1984年選挙の考察

〜フェミニスト団体の活動 そして教訓〜

4年 古瀬 容子

序章

1章         フェミニズム運動の流れ

 1節 フェミニズムの第二の波

2節         ERA不成立

2章         1984年選挙:G. フェラーロ副大統領の登場

1節         ジェンダー・ギャップへの着目

2節         フェラーロの指名に向けて

3節         女性票の動員

3章         敗北の原因について

 1節 フェミニストに対する批判

2節         当時の状況と候補者の戦略比較

3節         個人攻撃にみられる社会の保守性

終章

 

序章

 女性の政治参加と、選挙における女性票の重要性に関心が集まったのが、民主党から米国史上初の女性副大統領候補ジェラルディン・A・フェラーロがウォルター・F・モンデール大統領候補のパートナーとして登場した1984年選挙であった。フェラーロの登場は非常に画期的と受け止められ、当初は全米に大きなセンセーションを巻き起こし、人々の注目を集めたと言われている。

 フェミニスト団体は、政治の中枢に女性を送り込むことで政策に影響を与えようという考えから、積極的にモンデール=フェラーロ陣営を支持した。1980年選挙でレーガン大統領に対して顕著に表れた、「ジェンダー・ギャップ」(男女の投票行動における差)に着目したフェミニスト団体は、全米各地から結集し、女性票を多数獲得することに期待して大々的なキャンペーンを展開していった。

 しかしながら、選挙結果は共和党のレーガン=ブッシュ陣営の圧勝であり、フェラーロは大統領の選出自体には期待されていたような影響をもたらすことが出来なかった。

 1984年は、キャンペーンの成果もあって男性より700万人多くの女性が投票し、女性票の重みは非常に大きかったという。[i]ならば、まとまった女性票があれば、民主党は選挙においてもっとレーガン陣営を脅かすことが出来たはずである。なぜ、フェミニストの期待通りにジェンダー・ギャップが選挙結果に大きく表れなかったのであろうか?この論文では、1984年選挙におけるフェミニストの活動と敗北の原因を考察する。加えて、保守派女性の台頭についても触れながら、上記の疑問の答えを明らかにし、フェミニスト団体にとっての教訓を導きたい。

 84年選挙とフェミニスト運動を合わせて考察している先行研究としては、キャスリーン・A・フランコヴィックの"The Ferraro Factor:the Women's Movement, the Polls, and the Press"(Sage Yearbooks in Women's Policy Studies, vol.12)やセオドア・ R・マーマーの"The Lessons of Mondale's Defeat"(Political Quarterly;56 Apr.1985)などがある。

 フランコヴィックは、84年選挙においてどれだけ"Ferraro Factor"が作用したかを検証し、結論として若い・無所属の・西部の女性を動員することが出来たというメリットに対し南部の民主党白人男性を遠ざけてしまったデメリットがあったため、総合的にみて影響は0であったとしている。そして、そのような"Ferraro Factor"が人々から騒ぎ立てられるようなものに膨らんで行った過程を追いながら、フェミニストや報道記者、世論調査員のデータの用い方などを検討し、そして、世論調査に対する読み込みが足りなかったことを非難している。

 マーマーは、84年選挙ではモンデールが党内での権力闘争に時間と労力をかけすぎ、国民に対して自分の政策や考えを明らかに示す機会をほとんど持たなかったこと、逆に党内での対抗馬がモンデールと対抗する上で作った彼のネガティブなイメージが広まってしまったことなどが敗北の大きな原因であったと考えている。また、副大統領候補に女性を選び、フェミニストの党だという印象を国民に与えてしまったのがそもそもの間違いだったとしている。

 前者は、"Ferraro Factor"は結局選挙に影響を及ぼすことはなかった、と論じているが、選挙結果自体に対してのみの視点であり、社会に及ぼした影響や、有権者の意識に及ぼした影響などについては触れられていない。後者についても同じ点を指摘することが出来、フェミニストの成果については述べられておらず、失敗後の批判のみになっている。

 84年選挙の結果は民主党側にとって明らかな失敗であったと捉えられるかも知れないが、その原因を多角的に探り、より詳しく分析していくことには意義があると考えられる。米国初の女性副大統領候補の登場で、非常に注目された選挙となったが、実際には彼女は結果に影響を持つことが出来なかった、というのがほとんどの研究の流れであるように見うけられる。そのせいか、選挙自体の分析には、フェミニズム運動についてはあまり深入りされていない。ジェンダー・ギャップについての研究も多数存在するが、これは過去の選挙結果の数値データとの比較が中心になっている。

 そこで本論文では、フェミニストの活動とその成果についても着目していく。ただし、フェミニスト側の資料ばかりに頼るとフェミニストの見解寄りの偏ったものになってしまう。こちらでは、困難の原因として当時の社会状況を挙げているものの、自分たちの活動における反省点については詳しく記されていない。よって、1984年の選挙を考察する上で、背景としてフェミニズム運動の流れや社会の保守回帰現象の流れを見ながら、フェミニスト運動のあげた成果と失敗・教訓を合わせて論じる。このように、フェミニストに着目しながらも包括的な視点を加えることが本論文のオリジナリティである。結果のみ、あるいは過程の一面のみを見て84年選挙について判断するのではなく、このような方法を採ることによって、84年選挙が人々にとってどのような意味を持つのかということの理解を深める助けとなり得ると主張出来る。

1章:フェミニズム運動の流れ

 1節:フェミニズムの第二の波

 84年選挙について考察する前に、女性が政治の主流に参加することを目指すまでに至る背景としてフェミニズム運動の「第二の波」と呼ばれる時代、その中心的存在であったNOW(全米女性機構)とその中心的活動であったERA(男女平等権修正条項)について触れていく。

 フェミニズム運動の歴史は、フェミニズムが社会運動として形成された1848年のセネカ・フォールズの大会から始まり投票権を勝ち取った1920年代までの期間を「第一の波」、再び燃え上がった60年代から現代までを「第二の波」と区分けして説明されることが多い。1920年に、全米の女性は参政権を手にした。第2次世界大戦中、男性が戦場に参戦していった後、彼女たちは彼らに代わって工場や路上での重労働を担った。このような、女性の労働市場への参入は女性を活気付けたと言われる。しかし、戦後、政府による「女よ家庭へ戻れ」というキャンペーンによって、女性たちは戦場から帰ってきた男性に職場をあけ渡し、家庭へと押し戻された。また、女性を家庭に留めておくため、大衆文化は女性らしさを褒め称えるような風潮をつくっていったのであった。その中で、一時沈滞していたかのようにみえたフェミニズム運動であったが、60年代の半ばに公民権運動に代表される平等主義的風潮が社会に高まってくると、再び活発化していった。60年代後半のフェミニズム運動は、性別役割規範を批判し、社会の主流への男女平等の参加を主張する「第2の波」と呼ばれる時代に突入した。政治面では、より高いレベルへの公職への女性の進出が目標とされた。

 NOW(National Organization for Women:全米女性機構)は、男女平等の権利の達成を目標とし、ベティ・フリーダン(女性に、かつての性的ステレオタイプから抜け出すことを奨励したベストセラー本The Feminine Mistiqueの著者)を中心に1966年に設立されたアメリカ最大のフェミニスト団体である。[ii]NOWの会員は、当初高学歴で年齢の高い白人女性が大多数であったが、次第に多様化する方向に進んだ。NOWは、雇用の平等、中絶禁止法の改正、教育の機会均等、結婚や離婚に関する法律などについて、常に政府や議会、裁判所に働きかけ、女性のための政策や立法を要求し、政治闘争にしていった。当初、NOWの活動は議会や行政部に対するロビー活動や街頭行動の組織化などに集中していた。NOWの中心目標であったERA(Equal Rights Amendment:男女平等権修正条項)は、男女平等ということを「法のもとにおける権利の平等は、国あるいは州によって、性別を理由に否定あるいは制限されることはない。」[iii]という表現で憲法に盛り込むためのものであった。ERAはまず71年に下院を35423で通過し、72年には上院を848という圧倒的多数で通過した。[iv]そして、正式の条項となるために必要な38州の批准を獲得するため、活発な運動が行われた。

 多くの活動家たちが、ERA批准キャンペーンに主体的に参加した。彼女達は、デモ行進や州議会へのロビー活動を行ったり、一軒一軒を訪問し募金や請願書への署名を募るなどして、ERA支持を呼び掛けていった。学生の中には、1年間ほど休学して全国のキャンパスでERAのキャンペーンを繰り広げ、伝道師的役割を務め                  る者もいた。より年上の女性たちも、仕事を休んだりプライベートの生活を犠牲にして、共通の目的のために献身的に活動を行った。[v]76年には、ワシントンのフェミニストがERAを国レベルで推奨するために、ERAmericaという組織を設立した。国中のERA支持者がこの組織に寄付を寄せ、集まった資金は勝つ見込みのある州でのフェミニスト活動家へ送り込まれた。[vi]そして82年までには、全米で、会員数を合わせると5千万人以上にのぼる450以上の団体がERA支持派を表明する様になっていたという。[vii]

 しかしこの運動は、保守派のフィリス・シュラフライが率いる"Stop ERA"運動に阻まれ、82年に残り3州というところで期限切れで不成立となった。ERA推進派が力を付けていく一方で、強力な反対派が形成されていたのである。

 

 2節:ERA不成立

 反ERA派が大きくなっていった背景のひとつとして、70年代にはフェミニズムと同時期に伝統的な家族の価値の再確認とそれへの回帰を訴える保守の女性たちの運動(例:Eagle ForumConcerned Women for America)が活発化してきていたということがある。[viii]

  ERA派のリーダー的存在となったシュラフライは、共和党で長く活躍してきた保守的な反共主義者であった。連邦政府の権限の肥大化に強く反対していた彼女は、連邦政府がERAを通して結婚や雇用に関する州の法律に介入し、書き換えようとしているのだと考え、同条項に大反対の立場に回った。[ix]そして、反ERAの女性たちのネットワークを構築していく上で、ERAの政治的・経済的意味を半ば強引に結婚と家族の問題に置き換え、ERAの成立は、米国の伝統的な家族の価値を危険にさらすと主張した。[x]

 シュラフライは、Stop ERAという新しい保守的な反ERA団体を組織した。彼女は伝統的な性別役割分担の頑固な擁護者であり、家族の崩壊に警告を鳴らした。ERA反対派の主張としては、ERAや他のフェミニズムの要素が犯罪の増加・麻薬の蔓延・中絶の横行などの社会的混乱を招き、伝統的な家族の価値観を崩しているというものだった。また、Stop ERAは、女性の徴兵制、同性愛者の結婚の採用や、税金が中絶費用に使われることなどについての懸念を広め、ERAの採用に対する女性の不安を煽った。[xi]不安を抱いていたのは、特に信仰心の厚い、かつて政治に関心を持ったことのない専業主婦の女性たちであった。彼女達は、女が男に従うのは神の定めであると信じていたし、ERAは伝統的な家庭の主婦である自分たちの生き方を否定するものと考えられた。

 さらに、シュラフライは75年にEagle Forumを組織した。この組織は、聖書の教えを社会の道徳基準として認め、反家族・反宗教・反道徳・反生命などを主張する勢力に対しては断固として反対していこうという十字軍的なものであった。[xii]そのためEagle Forumは、ERAの他にも、中絶、公立学校における人種統合のためのバス通学、政府による保育関連財政援助などの、これまで公民権運動や第2波フェミニズム運動が提案してきた政策にことごとく反対した。

 保守勢力による反ERA派の組織化が進むにつれて、あと少しの州を残して批准が止まってしまった。残った州は南部もしくはモルモン教が優勢な、保守が根強い地域であった。また、すでに批准した州でも、それを撤回しようとする動きが出てきていた。そして、期限延長を手にしたにも関わらず、82年の6月にERAはあと3州の批准を残して議会で廃案となった。[xiii]

 ERAの不成立は女性の分断を露呈したが、同時にフェミニストのリーダーたちに大きなインパクトを与えた。ERAの批准キャンペーンを通じて、男女平等を主張するフェミニストの考えは社会に浸透していき、議会の女性政策を奨励する広範な世論を作り出すことにつながった。また、彼女たちはERAの批准に失敗したが、そこで諦めるわけではなく、次なる目標として女性ERA支持者を政治の中枢に据えることでERAの実現を図っていこうと考えた。かつてフェミニスト団体の政治活動戦略は、議会と行政機関への直接的ロビー活動を中心に展開していたが、この時期、より多くのフェミニスト議員の選出を目指す選挙活動に重点が置かれるようになっていった。こうしてフェミニストたちは、さらに本格的に政治に参画していくことを目指す様になった。

 

2章:1984年選挙:G. フェラーロ副大統領の登場

 1節:ジェンダー・ギャップへの着目

 70年代末には、かつてないほど進展したフェミニズムに対し、社会の巻き返し(バックラッシュ)としてそれに反発する保守派の動きも盛んになり、フェミニストにとって厳しい時代となった。[xiv]その様な中で、80年の大統領選挙では、「強いアメリカ」を提唱し、伝統的家族の価値を重んじてERAや妊娠中絶に反対の立場をとるロナルド・レーガンが選ばれ、社会の保守回帰現象が表面に現れた。

 レーガンの当選は、フェミニスト達にとって大きなショックであった。彼は、トルーマン大統領以来戦後の歴代大統領の中で、初めてERA反対の立場を選挙キャンペーン中から表明していたのである。[xv]

 この年の男女の投票行動には大きな差が生じた。CBSニュースとニューヨーク・タイムズ紙による出口調査は、54%の男性がレーガンを支持したのに対し、女性は46%であり、レーガン支持において、男女の間に8%のギャップがあることを明らかにした。[xvi]そしてさらに同調査によって示された、レーガンを支持した女性票のうち、65%がERAに反対し賛成は35%であったというデータを合わせて考えると、レーガンを支持する女性の大部分はERA反対者であるとフェミニストは主張した。[xvii]彼女たちは、こうしてERAとレーガン支持の関連性を強調し、「ジェンダー・ギャップ」は彼の政策に不満を持った女性たちが民主党にまわったことによって生じたものである、と結論付けた。NOWなどのフェミニスト団体は、このジェンダー・ギャップに着目し、集団票としての女性票の存在を強調すると共に、ERAに反対すると女性票を失うリスクがあるという様に政治家たちを説得していくようになった。

 フェミニストの見解によると、レーガン政権の福祉予算の大幅な削減、アファーマティブ・アクション政策の矯小化、そして強硬な反人工中絶政策は、家父長制的な核家族の復活を目指す彼の伝統的価値観に由来するものであった。レーガン大統領は、彼の政権が直面していた経済不況の原因を、フェミニズム運動がもたらした       家族の崩壊と、その結果として産業資本主義を支える男性労働者の労働意欲の喪失にあると考えていた。そこで、彼の政策は男性の経済的機会と、個としての権利の擁護を第一義的なものとし、女性の労働や収入を補助的なものと捉えた。また、稼ぎ手としての男性と、家庭の護り手としての女性とのカップルから家族が構成されていれば、労働市場で女子労働者を削減し、男子労働者の失業率を下げることが出来ると考えられた。82年の、レーガンによる「職不足の原因の一部は、景気後退よりも労働市場に参入する人口の大幅な増加にあると考えられます。そして、女性の方々、誰を責めるつもりもありませんが、今日の働く女性の増加や共働き家庭の増加は…」という発言は、彼の考え方を示している。[xviii]また、彼は女性が家庭に留まる限り、子供や老人の世話は、公的援助を受けることなく,女性の無償のボランタリー・ワークに委ねることが出来、政府の資金を使わなくてもよいと考えていたと見られている。[xix]このような考え方が、女性の自らの身体に対する支配権を手にしようとする生む権利(中絶権)を否定し、家庭の外で働く機会を制限しようとする、彼の反女性政策へとつながっていたと言われている。フェミニストたちはもちろん、多くの女性は彼の政策によって苦しんできた。

 83630日、ERAが不成立に終わった1周年の日に、NOWの新会長ジュディ・ゴールドスミスは、「レーガン大統領の全ての言動を監視し、出版物、報道、デモなど、あらゆる方法を用いて、彼が『女性の敵』であることを国民の前に明らかにする」と宣言し、レーガンが再選出場を決心するなら、それを断固阻止する意思を明確にした。[xx]

 

 2節:フェラーロの指名に向けて

 そうして83年の夏頃から、フェミニズム運動の指導者たちは84年の大統領選挙に焦点を当てる様になっていった。数ヶ月間、彼女たちは女性を大統領候補もしくは副大統領候補として選出することについて話し合った。フェミニストたちの狙いは、女性を党の意思決定の中心に置くことと、女性候補者がつくりだすであろう盛り上がりとジェンダー・ギャップの重要性を増すことであった。そして秋には、候補者になる可能性のある女性全員の政界でのキャリアや経歴を分析し、その中からジェラルディン・フェラーロを選ぶことで意見がまとまった。[xxi]フェラーロはブルーカラー出身のイタリア系アメリカ人女性で、下院議員3期目であり、家庭においては妻と母親の両役を務め、政策においては労働者・老人・女性の味方であった。彼女達の目から見て、フェラーロは最良の候補者であった。「彼女は誰しもの『仲間』になることが出来る」、と女性リーダーたちは考えた。[xxii]

 その後すぐに、NOWの全国集会に大統領候補者たちが招かれた。そして彼ら一人一人に、女性の副大統領候補者に対し真剣に考慮していく意思があるかがチェックされた。ロサンゼルス・タイムズは、この集会がフェミニスト団体と党の主流との関係における転機であったとみている。[xxiii]フェミニスト団体はその数と組織の威信、民主党のリーダーとの密接な関係について自負していた。また、前回の選挙におけるジェンダー・ギャップがフェミニスト団体を民主党にとってより重要な存在にせしめていた。そして集められたそれらの候補者たちの中で、女性をランニング・パー         トナーとして選ぶことを約束したのはジェシー・ジャクソンとウォルター・モンデールであった。[xxiv]フェミニストたちは、モンデールを支持することを決断した。その理由としては、ジャクソンがしばしばフェミニズム運動について、中産階級以上の白人女性に限定された視野の狭いものだと文句を言っていたことの影響もあるが、決定的だったのは彼自身が個人的に中絶反対論者であったということである。それに対し、モンデールは、プロ・チョイス派(女性の中絶の選択の自由を支持)で、ERAに肯定的であり、男女の賃金の平等化を支持し、無駄な国防費の削減を提唱し、貧困の女性化を進めてしまった国の政策について遺憾に思うと表明していた。[xxv]

 83年の冬にNOWがウォルター・モンデールを支持すると表明したことは新聞・雑誌に大きく取り上げられた。NOWは17年間の歴史の中で初めて、AFL-CIO(アメリカ労働総同盟産別会議)やNEANational Education Association:全米教育協会)などに続きモンデールを支持する、と報道された。[xxvi]この年、NOWは民主党の本格的な利益団体であると世間に認識されたといえる。NOWがそれらの団体と共通するのは、候補者の当選可能性を重視していたことである。モンデールは当時、民主党の中で最も当選可能性があり、レーガンに打ち勝ち得ると見られていた存在であった。モンデールは、76年からカーター政権で副大統領を務め、全国的に知名度があった他、それまでにも12年間上院議員を務めたベテランであった。[xxvii]そして彼は民主党の主流派の一人であり、組織力・資金力共に優れていたのである。[xxviii]

 翌年に入って、NOWNWPCNational Women's Political Caucus:全米女性政治幹部会)を中心とした全米の大小様々な38のフェミニスト団体が結集し「全米女性機構フェミニスト連合体」を組織した。[xxix]その中には、The Women's Campaign Fund(女性キャンペーン基金)やThe National Women's Education Fund(全米女性教育協会)、元下院議員のベラ・アブザグが代表を務めるWomen USANOWの元会長エレノア・スミールとその仲間たちなどの姿があった。[xxx]それに加えて、フェミニスト団体以外にも労働者団体やマイノリティ集団なども協力するようになっていき、大きな圧力集団が形成されていった。そして、連合体は民主党の知事や上下両院議員たちへのロビー活動を行い、彼らが女性副大統領支持の立場を公的に表明することを促した。そのことによって、下院議長トーマス・オニールやニューヨーク州知事のマリオ・キュオモを初めとする多くの上下両院議員の支持がメディアで報道され、女性副大統領候補に対する肯定的な世論に力強いバックアップが加わった。

 また、全米女性機構フェミニスト連合体の討論の中から、女性副大統領候補者指名の理由書コモン・ウィズダムが生まれた。[xxxi]そして、この理由書はまずモンデールの選挙参謀に手渡され、その後多くの政治家や新聞社に送られた。その中には、女性副大統領候補を立てることによる、民主党の得票増加の可能性について5つの観点から記されていた。まず一つ目は、世論調査によると、女性副大統領候補を出すことで民主党は4%から10%多くの票を獲得することが出来るというものだった。二つ目には、女性副大統領候補は民主党が84年大統領選挙で勝つために必要な女性票はもとより、マイノリティと労働者の票も得るのに役立つという指摘があった。そして3つ目には、女性副大統領候補は、レーガン=ブッシュペアに対して対照的で新鮮なイメージを打ち出し、民主党の意気込みをアピールすることが出来るという主                 張であった。さらに、女性票によって、今回の選挙において民主党と共和党の地理的支持のバランスが崩される可能性があるとも示唆された。最後に、女性副大統領候補は、レーガン政権に明確に反対するための投票行動を、女性たちから引き出すことが出来るという主張があった。これらの5つの観点は、その後、女性副大統領候補を支持する理由として、様々なメディアに取上げられるようになっていった。

 そして712日に、モンデールは正式にフェラーロをランニング・パートナーとして発表した。「米国で二番目に高い地位に女性を選ぶことで、あなた方は全ての国民に強いサインを送ることになります…もしこれが実現出来るのなら、私たちは何でも出来るのです。」[xxxii]と、フェラーロは声援に包まれながら述べた。前述のように、彼女は78年から下院議員を務めるニューヨーク州身のイタリア系アメリカ人で、カトリック教徒であり、また労働者の多い選挙区を代表していた。彼女は、知名度は高くなかったものの、民主党の党綱領委員会の議長を務めた経験もあり、その政治的能力が党内で高い評価を受けていたという。[xxxiii]彼女の政治における昇進の道程は、まさにアメリカン・ドリームの体現であるとされた。更に、既婚で子持ちの彼女は、モンデールが選挙キャンペーン中に強調しようとしていた家族の価値のイメージを象徴していると考えられた。モンデールは標準的なアメリカの家庭とその悩みについてや、レーガン政権が金持ちのための減税によっていかに中産階級の生活に被害を及ぼしてきたかについて、また全てのアメリカ人に機会の扉を開いていく必要性や勤労と宗教心の大切さについて国民にアピールしていこうと考えていた。[xxxiv]フェラーロのバックグラウンドとイメージは、彼が求めていたものにぴったり合うと考えられた。「建国の父は、憲法で『我々人民は』…と言いました。それは、裕福な人や男性、あるいは白人のみを指すのではなく、私たち全てを指しているのです。私たちのメッセージは、アメリカという国は勤勉に働く人々全てのためにあるということです。」[xxxv]とモンデールは大衆に向かって訴えかけた。

 

 3節:女性票の動員

 米国初の女性副大統領候補としてのフェラーロの登場は非常に画期的な出来事と見なされ、84年選挙は全米の注目を集めることとなった。フェラーロが候補者として登場してきてから既に、彼女を支持する世論は高まりをみせていたという。民主党が女性副大統領候補を選ぶことは、良い考えだと思うかと質問した845月のABC/ワシントン・ポスト紙による世論調査では、53%がそれを良い考えだと答え、悪い考えだと答えた人は38%であった。[xxxvi]また、メディアは期待されるジェンダー・ギャップについて大きく書き立て、NOWなどのワシントン事務所には、どうやったらキャンペーンに参加できるのかという女性からの問い合わせが毎日殺到したという。

 フェミニスト団体は、メンバー達にニュースレターや電話によってモンデール=フェラーロ陣営支持を増やすためのキャンペーンへの協力を募った。多くの州では、フェミニストたちがコールセンターで働いたり、パンフレットを配ったり、候補者が遊説で町を訪れる際はFerraro支持のデモをまとめたりと、ボランティア活動が盛んに行われていた。[xxxvii]

 NOWは、"Women's True Squad on Reagan"という反レーガンキャンペーンとして、あと4年レーガン大統領が政権に留まれば社会は女性にとって非常に不利なものになってしまう、と警告するパンフレットを何千部も配布した。また、NOWの前会長エレノア・スミールがコロラド州選出の下院議員パトリシア・シュローダーと俳優のポール・ニューマンと共に展開したGender Gap Actionキャンペーンは、15万ドルを集め、4つの大きなラジオ・コマーシャルを流し世論の圧力を高めようとした。[xxxviii]女性の中絶の権利を擁護するNARAL( National Abortion Rights Action League)は、次の大統領は今後数十年の最高裁判決の方向性を決める大事な指名を行う立場にあり、1973年に制定されたロー対ウェイド判決[xxxix]の将来を守るためにも重要であると主張し、レーガン大統領の再選に断固として反対する"40 More Years ?"キャンペーンを行い、人々の注意を喚起した。[xl]

 全米女性機構フェミニスト連合体は、超党派の選挙人登録動員運動を展開した。全国75のフェミニスト団体や諸団体が協力したWomen's Vote Projectは、84年の十月初旬までにそれまで選挙に参加したことのなかった150万人の選挙登録を促した、とディレクターのジョアン・ハウズは言う。[xli]この連合体は、メンバーである組織に、どうやって女性を新規に選挙登録させるか、地域の協力を得るための宣伝にメディアをどう用いるか、プログラムを支えるためにどうやって資金を調達するか、などの戦術的なアドバイスを行った。また、女性票に注目を促すための全国的なメディアキャンペーンも行っていった。さらに、選挙登録運動に関わる組織同士の協調を常に呼び掛け、調整的な役割も果たした。ハウズいわく、活動家の組織以外に、Alpha Kappa Alphaという黒人女性の社交クラブや、YWCAなどもそれぞれ20万人ずつの登録を募り、大きな役割を果たしたという。[xlii]

 これらのような努力によって、84年は女性の投票率が男性を上回った初めての年となった。この年には、全体として男性より700万人多くの女性が投票したという。[xliii]また、Women's Vote Projectによって、数々のフェミニスト団体は成長を遂げた。それらの団体は、より多くの女性を政治の主流に参加させて行くために、選挙登録や教育までプログラムを広げ、発展していったのである。

 しかし、選挙の結果はレーガンが49州を獲得するという地滑り的大勝利となった。全投票者の約60%が彼を支持した。また、投票した女性のうちの57%がレーガンを選び、これは80年選挙の47%からレーガン支持が増加したということになった。ジェンダー・ギャップは依然として存在し、女性よりも男性が多く彼に投票したが、その差は49%と、前よりずっと縮まっていた。[xliv]共和党は、低所得者層以外のあらゆる階級の人々の支持を手に入れた。フェミニスト団体は、選挙キャンペーンの間、レーガンに反対する女性票の存在を繰り返し宣伝し、ジェンダー・ギャップへの期待を膨らませてきただけに大きなショックを受けた。今回の選挙で、男性票を上回った女性票が一致団結してレーガンに反対の立場を示していたら、彼を破ることも出来たはずである。黒人は一つの投票集団となりうるのに、なぜ女性票はまとまることが出来なかったのだろうか、というような難問がフェミニストたちに投げかけられた。

 

3章:敗北の原因について

 84年選挙において、フェミニストやマスメディアが期待していたジェンダー・ギ  ャップはさほど顕著に見られず、モンデール=フェラーロ陣営はレーガン=ブッシュ陣営の前に敗れた。その原因としては、フェミニストが「女性」ということを売り込みすぎ、白人男性の支持を逃してしまった点、候補者が「女性である」という事実だけで投票する有権者は少ないという事実、好調な経済、共和党の迅速な女性対策、フェラーロに対する厳しい個人攻撃からも見られる社会の保守性、などが挙げられる。

 

 1節:フェミニストに対する批判

 84年の選挙キャンペーンにおいて、フェミニストは「女性」、「ジェンダー・ギャップ」ということを強調し過ぎた、と非難されている。選挙後、モンデール陣営の内部者からは、「民主党はフェミニストによって、女性の副大統領候補を選ぶようにと頭に銃を突き付けられた」「彼女たちフェミニストは、女性候補が実際に選挙結果にもたらし得るもの以上のことを我々に約束した」…などの声が多く上がった。[xlv]フェミニストの行動は、民主党が女性の言いなりとなっているという印象、または特別な利益団体のための党であるという印象を少なからず世間に与えてしまった。そのため、女性や黒人が労働市場で競争に参入することに脅威を感じる白人男性などから反感を買い、支持を逃してしまったといえる。Ms.という女性誌は、この選挙において特に、若い白人男性のレーガン支持が高まっていることを指摘した。80年選挙における彼らのレーガン支持は43%であったのに対し、84年選挙ではそこから一挙に58%まで上がったという。[xlvi]その様な中で、84年選挙に関係があったジェンダー・ギャップとは実は民主党にとっての反フェミニズムの白人男性なのではないか、と一部の共和党議員から示唆されている。[xlvii]

 また、この選挙では、有権者は例え女性に好意的であっても、候補者が「女性である」というだけで投票することはない、ということを改めて明らかにした。ジェンダー・ギャップはそもそも80年選挙でのレーガンの政策に対する反映を見ても分かる様に、政策の内容について起こった現象であった。ところが、84年選挙では、初めからモンデール=フェラーロ陣営の女性に好意的な政策という面よりもフェラーロが女性であるということに焦点が当たってしまっていた。フェミニストの中にも、そのことに対して危惧する声はわずかながら初めの頃からあった。ベティ・フリーダンは、「候補者が女性であるという理由だけでは投票しない女性もまた多くいるという事実を忘れてはならない」と警告していた。[xlviii]彼女は、女性副大統領候補が今回の選挙において最も重要な争点ではないこと、女性にとって大切なことはレーガンを打ち負かすことであり、政策面を重視していくことが必要だと主張していた。

 もともと、副大統領候補が選挙の結果に及ぼすことの出来る影響は限られている。国民は第一に大統領候補を見て投票する。76年大統領選挙のカーターとフォードのように、両党の大統領候補者にそこまで差が無いように見受けられる時には副大統領候補者が重視される、という例外もあったが、84年のレーガンとモンデールは全く異なるタイプであった。そして、選挙前の両党による支持率には18ポイントの差があり、このような状況ではどんな副大統領を据えたとしても、結果を覆すことは出来なかったといえる。[xlix]しかしいずれにせよ、この選挙では、女性大統領候補の擁立が女性票の動員に直結する訳ではないという事実を明らかにした。女性たちに             とっては、女性が権威的立場に就くことよりも、彼女たちの関心事や憂慮などを共有出来る政治争点を掲げる候補者が必要だったのである。

 フェミニストたちがジェンダー・ギャップを売り込んでいった結果、それはメディアの間で人気の話題となり、女性候補者が民主党にもたらし得る潜在的な良い効果について連日のように熱狂的に書き立てられた。メディアは選挙の競争的側面を強調し、争点よりも戦略面でどちらが優勢かということに注目した。新聞社などは、ジェンダー・ギャップを女性が女性候補に投票する傾向を測定する基準として扱うようになっていった。また、世論調査の取り扱い方も、女性に対し好意的なデータばかりが強調されていった。これらの世論調査における質問事項には、大抵中間の選択肢が存在していなかった。候補者が女性であったとしても、投票行動には何の影響ももたらさないという場合である。[l]また、調査において対象の元々の支持政党を把握することも重要であったにも関わらず殆ど行われていなかったようである。

 多くのフェミニストたちが、女性は大きな違いを生み出すことが出来ると確信していた一方で、中には懐疑的な者もいた。50年代から民主党で活躍してきたフェミニストのミルドレッド・ジェフリーは、「私たちは報道記者たちに、『あなた方は大げさに言いすぎなんです』と何度も伝えようとしてきました。女性性に対する大げさな報道は、私たちを不快にさせました。女性は一枚岩ではないからです。」と振り返った。[li]彼女は、ジェンダー・ギャップがそのような大興奮の中取り扱われたあげく、最後には信用を傷つけられてしまうことを恐れたのだった。

 

 2節:当時の状況と候補者の戦略比較

 当時の状況も、レーガン陣営にとっては有利なものだった。82年から経済が回復し、当時国民は比較的満足していた。選挙当日に行われたアンケートは、投票者の約5分の34年前よりも景気が良くなっていると感じていたことを表した。[lii]そのような、レーガンの政策への不満があまりない状態において、社会福祉の充実すなわち増税を訴えるモンデールには、あまり魅力が感じられなかった。経済面においては、女性有権者も男性有権者も考えは一致していた。彼らの多くは、ERAや人工中絶政策で、必ずしもレーガンを支持していなかったが、そうした社会問題よりも経済問題の方を重要視し、優先した。

 経済面に関しては、モンデール側はレーガン政権の生み出した多大な財政赤字を指摘し批判しようとしたにも関わらず、失敗に終わった。それは、レーガン陣営のテレビを利用した巧みなイメージ戦略に屈した結果といえる。レーガン側は、戦略として、政策を前面に打ち出すよりもレーガン自身の魅力、リーダーシップ、愛国心を強調し、明るい未来への希望を語り、国民のムードを高めようとした。[liii]その結果、レーガンの人気は上昇し、モンデールが彼の政策を批判しようとしても、レーガンのつくった「明るいムード」の中に「悪い知らせ」を運んでくるモンデールの方にマイナスイメージがつくようなことになってしまっていた。

 また、政策という面で、モンデールは反フェミニストの白人男性からの反感を恐れ、初め女性のイシューには控えめであり、フェラーロにもそうさせていた。モンデール陣営は、レーガン政権の反女性政策についてのひどい記録に対し、強い反論        が可能であったにも拘わらず、それをほとんど強調してこなかったのだった。しかし、途中でレーガンとの差が開くと、あわてて女性のイシューを扱い、アピールするようになったため、非常に中途半端なイメージを与えてしまったということがある。[liv]この面の失敗で、フェミニスト側は後から非難をしているが、ここには民主党が女性をはじめとするマイノリティをサポートする上での難しいところが露呈されているといえる。

 民主党の支持基盤に女性や黒人、労働者層が多いことから、民主党は「特別な利益団体」を優遇する党としてしばしば非難されてきた。84年の選挙でも、民主党内ではモンデールがフェラーロをランニング・パートナーとして選ぶ際に「フェミニストの圧力に屈した」と国民から捉えられてしまうことへの危惧があった。[lv]84年の夏に行われたハリス調査を見ると、「モンデールは特定の利益集団にアピールしようとし過ぎである」という意見に60%が賛同した。そのような印象が強かったため、女性の関心事について積極的な姿勢を打ち出すことにためらいがあったモンデール陣営は、強いリーダーシップ能力を評価されるレーガンに対し曖昧で頼りないイメージを国民に与えてしまった。[lvi]同時期の調査の、「モンデールが魅力的で力強い性格を持ち、真のリーダーであると考えられるか?」という質問に対しては56%の否定的な回答が報告されている。

 女性のイシューについてなかなか強調出来なかったとはいえ、民主党は、女性候補を選出することで女性票の確保については安心してしまっていた感がある。民主党はフェラーロの存在自体が女性にとって民主党を選ぶ理由となるだろうと推測した点、また女性の投票は共和党のERAや中絶反対の立場とは対照に位置するフェミニスト的なものだと考えた点で間違いを重ねた、という指摘がなされている。[lvii]それに対し、一見不利に見えた共和党が、実は女性対策を早くから行っていたことは象徴的である。

      共和党にとってもジェンダー・ギャップの存在は大きく、懸念材料であった。民主党が女性副大統領候補を擁立したことで、女性票を多数獲得出来るというフェミニストの話に、共和党は注意深く耳を傾けていた。そして、レーガンの側近たちは、84年選挙で女性票は共和党にとって危険な存在になり得るとし、女性票を惹き付けるための注意深い女性政策が必要だと指摘した。そこで、共和党世論調査官リチャード・ワースリンらは前年の夏から約45千人の女性を対象としたアンケート調査によってデータを収集し、迅速なアプローチをとっていった。彼らはそのデータを年齢や既婚・独身、就労・未就労などによって64の異なるカテゴリーに分類した。[lviii]それぞれのグループに対し、レーガンは異なる強みと弱みを持っていた。そして最終的に64のカテゴリーは8つのグループへと凝縮された。そしてそれぞれに、Alice-Betty-Carolynというようにアルファベット順に、Helenまで名前がつけられた。ワースリンたちは、特にレーガンに対して最も好意的なグループに対して、グループの最も強い関心についてのデータをもとに、ダイレクト・メールやテレビコマーシャルを利用してアピールしていった。最もレーガンを支持する傾向があったグループは、若い働く女性の"Alice"グループであった。反対に、最も反レーガンの傾向が強かったのは、若い未就労の女性たちで構成される"Helen"グループで、戦略上はほぼ無視された。"Alice"グループに対しては、レーガンの経済プロ                          グラムがいかに女性に利益を与えてきたかが説明されたり、政権が女性に対し好意的な立場をとっていると主張したファクト・シートが添えられるなどしてレーガンの再選への支持が呼びかけられた。[lix]共和党の注意深い分析は、家庭や職場と女性との関係の多様化を露わにし、女性と政策の新しい関係を提示した。女性をサポートしつつも彼女たちの関心事についてあまり強調することの出来なかった民主党に比べて、そこまでサポートするつもりのない共和党の方が実は女性にアピールしやすく、女性対策においては一枚上手であった。

 

 3節:個人攻撃に見られる社会の保守性

 フェラーロは副大統領候補に指名されてから、男性候補であればされない様な質問をされたり、厳しい局面に何度も立たされてきた。例えば、あるテレビのインタビューで彼女は、戦争の際に核爆弾のスイッチを押せるかどうか尋ねられた。彼女は、平和を愛する者が戦争を戦う必要があるのか?とうまく切り返したが、それでも女性は外交関係において強硬な姿勢をとることが出来ないという偏見を拭うことは出来なかった。[lx]また、彼女の夫の金銭トラブルについても徹底的に叩かれ、個人攻撃を受けた。

 多くの議員が夫婦の財産を分離し、自らの財産のみを公表していたのにも関わらず、フェラーロが自らの所得申告を公表した際には彼女の夫のジョン・ザッカーロの所得申告も公表すべきだと指摘がなされた。[lxi]また、ザッカーロの不動産のいくつかは、不当に手に入れたのではないかとまで疑われた。さらに、彼女がイタリア系アメリカ人であるというだけで、彼女の家系がマフィアと関係があるのではないかという疑いが持ち上がった。

 これらの疑惑は、彼女のイメージを大きく傷つけた。民主党の選挙コンサルタントであるデイビッド・ガースは、「フェラーロと夫が財政問題に巻き込まれなければ、彼女の出馬はより大きなプラス面を今回のキャンペーンに与えることが出来ただろう。彼らはその件によって致命的なダメージを受けた。」と振り返って述べている。[lxii]さらに、フェラーロと選挙スタッフたちは、キャンペーンの戦略に集中する代わりに、財政問題の疑惑を晴らすための資料集めなどに時間を取られてしまうという大きな痛手を被った。[lxiii]

 フェラーロは、中絶反対論者からも激しく攻撃された。彼女は、カトリック教徒である自分自身は決して中絶をすることはないが、他の女性は異なる選択をする権利を持つと考えると述べていた。カトリック教会大司教のジョン・オーコナーは、カトリック教徒たちにフェラーロに投票しないよう伝えた。彼は、カトリックの政治家が国の方針として女性の中絶の権利を支持するということは間違っている、と断言した。そして、敬虔なカトリック教徒がなぜ中絶に好意的な人物に投票出来るのか分からない、とテレビや新聞のインタビューでコメントした。[lxiv]かつて教会の聖職者が、カトリックでプロ・チョイス(中絶の権利の擁護派)である男性の政治家に、このような強硬な立場をとったことはなかった。

 そして、フェラーロが講演のために向かう先にはいつも、彼女を殺人者と非難するプラカードを持ったプロ・ライフ(中絶反対派)のデモ集団が待ち受けていた。     「死んでいる民主党は投票出来ない」「モンデール・フェラーロ:死への分隊」などの言葉や、3つの墓石の絵と共に「ジェリー(フェラーロ)の子供たち」と書かれたものなど、中にはあまりに過激なものも含まれており、「あのような言葉を人に浴びせる様な人々が命を尊重する人たちだとはとても思えない」とフェラーロを嘆かせた。[lxv]

 彼女に対するこのような厳しい状況は、社会にはまだ女性副大統領を受け入れる準備が整っていないのではないかという、候補者指名直後の一部の民主党員の懸念を強めることとなった。ここに、ERA不成立時と同様、当時の米国社会の保守的なムードがみられる。

 60年代、70年代はアメリカの伝統的価値観が大きく揺らいだ時代であった。60年代には黒人の公民権運動、ヴェトナム反戦運動、ヒッピーの対抗文化などを通し、これまでとは異なる多様な価値観が芽生え、容認される雰囲気が生まれた。70年代に登場したのが、フェミニズム、人工中絶の権利、同性愛者の権利主張などであった。それに加え、麻薬や犯罪、エイズなども同じ時期に広がっていった。このような状況に対する揺り戻しの中で、アメリカ社会の道徳的退廃を正し、伝統的な家族を取り戻していこうとする宗教勢力が台頭した。

 その中で特に力を持っていたのが、テレヴァンジェリスト(テレビ伝道師)であるジェリー・ファルウェルの率いるMoral Majorityであった。ファルウェルは、80年には"Listen America !"という著書で、アメリカの没落現象について指摘し、広い意味での「道徳的多数派」に対して断固として立ちあがることを呼びかけた。[lxvi]そこに、共和党の「ニューライト派」が近付いて行き、結びつくことで彼の宗教活動は政治化することとなった。ニューライト派とは、60年代以来のリベラルな政治に反感を抱く、労働階級層や下層中流層で、アメリカの伝統的なポピュリズムにつながるサイレント・マジョリティのことである。

 80年代には、女性の権利意識に対する巻き返しとして保守のバックラッシュが顕著になった、としスーザン・ファルーディは書いている。[lxvii]ニューライトの支持者は、男女平等が女性の不幸の元凶、というバックラッシュの説を最初に言い出した人々である。また、精神的な価値より物質主義を重要視するようになったこと、伝統的な家族の価値を崩壊させたことも女性運動の影響と言い出したのも,このグループが最初であった。その後,この考え方は女性運動を批判する時の決り文句となった。「バックラッシュの政治は、影響力,重要性,権力を失いつつあるグループの抵抗と定義される」と、政治学者リプセットはアメリカに定期的に表面化する社会現象を観察して述べている。[lxviii]ニューライトの聖職者たちにとって、フェミニストの考え方は、彼らの職業的地位をも脅かすものだった。また、ニューライトが共産主義や人種でなく、もっぱらフェミニズムを攻撃の対象にしたことは、70年代の女性運動の力がそれだけ強かったことの証であった。70年代の女性解放運動は、社会的変化を目指す最もダイナミックな力に成長し、保守的な価値観を持つ人々だけでなく、性の解放という思想によってそれまでの日常生活が破壊されるかもしれない人々にとって大きな脅威となったと言われる。そこで、ニューライトは多くの不安を持つ女性たちをも取り込んでいった。

 社会的役割や期待が早いペースで変わっていくと、多くの人が不安を感じる。それは、子供の頃教えられた価値観や態度のあり方が激しく揺さぶられるからである。Total Woman Fascinating Womanhood という本の成功はひとつの反応である。両方とも、女性が伝統的役割に立ちかえれば、完全な幸せが手に入ると説いている。[lxix]自分たちのライフスタイルが否定されるような不安感を持った家庭の主婦たちの多くは、これらの本に解決法を見出し、惹きつけられていった。

 第1章で触れた、反ERA活動を活発に行ったEagle ForumConcerned Women for Americaもニューライトに属し、その本来の目的は女性問題を特化された争点にするのではなく、「伝統的な性役割の変化に対する草の根レベルの漠然とした不安を、より大きな保守のアジェンダにリンクさせること」にあったと言われている。[lxx]ただし、女性有権者に訴える際には、家族の価値を重視する社会的保守主義の立場が強調された。それは、既婚の白人女性で教育程度が低く、年齢が上になる程ERAに反対であること、すなわち知識・情報・経済力などの資源を欠き、そのため男性に頼らざるを得ない(自立的な生活能力に対する自己評価の低い女性たち)ほどERA反対運動の動員対象になる可能性が明らかになったからである。[lxxi]ニューライトの女性運動は、このような女性たちを中心に勢力を拡大した。ただ、ニューライトの女性運動は、伝統的性別役割規範を擁護する一方で、伝統的には女性の役割ではなかった政治運動への参加を求めるという点にディレンマを抱えている。[lxxii]フェミニストは、この矛盾を批判してニューライトの女性運動を過小評価し、その結果、彼女達に勢力拡大と争点明確化の時間を与えてしまった。ERAの不成立や、84年の選挙での民主党の敗北は、ニューライトの女性運動が保守内部で強力になりつつあることを表している。

 

終章

 以上のように、84年選挙でのモンデール・フェラーロ陣営の敗北の原因をみていくと、フェミニストにとっての教訓が表れていると考えられる。社会が保守化の方向に向かっている時に、候補者が「女性である」ということや、ジェンダー・ギャップについて強調しすぎ、多くの人々の反発を買ってしまったことは、フェラーロに対する敵意とも取れるほどの個人攻撃を促した。また、予想されるジェンダー・ギャップの効果を売り込んでいくうちに、いつの間にかジェンダー・ギャップの発生する理由(候補者の性別ではなく、政策についてであるのに)を取り違えてしまったことはフェミニストの戦略的失敗であった。そのために、フェミニストの活動の目標も、女性の関心事を争点に挙げることから女性候補者を擁立することへと推移してしまった。その点で、女性のあらゆる関心事の注意深い調査などの女性対策を行っていった共和党の方が、戦略的に成功したのだといえる。

 それに加え、33節で述べたように、フェミニストたちはニューライトの女性運動の勢力を軽視したが、もはや女性全体は一枚岩として見ることは出来ないということにもっと早く気付き、対策を取るべきであった。フェミニストにとって、女性の分断が大きな痛手となることは明らかである。初めの問題提起のところで述べたが、女性票の重みは非常に大きく、もしまとまった形でそれらが動けば確実に選挙結果を揺さぶることが出来たといえる。前にも述べたが、当時ジェンダー・ギャッ           プについて騒ぎ立てられていた中で少数派であった、フリーダンのような意見…「候補者が女性であるというだけでは投票しない女性もまた多くいるということを忘れてはならない」ということは、的を得ていたのである。

 そこで、フェミニストは、ニューライトの女性運動に取り込まれていってしまった女性たちを取り戻す努力をするべきであった。フェミニストは、男女平等になったらこれまでの生活が否定されてしまうのではないかと不安を持っていた専業主婦などに、そのようなことはないと安心させたり、より多くの女性に受け入れられるようなレトリックでアピールしていく必要があった。確かに、当時の保守的な社会状況はフェミニストに大いに不利であった。しかし、そのような中で戦っていく上では自らの主張も大事だが、同時に異なる価値観を持つ人々にも目を配り、それらを可能な限り取り込んで、更に組織としての勢力を拡大していくことが大切であった。ERAの批准に挫折した時、フェミニスト活動家たちは広範な女性に対する啓蒙教育活動のような、コミュニケーションの大切さを学んだはずであった。

 選挙後、アメリカ社会にはまだ女性副大統領を受け入れる準備が整っていなかったという評価が両党からなされたが、それに対しフェラーロ自身が反論している。彼女は、例え50年後に同じことがあったとしても、「最初の女性」には自分と同じリアクションが返ってきたであろうと断定する。実際に経験するまでは、国は新しいことを受け入れる準備など整えることはないという。「誰が・いつ・何を」に拘わらず、初めて登場する女性はかつてない注目を集めることになるだろうし、女性にとって事態が好転するのを願いつつもう10年、15年待つべきだったとも思えない。[lxxiii]必ず誰かが壁を破らなければならないのだ、と彼女は説明している。

 Women USAの代表であるベラ・アブザグは、84年選挙においてモンデールがフェラーロを選んだ勇気ある決断は、アメリカ政治を永久に変えたと話した。今後、女性が公的な役職を目指し出馬する際には、国民はそれを受け入れる姿勢をより強めていることだろう、[lxxiv]と彼女は推測する。

 Ms.のジャーナリストであり、NWPCのメンバーであるグロリア・スタイナムは、「フェラーロの出馬は、得票数そのものにおいては正味小さなプラスでしかなかったが、アクティビズムにおいては大きなプラスの影響をもたらしたと言える。」と評価している。[lxxv]  

 確かに、当時の状況は保守化の傾向にあり、人々が初めての女性副大統領候補に対し戸惑いを示したことからも、やはり時期としては早すぎたのかと考えられがちである。しかし、以上のようなフェミニストのリーダーたちの言葉にもあるように、何事も「初めて」の出来事には困難がつきものであるともいえる。フェミニストたちにとっても、初めての女性副大統領候補をどのようにアピールしていけば良いかということは分からなかったのである。レーガン政権において苦しい立場を味わったフェミニストたちが、立ち上がって政治に参入しようと考えたのは、自然な流れだと考えられ、早すぎたとは思えない。フェラーロは性の壁を破ったということで象徴的な前進を遂げたが、選挙における失敗は、ゴールはまだ遠いという事実を明らかにすると共にフェミニストに対して教訓を残した。しかし、この失敗を批判するのではなく、今後の女性候補者たちを受け入れる準備につなげていくことが出来                    れば、十分意義があるのではないだろうか。

 選挙で敗北が決まったフェラーロは、最後のスピーチでこう述べた。「モンデールが私に、パートナーとして選挙を戦うことを申し入れた時、彼は二度と閉じられることのない扉を開いたのだと言えます。…私が候補者として上がったことは、差別の日々は残りわずかだということを示しました。アメリカ人女性は二度と、二級市民になることはないのです。」[lxxvi]

 84年に、女性が初めて副大統領候補として参戦したことは、アメリカ女性が出来ることの上限を一段階上げたという点で特別なことである。そして、女性問題に対する全国的な関心を呼び起こし、そして女性たちの価値や利益を抜きには政治を考えることが出来ないようにしてきたことは、フェミニスト運動の大きな成果である。ERA不成立や84年選挙での敗北の経験を活かし、今後、フェミニストはより広い層に対して呼びかけられるような、より柔軟な姿勢のレトリックを構築し、目標に向かって協力していく必要があると考えられる。

 



[i] Davis, Flora, Moving the Mountain: the Women's Movement in America Since 1960(Simon & Schuster, 1991) p.416.

[ii] 五十嵐武士『アメリカの社会と政治』(有斐閣、1995)藤田文子「めざましい女性パワーの台頭」162頁。

[iii] http://www.now.org/history/history.htm

[iv] 渡辺和子編『アメリカ研究とジェンダー』(世界思想社、199734頁。

[v] Davis, op.cit., p.393.

[vi] Ibid, p.391.

[vii] Ibid, p.393.

[viii] 進藤久美子『ジェンダー・ポリティックス―変革期アメリカの政治と女性―』(新評論、1997114頁。

[ix] Davis, op.cit., p.387.

[x] Schlafly, Phyllis, The Power of the Positive Woman (Arlington House Publishers, 1997) p. 68.

[xi] Davis, op.cit., p.388.

[xii] 上坂昇『現代アメリカの保守勢力』(ヨルダン社、198426頁。

[xiii] 進藤、前掲、116頁。

[xiv] Faludi, Susan ,Backlash: the Undeclared War Against Women (Anchor Books, 1991)

[xv] 進藤、前掲 177頁。

[xvi] Bonk, Kathy"The Selling of the 'Gender Gap':the Role of Organized Feminism" Mueller, Carol M. The Politics of the Gender Gap: the Social Construction of Political Influence (Sage Publications Inc., 1988) p.85.

[xvii] Clymer, Adam "Displeasure With Carter Turned Many to Reagan", The New York Times, Nov.9,1980  p.28.

[xviii] Ferraro, Geraldine A. with Francke,Linda Bird, Ferraro:My Story,(Bantam Books,1985), p.133.

[xix] 進藤、前掲 225頁。

[xx] http://www.feminist.org/research/chronicles/fc1984.html (Feminist Majority Foundation )

[xxi] Davis, op.cit., p.420.

[xxii] Ferraro,op.cit.,pp.71-72.

[xxiii] Frankovic, Kathleen A. "The Ferraro Factor: the Women's Movement, the Polls, the Press" Sage Yearbooks in Women's Policy Studies,vol.2

[xxiv] 進藤、前掲 p.278.

[xxv] Davis, op.cit.,p.420.

[xxvi] Frankovic, op.cit. p.

[xxvii] http://www.mnc.net/norway/Mondale.htm

[xxviii] 日本貿易振興会編集『1984年の米国大統領選挙』(日本貿易振興会、198440頁。

[xxix] Cooper, Ann "Mondale Has Support of Women's Groups But Not Necessarily of Female Voters" National Journal, 10/20/84 (p.1973)

[xxx] Houghton, Mary "Ferraro Victory:NWPC Played Key Role", Women's Political Times, Vol.9, No.5, Aug/Sep,1984, p.1

[xxxi] Ibid.

[xxxii] Ferraro, op.cit., p. 21.

[xxxiii] http://www.vpcentre.net/veep5.htm

[xxxiv] Weinraub, Bernard "Ideas for His Speech Led Mondale to Mrs. Ferraro", The New York Times, Jul 15, 1984 p.1&25.

[xxxv] Weinraub.Bernard "Geraldine Ferraro is Chosen by Mondale as Running Mate, First Woman on Major Ticket", The New York Times, Jul 13, 1984, p.A1.

[xxxvi] Frankovic, op. cit., p.112.

[xxxvii] The National Journal, 10/20/84 (p.1974)

[xxxviii] Ibid

[xxxix] ロー対ウェイド判決:「妊娠初期3ヶ月までは中絶は全く自由であること、中期3ヶ月については、州は女性の健康保護の見地から制限的条件を課することが出来ること、後期3ヶ月については胎児が母体から独立して生存出来る場合には、州は中絶を禁止出来る」という、中絶を合法化した画期的判決。

[xl] The National Journal, 10/20/84 p.1974.

[xli] Ibid, p. 1975.

[xlii] Ibid.

[xliii] Davis, op.cit., p.416.

[xliv] Bonk, op.cit. p.85.

[xlv] Dowd, Maureen "Women Assess Impact of Mondale Loss" The New York Times, Nov.14,1984, p. A22.

[xlvi] Steinem,Gloria "Election:Round Up:What No One Else Would Tell You About Ferraro Campaign", Ms. Dec.1984,p.64.

[xlvii] Davis, op.cit.. p.428.

[xlviii] Ibid. p.421.

[xlix] Fingerhut, Vic "Misunderstanding the 1984 Presidential Election: Myths about the Democrats "Campaigns and Elections, Winter 1985 (pp.21-28.)

[l] Frankovic, op.cit.,p.107.

[li] Davis, op.cit.,p.422.

[lii] Smith, Hedrick "Economy the Key Issue" The New York Times, Nov.7,1984 p.A1.

[liii] Pomper, Gerald M. The Election of 1984-Reports and Interpretations (Chatam House Publishers, 1985), p.79.

[liv] Ibid.,p.73.

[lv] Raines, Howell "Mondale's Tough Choice" The New York Times, Jul.3,1984 pp.A1,12.

[lvi] Ranney, Austin The American Elections of 1984 (Duke University Press,1985) p.135.

[lvii] Witt, Linda; Paget, Karen M.: Matthews, Glenna, Running as a Woman:Gender and Power in American Politics (The Free Press, 1994 )p.166.

[lviii] Peterson, Bill "Reagan Did Understand Women", Washington Post, March 3, 1985 p.C5.

[lix] Costain, Anne N.,Inviting Women's Rebellion:A Political Interpretation of the Women's Movement (Johns Hopkins University Press, 1994) p.115.

[lx] Witt, Linda, op.cit., p.216.

[lxi] Ferraro, op.cit.,p.143.

[lxii] Dowd, Maureen "Setbacks Leave Women Leaders Viewing Their Political Progress in Inches", The New York Times, Nov. 8, 1984, p. A22.

[lxiii] Ferraro, op.cit., p.162.

[lxiv] Davis, op.cit.,426

[lxv] Dawd,Maureen "Ferraro Objects to Tone of Opposition", The New York Times, Sept. 23, 1984, p. 32.

[lxvi] 五十嵐、前掲書、185頁。

[lxvii] Faludi, Susan, Backlash:the Undeclared War Against Women (Anchor Books, 1991)

[lxviii] Ibid.

[lxix]Deckard, Barbara Sinclair, The Women's Movement (Harper & Row Publishers, Inc. 1983)

[lxx] 上坂、前掲書、26頁。

[lxxi]Ryan, Barbara ,Feminism and the Women's Movement-Dynamics of Change in Social Movement, Ideology and Activism (Routlege, 1992) p.101.

[lxxii] 渡辺、前掲書、128頁。

[lxxiii] Ferraro, op.cit.,p. 322.

[lxxiv] Abzug, Bella;Kelber, Mim "Despite the Reagan Sweep, a Gender Gap Remains" The New York Times, Nov.23,1984 p.A35.

[lxxv] The New York Times, Nov.8, 1984 p.A22.

[lxxvi] "Excerpts from Ferraro's Talk", The New York Times, Nov.7, 1984 p. A21.

 

参考文献

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<卒論を書き終えて>

古瀬 容子

 

 思えば三田祭で女性問題を担当した時から、フェミニスト団体とは長いお付き合いだったなあ…。やっと卒論を書き終えることが出来て、ほっとしています。妊娠中絶問題について論文を書いた時にNOWの活動などを知り、アメリカの女性運動に興味を持ちました。卒論プロポーザルの時は、何かぱっとした出来事がないかなあと探していた時に、アメリカで初の女性副大統領候補、フェラーロの登場、というのがあって、これはいい!と飛び付きました。そこまでは良かったのですが…。

 

 選挙結果の分析を読むと、フェラーロのことを評価しているものは少なくて、むしろ非難していたり、期待外れだった、なんて書いてあったりするものが結構ありました。フェミニスト側の文献を読むと「画期的な出来事」とされているのに…。そこで、自分の中で初め思い描いていたような単純なストーリーではなかったんだと気付き、少し焦りましたが、せっかく着手したので、そのように解釈が分かれることになった背景を探ってみようと思い直しました。

 

 論文という形にするのは「大変だった」の一言に尽きますが、調べている過程では、フェミニストたちの逞しさや一生懸命さ、一生懸命になるあまりに周りが見えなくなってしまうところなどを知るにつれてなんだか親しみが湧いてきて、面白いと感じることも多かったです。フェラーロも、候補者としては弱い面が多くあったものの、自伝を読んでみると、個としては強い、魅力的な女性であったようです。

 

 春合宿のレジュメ、夏のブックレポート、初稿提出…などなど、全て綱渡りでここまで来て、内容についてはまだまだ直す余地がありそうですが、こうして完成することが出来て、とても嬉しいです。資料を探しにウィメンズプラザに通い、毎回の様に寝ていたことも、アマゾンのオークションで本を買ったことも良い思い出です。

 

 コメントを下さった皆様、ご指導下さった久保先生、どうもありがとうございました!!

 

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