Daniel
Patrick Moynihanの思想的特徴
〜福祉に関する見解を中心に〜
4−L 大植崇史
目次
序章 はじめに
第1章 ネオコンの登場
第1節 アメリカの保守とリベラル
第2節 知識人の保守化
第3節 ネオコンの主張
第2章 リベラル派としてのモイニハン
第1節 モイニハンの政治活動の始まり
第2節 モイニハンレポート
第3節 リベラルからの逸脱
第3章 ニクソン政権内でのモイニハン
第1節 ニクソン政権への参加
第2節 Family Assistance Plan
終章 結論
序章
1960年代のアメリカは、公民権運動が刺激となって、学生運動やベトナム反戦運動、カウンターカルチャー(対抗文化)が出現し、激動の時代となった。また、多くの学生が、さまざまな社会批判を展開し、既存の価値観を否定し始めた。そして、ケネディ、ジョンソンという民主党大統領による政権は公民権法案や貧困対策など国内の社会改革に積極的に介入することになる。
しかしながら、1970年代に入ると、このような社会の風潮に反発する動きが見られるようになる。社会運動や政治運動の分野で、保守的な白人中産階級がそれまでよりも行動的になり、保守派の各種争点グループが従来からのリベラルな市民運動勢力を圧倒する勢いを示し始めた。民主党リベラル派の衰退が始まったのである。
このような社会の保守化を促す勢力として注目すべきは、思想、言論界における学者、知識人のリベラルからの逸脱、右傾向化という現象であった。彼らはネオコンサーヴァティブズ(Neoconservatives)と呼ばれ、1960年代の社会を行きすぎたリベラリズムであるとして批判するようになり、自由や民主主義、機会の均等など、アメリカの伝統的価値と言われるものを擁護するようになった。彼らは民主党リベラルの中に、黒人や急進派の新しい平等化を要求する勢力が強まるにつれ、リベラル派の批判者に転じることになった。
本論文では、このネオコンサーヴァティブズの思想を明らかにしたうえで、このグループの代表的人物であり、ニューヨーク州選出の前上院議員、ダニエル・パトリック・モイニハン(Damiel Patrick Moynihan)の福祉に対する見解、特徴を明らかにしたい。モイニハンは、福祉以外にも経済、外交など様々なイッシューにおいて発言をしているが、本論文では福祉という領域に限定したいと思う。モイニハンはニューヨーク市政からケネディ政権への入閣に始まり、70年代後半には国連大使を務め、76年からは上院議員を務めていて、様々な分野で幅広く提言をしているが、常に一貫して福祉問題に深く関与してきた。ちなみに、連続して4人の大統領の政権に参与した人物はアメリカ政治の歴史の中でもモイニハンのみである。(1)
また、モイニハンの福祉政策について、もちろん彼は政治の舞台に登場してから2000年に上院議員を引退するまで数多く提言を行っているが、本論文ではケネディからニクソン政権期に限定したい。ネオコンとモイニハンとの関係と比較、リベラル政権から保守政権へシフトする過程でのモイニハンの福祉政策に関する思想を追跡することが本論文での目的であるからであり、私の論文のオリジナリティでもある。
ネオコンサーヴァティブズについて書かれている書物は決して少なくないが、彼らの紹介で終わっているものが多い。また70年代アメリカの保守化という流れの中でネオコンが捉えられる傾向があり、ネオコンを形成している人物を取り上げ、その差異を検証していく研究が少ないように思える。またネオコン内部にある各個人の考えの差は認めているものの、そこに焦点をあてた研究はあまりされていないようである。彼らはアメリカ政治の各分野で多くの論文を発表しているが、そういった論文のなかにみられるその人物の思想的特徴を抽出してまとめる作業が行われていないように思える。私がモイニハンの福祉における思想的特徴を明らかにすることで、ネオコンサーヴァティブズの研究が本格的になされ、彼らの思想的特徴の追跡が数多くなされることで、従来のようなネオコンサーヴァティブズをひとつの塊として考える思考から、ネオコン内部における個々人の微妙な思想的差異を明らかにしていく研究が今後増えることになれば、この論文の先駆的な存在理由を主張できると思っている。
モイニハンは知識人のアブストラクトな世界と日々の実際政治の間のギャップに橋をかけたけた最初のネオコンサーバティブであると言われる。(2)社会科学の知識を実際政治に投与しているのがネオコンの大きな特徴であるとするならば、モイニハンはまさにそれを実行している人物であり、ネオコンの中でモイニハンを取り上げる選択は自然であると考えている。また、アメリカ政治のなかでも非常に息の長い人物であり、教条的保守派でもなければ、急進的リベラル派でもない彼のような人物を福祉政策という限定的な分野に絞って追跡することは、有意義なことであると考えている。
次に論文の構成であるが、第1章ではネオコンサーバティブズの思想、及び従来のリベラルや保守派との違いを明らかにしたい。
第2章では、ケネディ、ジョンソン政権時代、モイニハンの発表したレポートを取り上げ、リベラルから離れていく過程を考察する。
第3章では、ニクソン政権の大統領顧問として、家族援助計画(Family Assistance Plan)の法案化を試みたモイニハンを考察する。
以上のような検証を踏まえて、リベラルから保守へと移行していくモイニハンの福祉政策の特徴、その性格を抽出して明らかにすることが本論文の目的である。
第1章ネオコンの登場
第1節アメリカの保守とリベラル
この節ではまず、ネオコンを理解するための知識として、アメリカのおける保守とリベラルについて論じてみたい。
20世紀のアメリカの政治思想において、保守とリベラルという対立軸はひとつの大きな軸となっている。1930年代の大不況時に政権についたローズベルトは、経済の再建や失業問題の解決に、連邦政府による積極的な介入を行った。それまでの経済問題、社会問題に対して自由放任主義を貫いてきたアメリカの一大転機ともいえる。これから、民主党はリベラリズムの政党と言われるようになる。
一方でもう一つの政党である共和党は保守勢力の党であるとされ、民主党対共和党=リベラル対保守という対立式が出来上がることになった。
一般的にいって、社会主義や共産主義といったイデオロギーと比較して保守主義は一国の文化的伝統や諸条件と絡むため、国によってさまざまな特徴が見られる。アメリカの場合も例外ではない。
政治的イデオロギーとして、保守主義を考える場合、通常頭に浮かぶのは、伝統的文化の権威を尊び、身分制的な秩序に支えられた威圧的な統治形態を指し、経済活よりは他の文化的価値を尊ぶ思想形態である。そこでは、人間の自由は伝統や権威、権力によってすみずみまで拘束されている。このタイプの保守主義はヨーロッパや日本など、古い政治的伝統をもつ国々にみられるものである。この伝統的社会秩序を重んじる保守主義は、フランス革命の唱えた自由と平等、民主政治に敵対するところに原点があり、エドマンド・バークはその始祖と見なされている。(3)
しかし、アメリカの保守主義は伝統的価値や倫理の重要性を強調する点で、ヨーロッパのそれに類似しつつも、経済活動を中心とした自由の強調、夜警国家的な「小さな政府」を支持している。これらはヨーロッパでは先のような保守主義に対抗してできた自由主義のスローガンであったが、アメリカではそれがアベコベになっている。(4)
この奇妙な保守主義の登場の原因は、アメリカがヨーロッパのような伝統的社会を持たず、社会全体が建国当初より、自由や平等、民主主義といった原則によって成り立ってきた点にある。ヨーロッパの保守主義のような守るべき貴族制や身分制はアメリカには存在する余地はなかった。
もし保守すべきものがあるとすれば、それはヨーロッパの自由主義の諸原理とされていたものであり、アメリカの保守主義の中心価値が自由であるのは当然であった。『NEOCONSERVATIVES』の著者でもあるピーター・スタインフェルズはその中で、現代のアメリカの保守主義のイデオロギーは深く、そして間違いなくリベラルなものであると述べている。(5)
つまりアメリカの保守主義とリベラリズム(小さな政府の生涯を取り除くため、政府の介入を肯定し、個々人の自由を維持させる)の相違点は自由や平等というシンボルそのものではなく、その解釈の違いにある。アメリカにおける保守とリベラルの対立は、このように自由の解釈や理解をめぐる対立であり、いわば内乱、内紛であり、その正しい理解をめぐる熾烈な戦いでもある。
第2節知識人の保守化
さて、再度1960年代のアメリカ社会に目を転じると、例えばアファーマティブアクションに代表されるように、政府はそれまでのアメリカ社会における差別を積極的に是正するために強い介入策をとるようになった。さらにジョンソン政権の「偉大な社会」計画などは、アメリカにおける伝統的価値のひとつである「機会の平等」をのりこえて「結果の平等」という新しい概念を政策に導入させた。それらは、伝統的な自由主義原則を破って、個人の能力よりも割当制を、すなわち社会的公正への道として「結果の平等」を支持したのである。
ネオコンサーヴァティブズと後によばれる人間達は、このような社会を目の当たりにして、次のような疑問をもつこととなる。それは、なぜリベラルなアメリカ社会が(アファーマティブアクションのような)非リベラルな行動を起こすのだろうか?なぜリベラルな社会が非リベラルで破壊的とみなした政治的批判(カウンターカルチャーやブラックパワー)の波を生み出したのであろうか?
この疑問に対する一つの答えとして、ネオコンは次のような主張をしている。アメリカにおいては、リベラリズムが封建的社会に対する反発の信条と理解されていることに慣れている。これはアメリカの独立時の状況を振り返れば明らかなことである。つまり、イギリス本国からの強制的で拘束的な経済政策から逃れ、自由を獲得するためにアメリカは独立を決意したわけである。しかしそういったリベラリズムの信条の解釈のおかげで、リベラリズムが急進的な民主主義に対する防衛的機能を果たすものであるということが理解されにくいと彼らは言う。(6)
彼らにいわせると、60年代の社会動乱はまさに急進的な民主主義(Radical Attack)そのものであり、この急進的民主主義から、アメリカの伝統、建国の理念を守るために保守派に転じたのである。ネオコンはリベラル(アメリカの伝統)な価値に忠実であるがゆえに、またリベラルな社会を擁護するためには、リベラリズムのなかにも保守主義的要素が必要であることを発見したのである。
クリントン・ロシターは、自らの著作である『アメリカの保守主義』のなかで、アメリカ人の信念は、その本質においても目的においても、リベラルである。しかしその中には深い哲学的保守主義が横たわっていて、その哲学的保守主義こそが、「自由主義」が「急進主義」へと溢れ出すことを防ぐ、頑強な堤防を形成している(7)と述べている。 ロシターのこの主張こそ、ネオコンの主張を的確に要約していると言えよう。
しかし、実際社会において、ロシターのいうアメリカにおける保守主義の役割を明確に定義し理論化する人間が、ネオコンの登場まで現れなかったと考えられる。ネオコンが登場する以前から存在していた保守主義者たちはあまりに反知性的であったり、宗教的であったりした。ネオコンの活動は、伝統的に反知性的でポピュリスト的なアメリカの保守的大衆運動とは直接的な結びつきをほとんど持っていない。しかし、こういった従来の保守主義者はロシターの言うような保守主義の理論的構築の作業が欠けていて、この理論構築こそが、アメリカの自由主義社会にとってもっとも必要とされていることであったと言えよう。
第3節ネオコンの主張
この節では、ネオコンの基本的な政治イデオロギーを見ていくことにする。尚、ネオコンは、国内問題に限らず、外交問題といったイッシューにも積極的に提言をおこなっているが、本論文の目的に沿って、福祉に関すると思われる主張のみを取り上げることにする。 ネオコンの代表的人物の一人であるアービング・クリストルは、もちろんネオコン内部の若干の意見の相違はあるものの、ネオコン内部にある一応のコンセンサスを取り上げている。
第1に、ネオコンは福祉国家という考え自体に対して、敵対的な態度をとるわけではない。しかし、「偉大な社会計画」のようなものには批判的である。一般的にいえば、今日の流動的な都市化社会にあって個人に必要な安全と快適さを保障する社会改革には賛成であるものの、それは個人の問題に行政が介入することを最小限に抑えるものでなければならない。簡単に言えば、福祉国家には反対しないが、いわゆる温情主義的な国家には反対している。
第2に、ネオコンは伝統的な価値、制度、例えば宗教、家族、西欧文明の遺産などを尊重する。この点に関するネオコンの一つの合意は、1960年代に始まり、アメリカで決定的な役割を演じた対抗文化(Counter culture)に対する嫌悪である。
第3点として、伝統的な考えである機会の平等を認めることには賛成するが、全ての人が結果においてすべての分け前に関して平等であるという「完全平等主義」には反対。(8)
また、彼らはアファーマティブアクションをアメリカの伝統である実力社会に対する脅威とみていて、懐疑的である。(9)
スタインフェルズはこのクリストルの定義に加えて、さらに次のようなネオコンの政治イデオロギーを主張している。
第1点。「権威の危機」という主張。アメリカが直面している危機というのは、政府の権威、エリートの権威が失墜したことであり、これが社会不安定の原因である。
第2点。こうした危機を文化的なもの、すなわち価値や道徳の問題として捉える。60年代の対抗文化はブルジョワ社会の否定、家族の軽視など、「ロマン主義」的な色彩を強く持つものであり、これに対する反発がネオコンのもつ特徴である。
第3点。現在(70年代)の政府が「過剰負担」の犠牲者であるとする点。福祉の見直しはネオコンの主要な主張となるが、そこには「自助」を尊ぶ保守主義的な価値が見られる。
第4点。こうした危機に対する戦略として、権威の回復と政府の擁護、また急進的リベラルの行きすぎた平等主義に歯止めをかけるために、勤労倫理、知的優越への尊厳、規律というような価値の主張。(10)
これらをみてもわかるように、彼らの主張の多くは従来の保守主義者のそれと一致している。しかし、ネオコンは小さな政府を主張しつつも、それほど急激な福祉国家の解体を説くわけではない。彼らはまた60年代以降のアメリカの文化的混乱に重大な関心を払い、文化的要因が経済や政治のありかたにいかに重要な役割をもっているかに注意を喚起している。
第2章リベラル派としてのモイニハン
第1節モイニハンの政治活動の始まり
本章では、モイニハンがアメリカ政治に登場し、福祉問題、貧困問題に取り組み始めた60年代、70年代に焦点をあて、彼の主張を考察していきたいが、この節ではモイニハンのプロフィールについて、触れておきたい。
モイニハンは1927年3月16日に生まれた。彼の父親は新聞記者であったが、モイニハンが10歳の時、離婚し、それまでの中産階級の生活から、貧しい生活を余儀されなくなった。母親とマンハッタンの安アパートに移り住み、靴磨きや港湾労働の仕事をしながら、学校に通うという青年時代を送った。モイニハンが靴磨きのような仕事を少年時代に経験したという事実はアメリカのミドルクラス以外の階級への興味を与えたのかもしれない。当時の彼の靴磨きの仲間は黒人の少年であった。(11)
1943年に高校を卒業し、大学へ進学したが、当時の戦争の影響で3年間海軍に従事することになる。1948年、タフツ大学での修士課程を終えた後、フルブライト奨学金で、イギリスのロンドン経済大学に留学している。
1953年にアメリカに戻ったモイニハンは、国際援助委員会(International Rescue Committee)で仕事をするようになる。この私的な組織は世界の難民を援助するために設立され、彼はマスコミ向けの記事を書く仕事をしていた。
1954年には、ハリマン(Averell Harriman)のニューヨーク州知事選挙に参加し、オールバニー(ニューヨークの州都)で4年間、58年の選挙で敗れるまでハリマン知事のアシスタントを務めることになる。
1959年から61年の間、彼はシラキュース大学でニューヨーク州の政府調査計画(the New York State Government Research Project at Syracuse Univ)の監修者を務めた。また61年にはフレッチャー法律・外交専門校で政治学の博士号を取得している。
帰国後のモイニハンは、民主党支持者として、ハリマンを支持している。モイニハンが民主党支持者になった要因として彼の強烈な反共主義が挙げられる。彼は強い反共政策を掲げたトルーマンを熱狂的に支持している。
1961年、モイニハンは「ニューフロンティア(New Frontier)」を掲げたケネディ政権に労働長官の特別補佐官として加わった。また、1963年には労働省の政策計画研究部(the Office of Policy Planning and Research)の担当者として、労働長官の補佐官に任命された。新しい考えや政策に対して積極的な若き大統領に多くの知識人や学者が共鳴したが、モイニハンもその一人であった。(12)
ケネディ政権は、後に貧困との闘い(War on Poverty)として知られるようになる社会改革に積極的に関与していくことになるが、モイニハンもこの計画に深く関与していくことになる。ケネディの行った社会改革は経済成長下での「永続的な貧困」に内在すると考えられていた「貧困の文化」との戦いであった。貧困を文化において定義することによって、貧困の廃棄に「ソーシャル・サービス」の道がひらかれ、それが60年代の社会改革の原則になっていく。(13)そして機会の創出、コミュニティの動員と再生というプログラムが計画され、ジョンソン政権へと引き継がれていく。
一方で、モイニハンの社会福祉に対する見解は、カトリックの福祉哲学に強く影響されていた。その哲学とは、家の安定こそが、社会政策や福祉政策における中心的な目的であるという考えである。ケネディ、ジョンソン政権による「貧困との闘い」という社会改革が重要視しているコミュニティ・アクション・プログラム(CAP)(14)は家族のサポートには全く貢献していないと彼は主張していた。それゆえ、モイニハンがアメリカ黒人の状況に注意を寄せた時、黒人の貧困改善には黒人家族をサポートするような福祉政策が中心になるべきだと考えていた。(15)
1963年にモイニハンはネイサン・グレイザー(Nathan Glazer)と共同で「人種のるつぼを越えて(Beyond The Melting Pot)」という本を出版しているが、この中で黒人家族の病理的側面について、論じている。そして、家族が崩壊するのは、母親が働くことを余儀なくされるとき、父親が援助に貢献できないときであるとし、家庭の不安定と職業との相関を示唆している。(16)
また、モイニハンは家族の安定という主張と同時に失業問題についても触れている。当時の政権内では、コミュニティ・アクションによって貧困問題を解決しようと考えている人とモイニハンが主張するように、貧困者にもっとも必要なものは、コミュニティ・アクションではなく、仕事でありお金であると主張するより実際的に考える人間と激しい論争があった。(17)このようにケネディ政権に参与したモイニハンであったが、その時からケネディ政権の多くの人間が考えていた福祉政策と彼のそれに温度差が見られることが確認できる。
さらに63年、彼は最近軍隊の徴兵試験を受けた50%の若者が、肉体的、精神的理由のどちらかで落ちているという事実に目を向けた。本格的な調査に取り組んだ彼はそこで、家族背景という要因に着目した。貧困生活を強いられている黒人の若者と試験での低い得点との相関を彼は述べ、結論として、都市ゲットーに住む黒人家族の状況の悪さを指摘し、そこに従来あったはずの社会関係、社会構造の崩壊という問題を述べている。(18)
第2節モイニハン・レポート
1964年、モイニハンは二人のスタッフと共に黒人の失業と黒人家庭の崩壊の関係についての調査を始めるようになる。後にモイニハン・レポート(The Negro Familly:The Case For National Action) として知られるようになるこの文書は、1965年の5月、ホワイトハウスに送られた。モイニハン・レポートは、政府における政策決定というものには、問題分析、解決のための社会科学が必要であるという彼の信念が反映されている。(19)
モイニハンは、政権内の人間が貧困問題に楽観的であったことに対して、彼らが考えている以上に問題は複雑であり困難であることを知らせること、そして家族安定のための福祉の重要性、効果性を説明する目的でレポートを作成したという。(20)第2次大戦の終わりから60年代初頭とは異なり、黒人の失業率が下がっているにもかかわらず、福祉の受給額が増えている(AFDC受給家庭の増加)という事実に彼は目を向け、このことは新たな都市問題を反映しているのではないかと彼は考えた(後にジェームス・Q・ウィルソンによって「モイニハンのハサミ」と名付けられる現象である)。(21)
モイニハンは、大統領やそのスタッフに対して、貧しい黒人の完全なる社会参加をもたらす複雑な問題を遂行するためのより効果的な政府の政策の決定における、彼が考える中心的な問題を知らせようとした。たくさんの黒人家族の苦境を描くことは、彼らの要望の現実を人々に理解させる確かな方法だと彼は考えたのである。またそうすることで、家族を中心に据えた計画が、元来福祉立法に消極的であった保守派の支持を得られるかもしれないという期待を持ったのである。(22)現在行われている人種差別を禁止する法律だけでは、人種的な平等にはつながらないとした。(23)
次にこの報告書の内容であるが、黒人にとって彼らの市民権の保全から本当の平等を達成するには、安定した黒人家族構造の設立が必要だとした。モイニハンは他の多くのアメリカ人と比べて、収入や生活基準が低いとし、その原因として黒人家族の悪化を挙げている。彼はたくさんの統計上の証拠やありのままの黒人社会の状況、例えば離婚や婚外子出生などの実態を明らかにしている。モイニハンによると、こういった問題の根源は奴隷制に起源を持つ黒人家庭の脆弱さ、急激な都市化やそれに伴う高い失業にあるとしている。また、家族構造の不安定や低い教育が黒人の子供から機会を奪い、若い黒人が貧困から決別することができないという悪循環についても言及している。モイニハンにとって、このレポートの主要な目的というのは、具体的な解決策を提案するというよりは、何が問題なのかを定義することであった。
そして結論として、市民が当然持つべき責任と、同じく市民が当然受けるべき報酬の面でアメリカ黒人も白人同等の分配に与かれるようにすべきであるとした。そしてそれを通じて黒人家族の安定及び資力を高めるために、公民権法に沿って連邦政府の活動を方向づけるよう提案している。(24)
要するにこのレポートでは、黒人家族の不安定さを何よりの問題点であると断定し、この家族という価値こそ黒人の貧困問題にとって重要な要素であるとしている。失業問題をはじめさまざまな社会病理の原因を家族の不安定にあるという主張は、現在の貧困の危機に貢献してきた研究で最も理解されていないことだと彼は言う。
次に挙げるモイニハンのコメントはまさに彼の考えを現している。家族というものは、我々の社会の土台となるものである。他のどんな要素以上に、それは個人の態度、希望、将来への大志を形成する。もし家族が崩壊すれば、ダメージを受けるのは子供であり、家族崩壊が大きなスケールで起これば、そこのコミュニティ自体が損なわれる。それ故もし、我々がこの家族という価値を高めるような政策を実行しないならば、たとえ他にいかなる政策を実行したとしても、絶望と欠乏の悪循環を断ち切ることはできないであろう。(25)
この報告書は当時の大統領ジョンソンの注目を集め、彼はホワイトハウスのスピーチライターであるリチャード・グッドウィン(Rechard N Goodwin)と共に、ハワード大学での大統領の演説の原稿を任されることになった。その年の6月、ジョンソンは演説を行ったが、そのなかの一節にはモイニハンの見解が反映されていた。(26)
ジョンソンはその演説のなかで、「黒人家族構造の崩壊は黒人が直面している問題のなかで一番重要なものである。もし我々がこの家庭問題に取り組まなければ、多くの黒人は絶望と欠乏の繰り返しから完全にのがれることができないであろう。」と述べている。彼の演説はアメリカ黒人に関する大統領演説のなかでもユニークなものであった、というのもジョンソンはジム・クロウ(Jim Crow)法の慣習を廃止することに対する連邦政府の働きを強調したのではなく、黒人の社会的、経済的状況に焦点をあてたからである。彼は南部の黒人の苦境に関心を寄せたのではなく、ゲットーに住む黒人に関心を寄せた。(27)彼は述べている。「公民権運動の次のそしてより深い段階は、法的な権利の保護だけではなく、黒人が白人と平等な生活をすることを可能にするような資源の供給である。」彼の強調は仕事や教育、住宅、社会、そして家族といった社会的、経済的要素に置かれていた。そして、専門家や学者、黒人の指導者や政府高官を集め、この問題についての協議をその年の秋に開くことを約束した。(28)
しかしながら、このレポートの内容が広く人々にいき渡るにつれ、モイニハンはすぐに論争と非難の的になった。報告書自体が世に出たのは、ロスアンジェルスのワッツ地区で黒人による暴動が起きた約3ヶ月後の65年8月であった。暴動関係の情報を要求するホワイトハウス記者団に対し、大統領報道官ビル・モイヤーズが同報告書を配ったのである。翌日の新聞のコラムでそれを「モイニハンレポート」という題で取り上げた。(29)
報告書は各方面で読まれることとなったが、政府内部の人間から、公民権運動のグループの会議から、学者の中から、一般大衆やメディアから、特に多くのリベラル派から非難されるようになる。市民権運動の指導者達は、このレポートにある黒人社会の病理現象の赤裸々な描写は黒人への偏見を強めるものとして非難した。彼らリベラル派は、モイニハンの描いたような黒人社会の脆弱さを否定し、黒人社会の強靱さ、積極面を信じており、モイニハンを黒人を野蛮人として見る新たなイデオロギーを持った男として、激しい非難を浴びせた。ちなみにモイニハン批判の有名な決まり文句は、犠牲者を非難する男、モイニハンであった。(30)
モイニハンに対して、最も激しい非難を浴びせたのは、社会学者のウィリアム・ライアン(William Ryan)である。彼はモイニハン・レポートで扱われている統計的資料の不十分さを挙げ、そして現在の黒人の不平等の状況を黒人の弱さや欠点に求め人種差別から目をそらしているとしてモイニハンを非難した。(31)結局、リベラル派達は、11月に予定されているホワイトハウスでの会議の議題からモイニハンの主張する“家族の安定”という問題を削除するよう、ジョンソン大統領に促した。(32)
第3節リベラルからの逸脱
この論争が起こった後、モイニハンはそれまでの沈黙を破り、この論争についての意見を述べた。彼はその中で、この批判に対する2つの大きな要因を挙げている。
まず第1に、市民権運動の指導者やリベラル派の未来を見通す先見性の欠如である。モイニハン曰く、ケネディの暗殺からベトナム戦争の拡大までの時期のアメリカは、新しい社会政策を試みることに積極的であり、そういった政策に資金を与えることのできる財政に余裕があった。ジョンソンのハワードでのスピーチは、モイニハンの見解によると、例えば家族構造の安定などのような、より深い公民権運動や困難な仕事への政府の関与であった。しかしながら、ジョンソンの計画の裏ではコンセンサスがほとんど存在しなかった。すなわち、公民権運動は伝統的なそして比較的簡単なもの、つまり分離や差別という問題を越えた新しいプログラムを持っていなかったと述べている。そして家族という問題はとても取り扱いに慎重を要するため、リベラル派はこの問題を避ける傾向にあった。
第2点目として、リベラル派の間で共有されている偏狭な考え方である。リベラル派による運動は自分たちの世界に反対し挑戦してくるものに対し、それがたとえどんなによいものであっても、それらのどんなものにも反対する敵対心、イデオロギーをもっていた。そして、リベラル派は強烈で目的をもった、力強い人間であったけれど、彼らはそれは一般の人々の持つ慣習的な考えや期待とは異なっていた。モイニハンの考えでは、リベラル派の黒人家族に対する考えと彼の考えとのギャップは決定的だった。彼らは、全くモイニハンの考えと違った。誰もモイニハンのような考え方(黒人社会の病理的状況、脆弱さを認めること)で貧しい人を語ろうとはしなかった。リベラル左翼はアメリカ社会において頑固で破壊的な力になるかもしれない、と彼は危惧するようになった。(33)
モイニハンにとって、この論争はターニングポイントとなるものであった。それまでは彼は60年代のリベラリストであり、ケネディ・ジョンソン政権を強く支持していた。
しかしながら、彼はこのレポートをめぐる論争の後、リベラル同盟から距離を置くようになる。また、社会問題を政府が解決する能力に対して懐疑的になるようになる。(34)
この問題について、モイニハンは、雑誌「パブリック・インタレスト」で次のように述べている。「貧困との戦い」は貧困者の要望に対して宣言されたものではなく、貧困者自身の最大限の可能な参加が必要であるコミュニティ・アクション・プログラムは、貧困者の要望に応えたものではなく、リベラルな社会福祉の指導者達がそれは必要不可欠なものであると自分たちで考えたものにすぎなかった。
この時期の社会政策は、ニューディール期に効果的な政策を生み出した時のような強力な政治的圧力や継続的に支えられた知的なサポートが全くなかった。しかし、改革だけが進んでいったと彼は言う。結局当時のアメリカの貧困階級の問題解決をきちんと認識している人間は政府内にはいなかった。(35)貧困問題のプログラムは貧困者よりも官僚やソーシャルワーカーを豊かにしているだけで、貧困者に直接お金が渡ったのではなく、プログラムに参与した人に渡っただけである(36)と述べ、貧困政策の効果について大きな疑問を投げかけている。
モイニハンはそうだからといって、貧困者を援助するために公的資金を投入することに反対したのではない。彼は福祉国家そのものは保持され守られるべきだと考えていた。そうではなく、彼は上記のような60年代の政策や、政府が効果的な政策を正しく作り上げる能力について、懐疑的になったのである。(37)
1967年の「民主的行動のためのアメリカ人(Americans for Democratic Action)」という組織に向けたスピーチのなかで、モイニハンは、リベラル・レフトは改革の失敗から手をひくべきである。我々は、問題の本質の評価だけでなく、提案された解決策の評価においてもより厳しくならなければならないと述べている。そしてリベラル派は、たとえそれが常軌を逸したものであっても黒人が行うことのすべてを防衛したり弁明したりする考えを改めるべきであると主張する。黒人社会の病理を取り上げようとしないリベラル派の傾向は、黒人社会の厳しい現実を捉え、分析する能力を麻痺させるとして、強く非難している。(38)
政府は「貧困と戦い」が始まったときは、ハワード大学での演説でのジョンソンの目標に向かっていたが、貧困問題を押し進めるための政治的元出、技能が備わっていなかった。彼らは一見、進歩的な社会的地位にいたが、実際には、旧態依然の考えに留まっていて、ジョンソンが述べた目標の何一つ達成することができていない、(39)とモイニハンは言う。
彼は大きな政府の介入の必要性を説くのではなく、変革と並んで問題の測定や分析の必要性を主張するようになる。(40)
第3章ニクソン政権内でのモイニハン
第1節 ニクソン政権への参加
モイニハン・レポートをめぐる論争の後の1960年代後半になると、急進主義の台頭が、アメリカの政治的安定に少なからず影響を及ぼすようになる。急進主義の主な担い手は、学生及び黒人であった。黒人に関して言うと、64年から68年の間、全国で都市暴動が発生した。白人との賃金格差や公民権法の制定にもかかわらず、貧しい生活に変化がないこと、黒人の権利意識の高まりなどが、暴動を誘発する要因となっていた。
急進主義の特質として、徹底したエスタブリッシュメントの拒否と伝統的価値体系からの離脱である。急進主義の主張が既存の価値体系への反逆であることは、彼らの政治に対する態度にも現れていた。
モイニハンは、論争の後、ジョンソン政権を離れ、1966年からハーバード大学ケネディ・スクールの教授として、貧困や失業、犯罪など社会問題に取り組んでいた。モイニハンはリベラル批判を繰り返し主張していたが、同時に政治的安定を求めるようになった。
モイニハンはリベラル派に対して、リベラル派の本質的な利益、関心は社会秩序の安定の中にあるということを自覚すべきであると言っている。そして、社会秩序の安定に対する現在の危機に対し、リベラル派は政治的保守派と効果的な同盟を組む必要性を説いている。(41)
モイニハンはリベラル派に対して、社会的現実の直視、理解を求め、政治的安定を求めるための政策をとるよう主張した。彼自身、組織化されたリベラル団体からの独立を宣言し、さらにリベラル派の信仰に反対し、60年代後半のアメリカ都市で起きている悲惨な現実(暴動や貧困など)に立ち向かえるようなグループと手を組む有効性、可能性を示唆している。
モイニハンは60年代後半の騒乱を見て、雑誌「アメリカン・スカラー」で次のように述べている。我々は現在、アメリカ史上最初のリベラリズムの変形に遭遇しているかもしれない。というのも、彼らは現存する制度によって決められた決定に反対しているのではなく、制度自体を反対しているからである。(42)
1960年代後半、リベラル派はジョンソン大統領に忠実なグループとより急進的なリーダーシップを求めるグループとに分裂していたとモイニハンは述べている。モイニハンのように、アメリカが困難に直面していて、何らかの対処をする必要を感じ、またリベラル派はそういった状況に対して適切なことをしていないと考える人間にとって、リベラル以外のグループが有効であると見ることは、論理的なことなのかもしれなかった。(43)
このことに関して、彼は次のように述べている。問題の核心は、保守勢力に反対するリベラル派が持っている知識人、メディア、書物の供給である。アメリカの持つ問題点とは、我々は保守的階層をもっていないことであり、これはよいことではない。(44)
1968年の大統領選挙では、「法と秩序」を掲げた共和党のニクソンが民主党候補のハンフリーを破って当選した。当選後、ニクソンの側近で、比較的リベラルな共和党員のレオナルド・ガーマント(Leonard Garment)は、ニクソンにモイニハンの政権入りを促すようになる。最初はケネディ時代のリベラルグループであるモイニハンの任命に躊躇していたニクソンであったが、68年の12月、モイニハンは都市問題担当の大統領顧問に、そして新しく創設された都市問題委員会(the Urban Affairs Council)のメンバーに選ばれた。
ニクソンは68年の大統領選挙の直後、共和党の州知事から、州の福祉負担の軽減を要請された。北部の産業化した州(高い福祉を支給していた)に、南部および農村部から貧民が流入し、それが州の財政負担を重くしていたのである。(45)ニクソンはそれをうけて、福祉改革を計画するが、それはAFDCを受給していたほうが収入が多く、就労貧民の存在という問題、及び南北格差の問題を改革する方向へと向かっていく。
ニクソンは、アメリカの福祉について、60年代の「貧困との闘い」計画は貧困者の社会的、財政的ニーズと合っていないこと、さらに現在の福祉制度は貧困者に依存という問題を与えると主張する。現行のシステムでは父親が彼の家族を養うだけの収入がないにもかかわらず、父親がいるという理由で福祉を受けられないため、実際福祉を受けるため、父親が家を出ることもあるという。また働くより福祉に依存したほうが多く収入を得られるという現状の改革を主張していた。(46)
ニクソンがモイニハンを任命した理由として、黒人の都市暴動に代表される人種的緊張や都市の貧困問題は彼が大統領として直面するであろう問題のなかで、最も重要であり困難な国内問題であったと認識していたこと、また、モイニハンはそういった問題に対処できる専門家であり、他のリベラルと異なって、共和党と手を組むことに拒絶をしめしていなかったことが挙げられる。
モイニハンがニクソンの要請を受け入れたのは次のような理由からである。彼は、モイニハン・レポートが何人かのリベラル派によって不当に非難されたことに憤慨していた。そしてリベラル派はこの国が抱えている重要な問題をどんどん深刻化させていると心から感じていた。現在の危機に対処するためには、社会の安定というリベラルと共通の目標をもつ保守派と手を結んだ方がよいと感じた。彼はジョンソン政権、及びその後継者であるハンフリー大統領候補が、彼が必要であると考えている国内問題の政策を遂行する能力に対して懐疑的であり、ニクソン政権の方が、彼が必要であると考えている政策が実現できやすいのではと思っていたのである。(47)
またニクソンをアメリカのディズレーリ(19世紀のイギリスの首相。保守党でありながら社会保障政策を実現させた)にしようとしていたようである。実際、モイニハンはニクソンに、ディズレーリの伝記本を送っている。(48)
第2節Family Assistance Plan
政権入りしたモイニハンにとって、最も大きな計画は福祉改革であった。1960年代を通して、福祉を受ける人口やその費用は、家庭崩壊した人口のパーセンテージが増すにつれ、急激に多くなっていた。モイニハンは2月初め、失業率が減少しているにもかかわらず、AFDCの件数が増加している事実について、グラフ付きのメモを送っている。(49)
モイニハンは、貧困者の間の家族の不安定という問題に再び取り組むと同時に、最近の社会科学調査に基づいた改革を準備していた。彼は、共和党政権のなかで達成させることを試みたのは、議会に福祉問題を扱う新しい大胆な政策を通すことであった。
1969年1月下旬、モイニハンはニクソンに彼の一番最初のメモをを送ったが、そのメモは、ニクソンにいち早く連邦政府の福祉支給に関する最低限の基準を求めるよう促している。またニクソンに福祉改革を国内政策における第1の目標にするよう主張していた。 当初、政権内には福祉改革案として、いくつか提案されていたが、結局モイニハンの提唱していた家族援助計画(Family Assistance Plan)がニクソンの支持を得て、政権の福祉改革案として採用されることになった。最初はこの案は家族保証計画と呼ばれていたが、政権内の保守派は、あまりにその名前がニューディール的であると主張し、家族援助計画という名前になったようである。(50)
さて、この計画の具体的内容であるが、一言でいえば貧しい人間に対し、年金保証(国庫から給付される生活補助金)を与える政策である。この計画では、失業中の親に対して4人家族の場合、年間で全国一律1600ドルの給付金、それから一人当たり300ドルから500ドルのフードスタンプ(Food stamp)が与えられる。さらに、就業中ではあるが、年間の収入が3920ドルに満たない場合については、この案の条項に従って生活補助金の額が設定され、与えられる。また、この支給を受ける条件として、その家族の主は職業訓練所への登録が義務づけられる。(51)この計画の主題は、家族構造という問題であり、長い間アメリカの政策立案者が避けていたものでもあると彼は言う。(52)後のインタビューの中で、FAPによって福祉依存から脱却させることが第1の目標であり、福祉を改革することではないと述べている(53)
ニクソンは69年の8月、テレビでの演説で国民にこの新しい福祉改革案を発表した。その原稿はモイニハンが書いたものではなかったが、それにはモイニハンの社会福祉に対する見解が大きく盛り込まれていた。ニクソンは次のように述べた。アメリカは現在、都市の危機や社会問題に直面している。そして福祉依存という問題がある。1930年代大不況の中でに小規模に始まったこと(社会保障)が、経済が繁栄している60年代には巨大なモンスターとなって現れている。福祉依存は家庭を崩壊させている。それは、受給者から威厳を奪っている。父親は仕事を得ることができないでいる。それ故、子供に福祉受給の資格を与えるため、彼は家を出ていき、そして、本来父親が家にいることで得られる権威、規律、愛情を子供は得ることができない。これはゆゆしき問題である。(54)
これはニクソンが述べたことである。原稿はモイニハンが書いたわけではない。しかしながら、その考え方はまさにモイニハン的である。福祉問題に関する彼の考え方、本質的要素というのは、何年にもわたる研究調査から作られたものであるが、貧しい少年時代の経験からきているとも言えよう。
ニクソンは、要扶養児童家族援助(AFDC)を含む現行の福祉制度を廃止することを目的としていた。彼は、各州一律の給付、就業の要求、労働インセンティブという3つの原則に基づいた新しい制度の導入を試みた。家族援助計画は、現行制度の廃止、貧困者のもとにダイレクトで金銭を給付する点、国家的な福祉基準の設立という点において革新的であった。(55)現行制度との違いは、ここにあると言ってよいだろう。この案は貧しい人を福祉依存から解放し、仕事をすることをうながすものである。
翌年の1970年から、議会での審議が始まった。歳入委員会(Ways and Means Committee)を通り、下院では、HR-16311として投票され、243対155で通過した。しかしながら、この法案は上院の財政委員会にて否決されてしまう。(56)
モイニハンの福祉改革の努力はモイニハンレポートに続き、またしても失敗に終わった。彼は、家族援助計画は、保証年金、生活補助金の給付というリベラル派の考えと福祉改革という保守派の考えが合わさっていると考えていたので、この福祉改革で、保守とリベラルの同盟が可能であると考えていた。しかし、家族援助計画は、リベラル派、保守派から双方に批判されることとなった。リベラル派は、保証年金の給付額の少なさを非難し、保守派は、この計画による福祉人口の増加、コスト、貧困者に対して優しすぎるという点を非難した。(57)
家族援助計画の失敗のあと、76年に上院議員として当選するまでの間、モイニハンは国内の社会問題の取り組みから離れることになる。73年から、駐インド大使、75年からは国連大使として国際問題を担当することとなった。
終章
これまで、モイニハンの福祉に関する見解を追ってきたが、その過程で明らかになった彼の思想的特徴をまとめてみたい。
1,家族という価値の尊重
彼はモイニハンレポート、家族援助計画を通して、貧困者が貧困から抜け出せない原因を家族の不安定さに本質的な原因を求めている。家族崩壊こそが、失業、犯罪などの根本的原因であると断定している。もちろん彼は人種差別という要因を無視しているわけではないが、それはあくまで周辺的で、核心から離れたものにすぎないとしている。この考え方は保守政権へ移っても変化はみられない。
2,福祉依存に対する問題意識
彼は貧困問題を語る時、常に自助を重んじることを忘れていないと言える。依存と貧困という従来までは連結してしまっていた問題を切り離そうとする姿勢がモイニハンレポート、家族援助計画を通して見られる。モイニハン・レポートは貧困の原因は何なのかという問いに対して重点を置いていて、家族援助計画ではその問題を踏まえて具体的な解決案を主張している。このような質的差はあるものの、貧困者の自助を重んじるという点においては一貫していよう。
3,ニューディール的要素
彼は福祉改革を試みているが、アメリカの伝統的価値まで変えるようなラディカルな政策を主張しているわけではない。家族、自助といったアメリカの伝統的理念に忠実でありつつ、現に起こっている社会問題に極めてプラグマティックに対応しているという点においてはニューディールのリベラリストと共通点が見られる。
このように、リベラル政権から保守政権へと移動したモイニハンであったが、福祉政策における彼の見解は基本的に一貫していたと言える。アメリカの福祉の歴史を振り返るとケネディ、ジョンソン時代における福祉政策の主流はCAPに代表されるようなコミュニティの改組であったが、ニクソン期には所得戦略に変化している。しかし、モイニハンの福祉に関する提言は一貫していたといってよい。第2章第1節で見たように、民主党政権の頃からモイニハンと当時の主流派とは温度差があることが確認できるし、当時のモイニハンの提言がニクソン時代へとつながっていく。
そして、リベラルと保守の関係で言うと、福祉自体に対しては積極的であり、その意味においてはリベラルであるが、彼の貧困問題を解決する方法、手段を見ると人種差別に根本的原因を求めるのではなく、家族や自助という価値を重んじていて、その意味においては保守派と言える。ちなみに1986年、モイニハンはハーバード大学で次のようなコメントを残している。「社会の発展の鍵を、政策にではなく文化に求めるのが保守の理念である。リベラルは、政策によって文化を変革し文化の衰退を防ぐことを理念とする。」Tこのコメントこそ、モイニハンの福祉政策におけるアプローチの特徴を端的に現していると言えよう。
また、モイニハンと他のネオコンとの比較であるが、福祉政策に関する限り、第1章で示したネオコンの一般的な立場よりも、リベラルな立場であると言える。ネオコンの福祉に関する一般的な考え方として、政府の介入を最小限に抑えるものでなければならないという主張がある。しかしモイニハンの場合、政府の役割を小さくすることに重点が置かれているわけではない。彼が「偉大な社会計画」に批判的であったのは、その計画が貧困者に対して、予想していた良い効果を及ぼさなかったからという理由が大きいように思われる。彼は政府の大小を問題にしているわけではなかった。ニクソン政権に加わって、押し進めたFAPに関しても、モイニハンはその政策がいかに効果があるかという点に力点を置いていた。
モイニハンは民主党員である。しかし、ネオコンサーヴァティブズと呼ばれている。マクロな目でみて、モイニハンはリベラル派なのか保守派であるのかという判断は結局、時代の主流がリベラル方向なのか、保守方向なのかでその判断が変わるのであろう。つまり、リベラルが主流であった60年代は彼の保守的側面が目立ったが、90年代のクリントン政権と共和党議会の福祉改革を見た場合、モイニハンはリベラル派と分類されるのである。
注
1 Robert A Katzmann, Daniel Patrick Moynihan THE INTELLECTUAL IN
PUBLIC LIFE (The John Hopkins University Press, 1998)
2 John Ehrman, The Rise of Neoconservatism:interllectual and foreign affairs
(Yale University Press,1995) p63
3 佐々木毅 『アメリカの保守とリベラル』(講談社文庫 1993)p10
4 佐々木毅 『現在アメリカの保守主義』(岩波書店 1993) p24
5 Peter Steinfels, THE NEOCONSERVATIVES (Simon and Schuster) p3
6 Ibid .,p3〜4
7 Clinton Rositer 『アメリカの保守主義』(有進堂 1964)p64
8 Steinfels, op. cit., p53〜54
9 Newsweek, Is American turning Right? November 7, 1977 p24
10 Steinfels, op. cit., p55〜56
11 Ibid., p121
12 Godfrey Hodgson, The Gentleman from New York Daniel Patrick Moynihan (
HOUG HTO MIFFLIN COMPANY, 2000) p73
13 小林清 『アメリカ福祉国家の形成』(ミネルヴァ書房)1999 p275
14 貧困とその原因に総攻撃を加えるため、コミュニティの公共及び民間の諸資源を
動員し、各種の「機会事業」(法律扶助、医療保険サービスなど)を提供し、対象 と
なる地域住民の最大限の可能な参加を得て企画、決定、実施され、非営利期間(CAA)
によって管理される事業。65年末までに600以上のCAAが設立され、900件
にのぼる連邦補助が行われた。実際のCAAの大半はサービスの提供と公私諸団体間
の調整機能に限られ、貧困者の動員による福祉制度の変革を志向する機関は少なか
った。
15 Lee Rainwater, William L Yancey, The Moynihan Report and the Politics df Co
ntroversy (THE M.I.T. PRESS.1972) p20
16 Daniel Patrick Moynihan,Nathan Glazer, 『人種のるつぼを越えて』
(南雲堂 1986)p82〜86
17 Hodgson, op. cit., p83
18 Ibid.,p81〜83
Time July 28 1967 p11
19 Rainwater, op. cit., p4
20 Ibid., p20
21 Katzmann, op. cit., p116
22 Daniel Patrick Moynihan, “The President&The Negro:The Moment Lost”
Commentary(American Jewish Comittee 1967) p35
23 New York Time Magagine, “For The Sake of Argument” November 5,2000
p53
24 Reinwater, op. cit., p5〜6
25 Moinyhan “The President&Negro”p34
26 Hodgson, op. cit., p96〜97
27 Reinwater, op. cit., p1
28 Ibid., p3
29 D.P.モイニハン 『政治家は未来を告げる声を聞く』(社会思想社 1998) p240
30 New York Time Magajine p53
31 Ibid., p468
32 Ibid., p5
33 Daniel Patrick Moynihan, “The President&The Negro” p33〜34, p41〜43
34 Hodgson, op. cit., p122
35 Daniel Patrick Moynihan, “The professionalizasion of Reform”The Public In
terest (1965) p6〜16
36 Newsweek, “Is America turning right?”p30
37 Hodgson, op. cit., p123
38 Steinfels, op. cit., p126
39 Moynihan “The President&Negro”p41
40 Hodgson, op. cit., p134
41 Hodgson, op. cit.,p139
42 Daniel Patrick Moynihan, “Nirvana Now”The American Scholar June 1967
p539
43 Hodgson, op, cit., p139〜141
44 Ehrman, op. cit., p73
45 小林、前掲書 p289
46 PRESIDENTIAL DOCUMENTS, Monday August11 1969 p1105
47 Hodgson, op, cit., p144
48 Hodgson, op. cit., p144〜145
49 Moynihan memo to Nixon, February1, 1969
50 Hodgson, op, cit., p161
51 Ibid., p171
52 Daniel Patrick Moynihan, THE POLITICS OF GUARANTEED INCOME
(Random House,New York 1972) p21
53 Katzmann, op. cit., p159
54 Hodgson, op. cit., p172
WELFARE REFORM:Disappointment for the administration, Congressional
Querter ey ALMANAC 1970 p1030
55 Hodgson, op. cit., p173
56 WLFARE REFORM:Disappointoment For the administration, Congressional
Quertery ALMANAC 1970 p1030〜1041
57 Hodgson, op. cit., p181
あとがき(モイニハンと私)
大植崇史
たしか大学3年の冬から春にかけてであろうか、私は卒論のテーマを探しに図書館で本をあさっていた。元来、リベラルや保守といったアメリカの政治思想っぽいテーマにしようと心に決めていたものの、具体的に何を題材にするか悩んでいた私にあるタームが目に入ってきた。
ネオ・コンサーバティズム。略してネオコンというらしい。頭の中でこの言葉を何度か反芻してみる。ネオコン。響きは悪くない。なぜ私はこの言葉に惹かれたのか?はっきり分からないが、「ネオ」という言葉がお洒落だったのかもしれない。「ネオ」に「コン」をつけてネオコン。
さらにネオコンについて調べてみると・・・モイニハン!?なんてキテレツな名前!まさかモンゴル系アメリカ人?などと当時は思ったものだ。少し調べると彼はアイルランド系で、どうやらかなりの大物らしいことが分かった。その後、気がついたら卒論のテーマはモイニハンであった。
私にとって卒論は、ズバリ英語とのバトルであった。しかもこのモイニハンさん、とっても分かりづらい英語を書かれる。マッカーサー元帥は民主主義と一緒に英語公用化政策も日本に持ち込むべきだったのだと刹那に思いつつ、まあなんとか完成までこぎついた。といっても、終わってみると改めて自分自身の力不足を痛感せざるを得ない。
結局、ネオコンとモイニハンとの比較があいまいのまま終わってしまったし、一次資料も深く読み込めなかった。また、自分の中でもっとがんばろうという気持ちと妥協心とが常に交差していた。勉強モードにはなったが、ストイシズムが足りなかったと思う。でも全部ひっくるめてこれが今の自分の力量なのであれば仕方あるまい。
知らない知識が得られることや知らない世界を感じることができることが学問の楽しいところであるとするならば、卒論を通してこの楽しみは得られたと思う。また論理を追い求めていく作業も大変ではあったが、面白かった。 実際書き終えるとセンチメンタルな気分になってしまったのも事実である。人類の英知の結集である多くの書物を前に、誰もいない旧図書館や地下5階で英語文献や雑誌のバックナンバーを一人でシコシコと探した時など、なんてアカデミックな行為!とか勝手に興奮していたものだ。
おそらく、私の論文は今後、人から読まれることはないであろう。もしいたとしても、内容は評価されないかもしれない。ただ、行間から滲み出る私の「魂の叫び」を感じ取って頂ければ、それが本望である。
最後に、卒論を書くにあたり、有益なアドバイスを下さった久保先生と多くのゼミ員に感謝したい。