MAJOR
LEAGUEと黒人選手への門戸開放
〜Jackie
Robinsonを中心に〜
増田 卓
序章:はじめに
第一章:黒人選手への門戸開放の外的要因
一節:ブランチ・リッキー
二節:人種統合推進派(新聞記者)の努力
三節:球団オーナーの商業主義
四節:ヤンキースのポーウェルによる人種的偏見の発言
五節:差別主義コミッショナーの死
六節:第二次世界大戦と国民の意識変化
第二章:MAJOR LEAGUEに登場する黒人選手たち
一節:ジャッキー・ロビンソンの栄光と苦悩
二節:ジャッキー・ロビンソンに続く黒人選手
三節:MAJOR LEAGUEと公民権運動
終章:おわりに
序章:はじめに
昨年のメジャーリーグ[i]は、20世紀最後のワールドシリーズでヤンキースが3年連続26回目の優勝を飾って幕を閉じた。今年のメジャーリーグ全体の観客動員数は7275万人で過去最高を記録している。クリーブランド・インディアンスは345万6000人もの観客が集まった。「ナショナル・パスタイム(=国民的娯楽)」と呼ばれるアメリカ・メジャーリーグは組織化されてから120年以上の歴史を持ち、アメリカ4大チームスポーツの一つである。近年は新興勢力のバスケットバールやアイスホッケーに追い上げられてきたとはいえ、まだまだアメリカにおけるプロスポーツの頂点に君臨している。また白人、黒人、ヒスパニック、オリエンタル、メキシコ系、プエルトリコ系とファン層が非常に幅広く、特に白人の子供とヒスパニック系には絶大な人気がある[ii]。選手においては中南米諸国出身に加えて、アジア出身も増加し、目を見張る活躍している。それにつれて、メジャーリーグの存在も国境を越え、新たなるファンを獲得しながら拡大している。日本で今年行われたメジャーリーグの公式戦や日米野球の盛り上がりからもわかるように、もはや国民的娯楽の域を出て国際的なエンターテイメントととしての地位を確立しつつある。
このように多様な人種の観客に支持をされ、また多様な人種の選手がプレーするメジャーリーグではあるが、たった半世紀前まで高く、厚い「人種差別という名の壁」が聳え立ち、有色人種は誰一人その壁を乗り越えられなかった。メジャーリーグに黒人選手は存在していなかったのである。
メジャーリーグで黒人選手がチームから締め出されたのが、1880年代半ばと言われている[iii]。これは、白人と平等な生活を黒人には与えないという当時の風潮を反映している。1896年に、鉄道の客車について人種分離制度を認めたルイジアナ州法の合憲性をめぐって裁判が行われた。連邦最高裁判所はたとえ人種を分離しても設備が平等であれば違憲ではないという判決を下した。プレッシ―対ファーガソン事件判決である[iv]。この「分離すれども平等(Separate But Equal)」判決は、両人種のみならずこの国の人種関係全般を支える法的原理となった。さらに黒人を差別分離していく州法が南部を中心に制定された。これはいわゆる「ジム・クロウ法」と呼ばれ、黒人を白人からはっきりと区別した第2級市民の地位に押しとどめ、固定化させた。この法は実際には、公立学校、交通機関、食堂、ホテル、スポーツ施設等においてみられ分離されていた[v]。このような社会の仕組みはアメリカ野球においても当然適用され、以後半世紀にわたって白人と黒人が共にプレーすることはなかったのである。
そのアメリカ野球に転機が訪れたのは、1945年であった。黒人の血を持つジャッキー・ロビンソン(ジャック・ルーズベルト・ロビンソン)という人物がアメリカ野球機構と正式に契約をしたのである。そして、1947年に黒人初のメジャーリーガーとなった。ここで注意したいのは、以前にも黒人はマイナーリーグ[vi]でもプレーをしていたということである。しかし、マイナーリーグの選手は口約束程度のものであって、正式的、公式的に文書による契約ではなかった。また、もちろんメジャーリーグに正式契約した黒人選手は誰もいなかった。
そのジャッキー・ロビンソンは1919年1月31日、ジョージア州で生まれた。兄が3人(一番上の兄マックは1936年のベルリン・オリンピックに陸上選手として出場したスターであった)、姉が1人、父は分益小作人という家庭で育った[vii]。ジャッキー・ロビンソンはパサデナ短大から、1939年にカリフォルニア大学ロサンゼルス校(UCLA)に奨学金を得て入学する。明らかに他の黒人よりもよい環境で育ったことが伺える。兄からスポーツの影響を受け、ロビンソンは野球、アメリカンフットボール、バスケットボール、陸上の4種目をこなし、走り幅跳びでは西海岸陸上連盟の新記録を作っている。大学卒業後の1941年、ホノルルのプロ・フットボールリーグ・チーム「ホノルルベア―ズ」に所属し、1シーズンだけプレーした。そしてその間に勃発した第二次世界大戦のため、1942年に士官候補生のための教育施設があるカンザス州フォート・ライリーの陸軍基地に入隊する。そこでもアメリカンフットボールと野球で名声を上げている。二年後に、陸軍中尉で除隊した。1945年、ニグロリーグ[viii]のカンザスシティ・モナークスに入団をし、その年のオフにモントリオール・ロイヤルズと契約。1947年にメジャー昇格する。
ロビンソンのメジャーリーグデビューは、アメリカ社会の伝統的な黒人差別主義にインパクトを与え、また黒人解放の流れにそれは大きな意味を持っていた。なぜなら、野球の人種統合の動きが1947年にスタートしたのは、アメリカ社会のそれよりも若干早かったという事実があるからである。当時はバスやトイレ、学校といった公共施設に人種分離制度が残っていたが、一方で1947年には同じグランドで黒人と白人がプレーをしていたのである。野球の人種差別廃止の動きが社会よりも進んでいたかがうかがえる。松岡氏が「人種分離制度に対して、まずは連邦政府が改革の急先鋒となった。トルーマン大統領は行政命令を出して、軍隊での差別を禁止した…」と述べているが、それは1948年である。また「分離すれども平等」を違憲としたブラウン判決も1954年である。アメリカ人種差別制度廃止の研究において、スポーツという特殊な分野の野球人種統合の研究は見逃すことはできない。
そこで、メジャーリーグでの黒人選手門戸開放の流れを明らかにしたい。具体的に言えば、第1章で、なぜロビンソンが1945年にマイナー契約を結び、1947年にメジャーデビュー出来たのかである。この論文で示される6つの外的要因が、門戸開放の土台を作ったこと、さらにロビンソンの活躍できる環境を用意したことを論証したい。第二章で、その環境の中でロビンソンがどのような働きをし、白人ファンに受け入れられて行ったのかを明らかにしたい。初めてメジャーで黒人がプレーすることに様々な困難が待ち構えていたはずである。そして門戸開放である以上、ロビンソンの後に続く黒人選手はいたのかを述べる。さらに門戸開放の流れと公民権運動を比較し、メジャーリーグの門戸開放が、公民権運動の中でどの位置にあり、どの程度進んでいたのかを明らかにしたい。以上の2つの章で門戸開放の全体像を示していく。
第一章:黒人選手への門戸開放の外的要因
一節 ブランチ・リッキー
1945年10月23日、ドジャース傘下のマイナーリーグ、3Aモントリオール・ロイヤルズのヘクター・ラシーン(Hector Racine)が記者団に黒人のジャッキー・ロビンソンとの契約を発表した[ix]。初めて黒人選手と正式に契約を交わしたこの年は、今考えればまさしく野球人種統合の始まりであった。
この契約を取りまとめたのは、ブルックリン・ドジャースの共同オーナー兼ジェネラルマネージャーのブランチ・リッキーであった。彼は1943年から、ウォルター・オマリーにその座をゆずる1950年まで、ドジャースの経営者を務めた。
彼がはじめて黒人選手と契約を交わすことになったが、その契約について彼には長らく思いつづけた約束があった。リッキーが1904年にOhio Wesleyan大学でコーチをしていたとき、一塁手で優秀なチャーリー・トーマス(Charlie Thomas)という選手がいた。彼は遠征先のホテルで黒人であるがゆえに宿泊を拒否された。リッキーは自分の部屋にベッドを置き、そこで寝させた。その夜リッキーは、「黒い肌、黒い肌」と泣き叫ぶトーマスを見つめていた。トーマスの苦悶を目撃し、この夜の出来事はリッキーに大きな影響を与えた。のちに「あの事が何年も絶えず付きまとっていた[x]」と打ち明ける。そしてリッキーは、他の国民がトーマスに加えられたひどい屈辱にあう必要はないということをわからせるために、できる事は何でもすると誓った。この約束は以後40年間忘れ去られる事はなく、1945年のジャッキーロビンソンとの契約で約束を果したのである。広い意味でリッキーは野球界における人種差別撤廃という理想のためにドジャースに黒人選手を迎え入れようとしたのである。
ところでブランチ・リッキーはどのように前例のない黒人選手入団させ、メジャーに昇格させたのであろうか。その最も障害となったのが北部の白人ファンやマスコミで、彼らの機嫌を損ねずにスムーズに黒人選手を受け入れられるように配慮し、その体制を作る必要があった。その点でブランチ・リッキーは優れた「戦略的な男[xi]」であった。彼の緻密な計算と度胸は「人種の壁」を打ち破るのに十分過ぎるくらいであった。
まず最初に、リッキーはどうすればスムーズに黒人選手をチームに迎え入れられるのか考えた。もしドジャースの責任者である彼が黒人選手の調査のために動き回れば、周囲の目を気にし、またジャーナリストにかぎつかれてしまう。そして計画が実現しないうちに非難の声でつぶされてしまうと推測していた。それを避けるために、彼は1945年5月にドジャースが新しい黒人野球リーグを作ると発表した。その名は「The United States[xii]」。従来のニグロリーグに代わる新しいリーグを組織して、黒人野球の繁栄を計るという趣旨であった。優秀な黒人選手をメジャーに迎えるのではなく、新たな黒人リーグに封じ込めようとしたのはリッキーらしい戦略である。リッキーは堂々と人材探しをはじめた。
次に、彼の考えにはニグロリーグのスター選手は条件から外されていた。即戦力となる選手では白人ファンへの刺激があまりにも強すぎるため、将来性のある選手を獲得しようとした。ニグロリーグにはサチェル・ベイジ(生涯2500試合以上に出場し、2000勝。うち完封勝利250回。1948年、42歳で大リーグ入り[xiii])、ジョシュ・ギブソン(生涯ホームラン数962本。1932年、123試合でホームラン75本を記録。打率.380。)、ハワード・イースタリング、ウィリー・ウェルズ、チェット・ブルーワー、ロイ・キャンパネラなど、大リーグでの成功が確実視されている選手がいたが、彼等はブランチ・リッキーの目には留まらなかった。まさに才能を内に秘めた無名の選手をブランチ・リッキーは探していたのである。
そこで目をつけたのが、ニグロリーグのカンザスシティ・モナークスに所属していたジャッキー・ロビンソンである。ブランチ・リッキーは選考の基本的条件として、「(あらゆる嫌がらせに)仕返しをしないでいられるだけの勇気を持っている選手でなければならない[xiv]」としていた。だからロビンソンの性格、生い立ち、家庭環境、学生時代、軍隊での記録を隈なく調べ尽くした。そして、それらの条件をロビンソンは満たしていた。ロビンソンは大学時代、白人と共にプレーをしており、黒人としてどのように振舞えばよいのかを認識していた。
しかもロビンソンには他の選手と決定的に異なる魅力があった。それは彼が被差別意識を持ちつづけそれを何とかしなければならないと考え、行動していたことである[xv]。少年時代に南部の農村からカルフォルニアに移住してまもなく、不思議なことに気付いた。黒人が市営プールで泳ぐことができるのは週一回しかない。ところが白人はその日以外、いつでも泳ぐことができた。それでもロビンソンは黒人が禁じられている日に市営プールを訪れた。そこで警察官に捕まり、「見ろ」と38口径の銃を突きつけられた。仕方なくロビンソンは近くの貯水池で泳いだ。そこで泳ぐことは禁止されているから、警察官に注意される。それでもプールで泳ぐことができないので、そこで泳いだ。警察官はロビンソンを留置場に入れなければならなかった。「なぜなのか。なぜ、自分たちは週に一回しか市営プールで泳げないのか[xvi]」。素朴な疑問である。同じように素朴な疑問はいくつになってもついてまわった。そして、なぜ黒人はメジャーリーガーになれないのかということに辿り着いたのである。
最後のブランチ・リッキーの戦略は、ロビンソンとマイナー契約したことである。先に述べたがニグロリーグの花形選手でないものが、メジャーに来ていきなり活躍し始めては、メジャーリーグの面子は全くなくなる。たとえ1年でも、白人マイナーリーグで鍛えたからこそ、使えるようになったのだというところを白人ファンに見せたかったのだ。だから、ドジャースで3Aインターナショナル・リーグ加盟のモントリオール・ロイヤルズと契約をしたのだった。
リッキーは黒人選手への門戸開放のなぞを解く上で重要な人物である。どの球団オーナーも否定的であった黒人との契約を推し進め、ロビンソンを見つけ出したリッキーは、門戸開放の土台を築いた功労者である。
二節:人種統合推進派(新聞記者)の努力
タイジェル(Tygiel)、ウィーバー(Weave)、ウィギンズ(Wiggins)、ディアドーフ(Deardorff)、レイスラー(Reisler)らの学者は黒人スポーツライターが野球人種統合に重要な役割を果していると結論付けている。ウィーバーによれば「黒人記者は、野球における肌の壁を打ち壊すために人種統合の道具のとして働いた[xvii]」。レイスラーは「黒人記者の絶え間ない執筆活動が、肌の色による追放をやめさせるようにメジャーリーグ経営者に確信させることに役立った[xviii]」と書いている。そして、ディアドーフは「黒人記者がコラムや記事を通して分離問題を国内の最重要課題と一般に認識させた[xix]」と語っている。
そのような黒人スポーツライターのひとりに、ピッツバーグ新報(Pittsburgh Courier)のスポーツ記者であったスミス(Wendell Smith)がいた。Wigginsは「スミスが黒人の野球機構参入に最も根気強く戦いつづけた人物[xx]」と評している。彼は1930年後半から野球人種統合のための運動を始めているが、そのきっかけは学生時代の差別体験にあった。彼は優れた才能を持つ野球選手であり、投手であった。ある決勝の試合で彼の「American Legion Team」は1対0で勝利し、スカウトの目を引いた。デトロイト・タイガースのスカウトは負けた投手とスミスの捕手であったトレッシュ(Mike Tresh)と契約をするに至った。その後スミスは衝撃的な言葉をスカウトから聞かされた。「これは冗談じゃないが、私はあなたと契約したかったんだよ。でもそれができないんだよなぁ…[xxi]」。これには人種差別の意味が含まれていた。スミスは人種の壁によってプロスポーツへの道は閉ざされていることを気付かされたのである。この体験がスポーツライターとして野球人種統合に加わる契機となった。
彼は1938年5月、黒人がメジャーでのプレーを許されていない時に、なぜ黒人はメジャーの試合を奨励しつづけているのか疑問に思うようになる。「私達は認めてもらうために、ぺこぺこ頭を下げ、懇願しつづけている。私達を欲しないのは承知しているが、未だに彼ら(白人経営者)にお金を払いつづけている。ここで黒人がプレーできるまでゲームに行きつづけようではないか。そしていつまでも叫びつづけよう[xxii]」。と記事に書いた。さらに1944年の記事で彼は、メキシコでプレーをするためにアメリカを離れたウェルス(Willie Wells)の言葉を引用している。「私はアメリカでは決して見つけられなかったもの、自由と民主主義をここで見つけた。私はアメリカでニグロと決め付けられ、そのように行動しなければならなかった[xxiii]」。アメリカ野球だけが人種分離制度に固執していることを強調した。
このように一般大衆に向かって記事を書くことで野球人種統合を訴えつづけた一方で、ブランチ・リッキーのような経営者とも交流を持っていた。そこでスミスはロビンソンをリッキーに紹介している。黒人記者の目をブランチ・リッキーは信用していたのであろう。さらに、ロビンソンはのちに「スミスから恩を受けた[xxiv]」と話している。
ところでもう一人、黒人ライターのレイシー(Sam Lacy)の存在も見逃すことはできない。アフロ・アメリカンのレイシーはワシントンDCのグリフィス・スタジアム近くで育った。そしてそこで、時期は異なるものの卓越した白人と黒人選手を見てきた。少なからずも野球の人種分離制度を目の当たりにしていた。先のスミス同様、レイシーも幼少期の人種差別体験を動機としてライターの道を選んだことになる。レイシーは1930年代、「Washington Tribune」で働き、その活動をスタートさせた。1945年3月には、メジャー経営者に「野球統合の可能性を研究するための委員会[xxv]」を設立するよう手紙で要請している。また、レイシーは雑誌「Negro Baseball」で、彼は野球の人種の壁を打ち砕ける最適の男は、ジャッキー・ロビンソンであると主張していた。
これら黒人記者たちは、野球における人種差別主義と戦っただけでなく、自分たちの活動のフィールドにおけるそれとの戦いでもあった。つまり彼らもまたジム・クロウ(Jim Crow)の犠牲者であったために、白人が経営者の新聞社では働くことができなかったし、ましてや大衆紙に自分の記事を載せることすらできなかったのである。もちろん取材やインタビューといったものにまで取材規制が行われ、活動の場が極めて限られていたのである。彼らは自分たちのためにも戦いつづけたのである。
そのような彼らの記者活動は一般大衆に多大な影響力を与えていたと推測される。マス・メディアには、特有の「地位付与機能」がある。「マス・メディアは、社会的な問題、人物、組織、および社会的活動に地位を付与する。マス・メディアは、個人や集団の地位を正当化し、それによって彼らに威信を与え、彼らの権威を高める[xxvi]」。黒人記者たちは、メジャーリーグの人種分離制度を不平等や人権侵害であると問題提起し、それを多くの国民に認知させることで正当化し、アメリカ社会全体の問題・課題という地位に押し上げ、国民に何らかのアクションを起こさせる役割を果したと言えよう。さらに新聞のメディア機能である「評論機能―エディトリアル性」を活用し、紙面の構成や社説などを通じて、新聞社独自の価値判断を提示し、世論形成に取り組んだのである[xxvii]。
1930〜40年代、欧米では新聞とラジオが黄金の時代であった。アメリカで新聞は1833年に大衆紙としてのさきがけとして「ペニー・プレス」と呼ばれるニューヨーク・サンが発行されて以来、新聞の発行部数は増加し、絶大な国民の支持を得ていた[xxviii]。新聞というメディアの存在は、同じ情報を広大なアメリカの全国民あるいは地域全体に伝えられる媒体であったはずである。そのことを考慮すれば、黒人記者が躍起になって記事を書きつづけ、野球人種統合を訴えつづけたのもうなずける。
三節:球団オーナーの商業主義
メジャーリーグでは黒人選手を入れようとしたことは何度かあったようであるが、それはうわさ[xxix]で終わっていた。彼らを入れることは、その力量を熟慮すればプラスであり、チームの成績も上がることは確かであった。しかし、それが営業成績、つまり収益につながるどうかは疑問であった。またその疑問が解決されないがために、メジャーの経営者は黒人選手の入団を拒んできたことは否定できない。第二次世界大戦までは、アメリカ黒人人口の75%以上は南部に住んでいた。ところがメジャーリーグはほとんどが北部に存在した。黒人を入れれば、いくらかは黒人ファンを呼ぶことができたかもしれない。しかしそのために長年続いた白人ファンの機嫌を損ねる危険があった。当時は黒人がメジャーリーグのユニフォームを着たら暴動が起こるだろうといわれていた。クー・クラックス・クラン(KKK)団[xxx]をはじめとする急進的な白人至上主義者の団体が大きな勢力を保っていた。白人によるボイコット運動でさえ怒るかもしれない。黒人をチームに入れれば確かに強くなるが、それによってせっかくつかんできた多くの白人の野球ファンが逃げ出してしまうかもしれないとほとんどの経営者は考えていた。そんな冒険は誰もできなかったのだ。
しかし転機が訪れる。戦争が劇的な人口移動の原動力となった。兵器工場の労働需要増加によって、田舎の南部から何百万もの黒人労働者が工業ベルトに移り住むようになった。北部の州の黒人人口は1940年代に50%も増えて、この国の歴史上はじめて、黒人が北部都市の人口割合のトップに位置した。最も人口流入の激しかったデトロイトでは、40年から43年の間に六万人の黒人[xxxi]が流入した。それにつれてニグロリーグも北部で盛んになり、観客数も増加した。1944年の東西対抗オールスターゲーム観客動員数をメジャーリーグと比較してみると、大リーグ・オールスター・ゲームは2万9589人で、ニグロリーグ・オールスター・ゲームは4万6247人であった。またシカゴのコミスキー・パークで、シカゴ・ホワイトソックス対セントルイス・ブラウンズのメジャーリーグゲームが1万9千人の観客の前で行われていた同じ日、同じシカゴの伝統ある野球場リグリー・フィールドでは、モナクスが白人チームを相手に3万人の観客を集めてゲームをしていた[xxxii]。メジャーリーグファンには「「平凡な(白人)プレーヤーを置くより、芸達者な黒人選手を入れよ[xxxiii]」という声が上がり始めた。
このニグロリーグの盛況に白人経営者(特にドジャースのブランチ・リッキーとインディアンスのビル・ビェック)は、メジャーリーグの観客動員減退につながる可能性を感じ始めていた。その一方で、もしかしたら黒人選手を入団させることは収入源になるとリッキーだけは考えていた。彼は黒人の観客を魅了することで、自分のチームの観客数を増やせると策略を立てた。「長期的にみればメジャーリーグに黒人が参加することによって初めてプロ野球はナショナル・スポーツになるのであり、その結果として経営面でもプラスになるはずだ[xxxiv]」と主張していた。彼は経営者として商業主義の思想を強く抱いていた。しかしそうは言うものの、黒人選手を入団させることは、当時としては前例のないことであったわけで、大損害のおそれのある「博打」であったはずである。その「博打」を進んで賭けたリッキーの行為は驚きに値するし、勇気のいることであっただろう。
ところで、メジャーリーグは1940年代、黒人選手を入団させたいほど財政的困難に陥っていたのであろうか。1942年と1943年の観客動員数は、880万と770万である[xxxv]。これは例年と比較するとかなり減ってきている。それは第二次世界大戦が原因である。アメリカは国を上げて戦争に臨み、500人のメジャーリーガーと3500人のマイナーリーガーが徴兵された。ルーズベルト大統領は戦時下の試合続行を承認したが、各球団の有名選手(ヤンキースのジョー・ディマジオ、レッドソックスのテッド・ウィリアムス、カージナルスのスタン・ミュージアル)がいなくなった。そのため観客が減り、財政困難に陥った。球団は徴兵不可の者や徴兵年齢にあたらない若年・熟年選手を採用して穴埋めをした。ラテンアメリカの選手にも目を向ける球団も出てきて、50人のラテンアメリカ選手が誕生している。しかし、黒人選手を採用する球団はなかった。実際、ビル・ヴェックが黒人選手起用を前提に、破産したフィリーズを買収する申し出をしたが、オーナーはこれを拒否している。試合の質まで戦時中は平均以下であった。しかし1944年、軍人の入場料をただにするなどして、動員数は870万人[xxxvi]まで回復した。そして終戦を迎えた1945年は最高の1080万人[xxxvii]を記録し、利益もしっかりあげた。1946年に有名な選手がグランドに戻ってきて、16あるメジャーリーグチームの全観客は前の年の2倍[xxxviii]であった。このことから、1947年にロビンソンがドジャースに入団するころは、各球団は財政的困難には至ってはいなかったが、利益を追求する戦略として、実力ある黒人選手の獲得という選択肢があったのである。
ドジャース自体も経営状態は安定しており、さらなる利益追求に焦点が当てられた。ロビンソンがメジャー昇格を果たした1947年は本拠地(ブルックリン・エベッツフィールド)に年間180万人[xxxix]の観衆を集め、年間入場者最高記録を作っている。そして、スポーツ記者のスミスは「敏捷性、スピード。ロビンソンの登場で球場人口の回転木馬は高速に回り始めた[xl]」という記事を寄せた。これは非常に注目に値する。なぜなら、白人ファン数の減少に伴う経営悪化を長年危惧していた各球団経営者の思惑を裏切ったからである。そしてリッキーの商業主義の成功を意味していた。
この節の球団の商業主義が、「人種の壁」を打ち破り、野球人種統合を可能にし、そして加速させたと考える。その主役がリッキーであったわけである。黒人選手、特にニグロリーグのスターはメジャーリーグで成功することは、第一章一節で紹介した選手の成績から見て自明であった。勝利市場主義のプロ野球界にとって、彼らを入れることはそのまま勝つことにつながる。しかし、白人ファンを失うかもしれないというディレンマがあった。その不安にもかかわらず、リッキーは綿密な計算と戦略に基づいた商業主義を貫いた。そしてそれは成功した。そのことが野球における人種差別の歴史に革命を起こしたのである。
四節:ヤンキースのポーウェルによる人種的偏見の発言
1938年7月29日、ニューヨーク・ヤンキースの補欠外野手ポーウェル(Jake Powell)の発言は、野球の人種分離主義を公然と押し出し、野球界に波紋を呼んだ。この出来事を後に作家のWilliam Donn Rogosinは、初めて黒人が野球機構に対して力を誇示し、勝利を明らかにしたとして、「The Jake Powell Affair[xli]」と呼んだ。
シカゴでヤンキース対ホワイトソックスの試合が行われた。その試合前のラジオインタビューでポーウェルはアナウンサーに「オフシーズンの間に何をするのか[xlii]」尋ねられた。彼は「オハイオ州のデイトン(Dayton)で警察官として働く[xliii]」と答えた。そしてさらに彼はこのように付け加えた。「ニガ―の頭をたたくことで健康を保ちます[xliv]」と。そのアナウンサーはポーウェルとのインタビューを直ちに止め、その場で謝罪のコメントを発表した。しかしその翌日からシカゴに住む黒人コミュニティの反発が激しくなり、ヤンキースはポーウェルに対する処分を検討せざるを得なくなったため、10日間の出場停止を決定するに至った。
白人記者はこの発言を報道した時、黒人コミュニティの強い反発を考慮せず、ポーウェルの舌が不幸にも滑ってしまった以上の何物でもないとみなしていた。対照的に黒人記者はこの出来事を概して社会の人種主義の象徴として報道した。黒人向けの週刊誌は読者にこの出来事のより詳しい内容と黒人コミュニティの反発、野球の分離政策に対する批判を伝えた。黒人スポーツライターのペグラー(Westbrook Pegler)は国民的娯楽が「アドルフ・ヒトラーがユダヤ人にふるまうように黒人を[xlv]」扱っていると非難した。
出場停止に至った彼の発言について、コミッショナーのランディス(Landis)は「その発言は意図していたというよりは、不注意によるものであったと信じている[xlvi]」と述べた。ランディスについては次の節で述べるが、この発言は野球人種分離政策を陰で推し進め、黒人の抵抗を逃れようとしたものであると言えよう。一方「A New York Post」の記者は、ランディスの擁護発言がポーウェルの人種的偏見の発言を「洒落」としかとらえていないことを非難した。
ランディスのように「洒落」あるいは「こっけい」として使われたと強調する新聞社も数多く存在した。「The New York Times」や「Chicago Tribune」もまた、この出来事の社説に「こっけい」という言葉を使っている。ワシントン・ポスト(Washington Post)では「ポーウェルが野球のバットを持っているのと同じように、警棒を持っても効果的でないとしたならば、黒人は心配する必要は全くなかった」と逆に黒人を責める記事を載せていた。「The Sporting News」はこの話しに無関心を貫いた。
一方、黒人新聞「Chicago Defender」のヤング(Fay Young)のような黒人記者は、この出来事から野球人種統合の必要性が証明されたと主張した。ニューヨークでは、「the Amsterdam News」がヤンキースのオーナーであるルパート(Jake Ruppert)へのビール不売同盟を求めた。「New York Age」にはポーウェルが移籍されるべきであると書かれた。最も大きな反発を示した「Chicago Defender」には、デイトンの警察所はポーウェルを首にして、球団は無期出場停止にさせ、一方黒人のファンはヤンキーススタジアムを監視し、ルパートへのビール不売同盟への参加を呼びかけた[xlvii]。
このように黒人や同情的な白人の圧力があまりにも激しくなったので、ポーウェルは「Chicago Defender」の会社を訪れ、謝罪を表明した。「ポーウェル事件」は次の理由から重要であった。その事件は、1つの不節制な発言が大衆を呼び覚ましたことで、黒人コミュニティの高まる抵抗力と結合力を証明し、また、分離された野球への不安定性を指し示した。
五節:差別主義コミッショナーの死
「公式でも非公式でもないが、野球機構のチームが黒人選手を雇うことに反対するきまりはない[xlviii]」と野球コミッショナーのランディス(Kenesow Mountain Landis)は1942年に宣言した。この陳述は野球機構の偽善的行為の典型である。コミッショナーランディスは言葉で分離を描写せず、人種の壁の存在を認めなかった。しかし20世紀の国民的娯楽を支配してきた人たちは厳格な人種的排除システムを受け継いできた。ここにアメリカ的信条(American Creed)の理想と黒人の現実的な地位との明確な不一致が、国内の人種的ディレンマとして存在していた[xlix]。
アメリカ的信条に示されている支配的な立場は、社会的平等主義、階級差を越えた尊敬、実力主義、個人主義、機会の平等を強調する[l]。これらはアメリカ建国の際、ヨーロッパの貴族制、身分制の教訓から学びとって生まれた価値体系であり、独立宣言や合衆国憲法に盛り込まれている。また、これらがあるために、アメリカ白人は業績と身分の上昇を強調し、またそれらが重視される文化が創られていったのである。
しかし、アメリカの歴史を通じて、黒人の扱いは、アメリカ的信条からあまりにも逸脱していた。アメリカの歴史が1600年あたりから始まったとすると、黒人は最初の250年間は奴隷として存在したのである。南北戦争が終了した1865年以降の100年間のほとんどを、黒人は黒人差別法(暗黙のものであれ、あからさまなものであれ)のもとで、社会の底辺カーストを形成し、教育や金銭を得る機会とはほとんど無縁であった。
トマス・ジェファソンは、黒人の処遇がアメリカの将来に影響を与えるだろうと憂慮していた。奴隷制について、1781年に「神が公平であられることを思い起こすと、私は自分の国のありさまに身の震える思いだ[li]」と述べている。さらに独立宣言の「すべての人は平等につくられている[lii]」という原則が奴隷制の土台を侵食していき、平等の理念はアメリカの政治に影響しつづけるであろうと考えた。そして歴史はその通りになった。
このように国内の人種的ディレンマを抱えつつも、奇妙なことにアメリカ人は黒人の状況を無視し続けてきたのである。国家の要人でさえもそのように考えていたのだから、コミッショナーや野球の経営者ももちろん同様であり、この矛盾を認めていたが無関心であった。しかし、もし野球が本当に国民的娯楽だとしたら、参加者から10分の1を締め出すことはできないであろう。もし野球がアメリカ人の競争や機会の本質を具体化したものであるとするならば、それは成功するために必要な技術を持つ人々の参加を阻止することはできないのである。
結局20世紀前半、野球機構はその矛盾を無視しつづけた。1919年に起きたブラックソックスの不祥事(Black Sox Scandal[liii])の汚名返上を願って、野球機構は1921年にコミッショナーとして保守色の強いランディスを選んだ。彼はもともと連邦裁判所の裁判官であり、保守的な考え方はそこで培われた。経営者達は彼に絶対的な権力を与え、野球の利益を守るように促した。彼はしばしば独裁的に行動する。賭博で逮捕された選手が法廷では無罪を言い渡されても、彼はその選手を永久出場停止にしている。このような彼に対して、一般大衆の見方は、彼は抜け目なく、勇敢にそして公平に23年間君臨したということであった[liv]。
任期中、ランディスは野球界における黒人と白人の人種差別制度を固持し続けた。メジャーリーグでの黒人選手の参加をかたく禁じた。マイナーリーグがキャンプ中に試合を行う場合に、黒人選手のいるチームとの公開試合を制限した。彼は1944年に亡くなるまで野球コミッショナーをつとめ、黒人向けの新聞には「偉大なる白人の父[lv]」と書かれていた。彼は黒人の選手やスポーツライター、ファンから嫌われていた。
1942年以降の会議でのランディスの言動は、野球の分離政策を公然とさせるものであった。ブルックリン・ドジャースの経営者・ドローチャー(Leo Durocher)が「もし許していただけるなら、黒人選手と契約したい」と述べたとき、ランディスは「野球機構のチームが黒人選手を雇うことに反対するきまりはない」と主張した。これが公表された後で、野球人種統合主義者はこの問題に圧力をかけ、国内中に新聞のニュースとなった。そして翌年、黒人選手の代理人がメジャーリーグの会合で発言する機会を与えられた。その後でランディスはすぐに彼らの提案をもみけした。「その紳士達は会合で発言することを要求した。そして彼らに機会は与えられた[lvi]」。結局、黒人に対して発言権を与えたのみで、絶対的な権力者ランディスは 黒人選手との契約の道を閉ざしたのであった。
しかし1944年、ランディスコミッショナーが死去し、後任に前ケンタッキー州知事のハッピー・チャンドラーが選ばれてからの情勢は逆転した。彼は「私は四つの自由(言論・信仰の自由、欠乏・恐怖からの自由)を信奉する。黒人青年が、沖縄やガダルカナルで立派にやれたのなら、野球でも立派にやれるだろう[lvii]」と発言し、黒人への門戸開放を初めて表明した。
六節:第二次世界大戦と国民の意識変化
第二次世界大戦時のアメリカ黒人の戦争観は、アメリカの人種問題と結びついていた。多くのアメリカ黒人は第二次世界大戦に対して強い疑問を抱いていた[lviii]。その疑問は、アメリカ社会の矛盾やおよび偽善から生まれている。アメリカ白人はヨーロッパや南太平洋で「正義」や「自由」「民主主義」のために戦えと言っていたが、アメリカ社会内においては、黒人をはじめとする有色人種への差別が依然として当たり前な存在であった。また、ナチスドイツの人種主義思想を批判しながら、アメリカでは人種分離制度が合法であり、ドイツ人と同じようにほとんどのアメリカ白人は、何の疑問もなく白人が世界一優秀な人種であると信じていた。このように反ファシズム戦争を標榜したアメリカがその国内に露骨な人種差別を温存していることはそれ自体、自己欺瞞であったわけである。
第二次世界大戦が本格化する中で、戦争に対する国民的合意を達成させることは容易ではなかった。しかし黒人は自分たちでその動機付けを行うことに成功する。ピッツバーグ新報が「ダブルVキャンペーン」を立ち上げ、外国の敵とともに国内の人種差別とも戦うという二重勝利を勝ち取ろうと結束した[lix]。黒人の多くは、自分達の活躍が海外での勝利の要因となれば、戦後のアメリカ社会において黒人の政治的、経済的、社会的地位の向上を勝ち取れるとの推測があった。
そのような中、ローズベルト(Franklin D.Roosevelt)大統領は、国民を総動員する臨戦体制づくりに励んだ。そのためにはアメリカ人同士の不和や対立を避ける必要があった。ランドルフ(A.Phillip Randolph)が連邦職の差別撤廃を求めて、ワシントンで行進をすると脅された大統領は1941年6月、大統領行政命令8802号を発せざるを得なかった。その中で「防衛産業や政府機関において労働者を雇う場合、人種、信条、肌の色、出身国の違いによって差別してはならない。全労働者をこれらの産業に完全に参加させることは、雇用者および労働組合の義務である[lx]」と述べ、この命令に違反することがないように監視し調査するための公正雇用実施委員会を設けた。もとよりこれによって、人種差別の全てが解決されたわけではないが、非常事態への対応策として講じられた措置が、戦後の人種問題の改善に重要な先駆的役割を果たしたことは確かである。事実、ローズベルト大統領の死後(45年4月)、トルーマン(Harry S.Truman)は大戦終結直後の1946年12月、人種差別撤廃を目指す公民権委員会を発足させ、さらに1948年には大統領行政命令9981号を出して、軍隊内部の人種差別を禁止した。こうして朝鮮戦争には、アメリカ史上初めて「隔離なき統合された軍隊[lxi]」が動員されることになった。
このような第二次世界大戦と国民の人種差別に対する意識の高揚は、連動して野球界に大きな影響を与えた。1942年1月、ローズベルト大統領は国民的娯楽である野球が、戦時体制を中断するように求めてくるかもしれないという不安を自ら取り除いた。彼の有名な「Green Light Letter」で、「私はこの国にとって野球場に行き続けることが最もよいことだと正直に思う[lxii]」と宣言した。戦時下での試合続行を承認したのである。一方でその裏には、人種間の不和を嫌い、臨戦体制を築こうとする大統領の意図が隠されていた。
また、戦後、黒人の差別に対する意識がより高まり、「戦争で白人と共に立派に戦えたものが、どうして野球ではダメなのか[lxiii]」といった考え方を発生させた。戦争での感情が野球のそれと結びついて行った。第二次世界大戦に勝利したことは黒人に大きな発言権を与えることとなった。さらに、黒人の社会的流動性が高まり、高等教育に進む黒人の数も急増し、それによって地位上昇をとげる黒人の数も増加した[lxiv]。その一人がジャッキー・ロビンソンであったわけである。さらには黒人として初めて国務省の高官となり、戦後には、国連の信託統治理事会の議長を務めたラルフ・バンチなどがいる。
第二章:MAJOR LEAGUEに登場する黒人選手たち
一節:ジャッキー・ロビンソンの栄光と苦悩
一章で述べた外的要因から、黒人選手のメジャーへの門戸開放の道はつくられていったと言っていいだろう。門戸開放を既存の体制への革命とするならば、そうなるには環境の変化や支援者の結集、オピニオンリーダーの出現、そしてタイミングが重要な要素となるはずである。その意味では、この1945以降に黒人への門戸開放が達成されたのは、正しく起こるべくして起きたことであろう。しかし、道は作られても、そこをはじめて歩こうとするものには、前例がないだけに苦悩が強いられることが多い。特に野球という分野では結果がすべてであり、良い成績を残せたものだけが栄光をつかめるのである。だがロビンソンの場合、平凡な成績では野球ファンには認めてもらえない。白人以上の活躍をしてこそ、その存在が認知されるのであり、門戸開放の成功を意味するのである。強い精神力と高レベルな技術力がなければ、道を歩くことはできないし、失敗すればその道は再び閉ざされてしまう可能性は否定できなかった。幸いにロビンソンはそれらの危惧を払拭する、類まれなる能力とスター性を兼ね備えていた。
1946年4月18日、3Aのモントリオール・ロイヤルズVSジャージー・シティ・ジャイアンツの公式戦でロビンソンはデビューした。市長も駆けつけたこの試合で、3ランホームラン一本、ヒット三本、盗塁二つを記録した。チームは14対1で快勝した。これ以後ロビンソンを観るために、黒人ファンが球場に足を運んだ。この年のロビンソンの成績は、打率3割4分9厘、打点66、盗塁40、守備率9割8分5厘[lxv]という輝かしいものであった。しかもチームはマイナーリーグの最高の地位にたった。
翌年の1947年、「勝つために彼が必要だ[lxvi]」と監督のレオ・ドローチャーはロビンソンをブルックリン・ドジャース(ナショナル・リーグ)の選手として、黒人ではじめて大リーグでプレーさせた。その年の成績は、打率0.297、盗塁29、得点125、ホームランは12本であった[lxvii]。さらにドジャースは1941年以来遠ざかっていたペナントを奪還した。ワールドシリーズではニューヨーク・ヤンキースに敗れたものの、ロビンソンはナショナルリーグの新人王を獲得している。新人王に選んだのは、1866年3月17日に第一号を発行して以来100年以上続いている週間のスポーツ新聞「The Sporting News」であった。そして次のような記事を書いた。「この一年、ジャッキー・ローズベルト・ロビンソンが直面した様々な困難、苦労、人種の壁…などを我々は一切考慮に入れなかった。ジャッキー・ロビンソンは、メジャーリーグにおける一人の新人選手としてのみ扱われ、打撃、走塁、守備、チームへの貢献度を基準にして新人王に選ばれたのである[lxviii]」として、初めての黒人選手だからと特別扱いにしたのではなく、ごく普通の選手としてみて、誰にも劣ることのない成績であったから当然新人王に選ばれたことを伝えた。
ロビンソンが最も好成績を残したのは、1949年であった。打率3割4分2厘(首位打者獲得)、盗塁37、打点124で、文句なしの最高殊勲選手(MVP)であった。1956年に引退するまでの10年間、メジャーでプレーしたロビンソンの生涯成績は、打率3割1分1厘、ホームラン137本、打点734であった。しかもその中で6度ペナントレース優勝を勝ち取っている。[lxix]
メジャーリーグのスターとなったロビンソンの活躍を見ようと多数のファンが詰めかけた。白人と黒人の観客席を別々に指定していた球場では、黒人ファンを収容できなくなり、収益への損失という判断から、そのような分離座席制度を廃止する球場も現れ始めた[lxx]。
偉大な成績は、黒人のみならず多くの野球ファンの記憶と記録に残るものであった。その証拠に、ロビンソンは1962年、野球の「Hall Of Fame(名誉の殿堂)」入りを果たしている。また、1972年に背番号42がドジャースの永久欠番に指定された。[lxxi]
ところがこのような輝かしい成績の影には、苦悩、苦難の日々があったことを忘れてはならない。それはパイオニアに課せられた宿命でもあった。数え切れないほどの侮辱を受けた。「黒人はジャングルへ帰れ[lxxii]」と観客からの野次はもちろんのこと、脅迫状が届くのも日常茶飯事であった。遠征先ではホテルにも入れず、夜寝る場所を探しに町外れのモーテルに行かざるを得ない経験をした。敵の投手のビーンボールを何度もうけた。
彼の苦悩はチーム内にさえあった。黒人初の大リーガーとなった1947年のドジャーススプリングキャンプで事件は起きた。未だにロイヤルズのユニフォームを着ていたロビンソンではあったが、シーズン開始と同時にドジャースに昇格されることになっていた。このことをドジャースの選手たちは知っていた。そしてドジャースのユニフォームを着る前に、ロビンソン排斥運動の決起を模索していた。デキシー・ウォーカーとエディ・スタンキーの二人が中心となって、ロビンソンと共にプレーをしないという請願書を球団上層部に提出しようとしていた。その動きを嗅ぎつけたドジャース監督のレオ・ドローチャーはその計画をつぶすために、深夜に選手、コーチを叩き起こして、ミーティングを開いた。そしてこう監督は述べた。
「君たちのうちにジャッキーと共にゲームに出たくないと言うものがいると聞いた。請願書を作って、これからサインするところだという。このチームの監督は私だ。私が考えているのはひとつのことのみ―勝つこと。それ以外はない。勝つために働いてくれるなら、私は象をだって入団させ、プレーさせたい。ジャッキーはきっとペナント獲得に役立ってくれるだろう。彼はきっと君たちの財布、それに私の財布をもふくらませてくれるであろう。・・・彼は単に先駆者に過ぎないのだ。ただの先駆者!あとにはもっと多くの黒人選手たちが続くであろう。みんな才能ある者ばかり。どんどんやってきてプレーするのだ。彼らはハングリーだし、他の世界ではこれほどの収入が得られないことを知っている。彼らは懸命にやるであろう。君たちも奮い立ってがんばらなければならない。そうしなければ、球場から追い出されるのは君たちのほうだ。[lxxiii]」
請願は取り下げられた。しかし、デキシー・ウォーカーだけは要求を曲げず、ピッツバーグ・パイレーツにトレードされた。
その後ロビンソンはグランドで成績を残し、チームメイトとして受け入れられるようになる。対カージナルス戦で、ジャッキー・ロビンソンはビーンボールを受けた。これはいつもある光景であった。しかしそこで逆にドジャースの投手はカージナルスの主力打者スタン・ミュージアルに同じような球を投げ返した。ロビンソンに対して、初めてチームが一丸となった瞬間であった。ドローチャ―監督は言う。「ロビンソンはドジャースで一番大事なバッターなんだ。そいつにぶつけようとすればカージナルス一番のバッターにおかえしをするのは当然さ。一つやられたならウチは二つにして返す[lxxiv]」。
だが、ロビンソンの心境は冷やかなものであった。「彼らとて私が好きになったわけではなかった。私が財布を膨らませるのに役立つということを知ったので、態度を変えただけ[lxxv]」と述懐している。ロビンソンには成績を残すこと以外の喜びはなく、孤独との戦いでもあった。誰も心から彼を迎えてくれる人はいない。常に自分自身と葛藤し、幼少期から内に鬱積した人種差別の怨念によって戦いつづけたのである。「今必要なのは、人種差別を理解し、その人種差別に耐える勇気の持ち主だ[lxxvi]」。ブランチ・リッキ―が言ったこの言葉は、ロビンソンの心の奥底を見事に見抜いたものであり、耐えて勝ち取った成功はまさに彼自身にしかできなかった偉業なのである。
二節:ジャッキー・ロビンソンに続く選手
ジャッキー・ロビンソンの成績が黒人選手の実力を証明し、後の黒人選手へ大きく貢献した。そして各球団は黒人選手獲得に積極的になった。ナ・リーグ(ナショナル・リーグ)ではその数が非常に多い。特にロビンソンが所属するドジャースは、黒人選手の活躍を確信して次々と契約を結んだ。1948年に捕手のロイ・キャンパネラ(Roy Campanella)を、翌年にドン・ニューカム(Don Newcombe)を入団させた。さらにジョー・ブラック(Joe Black)、ジュニア−・ギリアム(Junior Gilliam)などニグロリーグで活躍する黒人スター選手を獲得した。ドジャースという球団の存在が黒人にとって身近な存在になって行った。ドジャースは「開拓者精神[lxxvii]」溢れるチームであり、当時のオーナー、ウォルター・オマリーは1958年に人種差別を越えて本拠地を東部(ニューヨークの下町、ブルックリン)から西海岸(ロサンゼルス)に移動している。ニューヨーク・ジャイアンツは1948年にハンク・トンプソン(Hank Thompson)とモンティ・アーヴィン(Monte Arvin)、1950年にウィリー・メイズ(Willie Mays)をとった。そして彼等はロビンソンに引けを取らない成績を残している。ロイ・キャンパネラは1951年53年55年にMVPに選ばれた。ドン・ニューカムは1949年新人王、1956年MVP、最多勝(27勝)。ジョー・ブラックは1952年新人王、1953年打点王(142打点)。モンティ・アーヴィンは打点王(121打点)。ウィリー・メイズは1951年新人王、1954年MVP、首位打者(.345)、1955年本塁打王(51本)。
ア・リーグ(アメリカンリーグ)ではそれほど積極的ではなかった。それでもクリーブランド・インディアンスが1947年にラリー・ドビー(Larry Doby)を入団させ[lxxviii]、さらに1948年には42歳のサチェル・ベイジと契約した。そのドビーの成績はロビンソンと対照的であった。入団した年の成績は、球界を代表するジョー・ゴード(Joe Gordon)がいたため、ドビーは専ら代打の役割で、結局29試合出場、32打数5安打、打点2、打率0.156に終わった。彼のデビューは1947年7月5日で、シーズン途中で試合数も少なかったという原因もあるが、黒人選手に対する期待に水をさしたかたちとなった。「傑出的なロビンソンの成績があったにもかかわらず、野球の人種統合は1947年のシーズン終了と共に、事実上行き詰まりを見せた[lxxix]」と酷評するものもいた。しかし翌年から外野手にコンバートして活躍。13年の大リーグ通算成績はロビンソンをはるかに上回った。7年連続オールスターゲーム出場し、3シーズンペナントを勝ち取る。シーズン20ホームラン以上は8回、100打点以上は5回マーク。最終的に、生涯253本塁打、969打点を記録した。そして殿堂入りも果している。日本の中日ドラゴンズでもプレーした経験もある。
ドビーはロビンソンが入団をしてから11週後にインディアンスと契約しため、よく二人は比較される。生い立ちはドビーにとって不利な立場にあった。カリフォルニア大学ロサンゼルス校(UCLA)出身で在学中3つのスポーツで全米優秀選手に選ばれたロビンソンには、全ての黒人コミュニティからの絶大なサポートがあった。しかしドビーはほとんど教育を受ける機会がなく、同じ黒人からの支持もどうしてもロビンソンに集中していた。さらに、これまでに出版されているロビンソンに関する伝記は10種類以上あるが、ドビーにまつわるものは1冊のみである。しかも自分で書いたものであった。ロビンソンと同様に人種差別に遭遇し、また残した成績はロビンソンより上であっても、マスコミや国民は先駆者であるロビンソンを称賛した。インディアンス関係者はドビーに対する評価の低さを訴えた。
1951年は黒人選手にとって最高潮の年であった。新人王には両リーグとも黒人選手が選ばれた。ナ・リーグはニューヨーク・ジャイアンツのウイリー・メイズ。ア・リーグはシカゴ・ホワイトソックスのオーレンス・ミソーノであった。また、ナ・リーグのMVPはロイ・キャムパネラである。黒人選手の実力が認められ、チームの勝利のために彼等は真に必要とされたのである。
このように黒人選手の門戸開放は順調に見えるが、メジャーリーグにおける黒人選手の占める割合が、総人口における比率と同程度の11%になったのは、ロビンソンの入団から約10年余を経てからであったのは驚きに値する[lxxx]。その背景には球団間で暗黙の協定があったからだと言われている。それは1954年までフィールド内に4人以上の黒人選手を出場させないというものであった。思えば黒人選手がメジャーリーグでプレーすることを拒むような制度は一度も存在したことはなく、このような球団経営者の暗黙の了解に左右されて来たのだ。もしアメリカ野球に人種差別が制度化されていたなら、廃止されるべき標的は絞られていたはずである。究極的に改革すべき所在がなく、「見えざる敵」が野球人種統合を遅らせたのかもしれない。ちなみに現在のメジャーリーグの人種構成比は白人69%、ヒスパニック14%、黒人が17%である[lxxxi]。
三節:MAJOR LEAGUEと公民権運動
二章の一節と二節で述べたように、ジャッキー・ロビンソンのメジャーデビュー(1947年)以来、メジャーリーグにおける人種差別撤廃は完全ではないが最終段階まで着実に進んでいたと言えよう。では、アメリカ社会のその過程はどの程度であったのだろうか。(1947年〜50年代)。
第一章六節で第二次世界大戦を契機として、黒人が自覚を強め、人種差別を批判する国際世論が高まったこと、大統領行政命令によって連邦レベルでの人種差別の禁止が行われたことを述べた。こうした状況の推移の下で、南部以外のいくつかの州では、一般の雇用において人種差別を廃止する方向に沿った制度改革が行われた。ニュージャージー州とニューヨーク州は、1945年に雇用における人種差別を禁止する法令を州法によって制定した。さらに通常、公正雇用実施法と称される法令が、マサチューセッツ州(1950)、ロードアイランド州(1952)、ミネソタ州(1955)、ミシガン州(1955)、ペンシルヴェニア州(1955)、オハイオ州(1959)、カリフォルニア州(1959)などで、相次いで制定されて行った。またこの時期にあっては例外と言えるが、1949年にコネティカット州では、たんに雇用のみならず州内の各種公共施設に関しても、全ての州民が「市民的権利」として「十分かつ平等」にこれを利用できるようにすべきとの規定が取りいれられた。
北部で改革がなされる中、南部各地では依然として「ジム・クロウ」が横行していた。駅の待合室や便所、また水飲み場や公園などの公共施設には、「白人専用」や「黒人用」と記載された掲示板が掲げられていた。また、終戦後、サウスカロライナ州では除隊直後の黒人軍曹が白人警官によって、目をえぐりとられるという卑劣な事件が発生している。これに対し、時の大統領トルーマンは、公正雇用委員会を設置するとともに、公民権に関する大統領委員会を発足させ、その検討に基づいて、1948年2月には議会に特別教書を送って公民権保護を訴え、対応した。議会はこの教書に対して行動を起さなかったが、少なくとも行政側が人種差別の問題に関して何らかの責任を認めたのは再建期以来はじめてのことであった。
その後、トルーマンは1948年に公務員や軍隊における人種差別を禁止する行政命令を発したり、1950年には最高裁が州際鉄道の食堂車における人種差別を禁止する判決を下し、南部の「ジム・クロウ」に少しずつ風穴が開いてきた。そして決定的な衝撃波として、最高裁は2つの判決を下す。
1954年に公立学校における人種分離教育を違憲とする判決(ブラウン判決)があった。カンザス州トピーカに住むリンダ・ブラウンという黒人少女が、近所にある白人だけの小学校への入学をトピーカ市教育委員会によって拒否された。そこで少女の親は全国黒人向上協会の援助を得て提訴した。それまでの合衆国の裁判所においては、1896年にルイジアナ州における客車の人種隔離を「分離しても平等」な条件が保障されていれば、合憲であるとしていた。しかしこの判決において、最高裁は白人と黒人の別学じたいが黒人児童に劣等感を植えつけ、彼らの知的発達を妨げると判定し、公教育における人種隔離そのものを違憲と判断した。この判決後、ジャッキー・ロビンソンは白人居住区に移り住み、彼の長男はただ一人の黒人生徒としてニューヨークの公立学校に通わせた。だが、これで全てが解決されたわけではなかった。大学入学を許可された黒人女性が大学を誹謗したとして退学させられたり、アーカンソー州の高校に通学しようとした黒人生徒に反対して、白人市民による暴動が発生した。南部社会における人種統合教育の実施には根強い抵抗があった。
二つ目は1956年に地方バスにおける人種隔離を違憲とする判決(バス・ボイコット運動)である。ローザ・パークスという黒人の裁縫女工が、帰宅途中のバスの中で白人に席を譲るようにとの運転手の命令を拒否したため、逮捕された。この逮捕についてアラバマ州モントゴメリーの黒人社会に知れわたり、バスのボイコット運動が組織された。市内バスの利用者の60%は黒人であったため、バスボイコットはバス会社にとって痛手であった。黒人や良心的な白人たちは、モントゴメリー改良協会を結成し、そして毎晩のように黒人協会に結集して、ボイコットの意志を固めていった。この運動の中心にはマーティン・ルーサー・キング二世がいた。彼はこの運動を人種間の闘争ではなく、正義と不正義のあいだの闘争と位置づけ、「愛によって敵に勝つ」ことを説いた。黒人教会に爆弾が投げ込まれたり、キングの家には散弾銃が撃ちこまれたりしたが、バスボイコット運動を挫折させることは出来なかった。そして、1956年11月、最高裁が地方バスの人種隔離を違憲とする判決をくだしたことによって、運動は勝利をおさめた。後にロビンソンと手を組むことになる、バス・ボイコット運動の若き指導者マーティン・ルーサー・キング二世の登場は、黒人に勇気と希望、自信を与え、公民権運動に貢献した。
これらは南部の黒人による公民権運動が部分的にせよ勝利を収めたことを意味する。だが、1950年代の公民権運動が最終的な目標に到達するまでには、また州法が地域的にも拡大し、合衆国全土で実際に成果を上げるまでには、連邦の法律として1964年の公民権法の成立と、これを勝ち取るための黒人を先頭にした広範な民衆の絶えざる闘いが必要であった。
1950年代までは人種差別制度撤廃、つまり公民権法制定までの発達段階であったことがわかる。一方メジャーリーグでは、ロビンソンが1947年にドジャース昇格。黒人選手と白人選手がともにプレーをする姿がその時にあった。さらにその年、新人王、盗塁王に輝き、1949年には最高殊勲選手に選ばれた。ロビンソンの卓越した才能が開花し、アメリカ国民のヒーローとして称賛された。メジャーリーグの門戸開放が軌道に乗り、数多くの黒人選手が入団を果した。その選手たちが1950年代に新人王、MVPなどを受賞するに至った。そして、門戸開放がメジャーリーグ全球団に及んだのが1959年。その年に黒人選手がメジャーリーグ全体に占めた割合は17.25%だった。黒人の公民権運動が高まり始め、人種差別撤廃の州法が徐々に制定されている中で、これだけの黒人がアメリカ国民に愛されていたのである。
しかし、その裏にはロビンソンを含む多くの黒人選手が受けてきた痛みがあった。殴られ、唾を吐きかけられながら、我慢の心を持って耐えつづけた。彼らにとっては、それが「公民権運動」そのものであった。アメリカ社会でも、公民権運動は長い流血の道を歩んだ。しかし、アメリカ人は、野球場で殴り合いをしたり、あるいは抱き合ったりして成長してきたのだから、その経験が実生活につながらないはずはない。1950年代、60年代の公民権法は、野球場に存在した黒人の痛みにいささか負うところがあるのだろう。
終章:おわりに
これまで論証してきてわかったことは、黒人選手の門戸開放ははっきりとした段階を経て達成されたということである。まず黒人記者の野球人種統合の努力や第二次世界大戦によって、国民の人種的偏見の意識を変化させる。それが保守的な野球機構の態度を軟化させる。そこで登場した球団オーナーのブランチ・リッキーがいち早く黒人選手との契約を交わした。こうして門戸開放の土台は築き上げられた。その後のジャッキー・ロビンソンの活躍によって、門戸開放は軌道にのり、続々と黒人選手が続いていったのである。
このような野球人種統合のプロセスの中で思うのは、結局のところ球団経営者のブランチ・リッキーの戦略である「商業主義」が大きな役割を果たしていたのではないかということである。社会的問題としての人種差別は、野球においては「カネ」への魅力から撤廃されたのである。利益追求が球団の根本的な方向ベクトルであり、白人だけでは儲からないと思えば黒人を参入させるのは当たり前なことである。それはアメリカの伝統でもある資本主義の本質である。経営者の予期しなかったニグロリーグの盛況、そして北部の黒人人口の増加は思いがけないビジネスチャンスであった。黒人の商品としての価値を見出し、球団経営に新たな経営体制を与えた。もちろんブランチ・リッキーの人種差別に反対するしたたかな感情は忘れてはならないが、商業主義のための黒人選手との契約そして門戸開放は、経営戦略の一つなのである。
このように考えると、門戸開放はタイミング良く始まったとも言うことが出来る。ニグロリーグの盛況と北部の黒人人口の増加から、リッキーは黒人をメジャーリーグに参入させても金銭的メリットが得られると判断した。それはまさに今しか下せない判断であった。即座に人種差別制度の崩壊が起きた。この論文の意義である「野球の人種統合の動きは、アメリカ社会のそれよりも若干早かった」のは、野球の方が人種統合することの意味(金銭的メリット)に早く気付き、その準備が整えられたからであった。
そうは言うものの、門戸開放の功労者としてロビンソンの活躍を見逃すことが出来ないのも事実である。彼は1956年引退後野球界に残らず、黒人活動家として再スタートし、公民権運動に加わった。1957年、NAACP(全米黒人地位向上協会)に所属して、自由募金運動の全国委員長として資金集めに奔走する。以後十年間、ジャッキー・ロビンソンはNAACPの主要メンバーとして人種差別問題に取り組んだ。また、理念として人種撤廃を唱える民主党の、例えばジョン・F・ケネディではなく、具体的なところからこの問題に手をつけていた共和党の大統領候補ネルソン・ロックフェラーを支持した。しかし、同じ共和党のリチャード・ニクソンとは対立した。60年代のいわゆる政治闘争の時代には急進派の黒人運動指導者マルコムXと対立した。黒人の覇権を主張し、黒人だけの共和国を唱えるマルコムXの考えにはついていけなかった。人種のるつぼであるアメリカでどうすれば人種差別がなくなるか、それを常識派の感覚で追い求めたのがロビンソンであった[lxxxii]。
1972年、心臓病のため53歳の若さで急死したロビンソンは、今でも数多くの人物から賞賛されている。1997年4月15日、ロビンソンのデビュー50周年式典がニューヨークで行われた。その式でクリントン大統領はロビンソンの妻レイチェルを隣にしながら演説した。「ロビンソンは50年前野球とアメリカが直面している問題を変えました。いろいろな人が共に働き、すべての人にチャンスが与えられたとき、アメリカはより強く、豊かな国になれたのです。ロビンソンはまさしくパイオニアとして、その道を切り開いたのでした。[lxxxiii]」
ホームラン王のハンク・アーロンは「ジャッキーがいなかったら、我々がメジャーリーグで活躍できるのはあと10年遅れたことでしょう。彼がいなければ私は755本のホームランを打つことはできませんでした[lxxxiv]」と語っている。
ロビンソンがスポーツ界全体に影響を与えたと言えるのは、このタイガー・ウッズの言葉で証明される。最後にそれを紹介したい。黒人の父とタイ人の母を持つタイガー・ウッズは、黒人プレーヤーとしては初めてマスターズ・トーナメントを制覇したのである。そこでのコメント。「オーガスタを歩いているとき、ジャッキーのことをずっと思いつづけていました。[lxxxv]」
[i] アメリカのプロ野球の歴史は古く、アメリカ史上最大の戦争である「南北戦争」が終結した4年後の1869年に、最初のプロ野球チーム「シンシナティ・レッドストッキングス(レッズ)」が誕生したとされている。そのレッドストッキングスが全米各地に遠征して、地元のアマチュア野球チームと戦い続け、1870年6月14日に初の敗北を喫するまで130連勝し、圧倒的な強さを誇った。
その後、全米各都市でプロ野球球団が設立され、1876年に「ナショナル・リーグ」、1901年に「アメリカン・リーグ」が創設され、1903年には「ワールド・シリーズ」が開幕し、いわゆる「メジャーリーグ」の幕が開けられた。
[ii] 落合信彦『もっともっとアメリカ』(小学館文庫、1998年)117頁
[iii] http://www.sc.gp.u-tokai.ac.jp/kuboken/SP/dist/sp-dist-2-b.html
[iv] 五十嵐武士『アメリカの社会と政治』(有斐閣ブックス、1997年)137頁
[v] 本田創造『アメリカ黒人の歴史』(岩波新書、1991年)
[vi] アメリカ野球の仕組みは一番上がメジャーリーグ、その下がマイナーリーグで順に3A、2A、1A、さらにルーキーリーグのピラミッド型となっている
[vii] 奴隷制解消後、アメリカ南部に生まれた小作人
[viii] ニグロリーグについて簡単に述べる。ニグロリーグは「分離されたアメリカ」の時代に、黒人選手の叶わない機会を自ら作りだそうという意図により誕生した[viii]。どの組織にも属さない独立プロ野球チームのオーナーたちの協議の結果、シカゴ・アメリカン・ジャイアンツのオーナー、アンドリュー・ルーブ・フォスターが1920年に設立した。最初は8つのチームでスタートした。以前にも黒人のみのチームやリーグは誕生したが、1シーズン続けば良いほどで、淘汰と再編成が繰り返されていた。1960年にニグロリーグは完全消滅している。
[ix] Lamb Chris&Glen L Bleske, “Nine,” The Press And The Integration Of Baseball,p49
[x] Coretta Scott King, Jackie Robinson,p15
[xi] 山際淳二「ジャッキー・ロビンソン」『ケネディの時代』161頁
[xii] 山際、前掲書、163頁
[xiii] 佐山和夫『黒人野球のヒーローたち』(中公新書、1994年)78頁
[xiv] 山際、前掲書、164頁
[xv] 山際、前掲書、165頁
[xvi] 山際、前掲書、166頁
[xvii] Lamb Chris,前掲書、50頁
[xviii] Lamb Chris,前掲書、50頁
[xix]Lamb Chris,前掲書、50頁
[xx] Jules Tygiel, Baseball’s Great Experiment, Oxford University Press,1983
[xxi] Jules Tygiel
[xxii] Lamb Chris,前掲書、52頁
[xxiii] Lamb Chris,前掲書、52頁
[xxiv] Jules Tygiel
[xxv] Jules Tygiel
[xxvi] 大石裕『コミュニケーション研究』(慶應義塾大学出版会、1998年)65頁
[xxvii] 大石、前掲書、67頁
[xxviii] 大石、前掲書、57頁
[xxix] 佐山、前掲書『黒人野球のヒーローたち』、168頁
[xxx] 山際、前掲書、162頁
[xxxi] 有賀貞、大下尚一、志邨晃佑、平野孝『アメリカ史2』(山川出版社、1993年)311頁
[xxxii] 佐山、前掲書『黒人野球のヒーローたち』、168頁
[xxxiii] 佐山、前掲書『黒人野球のヒーローたち』、168頁
[xxxiv]山際、前掲書、163頁
[xxxv] 前掲書「日米野球100年」毎日新聞社,p177
[xxxvi] 前掲書「日米野球100年」毎日新聞社,p177
[xxxvii] 前掲書「日米野球100年」毎日新聞社,p177
[xxxviii] 前掲書「日米野球100年」毎日新聞社,p177
[xxxix] Jules Tygiel
[xl] http://www.asahi-net.or.jp/~KP7S-OOTK/NEGRO/INTRO.html
[xli] Lamb Chris,p55
[xlii] Lamb Chris,p55
[xliii] Lamb Chris,p55
[xliv] Lamb Chris,p55
[xlv] Jules Tygiel
[xlvi] Jules Tygiel
[xlvii] Lamb Chris,p55
[xlviii] Jules Tygiel
[xlix] Jules Tygiel
[l] シーモア・M・リプセット『アメリカ例外論』(明石書店、1999年)161頁
[li] リプセット、前掲書、164頁
[lii] 阿部斎『北アメリカ』(自由国民社、1999年)22頁
[liii] アメリカン・リーグで優勝した「シカゴ・ホワイトソックス」の選手が賭博師と組んで八百長に関与したという噂が全米に広まり、コミッショナーなどで構成された調査団の結果を基に、天才強打者といわれた「シューレス・ジョー・ジャクソン」をはじめ、8人の選手が球界から永久追放するという処分が下された。これによって、大リーグは社会的な信用を大きく逸した。
[liv] Jules Tygiel
[lv] Lamb Chris,p57
[lvi] Jules Tygiel
[lvii] 佐山、前掲書『黒人野球のヒーローたち』、170頁
[lviii] http://www.wake.ac.jp
[lix] Jules Tygiel
[lx] 本田、前掲書、169頁
[lxi] 本田、前掲書、169頁
[lxii] Jules Tygiel
[lxiii] 佐山、前掲書『黒人野球のヒーローたち』、169頁
[lxiv] 有賀、前掲書、380頁
[lxv] 佐山、前掲書『黒人野球のヒーローたち』、178頁
[lxvi] 佐山、前掲書『黒人野球のヒーローたち』、178頁
[lxvii] http://www.dodgers.com/
[lxviii] 山際、前掲書、171頁
[lxix] http://www.cmgww.com/baseball/jackie/index.html
[lxx] kai.ac.jp/kubokenhttp://www.sc.gp.u-to/SP/dist/sp-dist-2-b.html
[lxxi] http://www.dodgers.com/
[lxxii] 佐山、前掲書『黒人野球のヒーローたち』、181頁
[lxxiii] 山際、前掲書、168頁
[lxxiv] 山際、前掲書、173頁
[lxxv] http://www.cmgww.com/baseball/jackie/index.html
[lxxvi] http://www.urc.co.jp/taikendan0628.htm
[lxxvii] その精神は息子ピーター・オマリーが受け継ぎ、ドジャースは最も国際化が進んだチームで、アメリカ国籍外選手が約50%を占めている。
[lxxviii] http://www.asahi-net.or.jp/~KP7S-OOTK/GAIJIN/DOBY.html
[lxxix] Jules Tygiel
[lxxx] http://www.cmgww.com/baseball/jackie/index.html
[lxxxi] 落合、前掲書、195頁
[lxxxii] 山際、前掲書、178頁
[lxxxiii] http://www.urc.co.jp/taikendan0628.htm
[lxxxiv] http://www.urc.co.jp/taikendan0628.htm
[lxxxv] http://www.sankei.co.jp/databox/paper/9704/html
卒論を書き終えて
卒論を書き終えた瞬間、鳥肌が立った。そして、心地よい爽快感が全身に漂い、自分の魂が抜けたような気分になった。ところが次の瞬間、そんな爽やかさとは裏腹に、なんとも言えない寂しさが襲ってきたのである。今の気持ちは「卒論が終わったぁ」というよりも「卒論が終わってしまった」である。そこには卒論を終えた充実感や満足感はもはやなく、誰もいないアパートにぽつんと感慨を抱く自分がそこにあった。窓から見える薄暗い空、灰皿いっぱいのタバコ、散らかった部屋、どれも見なれたはずなのに、今日だけは違ったものに見え、新鮮ささえ感じさせる。卒論っていったい何なんだろう。それが自分の意識の裏側で何かを感じさせている。
さて、卒論の感想であるが、まずなぜこのテーマにしたのかを初めに述べておこう。私が小学6年の頃、ある番組でジャッキー・ロビンソンの野球人生について放送していた。私も野球をしていたために、その内容は衝撃的なものだった。「黒人は野球をやりたくても、仲間に入れてもらえなかった」という事実は、日本生まれで日本育ちの私にとって疑問であった。アメリカの歴史など知るはずもなく、その理由さえわからなかった。その後、中学・高校で世界史を学び、人種に対する理解を深めた。大学に入り、ゼミ選択の際にはロビンソンのことを知りたくてこのゼミを選び、その時から卒論のテーマは決まっていた。だからこの論文に対する熱意は誰よりも強かったのではないだろうか。
しかし、その熱意はこの論文に伝わらなかった。心は前進するが、体がついてこない。試合に勝ったが、勝負に負けた?。先生から送られた卒論訂正チェックリストで、15個中10個チェックされていた。「表現に問題が多い」「文章が稚拙」「わかりにくい」「表現が単調」…。いったい私はどんな学生なのか。その前に私は何人なのか、「俺は日本人」「俺は日本人」「俺は日本人」自問自答をくりかえす日々が続いた。かなり完成度の高い論文と自負していたのだが…。試合は1対1、9回ランナー満塁の場面で、ボークをしてサヨナラ負けをした気分であった。一瞬にしてまわりが真っ暗になる。涙など出ない。茫然自失の状態である。マウンドに倒れこむ増田卓。そこで、思いがけず出た言葉、「私,思う、日本人」。日本語を話す外国人になっていた。
そんな私がこの論文で最も苦しめられたのが、英語の論文や自伝の通読である。先行研究を相対的に比べられれば、もっと内容が濃くなったのかもしれない。思えばゼミ合宿で、英訳の発表する順番が回ってきた。文頭に「BUT」があったので、そこを「しかし」と訳した。その瞬間、「わぁはっは〜」と今までこれほどウケたことはないだろう、豪快な笑いが起こった。そこで発した私の言い訳「つかみだよ、つかみ!」。当然なぜ笑われていたのかは理解していない。ちなみに今でもわからない。
最後に、この論文を書き終わってメジャーリーグに対する興味・関心が非常に高まった。多人種を抱えるメジャーに、今年イチローも加わった。世界最高峰のメジャーで、アメリカン・ドリームを夢見る彼らをこれからも応援したい。そして、いつか自分も……。