追突され1週間の入院
 

「恐怖の瞬間」

1998612日、マレーシア工場の立ち上げも大詰めに入っており、私はホテルから仮事務所にレンタカーで通う生活を送っていた。ある日ホテルにフロッピーディスクを忘れたことに気づき、取りに戻ったときに悲劇は起こった。

ホテルを出た私は、仮事務所までの近道であるバーカアラン工業団地を走っていた。左折するためにスピードを落としルームミラーを見ると、ボルボ社製大型トレーラーが私の車の10メートル後方を「あってはならない」スピードで走っていることに気が付いた。時速50Kmは出ていたはずであり、到底停車や車線変更は不可能なスピードである。左折のためにブレーキを踏み込んだ状態なので、自力で回避することも不可能である。私は「これじゃ死んじゃうじゃないか」と絶望した。本能的に前方を確認すると、5m前に乗用車が詰まっており逃げ場は無い。一瞬の出来事であったが多くのことを考えた。たぶん無意識のうちにブレーキを踏みしめ、ステアリングを握り締め、肘に力をこめていたはずである。

「ガシャーン!」という音がして、一瞬焦げ臭い匂いを意識する。ガラスの破片が顔面を叩き、右脇腹に激痛が走った。不意を付かれたのではない為、衝撃に対する構えは出来ていたはずであるが、その分恐怖を味わうことになる。踏ん張れる範囲を超えた衝撃は自分の体に起こった変化を見極める余裕は無い。意識が残っており、コクピット空間が保たれていることが解り、鉄くずの中で血まみれの肉の塊にならないで済んだ事を確認して初めてダメージの程度を恐る恐る確認し始めるものだ。

何メートル弾き飛ばされたのか解らない。車はゆっくり動いてスコール対応である熱帯特有の深いU字構に向って落ちてゆく。しかし衝撃のショックと脇腹の激痛でブレーキペダルに足を乗せることすら出来ない。「痛てぇぇぇーっ。」と唸りながら黙ってU字構に転落してゆく車を成すすべもなく眺め、やがて2回目の軽い衝撃で車は止まった。

車はU字構に突っ込む形で前方に30度くらい傾斜して停まっている。車はエアバッグ装備車ではなかったが、あっても役には立たなかっただろう。鞭打ち症は確実だろう、首が動かず周りの状況を確認することは出来ない。出血はないようだ。脇腹の痛みが特に激しく、腰も動かないため身動きが取れず、自力で車外に脱出する事は不可能であった。またショック状態で正常な判断が出来ず、気力もかなり萎えていた様だ。もし火災が発生していたら間違えなく焼死だろう。

10分くらい経過したように感じた。野次馬が集まってきて私を車外に救出すべく、運転席側のドアロックを開けろと怒鳴っている様だ。ドアが開かないのはロックしたからではなく、追突の衝撃で変形したからである。やがてあきらめたのか助手席側のドアを開けて「こっちへ来い」といっている。私は「動けない」と弱々しく答え、シートベルトをはずすのが精一杯だった。助手席からインド人、後部座席から中国人が乗り込んできて私を抱え揚げ、車外の草むらに連れ出した。「寝ていろ」というが腰が曲がらない。座った状態で「Call me Ambulance. Take me to Hospital.」と問いかけ続けたが連絡しているそぶりは無い。野次馬のひとりの携帯電話を借り、会社に電話して助けを求める。ついでに知り合いの日本人にも電話する。スタッフが私の元へ駆けつけたの15分後であった。

 

追突され大破したプロトンプラダナ

トレーラーのドライバーは運転席
に座ったままただ呆然としていた。

事故の様子を伝える地元中国紙
     

 

「お粗末な救急医療」

秘書と総務マネージャーが現場に到着したとき、私は野次馬の携帯で加藤氏(仮称)と話していた。総務マネージャーは軍人上がりだが気が弱いのか、あるいはたいした事故でないと思っているのか、救急車を呼ぶでも無し野次馬と話している。なんて奴だ。

加藤氏は携帯で私をメトロへ運ぶように指示した。力持ちの総務マネージャーは私を子供のように抱え上げ、彼の車の後部座席へ押し込んだ。もし意識がなければ医療設備の無い州立病院に運ばれ、ろくな治療も受けられずに事切れる事もある。スンガイペタニで最も大きい病院メトロに到着すると玄関脇には救急車が停まっており、インド人運転手が昼寝している。それは金を払った人間を迎えに行くタクシーであり、「救急用」「救命用」ではない。

加藤氏が駆けつけ医師との折衝、日本への連絡に奔走している。処置室に運び込まれた私はベッドでの上でエビの様に腰を曲げて唸っていた。しかし待てど暮らせど治療が始まる気配は無い。強すぎる冷房で凍えてきた。やがて加藤氏がマレー人医師と激しく口論を始めた。

加藤氏 「急患が待ってるんだ、外科医をすぐに呼び戻せ!」
医師 「彼は今プレイ(金曜礼拝)だ、2時半にならないと戻れない。」
加藤氏 「お前等(ムスリム)は自分の息子が死にそうでも礼拝に行くのか?」
医師 「・・・・。」
加藤氏 「彼を他の病院に移す。いいな!」
医師 「今動かしてなんかあっても私は責任もてない。」
加藤氏 「ネバマイン、救急車を手配しろ。」

加藤氏はメトロの医療費をキャッシュで払い、救急車で私をBSC(バガン・スペシャリスト・センター)へ運んだ。BSCはバターワースで最も大きな救急病院である。

私は頭部や頚椎にダメージがあることを恐れ、頭部MRT検査を要求した。撮影が終り映像を前に華人医師から説明を受ける。断層映像が頭部を10センチくらい通過したところで、左脳中央に親指大の灰色の影がくっきりと見える。医師が身を乗り出して顔をしかめた、加藤氏がそっけなく言う「影がありまっせ。」 3人は凍りつきそれ以降は誰も何も言わなくり、長い時が過ぎた。医師は唸りながら断層を5ミリほど下部に移動した。すると右脳にも同様の灰色の影が浮かび上がった。どうやら首が傾いていたせいで小脳の出現にタイムラグがあった様である。

検査が終わった私は病室に移された。事故からすでに6時間近く経過していたが、腰も首も動かない。右脇腹の肋骨が3本骨折していることは確認され、体中に痛みが残っている。私は後遺症が残ることはすでに覚悟していたが、とにかく生きている。明日になれば足が動かなくなっているかもしれないが、とにかく眠る事だ思った。

そしてベッドの上で何気なく加害者のことを思い浮かべる。二十歳そこそこのマレー人ドライバーは「ブレーキが効かなかった」と言っていたそうだ。ただし多くの野次馬が衝突後のブレーキ跡をみている。状況は誰が見てもよそ見運転か居眠り運転である。私が最も嫌う死に方は鮫のような下等動物に食い殺される事だ。年収の10倍以上違う頭の悪いマレー人の殺されかけた事を思うと、突然激しい怒りにめまいを覚えた。病院を飛び出しハンマーで殴り殺したい衝動に駆られる。ただし今の私は起きることはおろか、ハンマーを振り回す力さえない。歩けるようになるまで1週間の入院を要した。

 

「補償はあてに出来ない」

事故から約2週間が経過し、工場立ち上げ業務に戻った私は仕事の合間を縫って、加害者と補償交渉を開始した。当地では現場検証などやらない。今回のように治療のため出頭できないケースは例外であるが、原則として事故発生から24時間以内に双方が警察へ出頭し、好き勝手にポリスレポートを作成する。それを元に双方の保険会社アジャスターが補償交渉を開始する。今回のような追突事故の場合は過失責任は100%加害者になるが、過失割合が微妙でありお互いの言い分が食い違っていれば、法廷で泥沼の闘争となり、判決が出るまで5年以上かかる事も珍しくない。

判決が出ても「金持ってないから」といって払わない奴も多い。ある日本人は停車中にバイクに側面衝突されドアがべっこりへこんだ。そこにやってきたポリス「こいつは怪我をしているから治療代を払ってやれ。」といわれた。社用車は2度にわたりバイクに追突されたが「金が払えない」との理由で修理代が回収できないでいる。「金が無いならバイクを売って払わせろ」とローカルスタッフに怒鳴っても貧乏人同士マレー人同士かばいあって金持ちからたかろうとしている。

物損事故に関してはレンタカー会社がポリスレポートを元に廃車になった車の補償を加害者に求める。一方の人身事故、すなわち私の医療費は全て海外旅行傷害保険でカバーされた。今のところ加害者の懐は一切痛んでいない。日本のように加害者が菓子折り持って謝罪に来る事は期待してないが、これには私は納得できなかった。マレーシアはイスラムの国である。目には目をで相手にも相応の肉体的、精神的、経済的苦痛を味わってもらうべきである。私は弁護士を通じ、治療費実費と休業補償、それに治療のための日本への帰国旅費の合計RM30,000の請求書を作成した。

相手の会社(保険会社含む)は素直に請求に応じる気配は無く、総務担当は2度にわたり替わった。マレーシアでは会社経営者個人を追い詰めることは法律上難しい。多くの華人オーナーは会社を複数持っており、会社をたたんで登記を抹消すれば民事補償責任は消滅する。またマレーシアでは金を払わないことが美徳であり、払ったら負けである。欠陥商品を買っても「レシートを見せろ、コピーしかない?それじゃ駄目だ」と拒否される。補償を手にするには気の遠くなるような手間がかかる。命の値段や手間の安い国ならではである。

そして事故から2年が経過した。私は赴任期間中に補償交渉が成立するとは思っていない。加害者への憎しみはあるが、ここはアジアである。神経質になっていては身が持たない。街では相変わらず無謀運転が横行し、整備不良車で溢れている。あのマレー人運転手は今でもよそ見しながらトレーラーを転がしているだろう。今回の事故を教訓として自力で自分と家族の身を守ることを考える事にした。

2001914日)

ホーム極楽駐在生活追突され1週間の入院

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