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放浪記

【アムトラック周遊編】>>>

Chapter 1 北米編 @ 【西海岸北上編】


INDEX
Aug 30 『ローラーブレイドと英会話学校』
   ▲
Aug 6 『さらに北へ』
   △
Aug 4 『サン・フランシスコでの40日間』
   ▲
Jun 21 『グレイ・ハウンド バスでシスコへ』
   △
Jun 20 『ハロー、アメリカ!』
   ▲
Jun 20 『さらば、日本!』



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Aug 30 1999 [Vancouver] British Colombia, Canada Stayed Vancouver BPH

『ローラーブレイドと英会話学校』
シアトルのユニオンステイションから乗ったバスはカナダ国境で一度30分ほどのあいだ入国許可のために下車させられたが夕方にはヴァンクーヴァーのバスディーポに到着した。 ディーポのフリーフォンはカナダでも同じようにありホッとした。一番安いホステルに電話すると屋根にサーフボードを看板にしたオンボロビートルが迎えに来た。長髪のヒッピーみたいなオヤジが運転していた。ぼくを乗せるとヴァンクーヴァーの街を走ってダウンタウンの近くで降ろされた。そのホステルは交差点にある建物の二階にあり、古ぼけた木造の階段を登ると廊下に机をおいてレセプションにしていた。一泊分の金を払い、ドミのベッドを一つもらった。 ずいぶんなオンボロホステルだけどこれで滞在している連中が面白くなかったらすぐにでも出て行こうと思った。

実際そこでは数人の日本人と韓国人たちと仲良くなったが、ほんの10分留守にしたあいだに100ドル盗まれたのをきっかけに別のホステルに移った。その後もたまに遊びには行ったけど嫌な印象が残ってしまった。
ユーコンを自分のカヤックで下ってきた、という北海道の男の子はクマちゃんと呼ばれて慕われた。アラスカから歩いて南北アメリカ大陸を縦断しようとしていて途中トラブルで携行品を全て失った子はパスポートの再申請のためにヴァンクーヴァーのそのホステルに泊っていた。 彼は徒歩で北海道一周、本州一周、四国一周をしていて今度はアメリカに挑みに来ていた。

彼らが出てゆく前夜にそこで仲良くなった韓国人のグループとお別れパーティーをした。
ぼくは他のホステルにいたけどお呼びがかかって遊びにいった。体調がすぐれなかったのだけど韓国の伝承の方法だという指の爪の生え際に針を刺して毒血を出す治療をしてくれた。頭痛よりもその治療のほうが痛かったのでなんとなく頭痛が治まったような気もした。何よりも心配してくれた彼らの気持ちが嬉しかった。
互いの料理をテーブルに並べて皆拙い英語でワイワイと夜遅くまで盛り上がった。
翌日小さなビートルに大きなインフレイト式のカヌーなどと共に皆の大きなバックパックを詰め込み、余った隙間に大きなガタイを折りたたむように男三人が乗り込み去っていく光景は腹がよじれるほどおかしく、そして彼らと別れるのが残念で少し寂しかった。

語学留学で来ていた小さな韓国の女の子はソウルに帰って大学卒業を目指すといった。
もう一人の女性は韓国の銀行に数年勤めてお金を貯め、今は世界旅行を楽しんでいるという。この後はアフリカへも行くという。
韓国の男の子三人組みはヴァンクーヴァーで英語を勉強しながら仕事も探している。

みんな若さと情熱に溢れていた。ぼくも彼らよりずっと年が離れているということを忘れて一緒に遊んだ。短いあいだだったけど良い思い出ができた。
住所やメールアドレスを交換したので今後も連絡を取っていきたい。

ヴァンクーヴァーにはダウンタウンの先にスタンレイ・パークという大きな公園があり、半島状になったその公園の外周がバイク、ジョギングに適したコースになっている。そして何よりもローラー・ブレイドにもってこいの公園になっていることを知ったぼくは市街観光もし尽くした頃からそれを探し出した。市内のスポーツショップで中古のブレイドを見つけてゲットすると来る日も来る日もそれを履いてスタンレイ・パークで一日を過ごした。
ヴァンクーヴァーにいる間に一体何周しただろうか。
ホッケーやフィギュア、スラロームなんかをやっている上手い人たちに憧れながら毎日滑ったけど結局最後まで小さな子供でも楽しんで滑れるくらいの下り坂に対する恐怖心を克服することができなかったな。

ローラー・ブレイドに飽きることは決してなかったけどそれしかしなかったわけでもない。
憧れのシーカヤックにも乗ってスタンレイ・パークの沖に出たこともあった。
海面に近いシーカヤックは少し沖に漕ぎ出すだけでものすごく遠くまで来たような錯覚がある。すると少し孤独になったり、客観的になったり、恐ろしくなったりして面白いものだ。
波のほとんどない静かな海面は全くの初心者のぼくでも漕げばスイと進むので楽しい。本気で漕ぐとどんどん進んでかえって恐くなったので戻れる体力と返却時間のあるうちに帰ってきた。

競馬場にも出かけた。誰もローラーブレイドなんかやっていない登り下りのある車だらけの幹線道路を走っていった。かなり遠くて着いたときにはもう5レース目だった。そしてベッティングの仕方などを理解するのにまた時間がかかって結局5レースくらいしかできなかったけど、2回ほど当てて収支をプラスにして帰ることができたので帰りのブレイドで蹴る足取りは軽かった。

途中から引っ越したバックパッカーズホステルは結構奇麗だった。ビリヤードのプールがあったのでたまにやったけどあまり友達は作れなかった。
キッチンも奇麗で使いやすかったけど大した物は作らなかった。
ここにいる間にブリーチしてほとんど金髪になった。
おしゃべりで気の良い黒人と知り合い、生まれて始めてマリファナを吸わせてもらった。
ホステルは禁止なので階段を降りた路上で三人で回して吸った。なんじゃこりゃ? 結構美味いじゃん!と思った。階段を登ってラウンジのソファに座るとさっきまで星空が見えていたはずなのに急にザーという音がしてどしゃ降りになったように感じた。
ブラザーに『Wow! It's raining!』というと雨なんか降ってないよ、大丈夫か?というので不思議に思って考えていたら、普段は気にもならないシーリングファンの回転する音がものすごくよく聞こえていることに気がついた。それがザーと鳴っているように感じたのだった。

気分も良く、自分でも目がトロンとして笑っているのがわかる。フロントの可愛いフランス人の娘を見ると気持ち悪がられるかと思ったら、逆に嬉しそうにウィンクなんかしてくれた。
前から気になってる可愛い二人組みのうちの一人だけど困ったことに全く英語が出てこなくなってしまった。しょうがないから彼女を見つめながらずーと笑っていた。
彼女に気持ち悪がられる前に自分自身が気持ち悪くなったので、まだ気分が良いうちにベッドにもぐりこんだ。

イングリッシュスクールのチラシを古本屋で見つけた。日本でも聞いたことのある、というより日本の英会話学校、あのGEOSだ。ホステルから歩いて二、三分という好立地だ。高いビルの最上階に近いところにあり、エレベイターで上がって訪ねると日本人のスタッフがいた。アキコという女性でレッスンの風景を見学させてくれた。
数日考えてから1,200カナダドルを払って4週間のレッスンとホームステイを申し込んだ。 考えた末にぼくは一度ヴァンクーヴァーを離れてアメリカをアムトラックで旅してから日本へ帰り、またヴァンクーヴァーに戻ってからレッスンに参加することにしたのだ。

約一ヶ月を過ごしたヴァンクーヴァーを離れるのは寂しかったけど、久しぶりに目標のある旅に出られるのは嬉しかった。
ぼくはシアトル行きの列車に飛び乗った。ウェスト・コーストのシーサイドを走る列車から見る夕焼けは絵画のように美しかった。




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Aug 6 1999 [Siattle] Washington,US

『さらに北へ』

≪Sacramento≫
40日間を過ごしたサン・フランシスコをはなれたぼくは次の目的地も定めずに西海岸を北上するバスに乗った。
始めに乗ったバスはシスコからほどちかい街のサクラメント行きで、ぼくはバスがそこへ着いたとき直感的に(次の街へ行こう)と思った。
サクラメントでバスを乗り換えるときに慌ててしまいうっかりカメラを落とし壊してしまった。それは日本で買って一年くらい使ったAPSカメラで、ぼくのような素人でも奇麗な絵がとれるので気に入っていた、それだけに残念だった。しかも乗り換えたバスは当分出発しないことがわかって慌てたことを後悔した。

という理由で時間が余りその美しい河畔をぶらり散歩したが、路面電車のものか、昔の鉄道の名残かストリートに軌道が埋まっているのを見て(路面電車があったら良かったのになあ。)と電車好きなぼくは思った。ちょうど良い気分転換となった乗り換え時間を利用した散歩からバス・ディーポへと戻り今度はポートランド行きのバスに乗った。

≪Portland≫
バスの中では度々目が覚めて寝不足のままのぼくがポートランドに着いたのはまだ薄暗い未明だった。ディーポのまずいハンバーガーコンボを食って時間を潰したが、それでもホステルの受け付けがオープンするまではまだかなりの時間があった。
日の出を待ち荷物を引きずって街へ出た。大きな橋を渡って海が見えるかと思ったがそれが海なのか河なのかは定かでない。ポートランドというからには海の港を想像させるのだけど。
河の上流には幾つもの橋がかかっていたので帰りは違う橋を渡ってダウンタウンへ戻った。
インフォメーションセンターを見つけるのに少してこずったがそこで市内に二つある International Youth Hostel の所在を確認できた。
フリーメイソンの立派なビルの前にある奇麗な公園を歩いていると突然便意を催して公衆トイレ に飛び込んだが個室のドアがなくて焦ったけれど、もはやそこで用を足す以外に選択肢はなかったので角度によっては通りからも見えるその便座に腰掛けて急いですませた。
おそらく安全性の為、故意にドアをつけていないのだろうけれど、中国に行く前にしかもアメリカの大都市の真ん中でこんな体験をするとは思ってもみなかった。

そのすぐそばに図書館を見つけて飛び込みインターネットを利用した。ここでも申し込みをすれば無料でコンピューターを使用することができた。もしかしたらアメリカはどこへ行っても図書館でインターネットができるのかもしれない、と考えて少し嬉しくなった。

当初この旅にはノートパソコンを持ってでるつもりだったけれど日本を出る直前に売却予定だった車を事故でオシャカにしてしまったのでそれを買うのをあきらめたのだ。かといってぼくにとってのライフラインといってもよい日本の友人との連絡のためにもインターネットの利用は必要不可欠だし、この旅記の更新もできたらと思うようになった。

図書館は古く重厚なデザインの建物ではあるけれどとても明るく清潔で内部は全てが新しくピカピカに見えた。多くの老若男女が来館していて本を読んだり借り出したりコンピューターを使ったりしていて公に開かれた学び舎としては理想的でとてもよい雰囲気だ。図書館ひとつでこの街の、この州の、そしてこのアメリカという国の魅力を十分に見せつけられる気がする。

図書館をでて川沿いを歩いていくと何やら人だかりがしていた。なにかの催し物で出店がたくさんでていたのでしばらくそこで店をひやかしたり飲んだり食べたりして時間を過ごしていたがとっくに昼を過ぎているのにいまだに宿をとっていないことを思い出してとりあえずホステルに向かった。インフォメーションセンターで手に入れた地図を持っていたにもかかわらずここでもホステルをすんなりと見つけられなかった。

天気が良くて強い日に当たって歩いたのでかなり疲れたけどようやく目当てのホステルを見つけた。フリーウェイ近くの住宅地にあるそのホステルの外見は民家のようなものだったけど Hostelling International の目立つ看板がかかっていたのでわかりやすかった。 玄関を入ってすぐのレセプションで受け付けを済ませて内部を案内してもらったが民家にしても小さいくらいの作りだ。6畳くらいの部屋に二段ベッドが三つも詰め込まれていて、バックパッカーの生乾きの洗濯物が異臭を放っていた。トイレとシャワーが一緒になっているのも民家的だ。どこをとってもあまり清潔ではなかった。(ここにも長くはいられないな。)と感じた。

夜になって街から戻ると部屋には日本人が二人いたがほとんど話らしい話もせずにその日は眠った。翌日も午前中から市内を歩いてまわり十時前にチェックアウトするとポートランドのすぐ北の町へ行く市バスに乗った。この時ぼくはなんとカナダへ行くつもりだった。つまりぼくはそのオレゴン州がカナダと国境を接する州だと思っていた。そしてバスの中で品の良さそうなご婦人に「カナダにはどうやって行ったらいいですか?」と質問してバス中の乗客とドライバーみんなを驚かせてしまった。「あなた! オレゴンの北にはまだワシントン州があるのよ。」と言われてぼくは口がふさがらなかったけどあきれて口がきけないのは周囲の人々だった。でもそれを機会に話がはずみ、ぼくはそのご婦人に日本からこういう時にでもと思って持ってきたハンカチをプレゼントした。住んでいた鎌倉で買った十二単の古の女性がデザインされたものだった。

バスの終点の町でグレ・ハンに乗れるというのでそこまで行きチケットを買った。 小さな街の小さな売り場でチケットを買ったあとで気がついたのだけど何かのアドヴァータイズメントがその天井にぶら下がっていた。読むと『二人で一人分!』というものだ。つまりだれかと二人でチケットを買えば半額になるのだ。同じバスを待っている女性に二人であれを買えば良かったね、と言ったが理解してもらえなかった。

≪Siattle 初日≫
夕方出発したバスの窓から西の空を赤く染める美しい夕景を眺めていると左前方に突如高層ビルの群れが見えた。(シアロだ!)すぐにわかった。シアトルのことを本場ではスィアロと発音することをこの時には知っていた。夕日を各々のビルが違った面で反射してそれはとても奇麗だった。そしておそらく60マイル以上の速度で走るバスはそれをグングンと近づけた。 サン・フランシスコ以来のビッグ・スィティにぼくの心が沸き立った。高速道路はその都市に飲み込まれビルの足元の地下に滑り込む。以前住んでいた横浜の首都高速道路を思い出した。

地上にでて今度は高層ビルのグランド・フロアを貫いていつの間にかバスターミナルに入っていた。他の乗客と一緒にぞろぞろとバスを降り荷物を受け取りそして日の暮れた街へ、ディーポを出た。なんの情報も持っていなかったがまたしても直感に頼って歩いた。高層ビルがランドマークになるので方向を失ってグルグル同じところをまわる危険はなさそうだ。

突然目の前に花火が上がり路上では爆竹が炸裂した。何かのパレードらしい。ブロードウェイの両端はものすごい人だかりだ。大通りの真ん中をスピードボートを載せたトレイラーがゆっくりと行進している。もしかしたらスピードボートの大会があるのかもしれないと思ったけどわからなかった。どうも町中が観光客で溢れているように見えたので今夜のホテル探しは難しく思えた。何件か当たってみたが満室じゃなくてもそのあたりのホテルはプライス的にぼくの理想ではなかった。

パレードの発信地を目指して一キロほど歩くとどうやらぼくは変わった形をした高い塔の方角に向かっていた。やがて知ることになるそのスペース・ニードルと呼ばれるタワーはスィアロのシンボル的な塔でテーマパークの中に建っていた。(というよりもそのタワーの足元にちょっとしたアトラクションがあるという程度のものだが)

荷物を持って歩くことに疲れて寒かったがベンチで眠ろうとした、がパレードのためか酔っ払ったアメリカ人がうるさくてとても寝付けず、また荷物をもって寝場所を求めて歩いた。 割とすぐに大きな公園を見つけて木の下にシュラフを敷いて寝た。ホームレスらしき男がガサッと音を立てたのでしばらくナーバスになったけどその割にすぐ眠ってしまった。

≪Siattle 2日目〜最終日≫
翌朝目が覚めると寝ていたところは芝生の上でよい気分だったけど道路のすぐそばだったので道ゆく人に不審な目で見られた。 シュラフをたたんでまた荷物を引きずってまた勘を頼りに歩きバス停を見つけてバスを待った。来たバスのドライバーにダウンタウンにでたいんだといって訊くと、このバスでもよいが一つ手前のバス停がベターだというので従った。 市バスはエリア別の料金制になっていてわかりやすかった。 シアトルの整然としたモダンな町並みはヨーロッパ調のポートランドとはずいぶん違う印象だ。やがてドライバーがこの辺がお前サンの来たいところだと思うよ、といって教えてくれたので慌てて荷物を抱えて礼をいって降りた。目の前に『Pike Place Market』と書かれた市場があった。高台にあるその看板はその向こうに広がる青い空と海に浮かんでいた。オイスターなどの魚介類だけでなくそこにはあらゆる物があった。海に向かって落ち込む崖に作られている古めかしい建物がそうしたショップでぎっしりなのだ。とても観光を意識した商業スペースだけど古いということと大好きな魚介類の市場でもあるという意味でぼくはそこが気に入ったのでホテルを見つけたらまた来ようと思った。

バス通りに戻って坂の下の方をみるとすぐ先に『GREEN TORTOIS HOSTEL』と書かれた看板を見つけた。ビッグ・ネイムの HI(HOSTELLING INTERNATIONAL)と違ってもっと泥臭い感じが逆に魅力的に見えてぼくを惹きつけたけどあいにくの満室で近くにあるというHIを紹介してくれたので電話で予約してからそちらへ向かった。数十メートルはある崖の下にHIはあった。

長い階段をキャリアにくくりつけた荷物を抱えてようやく降りると白地に水色の三角のデザインで馴染みの看板が見えた。『H.I.SIATTLE』だ。玄関にチャイムがあり電話で予約した旨をインターフォンに向かって告げるとオートロックが解除された。エントランスは何か個人医院の受け付けみたいになっていて何人ものバックパッカーたちがチェックイン・チェックアウトの手続きのために溜まっていた。

ぼくの順番になり受け付けを済ませてから広い館内を案内してもらった。見たことがないほど大きな部屋に十以上の二段ベッドが置いてある。外は良い天気だけどその部屋には窓がなかった。夜遊び組みが何人か寝ていた。「Huuun」という寝言が聞こえた方をちらっと見て驚いた。 スカートのまま寝ている女の子のパンチラを目撃してしまった。『白』だった。ホステルでは珍しくもないけど男女混合のドミトリーだったのだ。

シャワーやランドリールーム、キッチン、ラウンジはどれも近代的で大きくて使いやすそうだ。 明るいラウンジからはすぐそこに海が見える。たまらず外へ飛び出した。

海岸道路に出て歩くと海に張り出した建物が点在していて観光客が大勢いた。そこをくまなく歩いて進むといつの間にか傾いた日に照らされて巨大なスタジアムが遠くに見えた。
そこまで歩いて行ったけどどうやらそこは古い球場らしく、たぶんたまにちょっとしたイベントとかはやっているんだろうが野球の試合などはやっていないようだ。

ちょうどホステルに帰ると日本人らしき年輩の女性がベーシックな英語でシアトル・マリナーズのことについてホステルのスタッフと話していた。初めてきくその名前はともかくこの街に大リーグのチームがあるらしいことがわかった。

翌日からこの面白そうな街で遊びまくった。 パイク・プレイス・マーケットでは買い物はしなかったけどその迷路のようになった内部探検はワクワクした。

シアトルのオープンカフェ はまずいアメリカンコーヒーのイメージを変えてくれた。道を歩いているだけで良い香りに誘われていつのまにかカフェにいる。パンもおいしい。

スペース・ニードル にも登った。少し中心地から離れていて美しい近代的なシアトルの街が一望できた。

小さなチャイナタウン で安いチャーハンとおかずのコンボを買って二回にわけて食べた。

大好きな路面電車 もあり、ものすごく味があって良かった。

図書館 ではカードを作る必要があったけどコンピュータを使わせてもらえた。

そしてこの街での最大のイベントとなる ベイス・ボール を観に行った。 電話は苦手なのでチケットを押さえるということをせずに球場まで歩いていった。球場の近くまで来ると大勢の人々が球場に向かって楽しそうに語らいながら歩いていた。ポップコーンや風船などの屋台もそこかしこにでていた。線路を渡ると当日券売り場はすぐに見つかった。ほとんどの人がチケットを持っているらしく当日券を買う人はあまりいなかったが短い列があったので並びワクワクしながら順番を待った。ぼくの前の青年はチケットが無いと言われてがっかりした様子でそこを離れたので(ソルドアウトか!?)と思った。

ぼくの順番なのでチケットをくださいというと座席の表を見せてどこがよいかと訊くので料金の安い外野席を選ぶとそこはもう無いわとその金髪のお姉さんがいうのでぼくはわざと大袈裟なボディランゲージで「えぇっ!? 売り切れなの〜! オーマイガッ!」とやって見せるとウケたらしく笑いながら「ちょっと待って!」いってなにか一生懸命にキーボードを叩いて「ここで良かったら一つだけ空いてるわよ」と探し出してくれた。12,6ドルのそのチケットをもらって何度も礼を言って入り口に向かった。

モギリにチケットの半券を返してもらい球場に入るとそこは大人と子供の区別のない不思議の国だった。みんな生き生きとした子供の目をしている。試合前の投球練習スペースがフェンスに囲われていてファンが手に取るような近さからエースピッチャーの投球を観ることができる。
ファンはメジャーリーグのエースピッチャーの指を離れた球がシューと回転しながらキャッチャーミットにバチンと突き刺さる音を肌で感じることができるのだ。
昨年できたばかりのこのSAFECOという変わった名前の開閉式屋根をもつ球場はすべてがピカピカで芝生の緑が目に鮮やかだ。

自分のスィートを確認してから内野席のほうに向かった。なんと外野席と内野席を仕切るものがない。しかも内野席後ろの通路からでもビールを飲りながら十分内野のプレイが見えるじゃないか! 球場の設計が良いのだ。そして内野席からはフィールドがそのまま見える。つまりあの怪我防止用(ファン乱入防止用?)のネットがないのだ。ネットなんてあってもなくても同じと思う事なかれだ。あのスケスケが一枚あるかないかでプレイヤーとの心理的な距離が全く違うのだ。SAFECOスタジアムにはぼくが求めていたメジャーリーグの全てが詰まっているかに思えた。いやそれ以上だ。サン・フランシスコ・ジャイアンツ・スタジアムではファンのスピリッツを感じることはできたものの、その球場は古くてぼくの期待以上のものはなかった。

対戦相手は老舗ニューヨーク・ヤンキース。エースピッチャー、ロジャー・クレメンスが投げる100マイルのストレイトを四番ケン・グリフィー・ジュニアがスタンドに叩き込む。
That's BASE BALL! これがベイスボールだ! 夢のような一夜だった。

ベイスボールのことが多分にあったがシアトルでの短い滞在は夢のような印象をぼくに与えてくれた。また来よう、と思いつつ アムトラックのユニオン・ステイション へ行きカナダのヴァンクーヴァーへ向かう列車のチケットを買った。受け取ったチケットを見てなにか変だなと思ったけど、翌日その時間に駅に着いて人に訊くまでぼくはそれがアムトラックと契約したバス会社の連絡バスのチケットだということに気がつかなかったのだから我ながら笑ってしまう。幻の列車を求めて駅で待ち続けていたらバスに乗りそびれるところだった。

とにかくぼくは憧れのアムトラックに乗ることをこの先の楽しみとしてキープしそのバスに乗り込み、そしてこの美しい近代都市を離れた。また来る日を楽しみにして。



Stayed HI Seattle (2days) and the Green Tortoise Hostel (2days)


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Aug 3 1999 『サン・フランシスコでの40日間』

ロス・アンジェルスからグレイ・ハウンドに乗りサンフランシスコに着いたのは朝の5時だったにもかかわらず、その都市のビジネスマンたちは朝霧立ち込めるオフィス街でこれから始る闘いにそなえ、オープンカフェでニューズ・ペイパーを読みながらコーヒーを飲んでいた。

グレ・ハンのディーポはオフィス街の中心近くにありそこからすぐにあの有名な路面電車に乗ることができる。ディーポで安宿を見つけようとペイフォンを探すとホテル直通のフリーフォンがあった。電話の脇には市内の10くらいのホテルやホステルの宣伝とそれぞれ短縮ナンバーが書いてありその番号をプッシュすれば直接ホテルのフロントにつながるシステムらしい。
アメリカへ来て初めての電話だ。当然英語だ。マニュアルどおりに言ったぼくの英語はどうやら通じたみたいだけど向こうの言っていることはさっぱりわからない。最初にかけたホステルはやかましい若い女がでてどうも満室だと言っているようなので早々に切ってそこから割と近いところにあるホテルにかけた。それはインド系のホテルで、電話にでたのもインド訛りの男だったので英語もなんとなくわかりやすい気がした。部屋があるというのでプライスをきくと一泊35ドルとずいぶん高かったけどL.A.での経験もあったので到着日は早めにホテルを見つけて荷物を置いて街を歩いてよく知り、その上でホテルを自分の目で確かめながら回るのが理想だと思った。憧れの路面電車に乗ってホテルへ行きその古めかしくて味のあるホテルにチェックインすると結局ぼくがそこをチェックアウトするまでに約一週間もかかった。わりと居心地がよかったこと、サンフランシスコの市街地を歩くのに時間がかかったということなどが理由だった。

その後少し繁華街から外れたところにあるグローブ・ホステルに移った。そこでは多くの人に出会い始めてホステルというものの良さを知った。
ぼくは部屋がドミトリーでもシャワー、トイレ、キッチンなどの水まわりが共同でもラウンジに集まって知らない者同士がすぐに打ち解け合って様々な話ができるこの宿泊施設がものすごく気に入った。

アメリカ人は英語のできないぼくを相手にしてくれなかったが、何人か日本人にも会ったし、イギリス人、ドイツ人、フランス人、スウェーデン人などのヨーロッパの若者とは多くの出会いをしてお互いに拙い英語でよく話した。
そしてその時々でいろいろな友達と一緒にサンフランシスコを満喫した。
ゲイのカーニバル、X−GAMEというイベント、サン・フランシスコ・ジャイアンツのゲーム、アメリカ独立記念日に行われたジャミロ・クワイのコンサート、チャイナタウン、フィッシャーマンズ・ワーフ、ゴールデン・ゲイト・ブリッジ、ロンバー・ストリート、郊外のバークレー大学訪問など毎日誰かとどこかへ出かけた。

図書館でインターネットができることをきいてよく通った。30分以内なので日本へメールしたりこの日記を更新したりすることができた。(当時は英語でしか書く術がなかった) 本当に小さなリトル・トーキョーへ行って英語の辞書と参考書を大枚はたいて手に入れた。 旅行を再会するにももう少し英語が上手くなりたい一心だった。

夏だというのにからりと乾燥して暑いどころかむしろ寒いくらいの風が吹くこの街にはいつまでも滞在していたいような気がしたが、反面ぼくの放浪者としての血が騒ぎはじめたのはこの街での滞在が40日を数えた日だった。
ヨセミテ国立公園に行くことをあきらめて8月3日、ぼくはまたグレイ・ハウンドに乗ってこの街を離れた。次の宿泊地は北の街、それしかわからなかった。"For Portland"といってチケットを買った。



Photo:at the Golden Gate Bridge












ゲイのフェスティバルのときに日本から来たゲイの青年に会った。しばしばホモにアタックされるぼくも幸いその子にはモテなかった。彼(女?)はマッチョなアメリカ人の恋人をゲットしてお姫様抱っこをされるのが夢だとはしゃぎながら語った。
何日か一緒に遊んで打ち解けて来た頃のある日一緒に飯を食っている時に自分がHIVキャリアであることを告白し「きゃっ! 始めて人に言っちゃった。」と照れた。
すごくショックだった。AIDS先進国のアメリカのほうが医療も発達しているに違いないと思ってやってきたらしいが、それ以外に現実的な情報を一つももっていない彼が憐れでぼくはどうにか彼の手伝いができればと思ったが、ぼくには荷が重いことを感じずにはいられなかった。 ただ彼の幸運を祈るのみだなんて。

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Jun 21 1999 『グレイ・ハウンド バスでシスコへ』

L.A.のバスディーポ(長距離バスターミナル)でどこへ行こうか考えた。乗用車かバイクだったら有名なルート66で内陸へ進むというのも面白かった。けれどこの時ぼくの耳にはベガスよりもサン・フランシスコのほうが響きがよかった。なぜか直感的に昨日着いたばかりのL.A.から出ることにしたので、もう少しウェスト・コーストの気持ちのよい風を味わいたいという思いがあったのかもしれない。サン・フランシスコ行きのバスは夜行に乗ればバスで一泊して朝到着するので都合が良かった。

ハリウッド映画にもよく登場するグレイ・ハウンドの長距離バスに始めて乗った。シートは大きく皮張りでクッションもよく居心地が良い。座席は全て指定席だ。一人旅なので通路を挟んで両側に二つづつ並んだシートでは必ず知らない誰かと隣あわすことになる。バスに乗り込む時は毎回このくじ引きを味わうことになりそうだ。ぼくが窓側の指定席に座ると隣にはすごく太った黒人のおばさんが座った。いかつい顔のその人にぼくがたじろいだのがわかったのかその婦人もぼくにたいして警戒の色をその顔に浮かべていっそう話しかけづらい雰囲気になってしまった。

バスは出発するとすぐに車内灯を消してしまったのでなんとなく静かにしなければいけないような雰囲気になってあまり喋る人はいなくなった。車窓の外をオレンジ色の街路灯が流れていく。すぐにフリーウェイらしき道路に入ってスピードをあげた。若いけどがっしりとした女のドライバーがなにやらアナウンスしている。シートを倒し目を閉じてもわずかに興奮して寝付けない。 バスは途中何度か給油したりドライブインに入ったりしてその度にほとんどの乗客が降りてハンバーガーやドーナツやコーヒーを口にした。

日本でもここ最近目にするようになった『KING BURGER』が多い。グレ・ハンと契約しているのか、それともドライバーの好き好きなのかは知らない。ハンバーガーは気持ち日本のものよりも大きく見える。フライドポテトは French FriesというらしいがやはりSサイズでも日本のMくらいありそうだ。コーラはコカコーラよりもペプシを置いている店が目立つ。 コーヒーはアメリカンがない。そのかわり普通に薄いコーヒーがでてくる。ドーナツなんかは嫌になるくらい甘い。アメリカ人の体型を見れば納得のハイカロリーだ。

『××××××××?』

(???)

店員がふぉーひあ,おぁとぅご?とかなんとかっていってるけどよくわからん。たぶんタイミングからすると「こちらでお召し上がりですか?お持ち帰りですか?」っていうところだろう。 なるほどすると「For here or to go?」か。
「For here,please.」
というと、ニコリともしないが受け答えとしては正しかったようだ。
そうするとさっきのも「こちらでお召し上がりですか・・・・・」じゃなくて「食ってくの?持って帰んの?」みたいな感じか。

すべてが始めてで何をきいても何を見ても興味深く面白いことばかりだ。
ぼくの乗ったバスは、日本で見る最大の貨物トラックが子供の玩具に見えるほど長い三連結の馬鹿でかいトレーラーを次々と追い越してゆく。
まだまだ面白くなりそうだ。いつのまにかウトウトと眠りに落ちた。




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Jun 20 1999 [Los Angeles] California, USA Stayed Miyako Inn

『ハロー、アメリカ!』
ロサンジェルスの空港イミグレーションでつかまった。機内で渡された入国カードに宿泊地の住所を書かずに提出したからだ。少しトラブルくらいが面白いと思っていた。なぜか中国系の係官が呼ばれてその欄に適当な住所を記入してキック アウトされた。

広大な空港を一時間もうろうろして市バスに乗れるところまで空港バスに乗る必要があることがわかってきた。旅行会話マニュアルは読んでいたけどまず誰に聞いたらよいかがわからなかった。

市バスに乗りかえたが乗り間違えたみたいだ。運転手に聞いたら通り過ぎたというがどうなんだろう? きっとぼくが想像していた高層ビルのある地区ではなくてその脇を通ったみたいだ。
慌てて飛び降りて重たい荷物を引きずって歩いた。暑い。日本よりもカラッとしているものの気温は高そうだ。とうとう公園の芝生の上にダウンした。初めての海外初日の宿も決まっていないのにどこへ行ったらよいかもわからずに公園で寝転んでいても不思議と不安は感じなかった。
真っ青なそらを仰いでいるうちにいつの間にか気持ちよくなって眠ってしまった。

気が付くと太陽がずいぶん傾いて景色がすこしオレンジがかっていたので焦った。
疲労は回復していたのでまた荷物を引きずって歩き始めた、勘を頼りに。
どうも繁華街らしきところに来たが黒人が多くなんとなく雰囲気が良くない。
デリの食い物は3、4ドルと安くてよいが今はとにかく宿だ。そのあたりのホテルに入るがボロボロのわりには30ドル以上する。治安も悪そうだ。すこし遠くに日本の旗をかかげた大きくて奇麗なホテルが見えたので行ってみたが130ドルもする。
日も傾き結構暗くなってきた。そういえばこの地区に入ってから絶えずパトカーのサイレンが鳴り響いている。日本のテレビでも世界一の犯罪都市だとか何分に一件の割合で殺人が起こるだとかっていうことを売りにした特番をやってたりしたのを思い出して恐くなってきた。

Excuse me mam!

前から歩いてきた黒人の太った婦人に訊ねると「ちょっと待って」といって今出て来た職場らしきビルに戻ってしまった。待てと言われたので彼女が戻るまでの5分ほどもそこで待っていた。ようやく戻った彼女はきっと同僚にでもきいてきたのだろう。こんなに親身になって道を教えてくれる人って日本ではみたこともなかったのですごく感動した。と同時にアメリカっていい国だなあ、と思った。単純かもしれないけれど始めて来た国の初日の印象ってとっても大事だろう。
そのビッグ・ママはリトル・トーキョーにあるというホテルへ行ってみなさい、というので場所をきくとたった今見てきた日の丸を掲げたホテルのすぐ裏だった。(しまった、あそこがリトル・トーキョーだったのか!)といまさら地図を持っていないことを悔やんだ。地図はきっと現地でフリーのものが手に入ると思っていたが、L.A.は広いのでそんなものはないのかもしれない。
すっかり日も暮れてしまったのでその馬鹿高いホテルに仕方なくチェックインした。
シャワーを浴びてエアコンを効かせた部屋のツインベッドで裸になって眠った。ぐっすりと。
なぜか(明日にはこの街から出ていこう。)そう思った。





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Jun 20 1999 [Narita] Chiba, Japan

『さらば、日本!』
この日ぼくは31歳にして初めて海外へ旅立った。
正直にいうと日本があまり好きになれなかった。正確には日本の社会システムと日本人の閉鎖的、排他的な性格にだ。その反面近年セックスの氾濫と文化の堕落を見てきてはっきりいってこの国にはウンザリだ。
もう結婚して子供も欲しい。なのに日本で日本人女性とごく普通の結婚をして暮らしていく自分をイメージできない。子供ができたって、親を親とも思わないような人間に育ってゆくのを生活に追われながらどうすることもできない無力な自分を感じるに違いない。

わかっている。ぼくって相当な変わり者だ。でもそれは日本での話だ。世界ではひょっとしてぼくの常識が通用するかもしれない。それを知りたい。

写真集にでてくるような美しい景色と美しい女たちがいる土地を求めて、今日ぼくは日本から出てゆく。別の視点からみればそれは日本社会に順応できない人間が排除されたということだけどそんなのぼくには関係ない。一度しかない自分の人生、好きに生きるさ!
なにが正しいかは未来が決める。

ノストラダムスの予言、『天から悪魔が落ちてくる』のはきっとこの国のような廃退した先進国に違いない。それが目にみえるかたちの大災害かどうかということは問題じゃない。ぼく自身に『なんでも降ってくればいいんだ、こんな国!』と思わせていることが問題なんだ。
1999年の七の月を前にぼくはこの国からおさらばすることにした。

本当はわかっているんだ。全ては日本でも日本人でもない、ぼくの内面の問題なんだ。
ぼくは疲れてしまっているんだ。だから癒されに行くんだ。居心地のよい場所を求めて。

とにかく昨夜飲み明かした川崎の友人宅を出てから二時間後、成田に着いたぼくはまるでお登りさんのようにそわそわしながらロサンジェルス行きボーイングへの搭乗が始るのを待った。 幼い頃からハリウッド映画で洗脳されてきた憧れの国だ。早くもぼくの耳にはロックンロールが聞こえてきたようだった。



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