HUSHABY BABY(AliceSoft '99)
心地よい疲労感が身体を包んでいた。意識が暗闇の底に沈んでいる間も、体の方は懸命に働いて、機能不全の症状を回復してくれたようだ。ベッドシーツと下着がぐっしょりと湿ってる。きっと汗と一緒に身体の不良成分も吐き出してくれたのだろう。昨日のダルさはもう感じない。熱も引いたみたいだ。若い健常な肉体に感謝しようかね。まだ完全に覚めきっていない頭でそんなくだらないことを考えながら、枕もとの目覚ましを確認する。もう夕方といってもいい時間帯にさしかかろうとしていた。昨日の夕方から丸一日近く寝込んでいたことになる。…アイツ…まだいるかな? 俺は重たい瞼をうっすらと開けて、そこにいるであろう彼女の姿を求める。
日羽は、ベッドの脇にあるテーブルで気持ちよさそうな寝息をたてていた。テーブルの上で腕を組んで、そこに頭がちょこんと載っている。覗く横顔はいつもなら俺のとなりにあるものだ。寝顔は天使だね…。思ってはいてもこの先絶対口に出すつもりはない言葉を胸にしまって、横になったまま首だけを彼女に向けた格好で、軽く声をかける。
「日羽…。起きろよ。そんな格好だと腕しびれるぞ」
「…ん?…んん〜ん…」
眠りについてから間もなかったのだろうか。それだけで日羽は夢の世界からの帰還を果たしたようだ。ゆっくりと頭を起こして瞬き二つ。そして。
「…?…あっ起きたんだ…。おはよ〜」
ニヘラとした顔でズレた反応。オイ。俺は風邪ひいて寝てたんだぞ。前言撤回。やっぱコイツまだ半分夢の中だ。ちなみに現在時計の短針は限りなくVに近い位置にある。過ぎ行く夏を嘆くかのようなセミの声が遠く聞こえる。
俺は上半身だけをベッドから起こし、まだ薄ぼんやりと靄のかかったような頭を軽く揺すった。…大丈夫。汗でぐっしょりと湿ったTシャツがちょっと気持ち悪いけど、身体の方はすっかり回復したみたいだ。気分は上々…とまではいかなくても、悪くない感じだ。頭の中が徐々にクリアになっていく。日羽はというと、まだ夢の世界での残務処理が終っていないらしい。眼がトロンとしている。
「おはよ〜じゃねーよ。もう夕方だぜ? つーか寝込んでた病人におはよ〜はねーだろ」
「え〜? 起きたときの挨拶はいつだっておはようじゃない?」
目尻を擦りながら日羽は言葉を続ける。目尻を擦るのは(しかも決まって人差し指で)起きがけの日羽の癖だ。
「ほかになんて言ったらいいか、あたし知らないよ?」
そして一度軽く伸びをしてから、今更のように。
「どう? 具合は? まだ気分悪い?」
「…遅えよ。それを真っ先に訊けや…。いや。でもお陰様でもうだいぶいい。ぐっすり寝たのが良かったみたいだな。」
「そう?よかった。やっぱあたしの看病の賜物ね」
そうなのだ。俺は迂闊にも風邪をひいて、しかも珍しいことに熱まで出してしまっていた。夏に入る頃に付き合い始めた日羽とは現在半同棲中にある(さすがに後期の授業が始まる9月にもなれば、そんな生活もできなくなるだろうが)。そんな訳だから、日羽が俺の看病をする運びとなったのはごく自然な成り行きになる。
「こんなカワイイ子に看病してもらえるなんて、アンタ幸せ者だヨ?」
そう言葉を続けて、笑う。無防備な、無邪気な、心からの笑顔。普段、誰とでも愛想よく付き合う日羽だが、誰にでも笑顔で付き合う日羽だが、こんなにも安心しきった表情で笑うのは、俺の前でだけだ。俺はこの日羽の笑顔が好きだ。勿論一度も口に出したことはない。
「言えるかっ、んな恥ずいこと。」
「?」
声にならない声でぼそりこぼすと、不思議そうな日羽の表情。…当たり前か…。俺は場を取り繕うように軽口を叩く。
「『カワイイ』ねえ…。そんなジョークが飛び出すとこみると、目は覚めたみたいだな。ところで『カワイイ』オジョウサン? 袖に涎べっとりだけど」
「えっ? ウソ? ウソ?」
慌ててカーディガンの袖口を確かめる日羽。単純なヤツ。可愛いけど。
「口のまわりにも涎の痕のこってるぞ」
「え〜? ウソ? ウソ〜?」
袖を確かめる前に矢継ぎ早に俺の攻勢に遭い、軽くパニクる日羽。つくづく単純なヤツ。可愛いけど。
「ウソだ。落ち着け」
「…え? …ってアンタねえ!」
日羽は本当にコロコロと表情が変わる。さっきまでオロオロしてたかと思えば今はもうプンプンしてる。見てて飽きない。そんな日羽で遊ぶのは最近の俺の生きがいだ。だからこんなトコロで日羽をからかうのをやめるはずもなく。
「日羽は涎なんて垂らしてないよ。…ただ…な?」
「ただ何よ?」
上目使いでじとりこっちを睨む。オーコワイコワイ。
「…ただ、大口開けて寝くさってただけだ」
「…ええっ〜! うそ〜!?」
「アホ面全開だった」
「えええっっっ〜!! う、うそ〜!!?」
またもや簡単にパニクる日羽。ここまでからかいがいのあるヤツも珍しい。ホントに単純なヤツだ。可愛いけど。
期待通りの反応をたっぷりと堪能した俺は、そろそろ日羽を解放してやることにする。
「冗談だ。ジョーダン。おまえすぐ引っかかるから面白くて」
「…え?」
「だから、じょ・お・だ・ん(はあと)」
目の下でいったん日羽の表情が固まる。日羽はその表情のままゆっくり立ち上がると…、俺の頭から50cm程上の位置で…、にっこりと微笑んだ。まるで新人アイドルの営業スマイルのような完璧な笑顔。その笑顔の裏に何が潜んでいるのか? …分かりきってるけど。……形の良い唇が歪んでるように見えるのは、多分俺の気のせいなんだろうな。
一拍の間を置いて。
「☆!◇?★」
日羽はテーブルの上にあったrockin'onを俺の喉に突き刺した。正に電光石火。俺は日羽が得物を手に取ったことさえ視認出来なかった。一切の予備動作なく一分の隙もなく音もなく放たれたその突撃は、例え全盛期の辰吉といえどかわすことは不可能だろう。
テンプル
てっきり丸めて側頭部を襲ってくるかと思っていたが、そうきたか…。勿論喉を突かれた俺がすぐさまそんなことを考えられるはずもなく、これはあくまで後からの感想だ。
「ッげっ、ゲホッゲホッ…。て、てめー、日羽ッ! それは反則だろッ!? つーか俺、病人!」
「病人なら病人らしくちっとは殊勝な態度を取らんかいっ! …っとに…。でもそんな馬鹿言えるなら具合の方はもう大丈夫ね」
「全然大丈夫じゃねーよ。喉! 喉っ!」
「自業自得って言葉知らないの? そんなだから国文の単位落としたりするのよ。」
涙目の俺の抗議に冷たい視線で厭味な対応。守勢ではてんで弱いくせに、攻勢にまわると途端に戦闘力が上がるのが日羽だ。忘れたい過去の傷を見事に抉ってくれやがった。
「それは関係ねーだろッ! だいいち国文はもう取ったッ!」
「そうね。セ・ン・パ・イ。何故か一年生に混じって授業受けてたような気がするけど。国文Iは初年度の履修科目よねえ。センパイは今何年生でしたっけ?」
「…おまえ…ヤなヤツだな…」
いつのまにか完全に攻守が入れ替わっている。
「ヤなヤツなのはアンタでしょ? あたし、看病のお礼も言ってもらってないけど。」
「頼んだ覚えはない」
「…言うと思った。もうちょっち工夫がほしいわね。20点」
「くっ、攻撃モード入ったおめーはホントにヤなヤツだな。ファック!」
などと本心を晒しても、あっけなく迎撃されるのは目に見えているので、ここは素直に穏便に。
「馬鹿言ってスミマセン。看病してくれてドウモアリガトウゴザイマシタ。病身の私目にとってあなたの存在はトテモアリガタイモノデ…」
心にもない礼を述べさせていただいた。本当は結構感謝したりしてるのだが、それを素直に伝える俺ではない。
日羽にあきれた様子はない。
「まあ、まともなお礼なんて期待してないし。言っただけマシってとこね。そんなもんで許しといてあげるわ」
だそーだ。デキた彼女を持って俺は嬉しいよ。
楽しい喧嘩はいつだって日羽のお許しで幕を閉じる。そう。いつものパターン。
まず俺が日羽をからかい、日羽が反撃する。日羽の攻撃フェイズがいつだって物理的攻撃から始まるというのは大いに問題があると思うのだが。反撃を喰らうことが分かっていても(しかも肉体的ダメージ付きで)、日羽をからかうのを止めようとしない俺と、毎回毎回俺のくだらない冗談に簡単に乗せられる(その後にしっかりとお返しするが)日羽。どっちもどっち、懲りない二人だとは思う。だけど俺はこの他愛ない馬鹿なやりとりが本当に楽しくて仕方ない。おそらく日羽もそう感じているはずだ。なんのかんの言っても俺の側にいることを止めないのだから。
楽しい喧嘩は毎日のように繰り返され。俺の冗談で幕を空け、日羽のお許しで幕を閉じる。