スラバヤからの脱出
 

19985月、新たに設立したマレーシア工場の立ち上げも大詰に入っていた。会社登記、資本金払込、工場建設、就労許可、製造ライセンスの取得、現地幹部採用、等が完了。プロジェクトメンバーが出張ベースで仮事務所に勤務しており、私は本社からアカウントアドバイザーを招き、アドミニストレーション系のセットアップ作業を進めていた。

513、既に稼動しているインドネシアのスラバヤ工場へ視察に出かけることにした。急遽往路分の航空券を手配、復路はスラバヤ到着後ブッキングする予定であった。スラバヤ到着後、現地駐在員が開口一番「まずいときに来たね。」 昨日ジャカルタでデモ隊と治安部隊が衝突。軍が民衆に銃を向け、学生六人が死亡したのだ。 スハルト大統領への退陣要求は高まり、インドネシアの民主化闘争は重大局面を迎えていた。呑気な私は1997年の総選挙でもおなじみの騒動なので、あまり気にしていなかった。とにかく翌日会社から帰りのフライトを確保することにした。

514、スラバヤ工場に出勤するとすでに手遅れだった。スラバヤ発の全てのフライトは2週間先までフルブックでキャンセル待ち状態である。社内の雰囲気で異常事態にあることがすぐ解った。日系企業同士であわただしい連絡が飛び交っている。520日の「国民覚醒の日」までにとんでもないことが起こると言うことだ。スハルト大統領は外遊を打ち切り急遽帰国した。その日の夜からシャングリラホテルの日本料理店はスラバヤの日系企業が対策会議に集まるようになった。駐在員はもちろん、ジャカルタからの出張者、日本からの出張者が集まり情報交換をするようになった。対応は様々である。装置産業を預かるエンジニアは「わしゃ残る!」と言い、保険会社は「すぐ脱出しましょう。」と勧める。

515、出勤後に治安状況は急速に悪化した。ジャワ島各地で反政府暴動が発生し、500名を超える死者が出た。特に華人商店は略奪、破壊の対象になり、虐殺暴行され凄惨な映像がインターネットで飛び交っていた。会社から帰り道の街でも暴動が起こっていると言う情報があり、3時間かけて迂回して市内に戻った。また反政府デモ学生への国軍の暴行がメディアに取り上げられ、国内はもとより国際世論は急速に「スハルト退陣」に傾倒していった。そして外国人のインドネシア脱出が活発になった。

516、この日は出勤せずホテルで待機。相変わらずフライト確保の連絡はない。華僑が買い占めているといううわさである。帰国便の予約を済ませてあったアカウントアドバイザーは「悪いね」と言い、ジャカルタへ向かった。シャングリラホテルで対策会議ディナーは連日の続く。しかし出国できる見通しは立たない。「520日の国民覚醒の日までには脱出しないと・・・。」 皆あせっていた。

517、在スラバヤ大使館の緊急事態対策本部から危険度4(家族等退避勧告)が発令された。午後7時にホテルの部屋に帰ると日本領事館から避難勧告書が届いていた。翌518日正午にメルキュールホテルをバスで出発、6時間かけてデンパサール対岸の港まで行き、そこから海路バリ島へ渡る。道中は警察の車両が付き添うという。デンパサールからは日航チャーター機が待機している。そして「これを最後に一切のアレンジは出来ない。」とのことであった。

対策会議ディナーの緊張はこの日がピークであった。大使館アレンジのバスに乗るかどうかである。道中は暴動が起こっている街を通過する。皆、警察の警備を信用していない。華人と間違われ群集に襲撃されれば軍隊とて手がつけられない。ただし520日にスラバヤに留まる事はもっと危険である。ホテルとて安全と言う保証はない。ほかに手段はない。現地駐在員から「出張者はバスに乗ってくれ。」と頼まれる。その日は朝まで飲み明かした。

518、朝7時にホテルの電話が鳴った。電話の主は日系電気設備工事会社の人で、連夜の対策会議メンバーである。「フライトが確保できました、すぐに発てますか? それと米ドルで500のキャッシュ持ってます?」 フライトは華人から譲り受けたそうだ。キャッシュはなかったが彼が立て替えてくれた。彼はスラバヤ在住20年超、現地で幼女を引き受けインドネシアに骨を埋めるそうだ。彼は空港で「(インドネシアに来た)お客さんから先に避難してもらわないとね。」と笑った。感謝に言葉もなかった。

フライトは「ボーラク」というインドネシア航空会社のもので、シンガポールまでの片道チケットであった。米ドル500は法外な料金である。華人はこんな時まで金儲けをするのか。フルブッキングのはずである機内はガラガラであった。そしてペナンに帰った521日、スハルト大統領退陣のニュースが報じられた。

2001914日)

ホーム極楽駐在生活>スラバヤからの脱出

Hosted by www.Geocities.ws

1