任期制限運動

〜議会への影響〜

             山田 俊和

序章:はじめに

1章:アメリカにおける任期制限運動

1節:任期制限を構成する諸団体

2節:任期制限運動の盛り上がり

3節:争いの争点

第2章:コスタリカの事例

第3章:任期制限が議会にもたらす影響

 第1節:賛成派の観点から

 第2節:反対派の観点から

終章:結論

 

序章:はじめに

本論文は、任期制限、つまり議員の任期を法的に制限するということが議会に与える影響について考察を行うものである。ここでは特に米連邦議会に任期制限を持ち込むか否かに焦点を絞り、コスタリカ、ベネズエラの事例と比較しながら論証していく。近年アメリカでは議員に任期制限を課すべきであるという主張や、それをめざす政治活動が活発なものとなっている。その背景には現在の政治への不信感があり、議員の任期を区切ることによって議会に新陳代謝を活性化させ、政治の清廉性を高めようとしている動きがあると考えられる。しかしその一方では議員の資格を制限することに対する疑問、抵抗感があると考えられる。

先行研究の多くはそれらを個別の争点において捉え、また主張されてはいるが、総合的な判断を行ったものはそれほど多くはない。そのためこの論文では、他国の事例と踏まえた上で任期制限がもたらす功罪総合して論じていく手法を取る。これがこの論文の主たる学問的特徴である。

この論文の構成は以下のとおりである。まず第1章では米国での任期制限の活動の実態についてふれ、先に行った先行研究のサーベイをふまえたうえで、任期制限の議論における焦点をまとめる。第2章では先行研究の中から実際に国政レベルで任期制限が行われている国について研究されたもの、主にコスタリカについて研究されたものを取り上げる。第3章ではアメリカ連邦議会に任期制限が与える影響について考察が行われる。そして終章において結論がまとめられる。

これまでの先行研究を見てみると、任期制限運動という全国的な争点から見るもの、州レベルで見るもの(たとえばワシントン州やカリフォルニア州)、他国との比較を試みているもの、任期制限そのものの効果について論じるもの、に分類することができるといえる。ここでは二つを取り上げる。

まず、代表的な先行研究としては、Bernard Grofmanが編集したLegislative term limits :Public choice perspectives があげられる。この著書においては、彼の論文のほか任期制限についての論文が多数あり、質量ともに代表する研究資料といえる。この著書で取り上げられているのは、議員の行動と選挙制度に与える影響、議席変動と政党のバランスに与える影響、有権者の態度の変容、などについてである。ところが、これは論文集であるため、それぞれは個別の争点で描かれており、最終的な結論でそれぞれの論証が生かされていない。また、この著書のみだけではないが、全体の印象として、任期制限に反対とする論文が多く、推進派の主張が正しく理解されているかどうかも疑問である。

その他には、John M CarryのTerm limits and legislative representativeがある。これはコスタリカ、ベネズエラの事例を紹介し、比較政治の観点から問題を捉えている珍しい論文であり、その存在感はひときわ目立つ。しかしながら、John M Carryの論文では、他国との比較が、うまく米国のケースにいかされていないような感が残る。

先行研究を見る限り、他国との比較をした上で、アメリカの任期制限がもたらす効果を導き出した論文はないように思われる。Brnard Grofmanは、数多くの研究を1冊の著書にまとめることによって研究のアウトラインを示したが、それら先行研究は概ね個別の争点に絞られており、任期制限の効果について、総合的に判断したものとはいいがたい。John M Carryはコスタリカ、ベネズエラの事例を紹介することにより、比較の観点からの任期制限の研究を示した。これは大きなことではあるが、この研究だけでは任期制限を解明しているともいえない。そこでこの論文ではコスタリカ、ベネズエラの事例を元にしながら連邦議会に任期制限を持ち込んだときどのような結果がみられるかを考察することにする。

 

1章:アメリカにおける任期制限運動

 任期制限とは当選回数に制限を加えるもの、議員在籍年数に制限を加えるものなどさまざまな形をとりうる。アメリカにおいてもその内容は州によって異なるのだが、連邦議会議員にたいして任期制限をとる州では概ね上院議員で2期12年、下院議員で6年から12年となっている[i]。したがって、このような任期制限の州では、このような任期制限の州では、下院で12年働いた後、上院に移り任期いっぱい働くとしても最長で24年しか務めることが出来ないのでる[ii]

 任期制限はコスタリカ、メキシコ、エクアドル、フィリピンが国家単位で採用している[iii]。アメリカでは州レベル、連邦レベルを合わせると32の州が何らかの形で任期制限を採用している。以下でみるように任期制限運動の争いの焦点は合衆国憲法を修正するか否かと言う問題にまで発展しているので、任期制限の政治的影響をはかることはきわめて重要である。

 この章においてはアメリカにおいて任期制限を求める運動が90年代以降高まりを見せた状況を記述し、その運動の過程においてどのような点が争いの争点になったかを整理する。

第1節:任期制限を推進する諸団体

 まず、任期制限が全国的な広がりをもっていることを簡単に確認するためにここでは具体的にどのような団体がこの運動を推進し、またどのような団体が反対しているのかについて述べる。

推進団体は、全国的には、U.S.Term Limits(以後USTL) 、Americans Back in Charge、 Term Limits Legal Institute(以後TLLI)、 Americans to Limit Congressional Terms(以後ALCT)、以上4つの団体の存在があげられる[iv]。ここで、全国レベルの推進派団体を紹介しながら、その背景や政治的動向に触れてみる。まず、推進派団体の中で最大規模を誇るのがUSTLであるが、これは完全自由主義的思想傾向をもつ組織である[v]

USTLは、ニューヨークの資産家ハワード・リッチからし金提供を受けている。彼の組織の起源は、レーガン政権において管理予算局長を務めていたジェームズ・ミラーに率いられ、企業経営者によって支えられた団体Citizens for a Sound Economyにさかのぼる。ここから、特に任期制限を強く支持する幹部がCitizens for Congressional Reformという新組織を結成し、カンザス州の富豪から資金援助を受けるにいたった。しかしながら、その組織をまもなく解体を余儀なくされ、それを買い取ったのがリッチであった。ここにUSTLは誕生した[vi]

次にTLLIがあげられる。この団体は共和党員であるテリーコンシディンによって結成された団体Americans Back In Chargeを母体としている。さらに現在の指導的な立場にいるものは民主党員である。ALCTは現在破産状態にあるが、この団体は憲法修正をその目標に掲げていた団体である。

この他にも、任期制限を主たる目標として掲げているわけではないものの、賛同している団体がいくつかある。

反対団体としては、Let the People Decide、Americans for Ballot Freedomがあげられる。全国的な規模を誇る団体で、任期制限を主たるテーマにした団体をこれが唯一の団体ではあるが、政治団体として任期制限反対を唱える団体は他にもあり、婦人有権者連盟などが挙げられる。

このように、任期制限を推進あるいは反対する団体はアメリカ全土において多く分布していることがわかる。任期制限をめぐる争いはアメリカ全土に広がっていくのである。さらにここで重要と思われるのは、全国的な運動であるばかりでなく、超党派的に運動が行われているという点である。

 

第2節:任期制限運動の盛り上がり

ここでは前節でみた任期制限を求める運動の広がりが90年代以降どのような高まりを見せたかについて具体的に記述する。

1990年、コロラド、オクラホマ、カリフォルニア3州の住民は、州議会議員の任期を制限する法案を初めて可決した。加えてコロラドでは、連邦議会議員の任期を制限する法案をも可決した。1991年、ワシントンでは任期制限を問う住民投票を行ったが、住民投票で敗れてしまった。1992年11月の大統領選挙と同時に行われた14州の州民投票で、州議会議員、および連邦議会議員の任期を制限する提案が可決された。1993年は、メーン州がこの法案を可決した。任期制限の目的は、在職期間の短縮により議員が選挙民に責任ある対応をすることを促し、同時に政策刷新を進めることにもあった。

1980年代中ごろより主として西部諸州で活発化した運動が、92年に中西部南部諸州にまで広がったのは、最近の有権者の政治不信、特にワシントン批判気運がいかに高いものであったかを物語っている。しかし、議員の任期制限には、候補者の自由が奪われる、議員の専門性が奪われるなどの多くの問題があり、また1995年5月に連邦最高裁判所は、「各州が連邦議会議員の任期を制限することは、連邦憲法に違反する。」という判決を下した[vii]

1995年5月22日、最高裁判所は、連邦議会議員の任期に関して制限を課した23州の法律に対して違憲判決を下した。上院議員に12年、下院議員に6年の任期制限を課す有権者の住民発案で採択されたアーカンソ−州修正条項に対して裁判所は5対4で違憲判決を下したのである。スティーブンス最高裁判所判事が作成した判決文の内容は、同法の合憲性だけでなく、任期制限の政策的含意を対象としたものであった[viii]

クラレンス・トーマス最高裁判所判事はレンクイスト主席判事、オコナー判事、スカリア判事とともに、提出した88ページにわたる反対陳述書の中で憲法に定められている議員に立候補するための3つの条件「年齢、市民権、州住民登録」は、各州がその他に条件を付け加えるのを妨げてはいけないと主張した。ただし、「憲法が定めた範囲外においては、州や人民による行為は何ら禁止されてはいけない。」とトーマス判事は記した。合衆国絹布が採択された際、ヴァージニア州は議員候補者が資産所有者であるという条件を求めた。つまり憲法に明記されていない付属条件を課した、とトーマスは指摘した。他にも一定期間の居住を候補者に求めた州もあったが、現在でもそれを実施している州は存在する。法律の現状維持に投票した5人の判事は、ワシントンのエスタブリッシュメントたちが求めた勝利を彼らに与えるために、合衆国憲法修正第9条ならびに第10条、そしてアメリカの歴史を無視せざるをえなかったのである。選挙の洗礼を受けていない連邦判事によって、州法による手段が閉ざされたことでまさに職業政治家の支配構造を打破しようと試みる人たちは憲法修正に希望をつなぐことになった。

これにより任期制限運動は、憲法修正問題に姿を変え、その論争は連邦議会に移ることになった[ix]

 

第3節:争いの争点

ここでは上で述べられた任期制限を求める運動の争いの焦点はどこにあるかを記述し、先行研究のサーベイを元にその焦点を整理する。

まず任期制限運動が起こった背景には強い政治不信が存在するということである[x]。選挙活動において現役の議員はそうでない議員に比較して、強い優位性を持つことが指摘されている。さらに現役議員は選挙期間になったら時間を議事と選挙どちらに費やすか選択を迫られることになり、たいていの場合選挙をとるのである。つまり議員の選挙活動の非効率性が指摘されよう。また日本の例を省みるまでもなく、中南米、東南アジアなどの例をみても長期政権は癒着をうむのではという疑念が生まれる。つまり、任期制限を行って議会の新陳代謝を高めることは議員の清廉性を高めるといえるのかもしれない。また、任期を区切ることにより各議員に選挙民に対し責任を強く持たせるとの意見や、政策の硬直性を防ぐという意見もある[xi]

一方任期制限に反対する意見をまとめておくと、任期制限を行うということは立候補の自由という法の精神に反するという意見があげられよう。また一方では議員の専門性を奪うという意見もある。つまり長期にわたって議員を務めるものがいないので、常に新人議員に議事を任せることになってしまうという考え方である。さらにどれだけ良い仕事をしても再選されないため、良い仕事をしようとする再選のインセンティブがないとの意見もある。このことはコスタリカの例において詳述される[xii]

アメリカの例で述べたように、もはや争いの主戦場は合衆国憲法を修正するか否かという連邦議会レベルにまで移っている[xiii]

ここで注意しなくてはいけないのは任期制限推進派の意見の、任期制限は政治に好影響を与えるという考えは可能性のレベルでしかなく、また、二重の可能性であるということである。すなわち、長期政権は政治に悪影響を与える可能性が存在するという可能性と、その悪影響が任期を制限することで解消されるという可能性の二つである。

第一に長期政権は政治を濁らせているのではなく、政治が清廉であるからこそ長期政権が生まれるという考え方もあろう。長期政権が生まれてしまうから任期制限をしようというのは短絡的にすぎる。第二に長期政権が悪であるとしても、任期制限が必ずしもその悪を取り除くとはいえないのである。任期制限は一人の議員が長期にわたってその地位を占めることを防ぐが、例えば飾りのような議員が次々と替わるだけで政党という同じ穴からでてくるとしたら任期制限が果たしてその役目を果たすかは疑問であるといえる。さらに長期制限を防げたとしても任期制限を行うことによってまた別の悪影響が生まれる可能性を否定できない。例えば専門性が失われるなどである。つまり任期制限を行うことによって政治に好影響を与えるかどうかというのは必ずしも一意にはいえないのである。

一方で任期制限反対派の意見の、議員の専門性を失わせるということや、再選のインセンティブがないという意見も同様に可能性のレベルにとどまっている。さらにアメリカでの任期制限を巡る争いのところでも述べられたように任期制限の法への違反性も、法解釈的に問題が残るといえよう[xiv]

このように任期制限を施行すべきか否かは国の事情など、それぞれのケースに即して判断すべきものと考えられる。  

 

2章:コスタリカ、ベネズエラの事例

ここではCarryの論文を元に、任期制限が実際に国政レベルまで施行されている国ではどのようなことが起こっているかをみる。

現在、任期制限を採用している国家は、コスタリカ、メキシコ、エクアドル、フィリピンの4つであり、その中で、憲法によって明記されており、また民主主義が作用しているコスタリカがもっとも比較の対象としてふさわしい、と判断されている。

そこで以下ではコスタリカ、ベネズエラの事例を挙げ、検証する。それはこの2つの国は、地理的、政治的に類似する点を多く抱えており、数少ない異なる部分は任期制限の有無といってもよいといえるからである。したがって、この2つの国を比較することによって任期制限が抱える問題について理解することができると思われる。

以下では任期制限について述べる上で政治的キャリア、立法部の特権、議会における党派性、の3つに注目を払いながら、任期制限が議会に与える影響について考察を進める[xv]

任期制限は、政治家のキャリアを変えうるものではあるが、それを無くすものではないということを明らかにする。その根拠は以下のとおりである。

政治家は、公職の立場においてキャリアを築くとき、最低2つの力に従わなければならない。有権者だけでなく、党の指導者の力にまでである。コスタリカにおいて、任期制限は、議会におけるキャリアを阻むことは出来たが、政治的キャリアの解消にまではいたっていない。それはコスタリカでは、任期が制限されているため、再選は不可能であるが、議員を引退した後のポストが、在職中の党への貢献度によって割り当てられるシステムが作用しているからである[xvi]。このシステムが、議会における党派性を維持し、政治的キャリアを保証することになってしまっているのである。そして、党に対する貢献度とは、たいていの場合ポークバレルを意味する。したがって、議員は、自らの選挙区に対して財源を確保し、それを地域に還元することになる。そのことにより地域内における政党のプレゼンスを高め、次回選挙における勝利の土壌を築く。このように党派主義は、議員によってではなく、政党からの要請によってなされているのである[xvii]。その原動力となっているのは、選挙における得票である。コスタリカの政党は、議員引退後のポストをちらつかせることによって選挙での勝利を目指し、議員を組織している。つまり、この点ですでに任期を制限し、長期政権を阻むことによって癒着を防ぐという任期制限の目標は崩壊しているのである。

任期制限の存在によって、さらに、コスタリカの政治的キャリア主義は以下のような変容したものとなっている。議会引退後のポストを割り当てるのは大統領だが、大統領の任期は1期のみに限定されており、大統領が一度当選して自らのスタッフを任命し終わると、その影響力は失われてしまうのである。そのため、コスタリカの議員に求められる資質は、次に誰が大統領になるかを見極める能力なのである。それに加えて、党がさほど影響力を保持していないため、自分の金でポークバレルをするパトロンでなければならない。つまり任期制限が存在することによって逆に非効率性が存在するといえる[xviii]

このことをベネズエラとの比較において言及しよう。コスタリカの議会における党の結束力は、ベネズエラのそれと比較したときに弱いとされるが、それは任期制限によるものである[xix]。その論理は以下のとおりである。任期制限は、次のキャリアと関連されるために大統領選挙との係わり合いの度合いが相対的に高くなる。しかしながら、次期大統領が誰かは定かではない。議会における4年のなかの3年は、政党から誰が次期大統領候補になるかも定かではない。このような状況下、任期制限のある無しで、次の2点がポイントとして挙げられる。第一に、任期制限下の議員は、制限されていない議員よりも党に対する貢献が報われるチャンスが少ない。制限されていない状況なら、選挙の際に党指名候補名簿での高い順位付けを期待できる。党の規律の存在と高い順位付けがあれば、それはたとえ自らが支持している大統領が当選してもそうでなくても、直接的には関係のないことである。無論、任期制限下での高い順付けとなればよいのだが、任期が制限されている以上、選挙に出るチャンスがないのである。党の規律を組織し、忠誠を尽くしたとしても、議会を引退した後の報酬は確実なものではない。大統領選挙で味方が勝利を収めない限り、何もないのである。すなわち、ポークバレル的な地元有力者型の政治家、コスタリカの政治家は、再選を目指すベネズエラの政治家よりもリスクを負っていることになる。その結果低い報酬に甘んじなければならない。第二に、次期大統領候補を見極めるのはあくまでも各政治家の判断であり、自分自身で党内派閥を作らなければならない。議会における彼らの仕事は何よりも次期大統領候補の見極めであり、支持する候補を指名させるための不毛な争いとなる。大統領選挙のために党の団結力は低下し、党内破壊の危険性を常にはらんでいる。このような際に求められるのが、党の結束を高め、立法者のキャリアに安定をもたらすリーダーシップであるが、ベネズエラではそれがある。一方のコスタリカではそれがないように思われる。

このような党の規律や団結力の有無を、善悪で判断するわけではない。が、このポイントが立法者の有権者に対する責任の度合いに関連しているとは指摘される。ベネズエラは高い結束と党の規律が、立法者と有権者の間に距離を保たせ、国政レベルの利害を争ってきたのに対し、度合いが相対的に低いコスタリカでは、地域との結びつき、癒着の政治から脱却できず、長年にわたってポークバレル政治をすることになってしまっている。

もし任期制限が、有権者、立法者双方に好影響をもたらしうるものであるならば、このような結果にはなっていなかったはずである。政治的キャリアを形成することができるのは双方に共通している。

このようなコスタリカの代議制における複雑さの元凶は任期制限の存在であると指摘もできる。代議制において、選挙と議会が切り離された時、それに属する議員たちはどのようにしてその労働意欲を保つかという問題は非常に重大である。

 上でみたとおり、少なくともコスタリカの事例のおいていうならば任期制限は、それを唱える支持者たちが予想するすべての結果をもたらすとは言いがたい。

ともあれ、任期制限は、政治的キャリア至上主義を解消するものではない。ましてや、個人的な野心より市民政治の美徳を重視する立法者を生み出すようなシステムでもない。任期制限の効果は、その国に適用される選挙制度によるものである。

 任期制限はいわば、議員が自らの首を締めるような状態であり、誰が一体自主的にするというのだろうか。コスタリカの事例を見る限りではその答えは見つかっていない。アメリカにおいても、これまでのところ任期制限は直接民主制によるものに限られている。

任期制限はまれな政治的現象といえる。現在採用しているのはごくわずかの国と、アメリカの一部の州政府のみである。しかしながらそれは、現在のところ、アメリカ合衆国で選挙改革の最も重要なものである。さらに、任期制限が示唆するものは、議会の質、政治学研究の双方にとっても意味深い。任期制限は、否応なしに、議員の意欲、有権者に対する責任感に変化をもたらすことはまちがいないのである。

 

3章:任期制限が議会にもたらす影響

ここでは前章で述べられたコスタリカの事例からの結論、任期制限が必ずしも好影響を及ぼすとはいえないという主張が米連邦議会に適用できるかを述べる。コスタリカの事例はコスタリカ特有の事情、法制度がもたらしたものということもできるからである。少なくともアメリカの場合にはポークバレルはコスタリカにおけるそれと違うということができる。この点で、アメリカには任期制限を適用することで好影響を与える余地があるということもできるからである。まず、任期制限推進者からの意見を検討することから始める。

 

1節:賛成派の観点から

少なくとも任期制限は、議会における議席変動の比率の変化に影響を及ぼすといえよう。まず、任期制限推進派が、現職議員の職権乱用がアメリカ政治における競争状態を害したと論じていることを検討しよう。すなわち、推進派が現職議員に認められた多くの特権が公平な選挙の実現の水を差し、現職の再選をより確かなものにしたと主張している点についてである。彼らは任期制限を議席変動の比率を上げる手段としてみている。基本的な議論は以下のとおりである。議会、連邦レベルでの選挙区見直しの大多数は、2大政党の協力もしくは、現職によるゲリマンダリングである[xx]。民主党は、共和党のエリアを共和党の現職者と交換する。逆に、共和党は、民主党のエリアを民主党の現職者と交換する。その結果というと、現職者は選挙におけるリスクを低減し、より競争を無くしている。すなわち、エリアを交換し合うことによって自らの基盤を強くし、現職者の再選をより確実なものにしているのである。任期制限推進派は、選挙区割りの見直しは、人口変動、移動に基づき、その格差を是正するために行われるべきものであるはずなのに、本来の目的を無視して現職者による、現職者のための見直しが行われていると主張する[xxi]

現職者は、いったん当選すると、名前の認知度、政治資金、メディアへの自由なアクセス、議会スタッフの活用など、多くの点で利益を享受することができる。アメリカの連邦議会は、きわめて充実したスタッフ機能を持っている。平均して、上院議員は40人、下院議員は17人のスタッフを雇用している。合計すると約一万人にもなるといわれるこれらの人件費はすべて公設スタッフであるため、その財源は税金でまかなわれている。さらに委員会所属スタッフが約3000人、議会予算局、議会図書館調査局などの議会調査部門スタッフが約3000人存在する。彼らスタッフの仕事には政策の研究、法案起草、そのための準備にとどまらず選挙区民の世話や選挙対策にまで及ぶのである。スタッフの存在が現職者にとってメリットとして作用していることは言うまでもない。結果として、現職者は選挙で負けるのが不可能となり、州、連邦レベルにおいてフルタイムで仕事をするようになる[xxii]

さらに任期制限推進論者たちは質における議論にも言及し、議席変動の欠如が、選挙の変化に対する基盤を弱め、システムをゆがめていると主張する。その論拠は少なくとも2つある。第一に、選挙結果は現職者の好みにより歪曲されている。第2に、同じような理由で、選挙結果は民主党および共和党によって歪められている。大幅な議席変動は競争状態を回復し、責任感を高める。そして、プロ現職者を減らし、立法部と議会選挙を歪めるプロ民主主義政党を減らす[xxiii]

それに対して任期制限反対者は、往々にして、先ほど述べた民主主義システムに対する責任や歪曲に対してそれほど疑問を付さない。かわりに、民主主義システムに対する責任や公平性の適正レベルについて疑問を呈する。そして任期制限がこれらの弊害に対する処方箋となりうるのかについて疑問を呈する。

まずこの論点を検証するために、事実関係を明らかにしておこう。上記のように、選挙において現職が有利な立場にあるのは確実である。しかしながら、いったん当選した人が永久的に議会に居座り、議席変動がほとんど起こっていないかというと、必ずしもそうではないのである[xxiv]

1992年の下院議員選挙では、1948年以来最大の議席変動があった。自発的退職者、選挙において敗北した現職者が多数存在した。いわゆる決定的選挙である。その周期は30年とする学者もいれば、12年とする学者もおり、周期の年数自体は議論の余地が大いにあるものの、定期的に、大幅な議席変動があるのは確かな事実である。1984年から1988年にかけては、下院議員の顔ぶれは大幅に変化している分けではないが、それ以前の1974年から1982年は、高い水準で自発的退職者と、新人議員の当選があり、大幅な議席変動が記録として残っている。1980年代はじめまでは上院、下院双方の議員の4分の3は、平均して12年以下の在職期間であった。そのような状況は1990年代に入って変わり始めた[xxv]

 新鮮な血液の循環が上院、下院にとりさして大きな問題ではないと議論を呼んでいなかった期間に、適正な状態の競争は保障されていたのである。高い再選率、圧倒的票差をつけての現職者再選は実のところそれほど問題ではないともいえるし、さらに次のようなことがいえなくもない。すなわち、任期制限は不必要に過剰な競争をもたらす。それはよりいっそうの競争状態ではより質の高い、またより財政的に恵まれた候補者が求められるが、任期制限は、次々と政治家をその舞台から引きずり下ろすために、選挙への意欲、政党の候補者をリクルーティングする効果を減ずることになるからである。もちろんこれは可能性の話であり、仮定にすぎないが、少なくともここでいえるのは次の通りである。すなわち、現職の選挙における優位性は否定しきれないが、任期制限がなければ議席変動が起こらないというわけではない。事実として、議席変動は起こっていたし、それは不十分であるとはいえない規模のものであったということである。つまり、事実として、競争は存在していたということである。少なくともこの点において任期制限をどうしても導入しなくてはいけないという必要性は疑わしいといえるかもしれない。

次に推進者が、連邦議会、州議会に新鮮な血液の流入、すなわち新人議員が登場することの価値を論じていることについて検討する。ここではただ単に新鮮という意味だけでなく、その新鮮という言葉には3つの異なった見方が存在する。それぞれは規範的な反対と関連づいているといえよう。

ひとつは、反プロフェッショナル主義の議論である。近年、候補者に、プロ政治家としての資質を求める動きは強まっている。たとえば、議員になるまで、一切ほかの職業の経験がなく、もしくは、他の公職についているのみで、生涯議員の立場を確保しようとしている候補者が多いのである。しかしながら、そのような政治家たちは、人間としての社会経験が絶対的に不足しており、また、そのような人たちこそ腐敗の力に弱いのである。(と、推進者たちは主張している。)任期制限は、政治家から生涯にわたるキャリアを奪うので、立法部は、今までと違った異質な人材をひきつけることになるだろう。政界に入る以前に何かを成し遂げた実績がある人、社会が強く求める人材などをひきつけるであろう。と、いうのが推進者たちの主張である。

その一方で、反対論者たちは、このように反対する。明らかに、一番目の資質の関する議論は、アマチュア市民議員の発想である。任期制限反対派は、任期制限という手段が市民立法を実現するという考えには、同調しなければ、疑問にも付さない。その市民立法という目標に賛成しない人たちは、立法部の独立した法案作成能力を好む傾向にある。推進論者とは全く逆で、プロフェッショナルの政治家たちは知識と識見があり、それゆえに有利なのであり、アマチュア議員は相対的にそれらの能力は劣っていることを指摘せざるを得ず、結果として、行政部に対して立法部が脆弱な組織と化してしまうということを主張している。任期制限はそれに加えて、専門性の低い候補者に対して、立法部への道を切り開くという効果を含んでいるのではないかと問うている。もし、任期制限の適用後、議会選挙への立候補者の資質に何らかの変化が生じるとすれば、たとえば、高齢者、富裕層などの時間的、金銭的余裕のある人材に起こる。現時点において、地方政府の役人、州議会議員、立法関連者が、連邦議会への人材投入に関してもっとも高い数値を記録している。というのもこれは、彼らが資金に潤沢で、なおかつ党に対してよいコンタクトを保持しているからである。立法部において党の影響力が強い場合、経験者の方がより好まれる傾向にある。端的にいうと、異なったタイプの個人を入れ替えるので得はなくて、ただその表面上を代用するに過ぎないのだと任期制限反対派は主張している。

この点において任期制限を施行することがどちらに働くか、つまり任期制限を行うことによって政治以外にも豊富な人生経験を積んだ見識のある人が政界により多くいくようになるか、それとも政治のプロフェッショナルを押しのけてしまうことになるか、一意に判断することは困難である。しかし、任期制限を行うということが好影響を与えるということの決定的な証拠ではないといえる。

質に関する2番目の議論としては、候補者個人の態度という部分はトーンダウンさせて、現職議員が2から3期務めている時に起こる人の変遷の際に起こることについてスポットを当てている。立法部の腐敗理論とも置き換えることが出来よう。推進派の理論によれば、現職議員は、利益集団との結びつきや、選挙区民の関知し得ない内部のネットワークの発達によって、腐敗されていくのである。選挙で現職を負かすのが困難であるがゆえに、選挙プロセスはこのような腐敗を排除できないのだと支持者は論じる。

任期制限は、このような腐敗を定期的に除去する作用を持っており、アメリカ政治の原点を保つことができる手段なのだとも論じる[xxvi]。立法部の腐敗理論にある規範的な観点は、多数派であり、またはルーズヴェルト的でもある。多数派主義者の見解は、議員は、集団や企業の利益を一切考慮に入れず、個人の利害に集中するのみで、多数派の見解に流される。このことに関する議論は次の説で詳述されるが、コスタリカで起こったことを思い出せばわかるように、集団(例えば、党)の利益を考慮すると、腐敗をなくすとは限らないといえる。すなわち、任期制限を腐敗への対策としてとるのなら、任期制限を施行するだけでなく、党などの利益を考慮したさらなるシステムを導入する必要があるといえる。

3番目の議論は、任期制限が政治史の流れを変えることになる点である。任期制限は、政策形成の時間に影響を及ぼすことは推進派、反対派ともに主張しているが、どのように影響を及ぼすかはそれぞれ異なる。現行のシステムでは、現職の有利さのためにスピードが非常に遅いと推進派は主張する。

これに対し、反対派によると、任期制限は、政策形成、法案作成のスピードを遅くするという。それらは現職議員たちが長い年月をかけて構築してきた、一つ一つの計画をこなしていく上で体得したものである。さらには、レームダックとなった議員は、長期にわたるであろう法案作成、政策立案に興味を示さなくなり、議会活動に意欲を示さなくなる点を指摘している。推進派はこれを否定し、任期制限によって生み出された市民議員が、有権者に対してより責任を持ち、立法活動に意欲を燃やすと信じている。

 この議論は、規範的理論よりも検証的である。長期にわたって現職議員が立法活動を一貫して行うことの良し悪しは、そのような政策が最適に追求される状況下ほど疑問ではない。長期にわたる政策形成は、双方の立場から、支持を得ている。任期制限に関して推進派と反対派は相容れないが、どちらが長期の政策形成に責任を持つかは、いうまでもない。行政部主導の政府を好む人たちは、長期にわたる政策、法案を行政にゆだねることを望んではいるが、任期制限反対派は、議会の機能不全に陥るとしている。

 

2節:反対派の観点から

ここまで、推進派の議論とそれに対する反対派の議論を追ってきたが、ここからは、反対派の主張する、任期制限がもたらす悪影響について検討する。

利益集団との結びつきに関して、推進派は以下のように主張する。

一定の期間で自動的に人材を放出する任期制限は、一定の速度で経験を放棄するといっても過言ではない。予算編成などの専門性が問われる作業の場合でも、これまでの経験が生かされなくなるのである。必要とされる経験が不足し、なおかつ議席変動が必要以上に大幅なものとなった場合、任期制限は議会の政策能力を落とすことになる。議会自体が専門知識、経験を失ってしまうと、それをアウトソーシングせざるをえない。すなわち、利益集団との結びつきが強くならざるをえない。議会活動をしていく上で、利益集団からの政治献金や、情報というものは必要である。議会経験のない新人や、ほかの公職に移ろうとする、すなわち任期制限で追い出されることになる現職議員ほど、より利益集団のバックアップが必要になる。任期制限の結果、議員がより利益集団への依存を強め、議会は国民の代表としてではなく、各利益集団の代表として機能するようになる。これに対して推進派は、任期制限がキャリア主義を弱め、市民議員は、利益集団の資金を必要とせず、自らの政治心情で決断できると信じている。

もちろん反対派の意見は可能性の域を出ない。ただし、このことはコスタリカの例でみたように、ある場合、例えばポークバレル的な状況が存在する際にはあり得る。任期制限が即腐敗に結びつくという論理は強引であるにしても、任期制限は必ずしも腐敗を追放するとは言い切れないのである。

反対派は任期制限がもたらす議員の質の低下について以下のように主張する。推進派の言う職業政治家は、個人の名声を築く手段のひとつとして議会を用い、それはもっぱら私腹を肥やすこと、としている。アマチュア政治家を好む人たちは、結果としてより少ない有権者サービスを享受するのみではないだろうか。任期制限を、キャリア主義に対する処方箋としてみている彼らにすれば、キャリアの恩恵はキャリア主義が引きおこす弊害に比較して全く小さなものでしかない[xxvii]

 もちろんこれも推測の域を出ていないのだが、先ほども述べたようにプロを押しのけるか人生経験の豊富な人を呼び込めるか、一意には定められない。現在の連邦議会がこれ以上人生経験の豊富な人をわざわざ呼び込まなくてはいけないかという点において判断する必要があろう。その意味において、任期制限を行うことによる議員の質の改善という効果はいささか疑問が残る。

任期制限は議会におけるリーダーシップを破壊するかという問いに対する反対派の主張は以下の通りである。

州議会や連邦議会の指導的役割は、経験のあるものによって占められることが多い。立法方法や戦略は複雑である。さらには、指導的立場にあるものは、効果的に組織していくために各メンバーを把握しておく必要がある。任期制限はこのようなリーダーシップを育成するために必要な時間を許容していないが、これらは不必要だというのか。議会を含めてあらゆる組織、集団にも新たな血液、フレッシュな考え方は求められる。議会は若い議員に与えられるべきだというのもそのとおりである。しかしながら、任期制限はすべての議員を一定の期間で排除してしまうシステムである。たとえ、有能な議員がいても、6年もしくは12年で立法過程から立ち去らねばならないのである。かつて、リーダーシップに率いられた協調行動は、行政部に対する牽制として、戦略上求められてきた。後には、リーダーシップは政府内の議会メンバーから生じるようになった。権力は集権化し、委員会や本会議から形成する議会を編成する能力はリーダーシップがより低い次元でのものとなった。

たとえばイギリスでは立法部のどの次元においても任期制限を課していない。行政部の高い地位をしのぐべく、長い経験が認められている。厳格な任期制限はリーダーシップを兼ね備える人材を育成する時間を与えず、もしその資質を持っていても発揮する時間を与えない。任期制限の弊害が議会運営、立法過程にまで及ぶのは否めない。

 ここでも、紹介されているのは可能性における議論であり、必ずしも奪うということではないが、任期制限がこのようにキャリア、リーダーシップを醸成する時間を奪う可能性は否めない。任期制限を導入することによる新たな血液の導入の効果がこれを上回るとも言い切れず、任期制限の効果はこの点で限られたものといえるかもしれない。

任期制限は立法部と行政部のバランスを変えるかという点に関して、反対派の主張は以下の通りである。

 連邦憲法には、三権分立主義が謳われているが、任期制限はこれを崩しかねない。連邦政府内の権力を機能的分散させたものが三権分立である−つまり立法、司法、行政の3部門に分け、相互の抑制と均衡によって、権力集中を防ぐものである。各部門の権限については、憲法1−3条にそれぞれ規定されている。1条1節で「立法権は合衆国議会に帰属する」、2条1節は「行政権は大統領に帰属する」、3条1節が「司法権はひとつの最高裁判所および連邦議会が随時制定、設置する下級裁判所に帰属する」と規定しているのがそれである。三権分立の原則が特にアメリカでその政治特色にされる理由は2つある[xxviii]。第一は他の国と異なりそれが単なる形式にとどまらず、実質上でも比較的厳格に行われていることである。アメリカの内閣閣僚は、議員をかねることが出来ないため、現職閣僚が閣僚に就任する際には議員を辞職する。第二は、「司法権の優越」であり、裁判所は法律の内容を審査する機能を付与されている。しかし、議会のみが立法に携わり、大統領のみが行政を管轄し、裁判所だけが司法を担当するということではない。大統領は議会が可決した法案に対し「拒否権」を行使することによって、議会をチェックする機能を持っている。また、「大統領教書」を送り立法を勧告する行為は、三権分立の元で議会に属する立法権限に実質的に大統領が関与することを示している。他方議会は、大統領の条約締結や官職任命などの行為に対する同意権を行使することによって、大統領の行政権を牽制している。そして最高裁判所は司法審査権を持っている。つまり各部門は、他の部門に対してネガティブに反応する機能を持つことによって他部門をチェックしているのである。

 任期制限が、立法部と行政部のバランスを変えるというのは、一番大きな問題である[xxix]。立法部は、法案作成のためにスタッフを必要とし、効果的に仕事をするために、一定の時間とが求められる。任期制限、人的資源の制限は、行政部への権限委譲となる。立法部による、独立した政治判断は危機にさらされている。立法部の独立した政治判断の能力が減ずれば、権力は行政部に集中することは避けられない[xxx]

 この点では反対派の主張は、任期制限が議会に対し悪影響を及ぼした場合にのみしか言及していない。つまり、上で述べられた点で任期制限が議会に対し悪影響を及ぼすと決定された時点において、この主張は正当化される。

 賛成派の意見からも、反対派の意見からもどちらがよいと決定的な証拠を提出することはできない。それは結局のところその国、あるいは政治主体の政治的成熟度や、国民性その他の状況に依存するといえるかもしれない。米連邦議会にその状況を当てはめてみるならば、反対派が述べるような、任期制限が生み出す悪影響の心配というのはそれほど大きくなさそうではある。それは結局のところ多くの州が任期制限を課しているが、ひどい悪影響が存在するとは言い切れないからである。ただ、逆に任期制限が存在することで推進派の主張するような好影響が存在していたかというと、そこにも疑問が残るかもしれない。憲法を修正するという問題にまで発展した任期制限問題だが、任期を制限すべきであると憲法を拡大解釈しなくてはならないほど、任期制限に決定的に有利な証拠は実は存在しないのである。

終章:結論

 今日、アメリカ国民の間には根強い政治不信、政治家不信が存在しており、議会と議員もその矛先となっている。議会に対する評価は着実に低下しており、特に長老議員に対する風当たりが強くなっている。1990年から始まった連邦議員の任期制限運動は一挙に拡大して現在では31の州が任期制限を通過させている。1992年の選挙では110人の新人下院議員が当選し、1994年の選挙では87人の新人議員が当選する事態となっている。これは有権者の怒りのあらわれとしてとられるべきものである。連邦議会がスタッフ数削減に着手したのも、まさにこのような最近の政治不信への対応という意味ももっていた。任期制限が主張されてきたのはまさにこのような背景があるからである。

 しかし、以上において任期制限を検討してきた結果明らかになったのは、以下のとおりである。

 これまで見てきた中で、任期制限が法的に法的に問題があるとの主張は必ずしも正当化されない。しかし、任期制限が政治に好影響をもたらすという論旨には疑問が残ると言わざるをえない。少なくとも、コスタリカの事例を見る限りでは悪影響を否定できないし、アメリカに対して好影響を及ぼすという決定的な証拠も見つけることができない。

 つまり、任期制限を導入するだけでは、議会は国民に胸を張れないのである。仮に導入するのであれば、上で述べたような問題点を解決するような監視方法や、新たなほうの開発が必要となりそうである。さらに、憲法を修正し、拡大解釈を可能にするような方法を求めるのであれば、そのことが生み出すさらなる拡大解釈の危険性を考慮しなければならない。

 この論文の主要な結論として、任期制限が必ずしも好影響をもたらすわけではないということを明らかにしたことがあげられる。

 ただ、ここで付け加えたいのは法的に議員の任期を制限することには問題があるが、かといって任期制限推進派が全面的に間違っているわけではない、ということである。というのも、USTLのような任期推進団体が精力的に活動したために、望ましい結果も出ているからである。望ましい結果の一つ目は、州レベルでの任期制限のために、任期切れとなった州議会議員が、連邦議会選挙に立候補するようになり、それが現職連邦議会議員に対する強力な挑戦者になっているのである。そして、二つ目としては、自発的任期制限があげられる。現在任期制限は法的、制度的には確立していないものの、USTLの主張に賛同し、自発的に引退を表明する議員が増加しているのである。この二つの要因があり、近年は、着実に議席変動率は高まりつつある。USTLをはじめとする推進派団体の目的は必ずしも達成されていないもの、彼らの運動の効果は、少なからずあるといえよう。

 以上のような変化の胎動は見えるものの、いまだ不十分な点は多々ある。議会にたいする、そして政治に対するアメリカの有権者の不信感を払拭しきれていないからである。

 本論文の冒頭から述べてきたとおり、任期制限問題はすなわち政治不信に帰結する。このような問題に対する解決の糸口を探る際に、必要なことは、有権者の心理をいかに議会自身、政治自身がくみ上げるかということであろう。任期制限問題の今後の趨勢も、行方は議会の対応次第であるといえよう。

 

 



[i] Caress Stanley M “Aressing resent on legislative term limits: the case of

  California” p3

[ii] George Will “Term Limits” p10

[iii] John M Carry “Term Limits And Legislative Representation” p25

[iv] 久保文明、「現職政治家不信の風土」、日本国際問題研究所、p53

[v] http://www.ustermlimits.org

[vi] 久保文明、p54

[vii] 久保文明、p59

[viii] Daniel Hays Lowenstein “Congressional Term Limits And The Constitution”p128

[ix] American Policy Quarterly, Spring, 1996

[x] Grober G. Norquist “Rock The House”p183

[xi] Paul Jacob “From the voters with care”p27

[xii] Carry p235

[xiii] John Kenneth “Term Limits: Will a resent set back derail the term limit

    movement?”P110   

[xiv] Lowenstein p131

[xv] Carry, p30

[xvi] Carry, p123

[xvii] Carry, p124

[xviii] Carry, p128

[xix] Carry, p138

[xx] 1812年マサチューセッツ州知事ゲリ−が、州議会の民主共和党と結んで自派に有

  利な選挙区境界線の変更を行った。ボストンの新聞がそのひとつの選挙区の形が

  火の中に潜むという伝説の動物Salamanderに似ているということから、絵入り

  の記事のタイトルにThe Gerry-Manderとつけたことに由来する。選挙制度の決

  定は基本的に州に委ねられているが、1986年の「デイヴィス対バンデマー事件」

  で最高裁は従来の立場を変更して、州議会が不均衡是正の責任を果たさない場合は

  ゲリマンダリングの違憲性について判断しうると判決を下した。なお最高裁の判決

  時における「相対多数意見」は、選挙区の区画の仕方によって、あるグループの影

  響が意図的に常時低く抑えられているような場合には、違憲になるとしている。

[xxi] Jacob, p40

[xxii] Jacob, p50

[xxiii] Becky Cain “Term LimitsNot the answer to what ails politics” p31 

[xxiv] Bruce E Cain “The Varying Impact of Legislative Term limits” p222

[xxv] Bruce E Cain, p230

[xxvi] http://www.heritage.org/…/archives/backgrounder/bg994.html

[xxvii] Becky Cain, p33

[xxviii] 斎藤眞、「権力分立制の元の大統領」、1995年、p11

[xxix] Becky Cain, p35

[xxx] http://www.heritage.org/…/categories/budgettax/bg1035.html

 

参考資料

Edward H Crane, Roger Pilon “The politics and law of term limits” 1996年 

Bernald Grofman “Legislative term limits: Public choice representative”

1995年 

Bruce E Cain “The Varying Impact of Legislative Term limits” 1996年 

Amihai Glazer, Martin P Wattenberg “How will term limits affect legislative work?” 1992年  

John M Carey “Term limits and legislative representation”1994年  

久保文明 「現職政治家不信の風土」日本国際問題研究所(外務省委託研究報告書)

1994年

Caress Stanley M “Aressing resent on legislative term limits: the case of California” 1993年

Kurfirst Robert “Term limit logic: paradime and paradox” Policy 1996 fall

“Term limits for members of the US House and Senate” Hearing February 3,1995

John Kenneth, “Term limits: Will a resent set back derail the term limit movement?” CQ Researcher 10 1992

Moore Michael K, Hibbing John R “Length of the congressional tenure and federal spendings: Were the voters of Washington State correct?” American Policy Quarterly April 1996

George Will, Term Limits, 1994年

Daniel Hays Lowenstein “Congressional Term Limits And The Constitution”

1994年

Grober G. Norquist “Rock The House” 1995年 

Paul Jacob “From the voters with care” 1994年 

John Kenneth “Term Limits: Will a resent set back derail the term limit movement?” 1995年   

Becky Cain “Term Limits:Not the answer to what ails politics” 1994年

http://www.heritage.org/

http://www.ustermlimits.org

 

 

 

 

 

≪補足資料≫

州議会における任期制限データ[http://www.ustermlimits.orgより]

State

Year

Limited: terms

Year law

Percent

(Total years allowed)

Takes effect

Voting Yes

Arizona

1992

House: 4 terms (8 years)

House: 2000

74%

Senate: 4 terms (8 years)

Senate: 2000

Arkansas

1992

House: 3 terms (6 years)

House: 1998

60%

Senate: 2 terms (8 years)

Senate: 2000

California

1990

Assembly: 3 terms (6 years)

House: 1996

52%

Senate: 2 terms (8 years)

Senate: 1998

Colorado

1990

House: 4 terms (8 years)

House: 1998

71%

Senate: 2 terms (8 years)

Senate: 1998

Florida

1992

House: 4 terms (8 years)

House: 2000

77%

Senate: 2 terms (8 years)

Senate: 2000

Idaho

1994

House: 4 terms (8 years)

House: 2004

59%

Senate: 4 terms (8 years)

Senate: 2004

Louisiana

1995

House: 3 terms (12 years)

House: 2007

76%

Senate: 3 terms (12 years)

Senate: 2007

Maine

1993

House: 4 terms (8 years)

House: 1996

68%

Senate: 4 terms (8 years)

Senate: 1996

Michigan

1992

House: 3 terms (6 years)

House: 1998

59%

Senate: 2 terms (8 years)

Senate: 2002

Missouri

1992

House: 4 terms (8 years)

House: 2002

75%

Senate: 2 terms (8 years)

Senate: 2002

Montana

1992

House: 4 terms (8 years)

House: 2000

67%

Senate: 2 terms (8 years)

Senate: 2000

Nevada

1994

Assembly: 6 terms (12 years)

House: 2006

70%

Senate: 3 terms (12 years)

Senate: 2006

Ohio

1992

House: 4 terms (8 years)

House: 2000

66%

Senate: 2 terms (8 years)

Senate: 2000

Oklahoma

1990

12 year combined total for both houses

State Legislature: 2002

67%

Oregon

1992

House: 3 terms (6 years)

House: 1998

70%

Senate: 2 terms (8 years)

Senate: 2000

South Dakota

1992

House: 4 terms (8 years)

House: 2000

64%

Senate: 2 terms (8 years)

Senate: 2000

Utah

1994

House: 6 terms (12 years)

House: 2006

N/a

Senate: 3 terms (12 years)

Senate: 2006

Wyoming

1992

House: 6 terms (12 years)

House: 2004

77%

Senate: 3 terms (12 years)

Senate: 2004

AVERAGE % of Vote

68%

 

 

 

あとがき

山田俊和

卒業論文を書き終え、感無量の気持ちで私はこの文章を記すべくパソコンに向かっている。慶應義塾大学に、私の研究成果が刻まれると思うだけで身震いがする。

 私がこの「任期制限運動」をテーマに選んだのは、今から考えると本当に偶然の出来事だった。3年生の秋頃に、朝早く大学の図書館に行き、ネットサーフィンをしていたら、「任期制限」をテーマにした記事を目にした。それは日米比較の観点から書かれたもので、ごく短いものだったが、「既得権益の打破」を訴えていたことに興味を持った。なんとなく頭に残った状態で、久保先生の現代アメリカ論の講義を聞いていたら、なんと任期制限について先生がふれられているのであった。私は何か運命めいたものを感じ、このテーマにすることを決めた。

 テーマを決めてからわかったのだが、久保先生も1994年に任期制限の論文を書いておられたのであった。これは、非常に微妙な問題だった。確かに、先生のかかれた論文を読ませていただき、参考にさせていただいたし、その他さまざまなアドバイスもしていただいた。しかしながら、先生と同じテーマを選んでしまったというのは、致命的なミスでもあるのだ。何を書いたとしても先生はご存知だったし、手を抜いた個所はすべて指摘された。この微妙な問題を抱えながら、私の執筆活動は続いていった。プレッシャーを感じない日はなかった。

 しかし、書き終えた今、そのような迷いや不安というものは私にはない。この論文は、先生の書かれたものには到底及ばない。学士論文としても不十分な点は多々ある。しかしながら、私は満足感をもっていま、この瞬間を噛み締めている。たとえ不十分であろうと、これは私自身が書いた論文であるからだ。私は、この論文のように生きたい。不十分で、欠点が多い人間だけれども、それでも前を向いて常に積極的なものの考え方をし、胸を張って生きる。この論文は山田俊和そのものを具現している。論文という鏡が、私を照らし出してくれた。

 やがて卒業し、アメリカ政治研究とはおよそ関係の薄い(もしくは無い)フィールドで、ビジネスマンとして身を処していく所存ではあるが、この論文が大切なことを教えてくれた。自分自身が書いた論文に対して、「ありがとう。」と言いたい。

そして何より、こんな私に対して親切丁寧な指導をしてくださった久保先生に感謝の意を表したい。

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