Study in USA

英語が嫌いだったのに、なんやかんやで、気が付いたらアメリカにいた。今では自他ともに認めるアメリカ大好き!人間になってしまった。で、友達を「一緒にアメリカ行く〜?」とじわじわと洗脳している私。(笑) それだけ、アメリカでの体験は私の人生を変えた!といっても過言ではないわけで。私の体験がどれだけ役に立つかは謎ですが、少しでも興味があるなら、ぜひぜひぜひ、留学を考えてみてください! 

***1/21/05 追記***
ここにある情報は、私の個人的な経験になります。
情報的には結構古いので、イメージ的な参考として読んでください〜。

また、ウイチタ州立大学で留学を考える方からメールを頂くようになりました。
質問内容が重複していること、また、同時期に留学を考えている人たちが
知り合いになれるように、と掲示板を設定しました。
古い情報からしかお答えはできませんが、よかったら書き込みしてみてください。


日本での修行

ばたばたの留学準備

祝・渡米

どきどきの寮生活

語学学校スタート

慣れてきたぞ!寮生活(食事編)

遊んでしまえ!寮生活(人間関係編)

Go back to HOME


日本での修行

アメリカに行こう。そう思ったのは本当の英語というものに触れたときだったと思う。受験した国立大学にみごと振られた時、「どうせ一流大学に入れないなら、せめて英語力をつけて、マスコミ関係に進もう」と、アメリカの大学の日本校に進むことを決意。というと、人聞きはいいけど、実際、浪人したくなかったというのもあった。良くも悪くも、この選択は私の人生を変えたと思う。

新宿・下落合にあるキャンパスで、英語を二年間みっちり(?)勉強する。受験勉強をしていたとはいえ、英語が好きではなかった私の英語力は散々たるもので、入学時に強制的に受けさせられたTOEFLは390点くらいだったと思う。(問題形式も知らず受けたとはいえ、ひどい点数だ(笑)) 学校のシステムとしては、語学力があれば、大学に進めたのだが、私のように未熟者はIELP(Intensive English Language Programの略、かな?語学学校みたいもの)で「修行」する必要があった。五段階のレベルにわかれていて、私は真ん中のレベル3からスタート。アメリカの大学の日本校だけあって、先生は全員、英語を母国語とする外国人で、授業も教科書もすべて英語だった。アメリカと違うのは、学校があるのが日本であり、クラスメートも全員日本人であったこと。(私が入学した年に学校ができたため、アメリカの本校からはまだ他国籍の生徒が留学していなかった。) クラスが始まった当初、聞き取りが全くできず、クラスメートと聞き取れた部分をつなぎ合わせ、「こういうことじゃないの?」と推測する毎日だった。鮮明に覚えているのはWritingのクラスで、Outlineの書き方を習ったのだが、辞書で調べると「外形線、輪郭図、概略」などと、わかったようなわからない意味がかかれており、一体何の話をしているのか、いくら説明されても、全然理解できなかったこと。うまくできたもので、1ヵ月英語漬けにされると、なんとなくわかるようになるから不思議だ。半年で、IELPの最終レベルをなんとかパスし、無事、学部入学にこじつける。

出来たばかりの大学、ということで、専攻はBusinessとGeneral Studies(教養学部)のみ。どうもBusinessは肌に合わず、General Studiesを専攻する。大学自体は4年制だったが、2年でA.A.(Associate of/in Arts)という準文学士号も取れた。正確に言うと、2年、と期間が決まっているのではなく、必修科目と必要単位さえ取ってしまえば、いつでも卒業ということになる。授業料が1学期50万円ちょっともかかっていたので、親に申し訳なくて、夏学期まで15〜18 credit hours(5、6教科)取っていたので、一年半でA.A.を取ることができた。このころ受けたTOEFLで、480点くらい。ただ、要領さえつかんでしまえば、なんとかなるもので、そこそこの成績は取れていた。(Businessだけはどうしてもやる気がなくてCだったけど) アメリカと比べると授業のレベルはかなり低かったけど、この頃は結構勉強した気になっていたなぁ。

そういえば、卒論ではないけれど、Englishのクラスでリサーチ(論文)をしたのだが、このときダニエル・キイスにはまっていた事もあって、私の選んだトピックが「Schizophrenia(精神分裂病)」。これは本当に後悔した。参考文献に出てくる専門用語もわからなければ、引用されるドイツ語もわからず。しかも、「スキッツフリィニア」と発音することを知らず、論文発表会の時に「スチゾフレニア」といって恥をかいた。って、普通知らないよね???知らんと言ってくれ〜(笑) (ちなみに中学3年の時にうけた英検3級の2次試験ではMr.Bakerを堂々とミスター・バーカーと発音していた。本人は必死だっただけに試験管は笑うに笑えないって顔してたなぁ)論文は13ページ以上というのが条件だったのに、8ページくらいしか書けず、しょうがないので能動態を受動態に、単語を熟語に変えて文字数を稼いだ。挙句の果てに、字体を変え、1ページあたりの行数を変え・・・涙ぐましい(?)努力の末、提出にこじつけた。しかも、成績はA!びっくりした〜。(笑) この前、ちょっと読んでみたのだが、やたらThere are〜だの、 It is〜だの、貧弱な文体を乱用しているわ、やたら受動態ばかりで読みづらいわ・・・先生も大変だっただろうな(笑)

A.A.を取ったあと、4年制に進むことも出来たのだけれど、学費が高いわりにそれほど英語力が伸びないことに気が付いた。(というか、やる気の問題もあったけど。) 日本校を卒業したところで、就職も厳しいという現実も目の当たりにし、アメリカに行くことを決意。日本校のずさんな経営体制が気に入らず、サウスダコダにある本校には行きたくなかった。そこで、本格的に、大学探しをはじめることになる。

ばたばたの留学準備

ちょうどタイミングよく、池袋のサンシャインで留学フェアがある、と友達から情報を仕入れ、とある日曜に出かけてみる。会場には100校くらいのブースがあり、説明を聞いて回った。でも、説明を聞くより、資料請求のためにひたすら自分の住所を書いていた記憶しかない。しかも、このとき、番地を書かずにいきなりアパート名を書いていて(すべて英語表記だったので気がつかず)、友達には送られてくる資料が私には届かなかった。住所が完全ではないにしろ、どういうわけか、届いた資料もあり、その中の、1番授業料の少ない学校を選ぶ。それが私が行くことになるWichita State Universityである。

今思えば、大胆としかいいようがないのだが、私は1校にしか願書を出さなかった。思い込んだら〜の性格からか、絶対、大丈夫という、何の根拠もない自信があった。学校が要求する提出物は、願書、申込手数料(小切手)、高校・大学等の成績表、残高証明書、あればTOEFLのスコアシート、等。幸い、エッセイの提出は必要なかった。願書を提出して、1ヶ月もたたないうちに、Congratulations!から始まる入学許可書とI-20が届く。I-20とは、ビザを申請するときに必要な書類で、いうなれば、学校側からの生徒引き受け書みたいもので、英語力の有無、経済力の有無、ビザ申請期間、などが記載されていている。その他に、寮や大学・語学学校の案内書、申込書、入学時のオリエンテーション、などが送られてきた。こうなれば、入学したも同然で、急に留学が現実のものと思えてくる。

しかし、問題もあった。提出する残高証明書をどうするか、である。そう。親には何も相談していなかった。以前、電話で留学したいと言ったとき、遠まわしに、まだ弟もいるんだから、と色よい返事が返ってこなかったせいもあって、なんとなく言い出せなかった。親には頼れない。だとすれば、自分でお金を稼ぐしかない・・・。

1994年5月にA.A.を取得、日本校を卒業する。思い込みの激しい私は「東京にいて高い家賃を払うのはばからしい」と決め付け、実家に帰ることにする。が、これは間違いであった。パン屋と結婚式場でバイト口をみつけたのはいいが、とても必要な金額は稼げそうもない。もう1つバイトを掛け持ちする時間も体力もあったが、なにしろ、そこは田舎。仕事がないのである。学校には8月に渡米する、と伝えてある。だけど、断念せざるをえなかった。I-20に記載されている、年間13000ドルという学費・必要経費分稼ぐには一体何年かかるのだ?そう思うと悲しくなった。

ある日、何気なく学校から送られてきた資料を読んでいると、語学学校は2週間で1タームになっており、かかる費用は30万円ちょっと。これを利用しない手はない!「語学力に不安があるので、最初の2週間は語学学校で勉強したい」と手紙を書き、語学学校用のI-20を再度送ってもらう。案の定、記載されている必要経費は2週間で3200ドル。そのくらなら私の貯金残高でなんとかなる。急に留学が現実のものと思えてきた。

7月。まだ、パスポートすら取得していなかった。これはやばい、とあわてて申請する。1週間後、パスポートを受け取る。わくわくした。海外旅行すらしたことがないのに、留学というのも、突拍子ないけど、友達にいわせると私らしい、ということらしい。(どういう意味?(笑)) 友達は、私の留学宣言にびっくりしつつ、「がんばってね」と応援してくれた。ただ、この時点で、まだ両親には言い出せないでいた。

新しいI-20と、30万そこそこの残高証明をつくり、大阪までビザの申請に行く。パスポート取得後、無知な私は大阪の領事館に「時間がないので、FAXで申込書送ってもいいですか?」と質問し、翌日、怒りの電話を受けた。「そんなこと言われても困ります!」といわれ、ちょっと逆ギレ状態で「じゃあ、明日、大阪に行きます!」と言ってしまった。(笑) 夜行バスで大阪には朝の6時半くらいに着いた。誰もいないバス停でぼけ〜とパンを食べ、9時まで領事館の前で待ち、申請に1時間半かけ、昼くらいには無事、5年間のビザを取得した。かなり心配だった残高証明書も、とくに問題はなかったらしい。というより、私名義の口座の証明書だったから、きっと親が別に援助する、と思われたんだろう。(当たり前か) 最近では、ビザの発行が厳しくなっているらしく、語学学校用のI-20だと、1年しかビザがおりない、だの、発行には1ヶ月かかる、と聞いた。そう考えると、私はかなりラッキーな部類に入るのだろう。ともあれ、これで、アメリカに行ける。そう思うと嬉しくてしょうがなかった。

あとは渡米用のチケットである。片道54000円の格安航空券を手配。ついでに、保険もその代理店で手配してもらう。ここまでくると、いい加減、親に言わないわけにはいかない。出発の一週間前、相談という形ではなく、「1週間後にアメリカに行くから」と、ほとんど事後承諾の形で、親に話した。「え?」と言ったまま、硬直する両親に、悪いなぁ、と思ったけれど、行きたいものは行きたい。勢いで動いていたところもある。だけれど、あの無謀なまでの行動力とバカがつくほどの思い込みのおかげで、留学を実現させることができたのだ。ほんとうに、若かった!(笑) 

祝・渡米

忘れもしない1994年10月11日。デルタ航空に乗って、アメリカに渡る。成田空港までの行き方を調べていなかったため、普通電車で途中まで行き、タクシーに乗り換え、空港には30分くらい前に到着。あやうく乗りそこなうところだった。無謀にもほどがある(笑) 見送りに来てくれた友達と涙の別れを惜しむ暇もなく、ターミナルを走って搭乗口に。でも、全然余裕だった。(と言ったら、「そういう問題じゃないでしょ?!」と友達に怒られた。あーあ(笑))

留学先はカンザス州ウイチタ。アメリカのど真ん中の州の、そのど真ん中にある都市の州立大学である。カンザス、といっても、すぐに場所を思い浮かべられる人は少ないと思う。だって、私もそうだったもん(笑) あのときの私の関心事は、お金がなくても留学できる場所であり、ロスやニューヨークといった娯楽盛りだくさんの街には用はない。どこにしよう、と考えているとき、日本校の先生に、「ああ、あの大学は勉強するにはいいところだよ」と薦められたこともあって、ウイチタ行きを決めたのだが、ウイチタに着いて、その言葉の意味を実感することになった。キャンパスのまわりには墓地はあっても、店もレストランもなく、車を持たなければ、行動範囲は寮と大学のキャンパスのみに限られてしまう。たとえ車があったとしても、夜な夜な遊びに行く場所も少なく、娯楽といえば、映画とビリヤードとボーリングと週末のパーティーくらいなもので・・・本当に勉強するには最高の場所だと思う。選択が間違っていたか、というと、トータルで3年間ウイチタで過ごし、なおかつ、その場所にまた帰ろうとしているんだから、正しかったんだろうなぁ。

さて。ウイチタの空港に着くと、日本人の女の子が私を迎えてくれた。日本人学生会のヘルプで、こうして、新入生が来ると誰かしら迎えに行くことになっているとのこと。スーツケースが1つしかない私をみて、彼女は「え?これだけ?」とちょっと驚いたようだった。重いものは持っていきたくなかったし、何もジャングルに行くわけでもなし、アメリカに着いたら買えばいいや〜とのんきに考えていたので、何で驚くんだろう、と逆に不思議だったのだけれど。彼女のボーイフレンドが韓国人で、一緒に迎えに来てくれていたのだけれど、いきなり車の中で英会話が始まってしまい、ほんとどうしようかと思った。天気の話だとか、フライトの話だとか、当り障りのない会話だったけど、緊張しまくりで、えらい疲れたぁ。(笑) そのまま、買い物に連れて行かれ、日常生活に必要な、シャンプーだとか、洗剤だとか、ハンガーだとかを買い込む。日本のスーパーの倍くらいあるカートに山盛りに買い物したのに、全部で100ドルもしなかったのは、すごくすごく感動した!だって、ハンガー10本で99セントだよ?!初日にして、いきなりアメリカの醍醐味を覚えてしまったような気がする・・・。もう、買い物せずにはいられない(笑)

どきどきの寮生活 

これだけ鷹揚に留学を実行に移せたのには訳があって、実は日本校にいた友達が8月に一足先に同じウイチタに来ていたのだ。買い物を終え、友達のアパートに連れて行ってもらう。彼女は寮に入ったものの、1ヶ月でアパートに出たらしい。寮に住むか、アパートに住むか、決めるのはこっちに来てからでも大丈夫、といわれていたのを鵜呑みにして、何も考えていなかっのだけど、やはり車がないと外(キャンパスの外にあるアパートを指す)に住むのは大変、というか、不可能に近い。結局、寮に住むことになる。

翌日、友達のルームメートに学校に連れて行ってもらい、入寮の手続きを行う。これがまた、面倒だった。専攻は?スモーカか?趣味は?夜型か?・・・などといった、アンケートが延々続き、頭がくらくらした。ルームメイト選びのためらしいが、アメリカらしいというかなんと言うか・・・。寮のフロアー毎に特色があり、私が選んだのはQuiet Floorという、「静かにしなさい」という時間がもうけてある、勉強したい人のためのフロアーだ。ようやく終わった、と思ったら、今度は食事の回数について、である。寮での食事は選択制で、1週間単位で食べられる回数が決まっている。食事は寮費に含まれていて、食べる回数が少なければ、多少、安くなる。途中で変更も可能だというので、1週間18ミールのコースを選択しておいた。書類にサインしたあと、学校のすぐそばにある寮に向かい、チェック・インする。

チェック・インの際に、玄関と部屋の鍵、部屋のチェックリスト、一通りの設備についてかかれた案内書を渡される。寮の敷地内にはレンガ色の五階建ての建物が二棟あり、それぞれNorth Tower、South Towerと呼ばれていた。寮の設備としては、各フロアーにTVラウンジ、各棟の1階にランドリー室と勉強部屋が、Northにキッチン、Southにコンピューター室があった。公衆電話もあったし、自動販売機もあり、必要なものはとりあえずある、というかんじ。各棟の入り口にはバイト学生がセキュリティーチェックをしていて、夜は警備員(ただし、学生アルバイト)が寮内をパトロールするという気合の入れ具合である。「さすがアメリカ!」と妙な感心をしながら、部屋に向かう。

私の部屋はNorth Towerの5階にあった。どきどきして、1510と表示のあるドアを開けると、ルームメイトは不在で、ちょっと拍子抜けした。部屋は2人仕様になっていて、間取りは右図のような感じ。ベット、机、いす、クローゼットが添えつけられていて、バス・トイレは隣部屋との間にあり、4人で共有する。奥側が私のスペースのようで、がらんとしていた。前日に買ってきたものと、スーツケースをベット脇において、ベットに腰掛けてみる。新しい生活の始まりか・・・そんな感慨にふける柄でもなく、落ち着きなく買ってきたシーツを取り出し、ベットメーキングをしてしまった。スーツケースの中のものも、クローゼットにいれ、一通り片付けると、ようやく、「ほんとにアメリカで暮らすんだ」という感覚がじわじわと沸いてきた。寮生活の始まりである。

二時間くらいして、ルームメイトが帰ってきた。私に気づくと、「ハァァァ〜イ」と、にっこり笑って、自己紹介してくれた。彼女はカンザス出身のアメリカ人で、看護学を専攻しているとのこと。黒人のわりには、おっとりとした、優しい目をした人で、「お母さん」的雰囲気のする人だなぁ、と思った。私も、何度も頭の中で練習した自己紹介をし、「顔合わせ」は思ったよりあっさりと終わった。「わからないことがあったら、なんでも聞いてね」と、言ってくれたが、なにぶん、私はろくな英語がしゃべれない。はやく「おしゃべり」できるくらい、話せるようになりたい。そう思った。

最初の3日は訳もわからず、部屋でぼーっとしているしかなく、「こんなもんなのかなぁ」と少しテンションが下がっていた。少なくとも、ルームメイトが部屋にいれば、話も出来るし、ウイチタについてもいろいろ聞けたのだが、学部生の彼女は夜にならないと帰ってこない。頼りの友達は、アパートに住んでいて授業で忙しいし、日本から特に雑誌や本を持ってきたわけでもなく、しょうがないから、寮の説明書なんかを読んでるしかなかった。早く学校が始まればいいなぁ、とそればかり考えていた。

語学学校スタート

ようやく学校の始まりである。TOEFLの正式なスコアを持っていなかった私は、クラスわけのテストを受けることになる。大学の入学条件のTOEFL530点は持っていなかったけど、それなりの期待はあった。だけど、私が入れられたのは、上から3番めの、Advanced I のクラスで、ちょっとがっかりした。(自信過剰だったなぁ。え?今も?(笑)) 教科書を受け取ると、どうも内容的に日本校の語学学校とたいしてかわりはない。不安になりつつも、10月という中途半端な時期のスタートだから、まぁ、いいや、というかんじで自分を納得させた。

語学学校は寮から歩いて10分くらいのところにあった。だったら歩けばいいのに、ご丁寧にピックアップサービスがあり、めんどくさがりの私は、結局、そのお世話になっていた。一度、車で移動しちゃうと、その10分の距離がやたら長く感じるものである。って、言い訳か(笑)

授業はWriting, Listening/Speaking, Grammar, Reading, Labを軸にスケジュールが組まれ、Conversationという、ノバのような英会話学校にありがちな、会話のための授業もあった。一応、Listening/Speakingのクラスの課題として、1ターム中に10回以上は行く、と決められていたのだけれど、あくまでも本人のやる気次第、というかんじだった。

1クラスは大体、15人前後だったと思う。世界中から集まってきているだけあって、学校にはいろんな人種がいたが、メキシコ系はやたらめったら喋るくせに文法は苦手とあって下のクラスに、アジア系は喋れないけど文法はできるから上のクラスにかたまる傾向があった。私のクラスは、インドネシア人、韓国人、台湾人、中国人、マカオ・香港人、ロシア人、の静か〜なクラスで、血の熱いメキシコ人ばっかりの他のクラスが楽しそうに見えたなぁ。それでも1日中同じメンバーでクラスを取るから自然と仲良くなる。ふたを開ければ、マラソンの選手だった中国人やら、尾崎豊のI Love Youを歌って日本人を口説こうとするインドネシア人やら、突然意味不明の質問で授業を中断する韓国人やら、結構おもしろいクラスメートが集まっていた。仲のよかった台湾人のアイリンとは授業中に「眠」とか漢字で書きあって、無駄話してたりもした。授業自体はつまらなかったけど、ちゃんと宿題もやったし、学校に行くのは嫌ではなかった。

語学学校では、留学生の生活のヘルプもしてくれて、なんらかのアクティビティーが毎週あった。もちろん、タダである。IP(仮運転免許)取得ツアー、ウエルカム・ピクニック、バスに乗ってモールに行こう!ツアー、映画鑑賞ツアー、などなど。暇な私はほとんど参加してた気がする。初日に買い物にはまってしまった私と買い物好きの友達は、なんのアクティビティーに参加しても、ことあるごとに、ナイフつきたてて「モールに行けっ!」と脅迫したい衝動にかられ、いつも、ピックアップ・バンのっとり作戦について熱く語っていた。この頃、「モールに行け」はある意味、合言葉になってたくらいです、はい。

慣れてきたぞ!寮生活(食事編)

住めば都とはよく言ったもので、友達が増えるにしたがって、毎日が楽しくてしょうがなかった。カフェテリアにいけば、誰かしら友達がいる。車もなく、他に行くところがなかった私はよくオープンからクローズまで、いりびたっていた。カフェテリアはブュッフェ形式で、好きなだけ食べることができる。むちゃくちゃまずいのが難点だったけど(笑) 黒人のおばちゃん2人が、"What do you want?"と"Anything else?"とだけしか言えない機械みたいに、けだるそうにサーブしてくれてたなぁ。たまに、ライスが選択肢にあり、おっ!と思って口に入れると、まるで粘土みたいだったりする。炊飯器を使ってどうやって、こんなにまずく炊き上げられるのだろうか? とりあえず、ピザとハンバーガーとサンドウィッチとサラダだけは、食べられる味だったので、いつも同じようなものを食べていた。寮生活も長くなると、変な知恵もついてくる。電子レンジを応用して、サラダバーのレタスに、醤油とチャイニーズホットソースをかけたスープもどきを作ったり、バナナとソフトクリームでバナナサンデーを作ったり、それなりに面白がっていた、と思う。そのうちに、舌もバカになってきて、デザートというより砂糖の塊といったほうがよいケーキなんかが、おいしく感じられてくる。そうなると、末期状態で、質より量!とばかり、ばくばく食べる習性がついてしまい、体重も増加してしまうのだった・・・あーあ。

1ヶ月もたたないうちに、1週間に食事は18ミールもいらない、という気になってきた。朝食の時にマフィンやドーナツ、果物をくすねてランチにするという知恵もついたし、買い物に連れて行ってもらい、ヌードルやらパンを買い込むこともできたし、友達とご飯を食べに行ったりもするようになった。まさに、車を持っている友達様!というかんじである。というわけで、15ミールに変更すべく、Housing Officeに乗り込んだ。「ミール変更したいんですけど・・・」「OK。じゃあ、ここにサインして・・・」と渡された書類を読んでいると、係のおばちゃんはなにやら一生懸命、電卓をたたいている。何やってるんだろう?と疑問に思った私に、彼女は「ちょっと待ってね。今、ミール数の差額がいくらか計算するから」とにっこり笑った、まではよかった。それから延々30分「ええっと、今日が水曜だから、全部で15日で・・・」という独り言を聞きながら、おばちゃんは電卓を叩き続けた。「えーい!貸せっ。私がやるっ」と何度電卓を奪いたくなったことか。アメリカ人は計算が苦手というのは真実だ!と声を大にして言いたい。

かなりの時間を要したが、ミール変更完了。1週間で15食。ということは、1日2食で、どこか1日だけ3食という計算になる。土曜と日曜は朝食と昼食が一緒になったブランチなので、問題はない。あとは平日だが、3食のなかで1番おいしい朝食ははずせない。(というか、手のかかってない分、まずくはなかった) 焼きたてのドーナツ、マフィンに、日替わりで卵料理(ゆで卵、スクランブルエッグ、目玉焼き)、ソーセージもしくは焼ベーコン、オートミール、シリアル、フレンチトースト。ジュースも朝だけは100%オレンジジュースやアップルジュースが飲めた。朝の授業はさほど早い時間ではなかったが、他の「朝食メイト」たちと、優雅な(?)時間を過ごすのが日課になっていたし。夕食もまずい、とはいえ、友達とうだうだ居座りつつ、くだらない話をするのが楽しみだったから、これもはずせない。と、なると、削るのは昼食、である。となれば、持って来れるものは片っ端からカフェテリアから調達するしかない。まず、スプーン、フォーク、カップ、皿の一式(これは誰の部屋に行ってもあった!)、朝食からゆで卵、果物、マフィン、ドーナツ、ティーバック、挙句の果てに、水筒にジュースも持って帰ってきた。ルールでは果物1個は持ち出しOKになっていたから、あながち規則違反でもない、よね?(笑) その他に、プラスチックで出来たポットの底からコンセントが出ているお湯沸かし機(10ドル前後)があって、無理やりインスタントラーメンを入れて作ったりもした。(私は密かに「ドーム(寮)の友」と呼んでいた) こうして飢えをしのいでいたわけだが、こういうのも、なんかいいぞ!と1人で悦に入っていた私。(おいおい) 余談になるがその「ドームの友」は毎晩、各部屋でフル回転し、夜中に廊下に出ると妙なにおいが漂っていた。ちなみに、韓国人に教えてもらった韓国の辛ラーメンにキムチと生卵をいれたラーメンは絶品だった!その分、臭ったけど。(笑)

遊んでしまえ!寮生活(人間関係編)

アメリカは人種のるつぼ、とよく言うけれど、寮ほどいろんな人間がいる場所はないと思う。私のいた大学は全米でも留学生の占める割合が高く、同じ規模の大学では8番目ということであった。だから当然、寮にはアメリカ人よりも留学生のほうが多かった、と思う。面白かったのが、同じ日本人でも付き合う人たちの範囲が全然違っていたこと。同時期にきた女の子はなぜか韓国人コミュニティーに溶け込んでいたし、沖縄出身の男の子はその日本人ばなれした外見からかタイ・インドネシア人と遊んでいたし(しばらく日本人じゃないと思ってた(笑))、スペイン語専攻の友達はメキシコ人と仲がよかったし、そういう私はクラスメートがらみでマカオ・香港人とつるんでいた。もちろん、日本人同士でかたまる場合もあったし、「日本人とは口をきかない」とばかりに、アメリカ人とだけしか喋らない子もいた。人それぞれなのだけれど、いかに「遊ぶ」かというのは、その人の留学生活に大きく影響するんじゃないかなぁ。私には理解できなかったけど、学校にも行かず、部屋でスーパーファミコンやって、朝食食べてから寝るという、アメリカにいながら日本時間で生活してた日本人もいた。お金がなくなったら明日帰国!という立場の私としては、ちょっと腹もたったけど。

びっくりしたのが、どの国の人もみんなフレンドリーなこと。エレベーターに乗リあわせただけで、ちょっとした会話をしたりする。「どっから来たの?中国?香港?あ、わかった、韓国でしょ?」って言われてむかっときたこともあったけど(笑)。これは寮だからじゃなくて、アメリカという国のなせる技なんだろうなぁ、と思うと妙に嬉しくもなった。

少しの窮屈感に慣れてしまえば、寮も楽しいところで、同じ建物に友達がいる、というのはなかなか魅力的だ。暇があっては友達の部屋に遊びにいっていた。仲間の1人が誕生日だ!といえば、ケーキやジュースを買ってきて、パーティーを開いたり、金曜の夜なんかは(ほんとは駄目なんだけど)ビール片手に夜中までずっとおしゃべりしてたり。今でもよく覚えているのが、テキーラパーティー。メキシコに短期滞在に行って、お土産にテキーラを買ってきた!という友達がいて、じゃあ、パーティーだ!とばかりに、8人くらい?で1部屋にあつまったことがある。はじめは普通に話をしていたのだが、どこからかトランプがでてきて「大貧民」大会になってしまった。そう、ご存知の通り、勝者が大富豪、敗者が大貧民。そして、1ゲームごとに大貧民が大富豪に強いカードを渡し、代わりに弱いカードを受け取り、勝負再開というルールのため、一度負けると蟻地獄のごとく、ずーと大貧民を強いられる。さらに、特別ルールとして、大貧民はテキーラをワンショット一気飲みすること、が付け加えられ、勝とうが負けようが、みんな壊れまくってたなぁ。(笑) 幸い、私はスリーショットくらいですんだけど、負け続いてた男の子はべろべろになってた。一晩そんなくだらないことをして、自分の部屋に帰ればいいものを、みんなで雑魚寝して。(途中で、友達のルームメイトが戻ってきたけど、恐れをなしてすぐにどっかに行ってしまった・・・) もうやりたくないけど、楽しかったなぁ。

日本と違って、友達の年齢の幅もかなりあった。下は18歳、上は私の知り合いで35歳くらい。(大学にはもちろんおじいちゃん、おばあちゃんもいた) 渡米したのは、20歳になりたてのときだから、パーティーなんかで年上の人の経験談を聞くのがめずらしくて、楽しかった。もちろん、アメリカに行こう!と思うぐらいだから、普通の人がいるわけもなく(笑)、老若男女問わず、みんな個性的。よく、海外に行くと友達が減る、というけれど、あれはある意味当たってるし、ある意味外れていると思う。日本の友達とはなんとなく、話が合わなくなったりして疎遠になるから、いままでの友達は減る。そのかわり、海外では年も国も性別も関係ないから新しい友達はどんどん増える。人との付き合い方が変わる、といったほうがいいのかな。友達がパーティーに行くから、自分も行きたい、というのではなくて、楽しみたいからパーティーに行って友達をつくる、みたいな。友達の友達は、ほんとに、友達なんだよ〜(笑) そうやって広がっていく人間関係は、留学のたまもの、なんじゃないかな、と思う。

・・・つづく

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