調査報道の光と影

     〜ポスト・ウォーターゲートをどう生き抜くか〜

                           倉品美佐子

序章

第一章     調査報道の軌跡

第一節「情報の自由」法とコンピュータ補助報道

第二節 The Muckrakers

第二章     調査報道の持つ力

第一節 ウォーターゲートの余韻

    第二節 アジェンダ構築とインパクト

第三章 調査報道の危機    

第一節     情報操作の危険性

第二節     名誉毀損訴訟

第三節     見えざる手

終章

 

序章

 フリープレスの国アメリカで生まれた調査報道とは何か。他の報道と比べると内容が豊富で、詳細で、よく調べてあり、深く追求し、全体としての真実に近づく機会が大きく、恐ろしく時間と費用のかかるなどといった点が挙げられるが、調査報道自体はこれでは説明できない。むしろ方法論の云々よりも、その目的に特徴がある。調査報道は、アメリカン・プレスの伝統のひとつである改革者の熱情、「社会と国家によいもの、それはよきジャーナリズムである」とする哲学に根ざしている。

 トマス・ジェファーソンの「新聞のない政府か、政府のない新聞のどちらかを選ぶとすれば後者をとる」という言葉に象徴されるようにアメリカはメディアというものを重視し、憲法修正第一条や情報の自由法の制定でこれを貫いてきた。[1]このような温床で調査報道は守られ、アメリカの調査報道は他の国々の目指すジャーナリズムとして浸透していった。調査報道はいわば、権力のチェック機構を標榜とするアメリカのジャーナリズムの神髄であり、アメリカの民主主義の根底を支えてきたものと言える。

 その輝ける歴史が頂点に達したのは、アメリカの大統領を任期途中にして辞任に追い込んだ1973−74年のウォーターゲート報道であり、これに刺激を受け日本でも、田中角栄を首相の座から引きずりおろした立花隆「田中角栄研究」をはじめ、70年代半ばから様々な調査報道の試みがなされるようになっている。このウォーターゲートというあまりにもセンセーショナルな出来事こそが、調査報道を「改革のジャーナリズム」に変えたに他ならない。そして時代の流れとともに、調査報道は今またそのあり方を問われている。 

 本稿は70年代から21世紀を迎えた現在にいたるまでの調査報道の光と影の部分を分析し、この先の調査報道のありかたについて言及していく流れになっている。

 本稿のオリジナリティは調査報道の持つ光と影の両面に着目したことにある。ウォーターゲート以降、調査報道についての研究は主に、その光の部分だけが取り上げられることが多かった。調査報道の黄金期、社会や政策にインパクトをもたらす事のできる力について分析しつつも、この先の時代には適応しづらいという闇の部分についての問題を提起する事で、今後の調査報道の在り方を探って行こうとする目的を掲げたことは挑戦でもある。調査報道についての研究は、殆どが一次資料であり調査報道記者による調査報道の方法論についての研究が大半を占めている。調査報道にたずさわる者が調査報道の光の部分に着目する事はあっても、闇の部分に焦点をあてることは少ない。光と闇の両面を捉えて、第三者の目から調査報道の行く末を分析したことは本稿の大きな特徴ではないだろうか。

 調査報道の根底にはアメリカ人がこよなく愛する合衆国憲法修正第一条が存在する。この憲法修正第一条はアメリカの建国精神を表し、また今後アメリカがどうあるべきかを最も簡潔に表したものであると思う。大げさに言えば、調査報道の歴史がそのままアメリカの歴史であるといえるだろう。日本ではほとんど耳にする事のない調査報道について研究する事はアメリカ人の国民性を垣間見ることにつながり、アメリカ研究として成り立つのである。

 代表的な先行研究には調査報道記者であるデビットL.プロテスによる”The Journalism of Outrage”を挙げる事ができる。プロテスの著書は調査報道の持つ影響力、政策過程のフィールドにおいてのインパクトについて数々のケーススタディを分析している。だが彼の研究は、時代背景やウォーターゲートのインパクトによって変化しつつある調査報道には触れておらず、調査報道の絶対性を訴えたものになっている。つまり光の部分にのみ焦点を当てており、闇の部分については言及しておらず、この先の調査報道のあり方についても楽観的に、改革者としてのスタイルを貫き通せば良いと示唆するものであった。本論文は、プロテスの取り上げなかった闇の部分が今後の調査報道の在り方を左右するのだということについても述べているというところで存在理由を主張する事ができる。

 調査報道の生まれたアメリカでも調査報道についての研究はそれほどなされていないのが現状である。ウォーターゲートとともにブームが去ったのだという事がここでも見て取ることができる。日本国内で調査報道についての研究書は、下山進の「アメリカ・ジャーナリズム」が最も代表的であるが、その数は極めて少ない。この本も調査報道が変化していくジャーナリズムであるという見方はしておらず、この先調査報道がどうやって過酷な時代を生き抜いていくかについては触れていない。本稿では調査報道の光と影の両側面を見ていくことで今後調査報道がどうあるべきかについてのヒントを得ることが出来たらと思っている。

 第一章ではまず調査報道とはなにか、そして調査報道がアメリカで根付いた理由について述べることとなる。第二章では調査報道の光の部分に焦点をあてる。ウォーターゲート以降、羨望のまなざしを浴びる事となった調査報道の光の側面をケーススタディを通して紹介していく。第三章では調査報道の危機と称して、調査報道の影の部分に触れていき、そして終章で本論文の目的でもある、これから求められる調査報道の在るべき姿について述べて結論を結びたい。

 

第一章 調査報道の軌跡

第一節 「情報の自由」法とコンピューター補助報道

 調査報道が何かを知らない人に対して調査報道の概要を説明しろと言われたならば、とにかく調査に膨大な時間と気力をかけて調査する報道であると応えるだろう。調査報道は何ページにもわたったり、テレビシリーズ化されるほどの情報を提供する事で真実を追究していく報道スタイルをとるため、あらゆる資料から細かい事実までも徹底的に調べ上げ、目を通す必要がある。調査報道の記者たちが何においても優先すべき行動、もっとも重要な事は情報収集なのである。記者たちはおよそ全てのものに記録が存在することを知っている。そしてこれら情報を集める際に一般的な公共記録に限定して情報収集をすべきでないことも知っている。それは記者たちが私的と判断されるであろう記録も調査するにあたうことを認識しているからである。そして記者たちは記録こそがもっとも重要な証拠になるということも知っているからである。記者たちが目的を達成するために必要となる記録はひとつではなく、いくつも収集して見比べる必然性がある。ひとつの記録は別の記録の収集へとリンクし、大量の情報は不可視であった、パターンやつながりといったものを明らかにしていく。

 調査報道において、大切なのは情報収集であるということを主張してきたが、次になぜこの調査報道がアメリカにおいて根付いたのかを明らかにしていきたい。それはアメリカでは、法によって情報の流れが確保されていることにある。

「人民が情報をもたず、あるいは人民が情報を獲得する手段をもたない人民の政府は、道化芝居の序幕か悲劇の序幕にすぎず、あるいは、その両方であるかもしれない。知識は永遠に無知を支配するであろう。そして、自らが統治者たらんと欲する人民は、知識の与える力で自らを武装しなければならない」。[2]

 アメリカ建国の父の一人であり、第4代大統領でもあるジェームズ・マジソンのしばしば引用される上の言葉は、国民が自分たちの政府が何をしようとしているのかを知ることが許されなければ、民主主義は機能し得ないという原則を表すものである。

 開かれた政府に対するアメリカ初期の信条は、ほぼ2世紀にわたってアメリカ民主主義がすぐれていることの一つの証明であり続けた。しかしながら、そのことはアメリカ合衆国政府が常にその信条を守ってきた事を意味するのではなく、また常にあらゆる事項について公衆に完全に知らせるべきであることを意味するものでもない。政府機能の中には、適切に遂行するためには、また最善の国家利益を守るうえから、ある程度の秘密を要求する事が正当と考えられるものがある。そのような場合には、政府が何をしようとしているのかを知る国民の権利よりも、賢明かつ効果的にそれらの事務を執行しなければならない政府の必要が優先される。もちろん政府が秘密にしなければならない必要性が、いかなる場合に正当なものとされるかを確認する方法が問題ではある。さらに、たとえある程度の秘密が正当なものとして認められるとしても、秘密のベールがあまりにも大きな分野を覆いつくすことがないようにするため、公衆の政府情報へのアクセス権との適度なバランスを図るという問題は依然として残る。

T.「情報の自由」法

 調査報道にたずさわる者が憲法修正一条の次に重んじるのがこの「情報の自由」法と言われる法の数々である。アメリカの州はそれぞれ州政府および地方自治体によって保有されている情報へのパブリック・アクセスに関して、自らの政策を樹立する機能を有している。カリフォルニア州は1952年、ブラウン法を制定し、現代の情報自由法制定への途をひらいた。この包括的な立法は政府記録へのアクセスだけでなく、政府の諸々の会議の公開をうながす諸規定をも含んでいた。その後多くの週が多年にわたってカリフォルニア州の先例を追うこととなった。ある州は会議公開法を制定し、ある州は記録公開法を制定したが、大多数の州は両種の制定法を作った。1974年の末までに5分の3の州が法令州に包括的な「情報の自由」法を搭載した。以下に記載するのは「情報の自由」法の一般的な特色である。

1)会議公開法:(Open-meetings laws) 別名「Sunshine Law」とも呼ばれ、これらの法は公共の委員会や評議会、教育委員会や他の公共委員会が非公開で公務を執行することを禁じている。これらは多くの場合、会議の告知をしなければならないなどの最低限の要求を提示している。いくつかの会議公開法は明白であれ暗黙であれ秘密会議などと称して一般大衆を排除した会議を許し、法の一部を無効にさせてしまっている。[3]

2)記録公開法:(Open-records laws)これらの法は市民の申請があった場合、州が媒介したあらゆる公式記録は全て公衆の閲覧、複写が可能であると定めたものである。だがこれらの法の多くには落とし穴があり、記録の種類によって、特に医療、犯罪調査、公式取引、などは例外とされている場合が多い。多くの法では唯一の公開記録は立法・財政に限られてしまっている。重要な記録は備忘録や、労働証明書やその他「調査する価値のある」記録に隠されたままなのである。[4]

3)情報自由法:連邦レベルでみれば、記者たちにとって情報自由法(Freedom Of Information Act = FOIA)がもっとも代表的で合法な武器となる。FOIAは大統領命令によって適切に秘密保持された秘密貿易貿易、外交政策、医療報告、行政機関の内部的な人事規則および慣行以外の連邦文書に対する公衆のアクセス権を認めている。行政庁は正式な請求を受けてから記録を公衆に提供するまでの期間が定められており、資料の公開を不当に拒む行政庁にたいしては罰則を規定している。また裁判書にFOIAに基づく記録に対する自らの権利を立証するにあたって「実質的に優勢な」当事者に「合理的な弁護士費用およびその他の訴訟費用」を与える裁量を賦与している。[5]

 アメリカ合衆国において報道機関の自由は合衆国憲法修正第一条の明文規定によって保護されている。この憲法上の保護によって新聞や雑誌は法廷の場において(1)公表に対して事前の制限を課そうとする政府の試み、(2)裁判の妨害の主張に対する侮辱罪の請求、(3)公務員に対する批評に対しての文書毀損罪訴訟および(4)政治的候補者についての新聞の論説に対する本人の反論の公表を求める反論憲法を打ち負かす事ができたのである。[6]これらの、そしてその他の事件において、合衆国連邦最高裁判所の見解は、憲法上の保護は絶対的なものではありえない、すなわち憲法は報道機関を考えられるあらゆる状況のもとで保護するわけではない事を明かにしている。しかし憲法上の保護は大変強固なもので、報道機関が積極的に政府活動を詮索し、たとえどんなに政府を悩ませる事になろうともそこで発見したものをアメリカの公衆に伝える事を可能とする環境を助長する。報道機関によって果たされるこの重大な機能を示す事例は、タイムズとポストによるペンタゴン・ペーパーの公表、およびポストによるウォーターゲート・スキャンダルの調査報道に見ることができる。

 これまで情報の自由化の拡大を求めるジャーナリスト達のキャンペーンは様々な局面を展開させてきた。ジャーナリズムにおける代表的な団体は皆、ジャーナリスト達の権利を擁護しようと、秘匿すべき情報源を明らかにすることを拒絶する「シールド法」を増やそうとしてきた。これらの努力は会議公開法、記録公開法の普及など政府が何をしようとしているのかを国民が知る権利を支えてきた。The Society of Professional Journalists, Sigma Delta Chi, American Society of Newspaper Editors, American Newspaper Publishers Association, the Reporters’ Committee for Freedom of the Press などの団体はパブリック・アクセスやセンサーシップ関するに新しい立法提案や裁判判決を監視し、多くの調査報道記者たちはこれらの団体とともに運動を共にしている。[7]

 ニュースメディアは連邦議会にFOIAを制定するように働きかける際には役立ったけれども、彼らはニュースを収集する過程においてはFOIAを直接利用することは目だって多くはない。FOIAが制定されてから4年後にAssociated Press Managing Editors Associationによっておこなわれた調査によると123人の回答者のうち、わずか16人のみが情報公開を拒む行政庁にFOIAを利用、又は利用すると脅したことがあると答えたに過ぎなかった。[8]このFOIAの無視は、おそらくニュース価値のある出来事を日々報道する事を要求されている企業としての本質に由来するのであろう。典型的なところを挙げると、アクセスを公式手続きによって求めるには時間が足りない。記者たちは通常、当該情報に関してすすんで議論しようとする学識経験者を見出す事ができ、たとえやや正確さを欠くところがあるとしても、ことの顛末をすみやかに引き出す事ができる。だが情報公開法の利用は、コンピューターの普及とともに徐々に増えつつある。そしてこのコンピューターが、アメリカの伝統的な調査報道の手法を変えつつある。

U.コンピューター補助報道

 最近ではコンピューターを導入して取材されている報道の数々が注目を浴びている。このコンピューター補助報道(Computer Assisted Reporting=CAR)のメリットは、世の中のトレンドや、パターン、各要素の相関関係を膨大なデータをもとに短時間で分析できる点である。情報自由法が公開している行政情報は、人口統計から犯罪データまでインターネットやCD−ROMで行われるようになっているが、こうした電子情報は表計算やデータベースのソフトウェアに落とし込めるため、項目別にまとめたり、キーワード検索で必要な情報だけを取り出すなど簡単に加工ができる。そのため、手作業では難しかった数百万件単位のデータを集めて分析する事によって社会の動きをより正確に把握する事ができるようになり、調査報道に深みを与える事が可能になった。政治献金と通過した法案の相関関係を分析したインディアナポリス・スター&ニュース紙、ガン発生率の高い地域とそこに住む人のライフスタイルの特徴を検証したニュースデイ紙、統一試験の成績と親の教育の関与、教師の質、貧困度などの関係を分析したデトロイト・フリープレス紙、環境データを使って州民の大半が連邦政府の基準を20倍も上回る空気汚染地区にすんでいることを明らかにしたレコード紙など、好例は数え切れない。[9]

 こうした手法はここ10年ほどの間に浸透し、今では大手新聞社に「コンピューター補助記者」あるいは「データベース編集者」と呼ばれるコンピューター分析の専門家がいるのは珍しくない。一般記者の間でもデータ分析への関心は高まっており、日頃から関心分野のデータベースを独自に構築するなど、コンピューターを活用する記者が増えている。最近ではテレビ局のニュース部門でも取り入れられるようになり、ジャーナリストを養成するジャーナリズムスクールでもCARは定番教科に名を連ねるほどだ。

 オマハ・ワールドヘラルド紙は、事件が起こった時にだけ報道が集中する従来の犯罪報道への反省から長期的展望に立って過去に地域で起きた犯罪の傾向を分析し、犯罪を減らすための解決策まで提示する新しいタイプの報道を試みた。特集記事では、情報公開法を使って請求した過去7年分の犯罪情報をデータベース化し、犯罪別、地区別、発生年別などに項目を分類して犯罪多発地区はどこか、犯罪の原因は何かなどを細かく分析した。[10]

 これまで専門家のコメントを引用してその事柄に対する答えとしていたのがCARによって記者自身が仮説を立て、自身の手で科学的に分析した上で、独自の答えを導き出すという新しい調査報道の可能性をコンピューターは拓いたのである。

 

第二節 The Muckrakers

 1906年、時の大統領セオドア・ローズベルトは政府の発表する裏の事、企業の発表する輝かしい社史の裏面を暴露する調査報道記者たちを「泥かきを男持った男たち(The men with the Muckrake)」と形容した。ルーズベルトは泥をかきすぎることの危険、その行き過ぎを懸念してMuckrakeという言葉を使ったのだが、名指しされたジャーナリスト達はむしろ名誉な事と感じ、以後調査報道記者たちを「泥かき屋」と称する事になった。 

T.代表的なジャーナリスト

 新聞雑誌連名のコラムニスト、ジャック・アンダーソンはセンセーションを巻き起こす使命から調査報道記者になったと語っている。自らを「政府の番犬」と呼び、彼のチームは常に暴かれるべき政府高官の悪事を詮索している。だが1972年に民主党の副大統領候補として選挙から退いたトーマス・イーグルトン上院議員を飲酒運転で書きたてた事に関してはアンダーソンは過ちであったと謝罪せざるをえなかった。だが彼は多くの政治家を誠実にさせているとワシントンで評価されている。[11]

 レジスター・トリビューン紙のトップ記者であるクラーク・モーレンホフはシャーマン・アダムスやロバート・ベーカーなど大統領側近についての調査報道で活躍した。[12]

 ペンタゴン・ペーパーズを手に入れたニール・シーハンは当時この文書を出版する権利があり、国民には知る権利があると訴え反論した。憲法修正第一条は、これを保証し、彼には報道する義務があるとし、その後も彼はこの原則を貫き通し調査報道を続けた。[13]

 男性ばかりではなく、スターニュース紙のミリアム・オッテンバーグやシカゴ・デイリーニュース紙のルイース・ウィルといった女性記者もそれぞれ、犯罪、少年ギャング、避妊などのフィールドで男性に負けない活躍を見せている。[14]

U.IREについて

 ウォーターゲート事件を世に知らしめた記者のウッドワードとバーンスタインは国民的英雄となり、当時若者の多くが調査報道記者になることを夢みて全米のジャーナリズムスクールに志望者が殺到した。こうしたつけ刃の調査報道ブームの中で調査報道に手をつけ始めた記者たちは、実は基礎的な情報の取り方、情報源の開拓方法、政府資料の請求の仕方などがわかっておらず、右往左往しているのが現状だった。そして同時期をして、IREが誕生した。Investigative Reporters and Editors (IRE= 調査報道編集者記者会議)は調査報道を伝統とするアメリカのジャーナリズムが生んだジャーナリストの集団である。記者にはそれぞれ得意分野がある。その分野に詳しい記者が、他の記者に自分の専門分野の情報と取材テクニックを交換するという趣旨でIREは誕生し、現在、全米の約3200人以上のジャーナリストが加盟し、点に四回の大会を全米の各地で開いている。[15]いわば記者同士がノウハウを交換し合う場を持つという事はジャーナリズムにとって大変重要なことである。というのは調査報道は様々な分野にわたる専門的な知識を組み合わせていくことで謎がとけることが多いからである。IREの講座で記者たちが教える事は、何処にどんな種類が登録されているか、何処のデータベースの情報が豊富であるか、この場合は州政府のこの課に聞くといいなどとごく基礎的なことである。だが実はこの基礎的な事が大変重要なのであって、自分の取ってきた情報を政府や企業の公開されている資料で裏付けていくことが可能になるわけである。しばしば記者は、宝の山がそこにある事を知らずに取材を諦めてしまうが、そうならないようIREでは絶えずお互いの専門分野のテクニックを教えあっているのである。日本の場合、記者はその取材テクニックを先輩から徒弟制度の中で覚えていく為、誰にでも公開されているソースでさえ他の記者に教えるのを嫌がる傾向がある。この点アメリカの記者は、互いにその情報とテクニックを交換する事で、無駄をはぶき、常に創造的な取材を試みようとしている。IREの場では本当に重要な個人的ニュースソースは教えることはない。しかし、そこに行きつく前段階の誰もに開示されている情報については、何処に行けば何があるかを教え合っているのである。

V.調査報道団体

 調査報道団体は調査報道の記者を雇う出版者やスポンサーとは大きく異なり、調査報道だけを報道の神髄とし、団体の存在理由とする。調査報道に伝統のあるシカゴのBetter Government Association(BGA)はテレビや新聞社をパートナーに腐敗を暴き、確実な地位と資産ベースを七〇年代までに築く事ができた。[16]Fund for Investigative Journalism(FIJ)はBGAと違って、調査報道記者は抱えておらず、フリーの記者の為に調査費用を提供する団体である。[17]保守的なジャーナリストたちによって立ち上げられたFund for Objective News Reporting(FONR)は保守寄りの記者たちに政府の腐敗や左翼団体の調査を促がす費用を提供してきた。[18]

 調査報道記者たちは世論を動かし政策過程においても大きなインパクトをもたらす事ができる。こうした記者たちが様々な調査報道団体を通して収集的に仕事をするとその力は倍増する。こうした団体がさらに他の団体と資金、調査、執筆の協力をするとその影響力ははかりしれない。調査報道はイデオロギー的な偏りがあってはいけないとされているが反面、記者たちは企業や政府に懐疑的であることが義務づけられている。そしてこうした現状の改革を求める声と、戦略的な協力やトレーニングを通して調査報道団体は政策過程において大きな影響力をもつに至った。

 

第二章 調査報道の持つ力

第一節 ウォーターゲートの余韻

 調査報道の輝かしい歴史の頂点としてまっさきに挙げる事ができるのがウォーターゲート報道である。1972年6月の事件からニクソンの辞任に至るまでの2年の間、調査報道が巨大な権力を相手にして容易ならざる戦いを挑んでいる姿からは緊張感が感じ取れた。ウォーターゲートほど劇的ではなかったが、ニューヨークタイムズが先人を切った国防総省のベトナム秘密報告文書(ペンタゴン・ペーパーズ)も同時期の調査報道の軌跡として挙げることができる。この事件の判決で、ブラック判事は「修正第一条で建国の父たちは、自由な新聞にわが国のデモクラシーにおける不可欠の役割を果すよう保護を与えた。新聞は支配者ではなく、被支配者に奉仕すべきものとされた。新聞を検閲する政府の権力は、新聞が永遠に自由に政府を咎めうるようにするため廃止された。新聞は政府の秘密を暴き、国民に知らせるため保護されている。自由にして抑制されない新聞だけが、政府の欺きを効果的に暴露できる」という名判決を残している。[19]

 ベトナム戦争の忌まわしい実態から疎外されていたのは議会だけでなく言論でもあったが、この事件後から政府の秘密を追及する力が盛り上がり、このはずみがウォーターゲート事件に発展していった。

 70年代初めに相次いで起きたこの二つの事件は、調査報道の歴史上でもきわめて大きな意味を持っている。第一にそれは、調査報道の持つ力の大きさが改めて確かめられたことである。大統領府を巻き込んだ犯罪に果敢に立ち向かい、大統領を辞任にまで追い詰めたメディアの力をアメリカ国民だけではなく、報道の仕事に携るジャーナリスト自身が思い知ったはずである。これが調査報道記者の自信を強めた事は言うまでもない。

 第二に、報道の自由も、国民の知る権利もメディア側が前向きに戦って初めて勝ち取れるものである事を二つの出来事は教えてくれた。いずれの事件でも政府はメディアに対して、真相を隠すために様々な手段を用いて報道を妨げようと企てた。仮に、「ワシントンポスト」や「ニューヨークタイムズ」の調査報道がそうした政府側の圧力に屈していたとしたら、アメリカのその後の歴史は少なからず様子が変わっていたかもしれない。

 第三に結果として調査報道はこの二つの事件で国を揺るがす大きな力を発揮したとはいえ、一つ選択を誤れば報道の自由を自ら放棄し、あるいは国民の信頼を失いかねない危うさと脆さがメディアにはあることも示してくれた。二つの事件の報道に関してのちに書かれたいくつもの内幕をみると、「ポスト」も「タイムズ」もそれぞれの報道を進めるにあたって、迷いや不安、ためらいや恐れと常に戦わなければならなかたったことが分かる。だが彼らは政府の活動を監視し、権力からの圧力を跳ね返して真実を追求するという本来の「第四の権力」としての機能を果した事を全世界に示した。それは最高裁のブラック判事が「自由に拘束されない新聞だけが政府の欺きを暴くことができる」と述べたように、「タイムズ」や「ポスト」はまさにジェファーソンら建国の父達が新聞に期待した任務を果したのである。

 ウォーターゲート後の調査報道の動向はどうなっていったのだろうか。新聞やテレビは権力の濫用を暴くためにこぞって調査報道チームを設け、三大ネットワークは企業や個人の腐敗を特集した。[20]大手雑誌社も調査報道を取り上げ、それに伴ってワシントン・マンスリーやマザー・ジョーンズなどの調査報道を主とした雑誌も誕生する事となった。[21]

 全米各地ではジャーナリズムを教える学校がにわかに生まれた。多くの学校では、さらに多数の学生を収容するため施設や学科を拡充したが、入学申込みを拒否する割合はいぜん高かった。言いかえると学校の水準が上がったのである。実際面の訓練をする調査報道のコースが新設され、大学の学生新聞にも調査報道が現れはじめた。[22]

 ポスト・ウォーターゲートの最も顕著な傾向は、企業法人よりも政府の腐敗を暴くことに力点が置かれるようになった事である。ウォーターゲートが政府の腐敗を暴き、センセーションを起こしたことからも調査報道のこれからの方向性が定まっていった。今日の調査報道は政府と関係のある問題に集中しているため、より政策アジェンダと密接に影響を及ぼす事となっていった。既存のアジェンダを変え、改革を起こすという目的が調査報道記者の中に芽生えていったのである。次節では、改革という調査報道の持つ力について述べていきたい。

 

第二節 アジェンダ構築とインパクト

 ポスト・ウォーターゲートの調査報道は変化をもたらす触媒として広くその名を知らせることとなった。調査報道はJournalism of Outrage (憤激)へと変化し、政治腐敗や政府の欠陥、企業の汚職などを暴くことによって国民や政策決定者に怒りを植えつけ、変化をもたらす報道を目的とするようになっていった。存在する問題を顕わにし、注目を集める事で調査報道記者たちは社会的アジェンダを変えようとしているのである。

 この第二節では「改革報道」へと生まれ変わった調査報道に着目し、調査報道の光の部分に焦点をあてていきたい。調査報道が改革をもたらした三つの具体例をとりあげて、調査報道の持つ力や可能性について言及していきたい。こうしたアジェンダ設定と呼ばれる、メディアが人々の問題の優先事項を決定する事に関する研究は70年代からなされてきた。これと並行して「アジェンダ設定」という政策決定の分野における、問題の優先事項に対する研究もなされてきた。この論文では調査報道がある事柄をメディア、世論、政策決定者に対して顕著にすることをアジェンダ構築と称している。アジェンダ構築は一般的にモビライゼーション・モデルというモデルによって変化が起こるとされているが、必ずしもそうではないということが、後で述べるケーススタディでわかる。モビライゼーション・モデルによると、記事の出版、世論の変化、改革法案の提出という順で変化が起こるとされているが実際は世論、メディア、政策決定者が相互に作用し合って、変化が生まれるのである。[23]

 調査報道が政策決定に与えるインパクトは様々であるが、大きく三つに分類する事ができる。第一のDeliberative Results(熟慮する結果)は政策の問題点や解決策を議論する公の場を設ける結果をもたらすものを指し、この結果は政策決定者が報道に対して、調査委員会を設けたり、公聴会議事録を開示したり、あらゆる改革のイニシアチブを考慮すると約束することによって得られる。改革を求める声は上がるものの、目に見える成果は表れていない状態であるが、「熟慮する改革」が変化の前兆となって、時間がたってから改革がなされることもありうる。[24]

 次にIndividualistic results(個別の結果)は政策決定者が特定の個人又は企業に対して制裁を与えた際に生じる。起訴や解雇、降格といったことが例として挙げられる。このタイプの改革は取り沙汰されている問題の責任者になんらかの公的な措置が下された時に認知される。[25]

 最後のSubstantive reforms(実質的な改革)は目に見える規制、立法、政権の変化である。新しい法律や規制が制定され、行政単位や予算が新たに割り当てられた際に、事実上の改革が起きたと認識される。[26]

 この三つの改革の区別はどのインパクトが最も開示された問題を正すのに有効であるかを知る為になされたのではない。この内のどれもが不正の救済には及ばないかもしれないし、独自に予期せぬ問題を新たに醸し出すかもしれない。この三つの分別は調査報道によってどのような政策の結果が生じたかを説明するのに有効なだけである。

以下、三つのケーススタディを通して調査報道の力を測っていきたい。.熟慮する改革:在宅ケア詐欺報道

 NBCニュースマガジンは連邦補助の在宅ケアプログラムにはびこる詐欺、悪用についての調査報道を1981年5月7日に放映した。およそ半年かけてNBCとBGA(前述したジャーナリスト達と協力して調査報道に携わるシカゴの市民団体)が取材したこの調査報道は、在宅ケアの悪用について4つのケースをとりあげ、こうした詐欺がシカゴだけでなく、全米で行われているという事を強調した番組となった。放映された「ホーム・ヘルス・ハッスル」のインパクトはなんであったのか。調査報道の様式的なモデルが提案する(1)秘められた情報に記者たちが手探りで調査にとりかかり(2)調査報道が放映、または出版され、(3)世論がこの暴露に動き出す、そして(4)不正を正すように議員や関係者に働きかける(5)政策決定者たちは世論に答えて政策に変化をもたらそうとするという一連の動きは起こったのだろうか?これらを調べるため、3百人の市民と57人の政策決定者を対象に番組放映の前後にインタビューを行った。回答者の半分には番組の視聴を避けてもらい、見た人と見ない人の違いも明らかにされるように調査を行った。

 放映から2週間以内に行われた調査では番組を視聴した人たちの間に大きな変化が生じていた。これらの人々は在宅ケアをもっとも大事なプログラムだとし、政府はこのプログラムにもっと援助すべきであり、在宅ケアプログラムの中で詐欺をもっとも深刻な問題として捉えていた。(図1参照[27]

 政策決定者を対象にした調査でも番組を観たあるいは聞いたことがある政策決定者には番組を知らない政策決定者に比べ、在宅ヘルスケア詐欺に対する取り組み姿勢に変化があった。フードスタンプ、メディケア、メディケイド、国防など他の分野に関する詐欺行為に関してはそれまでの姿勢と変わらない取り組みを見せるという結果であった。他の分野に関する姿勢の取り組みに変化が生じなかったということはNBCの調査報道が在宅ケアに対する変化をもたらしたとするに有効であると言う事ができる。これと対照的に、ヘルスケア利益団体に行った調査では、番組を視聴した有無に関わらずほとんど在宅ケアに対する姿勢が変えられることはなかった。これはおそらく利益団体のエリートはすでに在宅ケアの実態に精通しており、その分野に努めているため生じた結果であると言えるであろう。(図2参照[28]

 だが、一般市民と政策決定者の在宅ケア詐欺に関する関心にはズレがあり、政策決定者の間ではこの問題はメディケアや国防の分野における詐欺よりも下にランク付けされるという結果が出たのに対し、市民の間では在宅ケア詐欺に対する関心は、他の分野のものよりも上位にランク付けされる結果となった。

 実際の改革を求める動きは、世論の意識の変化によってなされたのではなく、番組が放映される以前から生じたものであった。番組放映の数ヶ月前、調査報道チームは常任調査小委員会の役員達と在宅ケアに関する公聴会を開こうと集まっていた。共和党のウィリアム上院議員を中心とした政策決定者と調査報道チームの連帯は議会において「熟慮されるアジェンダ」に大きなインパクトをもたらした。議会では在宅ケアが議題としてとりあげられる事となり、BGAが在宅ケア詐欺の実態について議会で証言し、新法制定による改善についてもアドバイスを行う事となった。つまりモビライゼイション・モデルは作用しておらず、政策決定者と調査報道チームの共同作用によって結果がもたらされたのである。

 常任調査小委員会は連邦負担の在宅ケアプログラムの悪用をなくそうと新しい法を制定すべきとし、その際(1)非営利在宅ケア機関は競争的な入札によってのみ下請けでき、(2)在宅ケア機関に対して連邦政府はより優れた会計検査システムを導入すべきとしていた。だが、新しい法案は出される事となく、「ホーム・ヘルス・ハッスル」は「熟慮する」という形でのみ、影響を及ぼしたにすぎなかった。在宅ケア詐欺問題を議論の焦点に持っていくことはできたものの、立法に及ぶほど影響があったわけではなかったのである。[29]

2.  個別の改革:危険性廃棄物

 1984年5月、WMAQ−TVは3ヶ月に渡って取材したシカゴ大学における危険性廃棄物の扱いに関する調査報道を放映した。原子爆弾研究に使われた放射性廃棄物などの危険物を保管するという遺法行為を大学が何年も行っていたとして「Wasted Time」と称されたプログラムは、事実を知りながら対処しない大学の管理体制を顕わにした。

 第一回の放送が行われた翌日、シカゴ消防署は大学キャンパスを視察し、20の消防規定違反を指摘、30日以内に問題を解決するよう促した。だが一般市民の間ではそれほどのインパクトが見られることはなかった。危険性廃棄物の問題は市民にとって、すでに大学側が着手している問題であり被害が証明されていないので、記者たちはこの調査報道は世論に影響を与えることはなかったと結論づけるに至った。(図3参照)[30]

 だが政策決定者がこのシリーズを無視したというわけではない。有害廃棄物処理に関する重要性、環境保護に関与する政府機関の査定、自分たちの有害廃棄物処理をめぐる政策についての設問を設けたところ、政策決定者の間では一般市民とはちがう反応が返ってきた。政策決定者たちの間では有害廃棄物処理に関与する政府機関に対する評価は随分と風当たりの強いものに変化していたのである。(図4参照)[31]また、番組を視聴した政策決定者はこれから有害廃棄物処理問題に取り組む姿勢をかえるという意志をみせた。

 シカゴ大学も問題解決に向けて早急に対処した。大学側はまず化学廃棄物の処理を早める規定を設け、またうやむやにされていた化学廃棄物処理施設の建設を政府機関に申請し、早急に事を進めることを約束した。この施設は翌年建設され、問題は解決に向けて前進した。

 エネルギー省の監視下、大学は放射性物質の撤去などに努め、数ヶ月後には放射性レベルが基準値を下回る結果となった。これらの変化は政策の変化によってもたらされたのではない。大学の中でもアメリカ社会の中でも立法、財政、規制のどの面においても提案はなされなかったので、この変化は「事実上の改革」よりも、独立した「個別の改革」ということができる。メディアの扱った環境問題を対象にした統計研究によると有害性廃棄物、特に化学廃棄物に関するトピックが1984年には一番多かったという結果が出ている。[32]

Wasted Time」の功績はこうしたデータによって明らかにされることができる。この調査報道のもたらしたインパクトの過程において、一般市民の反応は有効的なものではなかった。シカゴ大学の改革は世間で見られた変化とは独立して生じたものであったのである。この改革は調査報道チームと公務員のアドホックな団結によってもたらされ、モビライゼーション・モデルには当てはめて表す事はできない。

3.実質的な改革:警察の不祥事

 1983年2月、チャンネル5は半年に渡って取材したシカゴ警察官の市民に対する暴力についての調査報道を放映した。この報道の内容は過去数回に渡って暴行・障害などで告訴された事のある「リピーター」と呼ばれる警察官を中心に5回のシリーズに渡って放映された。各シリーズの焦点となったのは、(1)1973年の新聞調査報道によってこの自体が発覚した際、約束された改革は行われておらず、十年経った現在も警察局はリピーター達を野放しにしているという事、(2)直接言葉では表現されていないものの、映像はリピータのほとんどが白人で被害者は黒人である事を示し、連邦裁では原告の63%に有利な判決が下されるのに対し、警察局内部の専門規格事務所を通すとわずか6%が訴訟として認められているにすぎないという事、(3)そして放映された映像は全て警察側に釈明する余地を許さない程、酷なものであったということである。

 番組を視聴した市民の大半は警官の暴力に対する見方を改めたが、他の問題と比べたこの問題の重要性の位置付けまでは変える事はなかった。これはつまりアジェンダ・セッテイングの影響はみられなかったということが言える。(図5参照)[33]すでに既存の問題について認識のあった郊外の警察部長、州立法官、市の委員会のメンバーなどを含む政策エリート達の間でも変化が見られた。政策エリートたちはすでに問題について認識があった為、番組を視聴したことで大きな変化が起こるとは予測されていなかった。そして実際、この問題をどのくらい規制が必要な都市問題として捉えているかという設問に大きな変化は見られることはなかった。変化が見られたのは報道によって明らかにされた、被害者が有色人種だという事や警察局の規律の乱れに対する意見のみであった。(図6参照)[34]

 一般市民に行ったと同じ質問の他に、一般市民がこの問題をどうみているかについてや警官の暴力に関する彼らの対策についても質問がなされ、番組を見た後では警官の暴力についての市民の関心は増加しただろうと回答した政策エリートが増加した。

Beating Justice」が放映されたのはシカゴ市長をきめる予備選挙時であり、黒人議員のハロルド・ワシントン氏はこの調査報道を利用して大々的な公約を掲げ、予備選挙を押さえた。ワシントン氏の勝利が確実とされた後、当時の警視監督は一般命令を出し、リピータについての調査プログラムを開始し、このプログラムのために新たな管理職がつくられる事となった。この変化は「実質的な改革」として位置付けされる。ワシントン氏が市長となり、警視監督が辞任した後も改革は推進され、警察局内の専門規格事務所の管轄者も新しく配属され、警官の暴力に対する取り締まりは強化される事となった。記者たちにとってこれは勝利であった。政治を動かし、他のマスコミにも騒がれ、賞まで受賞した。だが調査チームにはシカゴ内の限られた勝利にすぎないという見方をするものもいた。[35]

 以上三つの例を取り上げて調査報道の持つアジェンダ設定の力、社会の及ぼす影響などについて述べてきた。調査報道の持つ影響力というものを三段階に分けて分析しても、どのような調査報道が最も目標を達成するのに有効であるかという事はわからない。だが、調査報道が三段階のうちのどの結果をもたらしたとしても、改革にむけて何らかの前進をもたらす力を持っているのだということは明確である。

 

第三章 調査報道の危機

 これまで調査報道の黄金期や改革をもたらす力など、光の部分に焦点を当ててきたが、第三章では調査報道も持つ闇の部分に焦点をあてていきたい。第二章では調査報道が改革にむけて前進する力を十分に秘めているということについて触れてきたが、ここからはこの調査報道の持つ力を脅かす、調査報道の闇について述べる。以下三節を通して、情報操作の危険性について、訴訟大国アメリカならではの悩みである名誉毀損訴訟について、そしてメディア・コングロマリットについて言及していきたい。

第一節 情報操作の危険性

 多くの情報収集を要する調査報道にとって、政府の情報が一切回ってこないとすれば、調査報道は死に耐えてしまうことだろう。アメリカにおいてこのようなことが起こる可能性は皆無のように思われるが、そう昔でもない時代に情報操作は行われていたのである。

 ポスト・ウォーターゲートから「改革」の文字を引っさげて政府の腐敗を暴こうとする調査報道記者たちに待ったをかけたのは、レーガン政権であった。レーガン政権の誕生とともに調査報道は情報操作という名の危機に直面することとなったのである。レーガン政権に限らず、歴代政権も自分たちの利益の為にメデイアを利用する事を心掛けてきた。しかしレーガン政権ほどあからさまにメディアの操作をやってのけ、しかもその狙いを完全にとは言わないまでもかなりの程度まで達成して、大きな成功を収めた政権は他にいなかった。そのメディア戦略の中心にいたのが、大統領の側近として大きな影響力を行使したマイケル・ディーバであった。彼はスタッフがジャーナリストと直接接触することを禁じ、予期せぬ情報がメディアに報道される事を許さなかった。情報のリークに対して厳しい処罰の方針を打ち出し、リークの犯人捜しの為に政府高官にさえもうそ発見器にかけようとしたことにレーガン政権の意気込みの強さがうかがわれる。[36]

 ワシントンの記者たちはこうしたホワイトハウスのメディア対策を、はじめから大人しく受け入れたわけではなかった。大統領と報道陣の接触の機会を増やすように求める声は一貫して強いものであったし、側近たちによる見え透いたニュース操作に、抗議や不信の声をあげる者も少なくなかった。だがグレナダ侵攻作戦の際もレーガン政権の強引な取材規制に押し切られ、侵攻開始からの初めの三日間、現地取材は認められる事はなく、イラン・コントラ事件の際も記者たちは真相究明に十分な力を発揮する事はできなかったのである。

 レーガン政権とメディアの関係を批判的に分析したマーク・ハーツガードの著作「On Bended Knee」によると「レーガン時代のプレスは、自発的な自己検閲や政府側の操作を通じて、自分たちの政府が実際に何をしているのか、十分にかつ正確にアメリカ国民に伝える責任を放棄した。その結果、アメリカのジャーナリズムに対する国民の信頼を裏切っただけでなく、民主主義を衰弱させた」とある。[37]レーガン政権のメディア戦略に、ジャーナリズムが完全にひざまずいて従属したかどうかは議論の余地があろう。しかしレーガン政権以前の歴代政権とメディアの関係を振り返ってみれば、レーガンに対する80年代のワシントン・ジャーナリズムの姿勢が、それ以前の大統領に対する姿勢に比べてはるかに穏健で、好意的で、協力的でさえあったことは疑いようもない。

 レーガン政権からブッシュ政権へとホワイトハウスの主が代わり、メディアに対する姿勢にも変化が現れた。しかしグレナダの経験はさらに89年のパナマ侵攻にも引き継がれ、91年のペルシャ湾岸戦争でもブッシュ政権によって生かされた。アメリカ軍は、湾岸への派兵が決まった90年8月の段階からメディアの報道に規制を加え、とくに91年1月17日から約一ヶ月半続いた空爆と電撃的な地上戦によるクウェート奪回作戦では、戦争に関する情報を厳しく管理した。

 ウォーターゲート事件を執拗に追及してニクソンを大統領の座から払い落とし、フォード、カーター両大統領に対しても相当厳しく当たった調査報道の記者たちがレーガンに同じような姿勢をみせることができなかったのはなぜだろうか。それは国民の間でレーガンの支持率が高かったことを理由として挙げることができる。レーガンへの支持率の高さは同時に、80年代のアメリカ国民の保守化志向を映したものでもあった。調査報道をとかくリベラルの牙城とみなす保守的な世論は、記者たちに対して批判的であった。グレナダ侵攻に際してレーガン政権の報道管轄にメディア側が抗議の声を上げたとき、世論がむしろ政府の措置を支持する反応を見せたのもその表れだった。(当時の世論調査によると、52%の過半数が政府による報道陣締め出しの措置を支持していた。)[38]

 現在のアメリカもどこか行き過ぎたリベラルを嫌う風潮があり、保守的な考えがしっかりと根付いている現状にある。改革をもたらす調査報道はとかくリベラルの牙城として見られやすいため、今後も国民に指示された政府による情報操作が行われる可能性はなきにしもあらずである。

 

第二節   名誉毀損訴訟

 調査報道には名誉毀損の恐れがついてまわる。ここ数年調査報道に対して名誉毀損で訴えるケースが増えてきているのは明かであり、そして実際に数年前なら根拠のない訴えと棄却されたであろうケースが裁判に持ちこまれている。この事は調査報道に歯止めをかけており、調査報道班を指揮する編集者も自己検閲のもと、災いをもたらすような記事は自粛しようとしている。編集者たちはセンセーショナルな調査報道を発表する事でかかるであろう膨大な裁判費用を恐れ、自ら出版することを拒んでいるのである。

 どんなメディアであっても、訴訟の多いアメリカでは裁判を逃れるなどという事はできない。その際報道が真実であるというならば、敗訴は逃れられるであろうが、純粋に真実を取り違えてしまった場合はどうなるのであろうか。長くこの判断の決定打となったのは1964年に合衆国最高裁が取り扱ったNew York Times v. Sullivan判決であった。ニューヨークタイムズがアラバマ州都モンゴメリにおいて公民権運動のグループがどんな理不尽な警察規制を受けてきているかの意見広告を掲載したのに対し、モンゴメリ市警察本部長L.B.サリヴァンが真実と合致しない所があると民事訴訟を起こした事件である。[39]   

 ブレナン裁判官は「公共的な争点をめぐる討論は、抑制される事なく活発に、そして大きく開かれた形で行われるべきであるという原則」を強調し、さらに「この討論にあっては激しい調子による辛らつな、そして時には政府及び公務員に対する不愉快なほど鋭い攻撃も、きちんと許されるようになっているという原則」を打ち出すべきとした。そしてこれと重ね合わせて「真実でない言説というものは、自由な討論にはどうしても付いてまわるのであって、表現の自由が確保されるためには“息抜きができるスペース”がないわけにゆかないとすれば、この種の言説も保護されねばならない。」とも説示している。[40]これらを踏まえてブレナンは、公務員に対する名誉毀損成立のためには、報道する側に悪意があったことを公務員は証明しなければいけないと、のち広く「現実の悪意」(actual malice)の法理を提示する。

 この判決の後、調査報道は報道の自由を謳歌した。裁判官は現実の悪意を証明するのは不可能であると公務員の訴えを棄却してきた。ところが1979年を境に調査報道は臆病になりはじめた。1979年のWolston v. Reader’s Digest Assn., Inc. Hutchinson v. Proxmireの両判決は「公的人物」の概念を狭く理解し、「現実の悪意」の法理の適用を後退させながら個人の名誉の保護を図りはじめた[41]。調査報道記者をはじめとする、表現の自由を主張する人々にとっては、「自由」が許されなくなってきたと感じざるをえなくなったのであった。さらに同じ年のHerbert v. Lando事件では被告に執筆、あるいは番組編集当時の心理状態を質問する事、および開示手続きによって被告の編集過程をあきらかにすることが求められるということが起きた。最高裁はそのような開示はNYタイムス判決以前から認められていた事、およびこれを拒否する特権を公認する事はNYタイムス判決で与えられた以上の保護を表現者に与えることになると指摘してこのような判断を下したのであった。[42]

 この判決はとても大きなインパクトを持ち、報道されなかった事柄までも、「現実の悪意」の対象として見られる事となり、一つの記事を制作するのに何人もの人をインタビューする調査報道の記者たちは苦しむ事となった。ウォレン・バーガー裁判官と州や連邦判事たちのこの判決は、肥大化しつつあったプレスに裁定をくだそうとする世論の動きが加わって、名誉毀損訴訟の増加につながったのであった。1979年半ばには20万部以上の部数を誇るフロリダ州のタンパ・トリビューン紙が38万ドルの罰金を命じられた。[43]テキサス州ではエル・パソ・タイムス紙が訴えられ、テキサス州裁では最高額の3500万ドルの損害賠償額が命じられた。結局60万ドルに減額されることとなったものの、この額の提示は編集者や記者を挫けさせるのに十分であった。[44]

 現在、新聞社は1日千ドルあまりを弁護士費用に当てているといわれている。経営不振のニュージャージー・マンスリー誌は、長年続く訴訟に編集予算の10%を費やしている。編集者のクリス・リーチ氏は「このまま訴訟が増え続ければ、調査報道をはじめとするadvocacy (主唱)ジャーナリズムは死んでしまうだろう」と現在の状況を表した。[45]

 それでも調査報道は、「息抜きできる空間」を確保するために一定の虚偽表現の憲法的保護において定着してきたという基本的発想のもと名誉毀損と戦ってきた。だが、表現の自由の保障と名誉保護との合理的調整基準として創り出された「法理」がその不明確性の故に、準則たりえない存在になってしまっていることや、訴訟費用の巨額化という問題と超巨額な(NY判決で州裁がしめした額はむしろ安いくらいの)損害賠償という問題とが含まれている。このことは、個人のライターや調査報道の基盤である地方新聞などの中小メディアを破産に追い込むに十分であるため、これらプレスは極めて控えめな表現のみを世に送ることとなり、調査報道を紙面に載せる前には二度考えなければならないほど、気を使わなければならなくなった。また、プレス・メディアに対する一般社会の批判的感情、すなわち商業的ジャーナリズムの横行に対する社会の批難の存在も調査報道の危機を招いているといえるだろう。

 

第三節 見えざる手

 アメリカのマスコミの構造に起きた変化も調査報道を窮地に追い込んでいる。それはアメリカの殆どの都市で二紙並立体制が崩れ、一紙独占状態へと移行していったことから始まった。アメリカのほとんどの新聞が、ガネット、ナイトリダー、トンプソン、タイムズミラー、ニューヨークタイムスカンパニーといった新聞チェーンに買収され、こうしたチェーンが、テレビ局、ラジオ局も買収し、巨大なメディアコングロマリット(複合体)を形成していってしまった(現在アメリカには1200の日刊紙があるが、このうち約半分の600紙がこうしたメディアコングロマリット上位14社によって支配されている)。[46]

 そしてこうしたコングロマリットが自社の株をニューヨーク取引市場に上場していってしまい、70年代以降はこの三条件が重なり合って新聞ジャーナリズムの構造的転換を促がした。中でも「株の上場」はアメリカの新聞史上、決定的な転機となった。

 アメリカの新聞チェーンは、創業者から二代目に帝国を引き継ぐ際の膨大な相続税を支払うため、60年代の終わりから一斉に株を上場しはじめた。一族は所有の株を公的なマーケットで吐き出し、含み益を手に入れ相続税を支払ったのである。上場時には株を議決権付きの株と、高配当は保証するが議決権を持たない下部の二種類に分け、後者を市場に公開した。そうすることで日本のような関連会社間の持ち合いによらずとも、株買占めによる第三者の経営介入を排除したのだが、ひとつだけどうしても排除できなかったのが、無数の株主の貪欲な「見えざる手」である。新聞の経営はウォールストリートの冷徹な市場の論理に委ねられることになってしまい、経営陣は株価の下落を恐れ、四半期ごとの利益を出す事に汲々とし、経営に長期的な視点が失われてしまったのである。

 インディアナポリス・スター紙は、他に八つの新聞を持つセントラルニュースペーパー社によって発効されている。同社はダン・クエールの一族がオーナーだったが、1989年8月にニューヨーク取引市場に株を上場した。この直後から会社の経営はドラスティックに変わった。同社はウォールストリート至上主義を高く掲げるガネット社から2人の経営者を引き抜き、過去三年間で5100人中740人もの従業員をレイオフ、解雇、希望退社によって整理したのである。[47]金食い虫の調査報道班は解散、取材費は大幅にカットされた。他にも調査報道班を1967年にアメリカの新聞で初めて作ったタイムズミラー社の「ニューズデイ」では編集全部門で過去三年間一律15%の予算削減を余儀なくされた。[48]

 元CNN調査報道班のクリストファー・ジョージ記者は「今日、調査報道と呼ばれるものの多くはリークに依存した「政府の調査の報道」にすぎないと断じた。こうした傾向が顕著になったのは、メディアの人員整理、取材費削減と不可分のことであり、政府調査官に頼るようになってしまったのはとにかく安上がりに、安全に記事がものにできるというメリットからである。メディアが自らの責任において調査をする必然性はこの場合、見当たらなくなってしまったのである。[49]

 アメリカの新聞は70年代、80年代と市場独占をよいことに、マーケットシェア(部数)の拡大はまったく努力をせずとも、広告料の値上げと新聞代の値上げによって驚異的な利益率を維持する事ができた。その市場独占が、ケーブルテレビやITを駆使するニューメディアの参入によって崩される事となった。全米最大手の流通業者シアーズはIBMと組んで、パーソナルコンピューター所有者のためのニュースサービス「プロデイジー」を始めた。このサービスに契約すると国際ニュースからスポーツニュースまでありとあらゆるニュースが手もとのパソコンで見られるというサービスである。「プロデイジー」が供給するのは情報を簡潔にまとめた300語程度の通信社記事で4000語も費やさなければならにような調査報道記事はもちろん配信されていない。新聞は利益を捻出し、ウォールストリートの株主を満足させるために長い間かかって培われた優秀な調査報道記者たちという最後の財産に手をつけてしまったのである。

 

終章

 調査報道の光の部分を顕著に照らし出したのは、ウォーターゲートであった。ウォーターゲートは調査報道に自らの持つ威力を思い知らせ、記者たちに改革者としてのプライドを築かせた。改革者としての自覚を確固たるものとしようとする記者たちは政府の腐敗に力点を置くようになり、こうした政治の不正という大きな枠組の中でのみ、社会や企業の堕落を追及するようになっていった。情報の自由法の制定などにより、政府の情報は確保しやすくなり、政治の腐敗を追求するポスト・ウォーターゲートの余韻はさらに拡張されていくこととなった。メディアの構造的変化も、この傾向を広めていった。利益至上主義の経営となっていった新聞社も、企業の不正を書き立てることで法外な損害賠償額を払うリスクを背負うわけにはいかず、この傾向はますます強まっていったのである。

 その内に調査報道記者は自らの改革者としての力にうぬぼれるようになり、闇の部分が増していく。ウォーターゲート以降、肥大化した調査報道を諌めようとアメリカ社会は調査報道の行きすぎを指摘しはじめた。調査報道の危険な側面である人権、名誉、プライバシーの侵害に対する意識は高まり、メディアの巨大化、多様化を背景にマスコミの過剰な取材・報道に対する国民の目は厳しさを増していった。

 ウォーターゲート以前の調査報道は「社会が悩みを抱えている場合、社会はリーダーシップのシステムがどこかおかしくなっているのではないかと疑う。自由なプレスは何が問題なのかを探り、これに呼応する」[50]とイニシアチブをとり、社会に呼びかけ、それに応えさせつつ、報道の自由を宣言してきた。現在、ウォーターゲートで得た栄光がトラウマとなって政府への攻撃に集中するあまり、調査報道は本来の目的を忘れかけている。調査報道は改革やキャンペーンの性格をおびるのだから、目的意識ははっきりしていなければならない。取り上げる問題が歴史の流れの中でどのような位置を占めているかということ、また、現在の社会においてどのような位置を占めているかと言う事、すなわち縦と横とのつながりを背景とした価値判断が特に重要と思われる。そうではなく、安っぽい興味本位に走るならば、それは調査報道ではない。マスコミがスキャンダルだけを追い回しかねないところに危険があり、十分にかみくだいて報道しないとすると、誤報の積み重ねとなり訂正、取り消しで新聞の信頼性がまた低下する事になりかねない。

 調査報道の記者は、ポスト・ウォーターゲート時代と言うのはアメリカが連邦、州、地方を問わず政治に新しいモラルと、ある種の解放性と誠実をかわき求める意識を反映していると思い込んでいる。だが、このままこの時代を乗り越えては行く事はできないだろう。

 1975年に当時の上院外交委員会長を務めていたウィリアム・フルブライトの論文には「国家を殺してしまう真実も在る」というフランスの作家ジャン・ジロドーの言葉が引用された。[51]その意味するところは、真実にも格付けができるもので、重要なものもあればそうでないものもあり、またそのうちには破壊的なものもある。社会の自信とか一体性は一つの事実ではあろうが、社会の指導者の犯罪的行為、あるいは腐敗という事実によって弱められたり破壊されかねないものである。ところが、ポスト・ウォーターゲートのアメリカは真実を「節約」する力を失った、というのである。フルブライト氏の主張は、議会に対しても言論に対しても自制を説くという性質のもので、著しくさめている。

 調査報道がポスト・ウォーターゲートを生き抜いていくためには「改革」のジャーナリズムにとりつかれた自身に自制を説くことから始まる。調査報道の持つ光の部分にだけ焦点をあてていたらば、こうした自制を説く事など出来ない。調査報道の抱える闇にも目を向けて、センセーショナリズムの排除が求められているのだということを理解しなければ、いずれ調査報道の持つ「改革」の力も失われてしまうだろう。社会が何を求めているのか、時代を見据え、目的を見失わずに、アメリカにとって何が一番良いのかを考えることのできる調査報道のみがこれからのポスト・ウォーターゲートを生き抜いていけるのではないだろうか。



[1] 小糸忠吾著 『新聞の歴史』(新潮選書、1992年)p.143

[2] D.C.ローワット編著『情報公開と行政秘密』(早稲田大学出版部、1982年),p.337

[3] Paul N. Williams, Investigative Reporting and Editing ( New Jersey: Prentice-Hall, 1978), p.40

[4] Williams, p.40

[5] Williams, p.41

[6] (1)New York Times Co. v. United States, 403 U.S. 713 (1971)参照

 (2)Craig v. Harney, 331 United States, 367 (1947)参照

 (3)New York Times Co. v. Sullivan, 376 U.S254 (1964)参照

 (4)Miami Herald Pub.Co. v. Tornillo 94 S.Cf2831 (1974)参照

[7] Williams, p.40

[8] John Hohenberg, The Professional Journalist ( New York : Holt, Rinehart and Winston., Inc, 1973 ) p.391

[9] 菅谷明子「コンピュータが変えた米国調査報道」『中央公論』114 ( 1999 ) p.142

[10] Ibid .,  p.143

[11] Hohenberg, p. 532

[12] Hohenberg, P.532

[13] Hohenberg, P.532

[14] Hohenberg, p.533

[15] 下山進『アメリカ・ジャーナリズム』(丸善株式会社 ,1997年),p. 106

[16] Philip F. Lawler, The Alternative Influence (Washington DC: The Media Institute University Press of America ., Inc, 1984 ) p.6

[17]Lawler, p.8

[18] Lawler, p.22

[19] 奥平康弘著 『「表現の自由」を求めて』(岩波書店、1999)、p. 132

[20] David L. Protess, The Journalism of Outrage  ( New York: The Guildford Press, 1991), p.53

[21] Protess, p.53

[22] ハロウェイ・ブラウン「アメリカの新聞における調査報道」『新聞研究』3501980,p.33

[23] Protess, p.15

[24] Protess, p.23

[25] Protess, p.23

[26] Protess, p.23

[27] Protess, p.85

[28] Protess, p.87

[29] Protess, p.92

[30] Fay Lomax Cook, “ The Impact of Investigative reporting on Public Opinion and Policymaking : Targeting Toxic Waste “  Public Opinion Quarterly , 51 ( Summer ) , p.174

[31] Cook, p.176

[32] Jeffrey J. Hallett, “ Issue Management Letter,” ( Washington, DC: Conference on Issues and Media, August 1, 1984 ), p.6

[33] Donna R. Leff,  “ Crusading Journalism: Changing Public Attitudes and Policy-   Making Agendas “  Public Opinion Quarterly, 50 ( Fall 1986 ) , p.308

[34] Leff, p.309

[35] Protess, p.132

[36] 佐々木伸『ホワイトハウスとメディア』(東京:中央公論社)1992 p.98

[37] Mark Hertsgaard, On Bended Knee: The Press and the ReaganNew York: Farrar , Straus,Giroux,1988p.201

[38] 藤田博史『アメリカのジャーナリズム』(東京:岩波書店)1991 p.50

[39] Peter Stoler, The War Against the Press: Politics, Pressure and Intimidation In the 80’s ( New York : Dodd , Mead & Company, 1986 ) p. 136

[40] 奥平康弘著 『ジャーナリズムと法』(新世社、1997 p.187

[41] James J. Cramer, “ Acts of Malice ? “ Columbia Journalism Review, ( July 1980 ), p.17

[42] Stoler, p.137

[43] Stoler, p.138

[44] Stoler, p.139

[45] Cramer, p.18

[46] 下山進「調査報道の死とアメリカ民主主義」『文藝春秋』71(1993), p.315

[47] Ibid., p.316

[48] Ibid., p.321

[49] Ibid., p.322

[50] Carey McWilliams, “ Is Muckraking Coming Back? “ , Columbia Journalism Review, ( Fall 1970 )

[51] J. William Fulbright,  “ Fulbright on the Press” Columbia Journalism Review, ( November 1975 ), p.40

 

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1976 3

 

 

 

 

図1.                図4. 

      

   

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

図2.                  

 

                   図5.

 

 

 

 

 

 

 

 

 

図3.

 

                   図6.

 

 

 

 

 

 

 

                                          

 

 

                    

 

 

 

 

 

卒論あとがき

                      倉品美佐子

 おもえば幸先が悪かった。資料あつめの為にマイレージで渡米した罰だろうか。大学の図書館にこもりっきりは体に毒、などと勝手に思い、カヌーを乗りに行く事にした。友人と3人で資料を持ったままカヌーに乗った。海辺育ちとしてカヌーには自信があった。小型ヨットより簡単だし、まさか転覆(tip-over)するはずがない、そんな奴がいるならみてみたいとさえ思っていた。3人乗りのカヌーで湖を漕いでいった。湖といっても海と見まごう広大さ。ライフジャケットも着てるし大丈夫と曇りひとつない青空の下、童心にかえって大自然を満喫していた。

 大きなボートがカヌーの横を通り過ぎた直後、3人乗りカヌーの後部にいた友人が悲鳴をあげた。振り返るとカヌーの真ん中にいた友人がちょうど、先に落ちた友人に続いて湖に落ちていくところであった。案の上、私も落ちた。カメラ、財布、イタリア製のサングラス。濡れたらだめなのよ製品が湖を浮遊する様を目の当たりにした私が最初に発した言葉は「資料!」であった。涙ぐましい。(友人はあまり泳ぎが得意ではない彼女を助けるフリをして、資料をかき集めた私の姿に殺意を抱いたと後に語っている。)神様はわたしに優しかった。幸い資料は全て手元に戻り、サングラスも、財布もほとんど無傷であった。(友人のカメラはただの鉄くずと化した。)聞くところによると、転覆する馬鹿は年に数人しかいないらしい。岸辺で半径10m全体を利用して資料を乾かし、その真ん中で日向ぼっこしてるずぶぬれの私の姿は、マグロのようだったに違いない。

 そんなこんなで卒論が終わりそうである。読み直してみると直せる箇所はまだある気がするが、この危なかしっさが私らしいといえば、私らしいので思い残す事はありません。調査報道というマニアックなテーマを選んだのは、ブックファーストに5時間篭城した結果の産物であったが、今となっては運命のような気がしてならない。資料が入手しにくいと言う事、文献の90%が英語であったという事、論文の主旨が分からなくなっていった事など、発狂しそうになった事が何度かあった。それでもコツコツと取り組む自分の姿は健気だった。夜食を作ってくれたお母さん、卒論をコメントしてくださった皆さん、民主党大会に行くのを遅らせながら資料探しを手伝ってくれたワシントン大学のライブラリアンさん。コピーを手伝ってくれた現地の友達。温かく見守ってくださった久保先生。どうもありがとうございました。心からお礼を申しあげます。

 もう二時だよ。おいしいお酒が飲みたいなと思いながら、リクルートスーツでパソコンに向かっています。やっぱり、あとがきはちゃんと卒論を終わらしてから書かなきゃね。

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