術(Smith and Belcher, 1985)や家事の技術、あるいは特定の社会的技術を維持するために誰かに身体に触れていてもらう必要はない。加えて、貧弱な言語表現技術しか持たない自閉症の人々の中にも、補助や身体への接触無しでも書くことができる者がいるし、言語表現の術を有する自閉症の人々にも、身体に触れていてもらわずとも話せる者がいるのである。

自閉症、失行症と筋肉運動の関連

FC法の提唱者達は、手を保持することで包括的失効症の影響を抑え、患者に秘められた読み書き能力を発揮させることができたのだから、FC法は効果があると主張している(Biklen, 1990; Crossley, 1990; Crossley and Remington-Gurney, 1992)。彼等は、自閉症の人々は読み書きの技術を付随的に習得しており、FC法はその技術を解き放ったのだと主張する。このように、提唱者達は自閉症は認知的障害ではなく、意思表示の表出を妨げる筋肉運動上の障害であるとみなしている。

 このような主張は、自閉症の人々の認知と筋肉運動について知られていることと明確な対比をなしている。Allen (1992)は、自閉症児がFC法を介して伝えられるような抽象的な言語を理解することはたいへん難しいと説明している。更に彼女は、失行症は単一の筋肉運動障害ではないことと、全ての自閉症の人が誰でも何がしかの失行症を持っているという証拠はないとしている。事実、筋肉運動技能はこの集団においては伝統的に相関的な体力の領域と見なされており、自閉症の人々はしばしば、キーボード上のキーを補助無しで選ぶのに十分な筋力があることを示している(Allen, 1992)。

FC法は包括的失行症を克服するという考えは、この技法が万人に共通の般化性を有していなければならないことを示している。技法が適切に行われる限り、自閉症の人は別のファシリテーターとでも有効に意思表示できなくてはならないはずである。しかし、これは事実ではない。提唱者達でさえ、自閉症の人は一人のファシリテーターとは意思の疎通がはかれても、今度は同じ技法を用いる別のファシリテーターと組んでとなると、ファシリテーターによって結果が一貫していないことを報告している。この矛盾はやっかいで、包括的失行症はFC法によって克服できるという見解に対する異論が唱えられている。

Biklenら(1992)は、FC法は患者の調和に欠ける運動能力および不完全な運動神経、そして複雑な動作を掌る運動機能をも埋め合わせると仮定している。しかし、筋肉をうまく動かせないことは、決して失行症の必然的な結果ではない。それは、単に注意力をうまく集中できなかったり、刺激が十分でなかったりしたことによって容易に生み出されるものなのかもしれない。自閉症の人々は、たいがい以前習得した技術をいつでもうまくやりおおせるというわけではない。しばしば、これらの矛盾した行為は課題遂行に対する正の強化を導入することによって克服することができる。自閉症の人達が運動課題をこなせたりこなせなかったりするという事実は、彼等がそれに不可欠な運動能力は有しているものの、彼等が実際にそれをやろうとする意欲が、注意力と刺激が左右するのと同じく、結果を多様化させていることを示唆している

信じることの必要性

前述のごとく、FC法は特定のファシリテーターとの間でしか効果を表さない。ある子供は、一人のファシリテーターとはしきりに遣り取りを交わすのに対して、別のファシリテーターと組むと、生み出されるのはタイプされたチンプンカンプンな文章以外の何物でもない。この再現の失敗の説明として、FC法の提唱者達は、ユーザーが読み書きができるような振るまいをしている間はずっと、ファシリテーターが彼等は読み書きができると信じることが重要であると強調している(Biklen, 1990; Biklen et al., 1991)。特定のファシリテーターの失敗は、そうすると、彼等が自閉症の人の認知的能力と読み書きの能力に対する信頼を欠いていたことが原因である。

この信じることの必要性によって、自閉症の人達が相当な進歩を遂げたという他の分野での前例はない。自閉症の子供達も成人も、学校教育、社会、仕事、遊びそして生活における技術を習得し、維持している。文献は、これらの進歩はトレーナーの信念や態度には関係なく、教育的、職業的そして行動的と多様な手順が満たされる過程でなされるものであることを明らかにしている(Smith, 1990; Smith and Belcher, 1985, 1992; Smith et al., 1994; Smith and Coleman, 1986)。新人の職業指導員達が、しばしば成人の自閉症患者や精神遅滞患者が支援付就業形態で働ける能力を容易に信じようとしないことは、これらの著者達が直接経験したことである。しかし、これらの自閉症の従業員達が所定の職業的、行動的な教育活動を修了している場合には、職業指導員達が個人的に疑わしげな態度をとろうとも、彼らは相当の進歩を遂げ、それを維持するのである。

怒らせたいという欲求に阻まれた評価

FC法提唱者の何人かは、客観的な評価を達成しようとした試みが成功しなかったことにくじけなかった。自閉症の人達が、より高いレベルの自由回答形式で照合が不可能な性質のコミュニケーションに取組む場合に比べて、単純で照合しやすい質問に正しく答えられないことについて、提唱者達は自閉症の人達が踏み込まれたくない領域に介入されたことやテストされたことに憤慨しているか、あるいはそのような状況下でファシリテーターを怒らせたいと思っているからであると論じている。

こうした、怒らせたいという欲求あるいは意図的な協力の欠如は、自閉症と動機についての調査文献や実践において証明されてきたこととほぼ真っ向から対立している。行動修正の原則は、自閉症の人々に多様な活動、学校教育、そして職業的な行動を教えること(Smith, 1990)や、重篤な行動障害を訓練するために利用されてきた(Carr and Durand, 1985; Smith, 1986; Smith and Coleman, 1986)。自閉症の人々は、社会的に賞賛されたことだけで、動機付けられて来ているケースが数多くみられる。有効な強化子として作用する結果や反応が選択されれば、自閉症の人々はほとんどの場合協力するのを厭わないことが知られている。

自閉症の人々が協力しようとする動機付けがなかったとか、試験者を気に入っていなかったという理由で、FC法の評価の失敗を考慮にいれないという実験上の根拠はない。もし、ファシリテーターが読み書き能力のいかんなく発揮された文章をタイプで打ち出させようと、実のところすっかり動機付けられていたとすれば、ファシリテーターの動機が評価手続と十二分に働きあって何がしかの結果を生むことは多いにありそうに思われる。

なぜFC法は機能するように見えるのか?

周知の読み書き技術

FC法が機能するように見えるという事実は考慮されるべきである。まず、自閉症の人々の中には読み書き技術を有する者もいることを知っておくべきである(Smith and Belcher, 1993)。幾つかの事例においては、彼等の読み書き能力はその口頭での表現能力を上回っていることさえある。一方、これらの人々は補助無しで書いたりタイプしたりすることができる。介助を付されている人々の中の幾ばくかは、実は身体への接触が無くとも文章を生み出すことができるのである。これらの人達には、身体への接触は不要であるが、FC法を使うことで彼らが自主的にタイプしたことの証が得られるのである。

多くの読み書きのできない自閉症の人々が、タイプされた意味の通る文章を生み出すための補助を受けているように思われる。ファシリテーターは自閉症の人々に影響を与えていることを否定し、意思表示はその自閉症の人々によって為されたとされている。明白な疑問が生じる。何が起こっているのか?誰が、何をどのように学んでいるのか?

間違いの修正手順

FC法の提唱者達は、ファシリテーターは意思表示者のタイプ打ちの回答に影響を与えてはならないと強調している(Biklen, 1990; Crossley and Remington-Gurney, 1992; Donnelan et al., 1992)。しかし、FC法の論文に埋め込まれているのは、もし利用されればタイプされた文章に必然的にとって代わりかねない技法である。ファシリテーター達は、間違いを修正する手順を用いることを奨励されている(Biklen et al., 1991; Biklen and Schubert, 1991)。間違いを修正する手順は、「明らかに誤った選択から生徒の手を引き戻すことによって、生徒がミスを犯さないよう手伝う」ことが要件となっている。さらに、ファシリテーター達は時として意思表示者が正しい鍵盤を叩くよう口頭でヒントを与えることもある。CrossleyとRemington-Gurney (1992)は、意思表示者が失敗を犯さないことが重要であると主張した。そして、ファシリテーターは失敗を避け、成功を期した慎重な手段をこうじるよう提案している。これらの手段は、成功を確実にする簡単な一連の課業からなり、次いでより複雑な意思表示へと徐々に進展して行く。ファシリテーター達は、意思表示者が案の定意思の伝達に失敗したときにはいつでも、より簡単な一連の課業に戻るよう奨励されている。これは意思表示に関わっている張本人達には、ファシリテーターにとって満足な意思表示がなされるまで容赦しなくてよいという体験である。彼等は、反復して同一あるいは類似の質問をし、強制選択形式の質問を少なくし、そして正しい答が為されるまで質問し続けることができる。一連の課業は、たとえば色の配列の中から一つを指し示すなどのように選択が限定されているもので、回答を何度か遣り直すことができれば必ず正答が保証されているものである。

もしファシリテーターが意思表示に影響を与えているなら、それは間違いを修正する過程においてであろうと思われる。現実に、ファシリテーター達はしばしば彼等がユーザーに影響を与えていることを自覚していないと述べているところから、それはおそらく何気なくなされているのである。FC法の手順は、間違いを修正する過程でファシリテーターが学習していることと自閉症の人々が学んでいることの対比を検討する形で行うことが可能である。

FC法においては、二つの学習過程が影響を及ぼしあっているように思われる。自閉症の人は、ファシリテーターが発する合図をずっと鋭く意識した状態でいることを、一方でファシリテーターがこれらの同じ合図についてますます意識しなくなる術を身につけている間に学ぶのである。まず、前者について考えてみよう。自閉症の人はその手をファシリテーターに取られ、そしてその手はキーボードか文字盤に向けられることとなる。手を取られること、そして文字を押すことに対する強化子は、ほめ言葉、コメント、笑顔の形で、また熱狂的な反応といった別の形で与えられる。間違いの修正および失行症の克服という美名の下での、ファシリテーターからの後方への抵抗は、手が後に引き戻されるうえ、正しい鍵盤の上にくるまで自由にならないことから、手が前方の誤った鍵盤に向けて動こうとするのを防ぐことになる。圧迫感からの解放が、自閉症の人に指を素早く動かし鍵盤を打つ合図となる。圧迫感が消えたとき、手がその上にあった鍵盤を打てばいいのである。長い間には、手を引き戻す際と素早く指を解放する際の圧迫の程度の差はだんだん少なくなり、そしてついにはファシリテーターに知覚できない程度の微細なものになってくる。しかしながら、ファシリテーター側の圧迫感の変化についての自覚の欠如を自閉症の人に転嫁すべきではない。自閉症の人は、ことの成り行きに神経を張り詰めたままの状態でいる。なぜなら、このような敏感さがずっと正の強化子、すなわちファシリテーターの肯定的で愛想の良い反応によって強化されて来たからである。

ファシリテーターが学習したことこそ、今や検証されるべきである。まず答えるべき質問は、さてファシリテーターはこれらの微妙な合図を与えることを学んでいるのかである。接触の加減によって合図を与える行為は、ユーザーの指が素早く動いていわゆる正しいキーを指すことによって報われる。ファシリテーターにとって意味の通る言葉が現れてくるのを目の当たりにすることは、大いなる発奮材料に違いない。

ニ番目の質問は、ファシリテーター達はどのようにしてあれほど無自覚でいられるのかということである。ファシリテーターの影響が明らかにされたとき、ファシリテーター達は自身の影響力を自覚していなかったと報告されている(Biklen, 1990; Jacobson et al., in press; Wheeler et al., 1993)。自閉症の人が、接触の加減の違いにずっと気をつけていることのお返しに強化子を受けとっているとは言え、ファシリテーターは無自覚であり続けることで見返りを受けていることに留意すべきである。同僚の熱狂、親や他の介護従事者の感謝、そしてある人を自閉症から解き放ったという確固たる認識は、無自覚であり続ける限り、圧迫感の微妙な変化で合図を与える見返りとしてファシリテーターが手にいれることのできる強化子の幾つかの例である。

倫理的な問題

他人の手を取ってキーボードに導き、文章をタイプさせることは相当な倫理的な危険性を伴う。これらの危険性は、支援者が自閉症の人々の尊厳や自己決定、信望を勝ち得るべく運動してきた長い間の努力を脅かすものである。

選択権と支配力

倫理的な問題の明らかな領域は、選択権と支配力である。自閉症の人々は自身に関わる選択をFC法に依って行っている。選択権は、昼食に何を食べるかといった明らかに日常的なレベルにおいて生じる。選択権は、どんな仕事をするか、どんな活動に参加するか、そして教育プログラムの全般を組みたてるといったより重要なレベルでも生じる。自閉症の人々は、たとえそれがランチに何を食べるかといった日常レベルのことであれ、彼等の人生設計に関わる全ての側面を考慮に入れる権利を有する。もし彼等がこうした選択権を有しないのであれば、ファシリテーターの影響が相当疑わしいと研究が示しているような手で手を覆ったタイプ技法によって隠されるのではなく、選択権の欠如については周知されなければならない(Cummins and Prior, 1992; Hudson et al., 1993; Jacobson et al., in press; Wheeler et al., 1993)。倫理的に、ある個人に代わって選択権が行使され、そのような支配力が認知されていないとき、危険な状態が出来する。

インフォームド・コンセント

自閉症の人達またはその保護者は、FC法のようにリスクを内在する方法に関与する場合には、インフォームド・コンセントを備える権利が与えられるべきである。しかし、同意はだいたいFC法の手順そのものを介して自閉症の人によって為される。ファシリテーターの影響力が行使されたとすれば、自閉症の人は現実的には同意を与えていないことになる。保護者は、概ね技法の使用について当初の同意を与える。しかし、技法に関する公表されているデータの不足と個人レベルでの評価規準の欠如を所与のものとすれば、そのような同意は影響力を有する人から及ぼされるであろう危険の見地からは、十分に状況が説明し尽くされているとは考え難い。

告発

FC法から派生した最も当惑する問題は、職員や家族に対する虐待の告発であろう。重篤な障害を持つ子供達や成人が、このような告発の後彼らの家族からずっと引き離され、刑事告訴が提起されることとなった事例も見られる。当然、FC法を介しての告発は子供の保護権をめぐっても為された。FC法が実験に基づいた手法であると仮定すると、この方法を用いて刑事告発をすることに派生する倫理的な関連問題は甚大で憂慮すべきものである。

学習計画の問題

子供や成人が、FC法を介したテストによってその認知レベルの再評価がなされ、精神遅滞との診断を受けていたものが、このテストの結果によって覆された。学習計画は、以後まるで彼等には障害が無いかのごとくに続行された。障害を持つ人が適切な学習計画や教育活動、各種のセラピーを、実のところはその障害を見かけ上隠すだけにすぎないFC法の結果のせいで享受できないとしたら、倫理的な権利の侵害が起こりうる。

自閉症と自閉症を持つ人の根絶

FC法によって生み出された大いなる興奮は、自閉症の人々は、介助によって創り出された文章で明らかにされたとおり、実は精神遅滞ではないという認識を中心に展開された。提唱者達は、自閉症の外見の下に完全な認知能力を有する人格が存在すると主張した。

この大風呂敷は大方、障害を持つ人々を誰であれ何であれ受け入れることに対する根本部分の頑冥さは、家族や専門家、介護従事者側にあることを示唆している。これらの人々を、何かが失われた過程に気付かれず嘆かれることもないままに、障害も無く、完全に機能する人間の部類にしたいという欲求はとても大きい。FC法は、自閉症の人をファシリテーターのイメージに創りかえることによって、障害そのものが無かったとするやり方で、個人の価値を損なうものである。FC法は、障害を生じさせている自閉症の局面を短絡(事柄の本質を無視して刺激と反応、問と答を簡単に結びつけてしまうこと)しようと試みたが、そうするうちに、明らかになって来たことは自閉症の束縛を解いたのはユーザー個人ではなく、むしろ特質、知能指数の程度、興味、そしてファシリテーターの世界観であるという極めて実質的な可能性がある。提唱者達と技法の利用者達は、技法の正当性を科学的に裏づけられた手法によって十分に立証することができなかった挙句に、FC法の利用を支持しない証拠は退けてしまった。これらの行動は、もし自閉症を伴った人格がFC法を実施している過程で消えうせてしまえば、不安のタネはもはや存在しなくなるということであり、人々がどれほど自閉症を根絶したいと切望しているかが表れている。この可能性は、FC法を利用するうえで、生まれながらに備わっている個人の倫理観に対するおそらくは最も強力な突破口である。

専門家の責任と道義的義務

FC法の提唱者達の中には、小児科医や心理学者、特殊教育家およびスピーチや言語のセラピストなどの専門家が含まれていた。FC法を擁護する専門家達は、彼らの理論上の拠所としての「自閉症という非凡な才能」神話、あるいはどれ一つとして立証されていない前提に頼っている。FC法はそれ自体の実験的な裏付けを欠くだけでなく、自閉症、コミュニケーションおよび学習に関する長年に亘る調査の主要部分と矛盾している。この技法に関わる専門家は、実験的根拠の裏付けを欠くいずれかの技法に対して、かつて与えられた信頼以上の信頼をこの技法に授けてはならないという責任と道義的義務を有する。であるから、その使用は実験的に検証されるべきであり、加えて常習的な利用者は、FC法が臨床場面での使用に耐え得ることを証明するに足る十分なデータが生じるまでの間は、その使用を実験的な実施手順に限るべきである。さもなければ、自閉症の人々やその家族、そして介護従事者を危険にさらすことになる。

その未来

最も分別ある措置は、誰にも他人の手を取ってそれでタイプすることを禁じることに違いない。ほとんどの平均的知性を備えた成人は次のような仮定に基づく質問をされたなら決して同意はすまい。「もし、あなたが知的な面で障害を負い、損傷や障害の結果話したり書いたりできなくなったとします。そして、あなたが本当にタイピングで意思表示できるとの証拠はありません。そんな状況で、あなたは誰かがあなたの手を取ってタイプするのを補助するという行為に同意しますか。」更に、そのような方法であなたの子供や不動産、あるいは将来についての決定を下したいと思いますか?

そのような非難は、自閉症についての見直しを迫り、障害を持つ人々をその制約から解放したとされる技法の提唱者達の間では評判が良くないことは明らかであろう。妥協的な解決法は、FC法を、実験結果に裏付けられた技法というステータスから退け、正当な科学的調査を強制的に実施することに違いない。

FC法の再現性、般化性、ファシリテーターの影響、そして有効性については、科学的な厳密さの基本的尺度に適った調査手順によって検証される必要がある。さらに、この技法の検証がなされる対照群は、IQレベル、診断、そしてそれまでに見られた読み書き能力のレベルに基づいて、慎重にその範囲を定められなければならない。最後に、個人レベルに関わる技法の正当性を立証する上で、条件のある程度備わった方法が開発され、実行されなければならない。FC法については、広範な対照群についての実証がなされ、次いでその使用に先駆けて個々についての有効性が証明される必要がある。この意味から、臨床的な回復よりも科学的調査に主眼が置かれるべきである。さもなければ、ファシリテーターが技法の経験を積んでプロとしての主体性が形成されるにつれ、彼らが奉仕しようとする個人の人格的同一性を徐々に蝕んでしまうこととなる。

謝辞

我々は、Douglas Wheelerの論文の草稿のレビューと評論に謝意を表するものである。

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原文: Facilitated Communication and Autism Separating Fact from Fiction ( Community Services for Autistic Adults and Children)
翻訳:緑の手の名無し
初出サイト:Facilitated Communication と Doman Method 海外文献翻訳資料集
掲載者:「奇跡の詩人」検証文献翻訳班@2ちゃんねる
更新履歴:2002年6月27日 試験公開にて初出

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