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ムハンマド

(Article from Islamic Center Japan)

 

1.  序論

 イスラームは、アラビア語で「アッラー」と呼ばれる唯一神に絶対的に服従することをその根本教義としています。アッラーは万物を創造し、全宇宙と地上の森羅万象を超越した神です。そしてアッラーに類似し、アッラーと同等に比較できるものは何一つとして存在しません。アッラーは、私たち人間を愛され、私たちを導かれるためにかれの選ばれた預言者を送られ、彼らを通じて戒律と規則を与えられました。

アッラーは人類の祖アーダム(アダム)以来、人間の中からイブラーヒーム(アブラハム)、イスハーク(イサク)、ヤアクーブ(ヤコブ)、ユースフ(ヨセフ)、ムーサー(モーゼ)、ダーウード(ダビデ)、イーサー(イエス)など(彼らにアッラーの満足あれ)、多くの預言者を選ばれ、人間に送られました。そしてこれらの最後の預言者として、ムハンマド(彼に平安あれ)を選ばれました。ですからイスラームは決して新しく生まれた宗教なのではなく、それ以前のアッラーの宗教の集大成であり、完成されたものなのです。

イスラームの啓典クルアーンの中には、アッラーがムハンマド(彼に平安あれ)以前の預言者たちに下された教えが全て含まれています。最後の預言者ムハンマド(彼に平安あれ)は、アッラーの啓示とその実践を通してイスラームの意義とアッラーに帰依することの大切さを説きました。


 預言者ムハンマド(彼の上に平安あれ)の生涯はムスリムにとって非常に重要な意義をもっていますが、それは彼が人類のお手本としてアッラーに選ばれた人であり、彼の言葉、性格、行動は私たち人間が見習うべき最高のものだからです。

 同時に預言者ムハンマド(彼に平安あれ)の生涯は、絶え間ない努力と成功の歴史でした。彼の生涯は歴史の中で正確に記録されており、私たちは彼の足跡を正確にたどることができます。

 それではこれから各章にわたって、彼の生涯を年代順に追っていきましょう。     

2.  預言者ムハンマドの誕生

 預言者ムハンマド(彼に平安あれ)はアラビア半島のマッカに生まれましたが、それは西暦570年8月20日月曜日の早朝のことでした。 クルアーンには、このことについて次のように述べられています。

言ってやるがいい。「真理は下り、偽りは何らそのあと創造することもなく、また再び繰り返すこともない。」(クルアーン第34章49節)

この言葉はムハンマド(彼に平安あれ)自身の生涯についてもあてはまり、ムハンマド(彼に平安あれ)の誕生したその日こそ、全人類への導きの始まった日なのです。

 

3.  ムハンマドの幼年期

ムハンマドはマッカのクライシュ族の一支族、ハーシム家の出身でした。父親アブドゥッラーはムハンマドの生まれる6ケ月前に亡くなり、彼の母親アーミナも彼が6歳のときにこの世を去っています。母親の死後、祖父アブドゥル・ムッタリブに引き取られました。しかし、この祖父も母の死後わずか2年後に亡くなり、叔父のアブー・ターリブに養育されることになりました。

こうしてムハンマドは幼少にして両親も祖父も失い、兄弟もいませんでしたので、天涯孤独の身の上となりました。その代わりに彼は、全生涯を通じてアッラーの愛を受け続けました。アッラーは全人類の中から彼をお選びになり、地上に正義と慈悲をもたらすアッラーの使徒とされたのです。 

4.  ムハンマドの青年期

ムハンマドは叔父のアブー・ターリブを手伝って、商人として青年期を過ごしました。当時のマッカの住民はラクダの隊商で各地に商品を運び、その交易で暮らしていました。ムハンマドもこういった隊商について行き、シリア方面へ2度、交易の旅に出かけました。

彼は何事によらず正直であり、時には卑しいとされていた羊の放牧のような仕事もしました。彼は預言者となってからも自分の衣服や靴は自分で繕い、正しい労働の尊さを身をもって人々に示しました。

5.  預言者の布教前の社会状況

 ムハンマドは、その青年期からすでに当時のアラビア社会の腐敗に強い苛立ちを感じていました。人々はいつも酒と賭け事に時間を費していました。社会は分裂しており、多くの家系や部族が自分たちの利害のみを考え、些細なことで争いを繰り返していました。

また強者が弱者を踏みにじり、それを正すこともできませんでした。弱い者たち、特に女性たちの権利はなく、父親も自分に娘が生まれることを恥じるという風習があり、自分の娘を生き埋めにするというようなことまで行われていました。

 預言者イブラーヒームが唯一神を崇拝するために建てたカアバには360体もの偶像があり、めいめいが勝手に自分の神に祈っていました。ムハンマドはこのような社会の状況にひどく心を痛め、何とかこれを改善したいと思っていました。

6.  預言者となる以前のムハンマド

アッラーによって預言者として選ばれる以前のムハンマドは、その誠実な人柄から、マッカの人々に「アル・アミーン(誠実者)」というあだ名をもらっていました。

彼について次のような伝承があります。あるときマッカのカアバの角についていた黒石がはずれました。カアバを管理していたクライシュ族は、どの家の者が黒石を元通りにはめ込む名誉を得るかであわやけんかになりそうでした。そこで彼らは最初に入って来た者にこの問題を仲裁してもらうとの合意に達しました。彼らが神殿の入り口を見つめていると、そこに入ってきたのはムハンマドでした。彼らは大変喜び、ムハンマドに問題を話しました。ムハンマドは自分の肩にかけてあった敷布を地面に広げると中央に黒石を置き、その布の四隅を各家の代表者が持って運ぶように言いました。それぞれの家の代表者は四隅を持ち上げ、ムハンマドを先頭にして厳かに元あった位置まで黒石を運びました。そこで部族の者たちが敷布を地面に下ろすと、ムハンマドは黒石を取り上げ、元の場所にはめ込みました。これで部族の者たちはみな満足して帰りました。

 

7.  ムハンマドの結婚

 ラクダの隊商の責任者としてムハンマドを雇っていた多くの商人たちの間に、ハディージャという名の女性がいました。ハディージャは2度夫を失い、息子2人と娘1人がいましたが、その当時は夫から相続した事業を経営して成功していました。彼女はムハンマドにくらべてはるかに金持ちであった上に、年は40歳に達しており、一方ムハンマドは25歳の若さでした。ムハンマドは貧しい上に無学だったので、ハディージャのような金持ちの女性の夫として選ばれるなどとは普通考えられないことだったのですが、ハディージャは商売を通じて、正直で責任感の強いムハンマドの人格にうたれ、自ら彼に結婚を申し込みました。

ムハンマドとハディージャは、それから25年間、ハディージャがこの世を去るまで円満で幸福な結婚生活を送りました。2人の間には3人の息子と4人の娘ができました。息子たちは全て若くして亡くなりましたが、娘たちは長生きしました。ムハンマドはハディージャが亡くなるまで、他の女性とは結婚しませんでした。

 ハディージャが亡くなったのはムハンマドが布教を始めてから10年目のことです。彼女は夫ムハンマドの最も苦しい時代に彼を助けました。ムハンマドは彼女の愛と献身を決して忘れることなく、「最も祝福されるべき女性」と呼んで、彼女の死後も生涯その愛情を心にとめていました。

 ハディージャの死後、ムハンマドは数人の女性と結婚しましたが、そのうちアーイシャ以外はすべて未亡人か離婚歴のある女性でした。預言者としてムハンマドは結婚についても見本を見せるため、ある時は他の部族との親睦のため政略的に、またある時は古い因習を破るといった目的で結婚をしました。また、死んだ教友の未亡人の生活を支えるという目的もありました。しかしその結婚がどんな目的であれ、ムハンマドは全ての妻に愛情と公正をもって接しました。

 こうしてムハンマドは、女を動物に毛のはえたものくらいにしか思っていなかった当時の人々に、すべての女性を尊敬することを身をもって教えました。ムハンマドは人々に対し「天国は、母の足下にある」と告げました。

 

8.  預言者としてのムハンマド

 ムハンマドがマッカ郊外のヒラーの洞穴に時々こもるようになってから、彼は人間、宇宙、創造者、そして人間と創造者との関係について、それらの根本的な問題を考えるようになりました。彼はこの世界に多くの神々が存在していろいろ違った役割を持っているとか、木や土から人間の手で作られた偶像が人間の運命に影響を与えるといったことを信じていませんでした。彼は一体真理は何か、真実の神とはどんなものかと考えながら瞑想を続けました。

 ヒジュラ暦ラマダーン月のある夜、当時40歳のムハンマドがヒラーの洞窟でいつものように瞑想していたとき、彼は突然「読め!」という力強い声を耳にしました。ムハンマドが驚いて平伏し、「読めません」と答えると、再びその声は「読め!」と繰り返しました。「私は読めないのです」ムハンマドが震えながら答えたのにも関わらず、その声は再び「読め!」と言います。とうとうムハンマドが「何を読めばよいのですか」と尋ねると、相手はムハンマドをやさしく抱きしめてこういいました。

読め、「創造されるお方、おまえの主の御名において。一凝血から人間を創られた。」読め。「おまえの主は最高に尊く、(人間に)筆によって(書く事を)教えられた御方。人間に未知の物事を教えられた御方である。」(クルアーン第96章1-5節)

  これは、大天使ジブリール(ガブリエル)によって伝えられたクルアーン最初の啓示でした。ムハンマドは恐れおののき、家へ走って帰ると、妻に「私をくるんでくれ!」と叫び、毛布に包まって震えていました。妻ハディージャはこの出来事を聞くと、彼を優しくいたわりながら、「あなたはこれまで真直ぐに生きてきた正直な人ですから、神様がきっと守って下さるはずです。何も心配することはありません。」と言って慰めました。その後しばらくして、ムハンマドが自分の身の上に起きたことの意味を理解し、預言者としての自覚を持つようになると、ハディージャはアッラーに帰依し、その最初の人となりました。

この最初の啓示があってから、アッラーは大天使ジブリールを通してムハンマドに啓示をお与えになり、彼がアッラーの教えを広め、人々に正しい道を伝えるためにアッラーの使徒として選ばれたことを告げられたのです。

 この時から、一介の無学なアラブ人だったムハンマドは、全人類へのメッセンジャーとして、神の唯一性、アッラーへの帰依、偶像崇拝の愚かさ、現世での行為がアッラーの前で裁かれる最後の審判の日の到来などを人々に説きはじめました。その当時の宗教は単なる信心だけで、人間や社会の堕落を正すこともできませんでしたが、ムハンマドは行動を伴わない単なる信心は無意味であることを人々に強く説きました。

クルアーンは、神の唯一性について次のように宣言しています。

言ってやるがいい、「彼はアッラー、唯一の御方であられる。アッラーは自存され、生まないし、生まれたのではない。彼に比べ得る何ものもない。(クルアーン第112章1-4節)

 アッラーのメッセージはきわめて明瞭で簡単なものだったのですが、マッカの偶像崇拝者たちには、自分たちの宗教に対する危険な挑戦と感じられました。彼らはこれまでの生き方を変えたくはなく、また偶像を捨ててしまっては自分たちの力も失われると心配して、ムスリムを迫害しはじめました。

9.  布教と妨害

 ムハンマドは、まず友人と家族からイスラームの布教を始めました。このような布教は3年間続きました。この時期にイスラームに入信した者はわずか30人にもなりませんでしたが、後のイスラーム発展のためにきわめて重要な役割を担った人々がいます。例えば妻のハディージャ、いとこのアリー、養子のザイド、彼の親友アブー・バクルとウスマーン、タルハーなどです。

 布教開始から3年後、アッラーはイスラームの布教を公開して行なうようにムハンマドに啓示されました。ムハンマドはマッカ近郊のサファーの丘に行き、そこで神の唯一性、すなわち神はアッラーのみであることを人々の前で宣言し、最後の審判について強い警告を与えました。彼は人々にアッラーへの帰依を勧め、アッラーの教えに従って行動し、正しい道を歩むよう説きました。しかし、この事はマッカの人々を激怒させることになりました。なぜなら、このような教えは偶像への貢ぎ物などの権益と、一部の金持ちの特権を奪うものだったからです。そこで彼らはムハンマドに布教を中止するように脅迫しました。しかし彼らの脅迫に対する返事として、ムハンマドは数日後にカアバにおもむき、「アッラーのほかに神はなく、ムハンマドはアッラーの使徒である。」と高らかに宣言しました。これはアラビア語で「ラーイラーハ イッラッラーフ、 ムハンマド ラスールッラー」と言い、イスラームの最も重要な部分です。

多神教徒たちはムハンマドヘの脅迫が失敗すると、彼を買収しようと考え、金、名誉、女、そして王位さえも彼に与えることを申し出ました。しかしこれに対するムハンマドの回答はこうでした。

 「たとえ私が右手に太陽を、左手に月をのせられても、このアッラーに与えられた使命の遂行をやめることはない。」

ムハンマドの決意が固いのを知った多神教徒たちは、ムハンマドと信者たちを更に迫害し始めました。マッカ市民のいうムハンマドと信者たちの「罪」とは、ただアッラーのみを信じ、悪をやめ、善を行ない、公正と親切を実行することだけだったのです。

 当時のアラブ人は部族社会で、家族が自分の身内を保護することを保障し、誰かが害を与えられたときにはその家族がそれに復讐するという掟がありました。ムハンマドはマッカの名門ハーシム家の出身だったので、反イスラームの者たちも彼を殺すことはためらっていました。その代わり、保護者のいない弱者や奴隷のムスリムたちは容赦なく迫害されました。アンマール、奴隷のカッバーブ、黒人のビラールなどは熱砂の砂漠で縛り付けられたり、重い岩を胸に乗せられたり、燃える炭の上を引き回されたりといった拷問を受けました。ムハンマド自身も汚物を投げ受けられたり、通り道にとげのある障害物を置かれたりするのは日常茶飯事でした。

 ある時ムハンマドはマッカ近くの町、ターイフに行って布教しましたが、群衆から石を投げられ、全身血まみれの重傷を負いました。このようなひどい目に会いながら、彼は「アッラーよ、彼らに正しい道を示してください。彼らには分からないのです。」と言い続けました。5年の間迫害は続いていましたが、信者は少しずつ増えていきました。ついにはムハンマドの叔父でマッカの有力者ハムザや、イスラーム最大の敵のひとりであったウマルなどが入信し、イスラームは拡大していきました。

10.  排斥

 マッカの多神教徒たちはムスリムたちに様々な迫害を行ないましたが、それでもイスラームは少しずつ広がっていきました。そこで彼等はついにムハンマド自身に対して行動を起こそうと決め、ハーシム家に対してムハンマドを引き渡すよう求めました。 しかしハーシム家の人々は、イスラームに改宗していない者も含めてムハンマドの引き渡しを拒否しましたので、多神教徒たちはハーシム家を村八分にする決議をし、ハーシム家の人々はマッカ近郷の谷で3年間、誰とも付き合ったり商売したり出来ない苦しい生活を送らなければなりませんでした。時として食べるものもなく、着る物もみすぼらしいままの生活で、陰で支援してくれるマッカの親戚の差し入れなどでようやく食いつないでいました。村八分は3年間で終わりましたが、その直後、ムハンマドの保護者だった叔父アブー・ターリブと、妻のハディージャが亡くなり、ムハンマドは社会的にも精神的にも大きな打撃を受けました。多神教徒たちはこれに乗じて、いっそう迫害を強めてきました。

 

11.  希望

 その当時マッカには、各地の多神教徒たちが自分の神を崇拝するために巡礼に来ていましたが、そういった巡礼者たちの中にマディーナの市民がいました。彼らは部族内部の抗争で疲れ果てており、誰か自分たちを仲裁し、治めてくれるような優れた人物がいるのであれば彼を迎え入れようと考えていました。そんな時、彼らはムハンマドのイスラーム布教のことを耳にしました。彼らは巡礼のときにマッカへやって来て、秘密裏にイスラームに入信すると、ムハンマドにマディーナへやって来て自分たちを統治してくれるよう頼みました。ムハンマドは彼らの忠誠の誓いと引き換えに、優れた教友をマディーナへ送ってイスラームを広めさせました。受け入れの用意が整い、ムスリムたちは少しづつマッカを去り、マディーナへ移住していきました。移住の時が近づいていました。

12.  マディーナへの脱出

 マッカの多神教徒たちがついにムハンマドを暗殺して決着をつけようと決意したのは、ムハンマドが預言者に選ばれてから13年目のことでした。ハーシム家の復讐を恐れて、暗殺者はそれぞれの家系から一人づつ選ばれ、ムハンマドを殺害したあとでも一つの家だけがその責任を取らなくてもよいようにしました。それは、ハーシム家だけではすべての家と戦えないと思ったからです。しかしアッラーは、暗殺者たちの計画をムハンマドに啓示され、彼はついに脱出の時が来たことを悟りました。彼は自分のいとこのアリーに自分の代わりにベッドに寝ているように頼み、また自分が人から預かったものを返すように指示しました。彼は親友のアブー・バクルただ一人を伴い、マッカを脱出しました。

暗殺たちがムハンマドの家を包囲して中に入ると、そこにはアリーしかいないのを知り、激怒して追っ手を差し向けました。ムハンマドとアブー・バクルは追っ手の目をくらませるため、マディーナとは反対方向の山岳地帯へひとまず行き、洞窟の中に隠れました。しかし追っ手は二人の足跡を正確にたどってやって来ました。追っ手が二人の隠れている洞窟のすぐ側まで来たとき、アブー・バクルは取り乱しましたが、ムハンマドはアッラーに不動の信頼を置いており、「心配するな、アッラーは私たちと共におられる」といってアブー・バクルを励ましました。その言葉どおり、洞窟の入り口には蜘蛛と鳩がやって来て、蜘蛛は巣を張り、鳩は卵を産んだので、この洞窟に間違いないとやって来た追っ手も、その真新しい蜘蛛の巣と卵を抱いた鳩を見て考えを変え、洞窟を調べずに去って行きました。

 ムハンマドを取り逃がしたマッカの多神教徒たちは、ムハンマドの首に懸賞金として当時としては法外な額のラクダ100頭を賭けましたが、誰一人ムハンマドを捕らえることは出来ませんでした。こうして二人は無事マディーナへ着きました。クルアーンには、このマッカ脱出について次のように述べられています。

彼ら(不信者)は策謀したが、アッラーも策謀された。だが最も優れた策謀者はアッラーであられる。(クルアーン第3章54節)

 このマッカからマディーナへの脱出はイスラームにとって大きな転機となりました。このとき以来、イスラームの布教と発展の基礎が固まったからです。そこでイスラームではこの移住の年をイスラームの暦の元年としています。イスラームでは、暦の始まりも偉人の生死ではなく、人の意義ある行為に基いているのです。

13.  マディーナでのイスラーム社会

 ムハンマドとアブー・バクルは、マディーナに着くや否や、多くの人々の歓迎を受けました。マディーナの人々は皆、預言者ムハンマドが自分の家に来て住んでくれることを望んだので、ムハンマドは公正さのために自分のラクダの手綱を離して自由に歩かせ、ラクダが止まった場所に住むことにしました。ラクダはマディーナ市内を歩き回り、ついに二人の孤児が所有している空き地に止まって草を食べ始めました。そこでムハンマドはその場所に住むことを決め、二人の兄弟から土地を買い取ると、そこに自分の住居を兼ねたイスラーム最初のマスジドを建てました。以来、イスラームのマスジドというのは単なる礼拝堂ではなく、旅行者の宿泊所やイスラームの様々な問題を討議する集会の場所となったのです。マディーナへの到着後、最初に必要となったのは、マッカからの移民の生活の問題でした。これらの移民たちは財産のほとんどをマッカに置き去りにしてきたので、マディーナで生活を始めるには多くの援助が必要でした。預言者ムハンマドは、マッカからの移住者たちとマディーナの信者たちをお互いに兄弟とすることによって、この問題を解決しました。ムハンマドを含むマッカのムスリムはイスラームのために家族の絆も家も財産も全て捨てて移住してきたので、マディーナのムスリムたちは喜んで自分たちの家や財産を分け与えました。

 血縁や部族が全てであり、 他の町の人間は外国人のような感覚だった当時のアラブ人にとって、この信仰による同胞意識というものは画期的でした。こうして二つのグループはうちとけ合い、イスラームによる新しい共同体を築いていったのです。ムハンマドとその教友たちは、ようやく多神教徒たちの迫害から逃れて身の安全と信仰と布教の自由を得たのです。マッカの多神教徒たちはなおもイスラームを滅ぼそうと狙っていましたが、他の部族が支配する離れたマディーナの町をおいそれと滅ぼすことは出来ませんでした。

 マディーナで預言者ムハンマドの活動は新しい段階に入り、単なる個人的な信仰から、イスラームの理念に基いた社会を作り上げる大きな事業に発展していきました。ムハンマドがマッカで受けた啓示は、終末や来世、アッラーの偉大さなど信仰に関するものがほとんどでしたが、マディーナでのそれは、飲食物から結婚と家族生活、道徳と作法、取引と約束、戦争と和平、犯罪と罰などを含む人間の生活に関するあらゆることについて、啓示されました。これらの戒律や教義はムハンマドと教友たちによって実践され、全人類が実践できる宗教の生きた手本として、現代に至るまで私たちに記録が残されています。

イスラームは単なる信心でも儀式でもありません。イスラームとは個人として、また共同体として、どのように生き、どのように物事を収めるかという人間の生活の道であり、人生の全ての事柄に対する導きなのです 

マディーナにおいてムスリムの共同体は団結し、強力な組織を作り上げていきました。それでもまだ彼らは多くの脅威を受けていました。マッカの多神教徒たちはイスラームを抹殺しようと機会を伺っていましたし、マディーナ市内にも彼らに内通してイスラームの社会を滅ぼそうとする反イスラームの勢力がありました。彼らの中には表面上はイスラームに改宗しているものの、心の中はまったく別のことをもくろんでいる偽信者たちもいました。これらはムハンマドにとって頭の痛い問題でした。このようにマディーナへ移住した後も、初期にはイスラームの共同体は常に防衛を固め、用心しなければなりませんでした。

ついにその翌年、完全武装のマッカ軍1000人がマディーナに向かって進軍してきました。それに対して貧弱な装備しか持たない約300人のイスラーム軍は、バドルという場所でこの軍隊と遭いました。マッカ軍は数も武装も、また策略においても上手でしたが、イスラーム軍はアッラーの加護を受けてマッカ軍に勝利しました。

これはイスラームの最初の記念すべき戦いで、これを「バドルの戦い」と呼びます。この勝利によってムスリムたちは精神的にも自信をつけ、信仰も高まり、多神教徒の勢力を退けたのです。

しかしその翌年、マッカの多神教徒たちは再びイスラームを滅ぼすためにマディーナへ軍隊を送りました。この時イスラーム軍は敗北しましたが、かろうじてマッカ軍を追い返すことが出来ました。これを「ウフドの戦い」と呼びます。

その後もマッカの多神教徒たちは何度もマディーナを攻撃し、時にはムスリムは空腹のために石を腹の上にくくりつけて我慢しながら、最後までマディーナを守り抜きました。

14.  フダイビーヤの和平条約

ヒジュラ暦7年、アッラーの啓示を受け、預言者ムハンマドはマッカのカアバへ巡礼するために信者たちと共に出発しました。彼らは完全に非武装で戦争の意志はなかったのですが、マッカの住民は非常に恐れ、彼らを武力で迎え撃とうとしました。交渉役のウスマーンがいつまでも戻らなかったため、彼が殺されたという噂が広まるに及んで、ムスリムたちは死を覚悟の決戦をする決意を固めましたが、マッカからの交渉役がやって来て、和平の会談が始まりました。

1.   巡礼は今年ではなく来年にすること

2.  10年間の停戦

3.  マディーナから離反してマッカへ逃げて来た者は戻る必要はないが、マッカからマディーナへの逃亡マッカ側に引き渡さねばならない

このようにその内容は明らかに不平等な条約でした。信者たちは大いに不満でしたが、ムハンマドだけはこの条件を全て呑み、和平が成立しました。結果として、この決断は正しいものでした。和平条約を結んだことによって、ムスリムはもはや自由に布教活動をすることができ、それが着実にイスラームの勢力を広げることになったからです。

15.  マッカ開城

 フダイビーヤの和平条約の翌年、マッカ側がイスラームの同盟部族を攻撃し、和平条約を破りました。ムハンマドはいまやイスラームの傘下に入った多くの部族を集め、マッカに向けて進軍しました。その強大な勢力にマッカの市民はもはや抵抗は不可能だと悟り、戦わずして降伏しました。ムハンマドはかつて自分を追った故郷の町に支配者として無血入城したのです。彼はカアバに入り、全ての偶像を破壊しました。

 ムハンマドと信者たちを長い間迫害しつづけた者たちは、自分たちにどのような処置が下されるかと恐れおののいていました。ムハンマドはその人々に向かって言いました。「今、私がおまえたちをどうしようと考えていると思うかね。」人々は不安そうに答えました。「高貴であられ、高貴な方の息子であられるムハンマド様、全ては貴方のお望みのままに。」ムハンマドは言いました。「今日はあなたたちに何の咎めもない。あなたたちは自由だ。皆自分の家に帰りなさい。」

 この慈悲深さに感激した多くの人々がイスラームに入りました。こうして続く2年の間に多くの人々がイスラームに入り、また入信しなかった人々もそれぞれの信仰と生命、財産、尊厳を保障されました。このことについてクルアーンにはこう述べられています。

宗教に強制があってはならない。まさに正しい道は誤った道より明らかに分けられている。それで邪悪な神を退けてアッラーを信仰する者は、決して壊れることのない丈夫な取っ手を握った者である。アッラーは全聴者、全知者であられる。(クルアーン第2章256節)

16.  ムハンマドの最後の巡礼

 預言者ムハンマド(かれに平安あれ)は、ヒジュラ暦10年に最後の巡礼を行ないました。彼が布教を始めてから24年目のことでした。この時ムハンマドと共に巡礼に参加した信者は11万4千人にもおよびました。この巡礼で彼が行なった「別れの説教」は、これまでの教えの集大成でもあります。彼は神の唯一性、イスラームの尊厳、審判の日、女性の尊厳、他人の生命と財産の尊厳などの重要性を語った後、こう言いました。

 「イスラームの信者は、すべて互いに兄弟である。あなたたちは皆一つの共同体として結ばれている。私はあなたたちと共にある。あなたたちがクルアーンとアッラーの使徒の行ないに従えば、決して道を誤ることはないだろう。」

 この巡礼中、彼は次のような啓示を受けました。

今日、われはおまえたちのために、おまえたちの宗教を完成し、お前たちに対するわれの恩恵を全うし、おまえたちのための教えとしてイスラームを選んだのである。(クルアーン第5章3節)

17.  ムハンマドの死

 ムハンマド(彼の上に祝福と平安あれ)がこの世を去る日が近づいていました。イスラームをこの地上に打ち立てるために送られた預言者は、その使命を終え、アッラーのもとに帰らなければならなかったのです。巡礼の数ヶ月後、彼は重い病気に倒れました。次第に病状は悪化し、礼拝を率いるためにマスジドに行くことも出来ないような状態になりました。ヒジュラ暦4月12日の朝、ささやくような祈りの言葉を最後に、預言者ムハンマド(彼の上に祝福と平安あれ)の魂は出発してしまいました。

まことにわたしたちはアッラーのもの、かれのもとに帰るのだ。(クルアーン第2章156節)

 信者たちは深い悲しみに包まれ、特に預言者の側近のひとりであったウマルは悲しみのあまり預言者の死を信じようとしませんでした。彼は取り乱して抜き身の剣を手に、「ムハンマドが死んだなどと言うやつは、この俺が首をはねてやる!」と叫びました。しかしそのときムハンマドの一番の親友アブー・バクルはこう言いました。「もしあなたたちがムハンマドを崇拝していたのならば、ムハンマドはもやは亡き人だと知れ。しかしもしあなたたちがアッラーを崇拝するのであれば、アッラーは不滅の御方であられる。」

 この言葉に皆はわれに返り、ムハンマドの死直後の危機をくぐり抜けたのです。

18.  結び

預言者ムハンマド(彼の上に祝福と平安あれ)は全人類への模範として生涯を送りました。彼はクルアーンの教えを身をもって示しました。彼は人間のあらゆる行ないに関して革命を起こしました。無学で無秩序のアラブ人たちが、イスラームを得ることによって高貴で優れた人間へと完成されていき、ついには全世界の半分を勢力下に収めるほどまでになったのです。


 預言者は神でもなければ神の子でもありません。他のすべての預言者達と同じように一人の人間でした。ただ彼は神の最後の預言者として全人類に道を示しました。クルアーンはこう語っています。

本当にアッラーの使徒は、アッラーと終末の日を望む者、アッラーをよく意識する者にとって立派な模範だった。(クルアーン第33章21節)

ムハンマドはおまえたちの誰の父親でもない。しかしアッラーの使徒であり、また預言者たちの封印である。本当にアッラーは全知であられる。(クルアーン第33章40節)

本当にアッラーと天使たちは預言者を祝福する。信仰する者たちよ、おまえたちは彼を祝福し、敬意を払って挨拶しなさい。(クルアーン第33章56節)

 アッラーが私たちを導き、預言者(彼の上に祝福と平安あれ)が苦難の努力の末に私たちにもたらしたイスラームの道を、正しく歩む力と勇気をお授けくださいますように。


★預言者ムハンマド(彼の上に祝福と平安あれ)の伝承集

○人の行為は、その動機によって善悪が決まる。

○親から子への最高の贈り物は、教育である。

○アッラーの御喜びは、両親の喜びにあり、アッラーの御怒りは、両親の怒りの中にある。

○幼い者を愛さず、年長者を尊敬しない者は、私たちの仲間ではない。

○知識を追求することは、信者すべての義務である。

○信者の中でもっとも信仰のあつい者は、礼儀作法がもっとも正しく、自分の妻をもっとも良く扱う者である。

○アッラーに許されているものの中で、最も良くないことは離婚である。

○アッラーの手によってのみ、私の命はある。自分を愛するのと同じように、兄弟を愛さなければならない。さもなくばイスラームの信者ではない。

○ムスリムとしての真実の証明は、自分の関係のないことに余計な関心を払わないことである。

○人が死んでも、次の三つは残る。その人が死んでも引き続き行なわれる慈善、後世の役に立つ知識、及び彼のために祈る心の正しい子孫である。

○まことにアッラーは純粋であられ、また純粋な者を愛される。アッラーは慈悲深くあられ、慈悲深い者を愛される。

○アッラーは寛容な御方であり、寛容な者を愛される。

○まことに謙譲と信仰は共にある。一方が失われれば、他方も失われていく。

〇一人でいることは、悪い友を持つよりは善い。良い友を持つことは、孤独よりは善い。正しい事を行なうことは、沈黙よりも善い。悪事を行なうよりは、沈黙を守る方が善い。

○善行を説く者は、それを実践する者と同じ立場にある。

○アッラーからの恵みは二つあるが、人々の多くはそれを知らないでいる。すなわち健康と余暇である。

○宗教はすべての暴力に対する抑制である。ムスリムは決して暴力をふるってはならない。

○アッラーが最初に創造されたものは知性である。

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