コソボ介入に対するアメリカの戦略

〜空爆へ至る交渉過程の検討〜

4J組  森本 香恵

序章

1章 ランブイエまで

 1節 アメリカの方針

  1項 オルブライト演説

  2項 ロンドン会議

コンタクトグループの決定

2章 ランブイエ和平交渉

1節        交渉過程

  1項 交渉の概要

  2項 コソボ代表団の決定

  3項 ユーゴスラビア政府代表団の決定

 2節 交渉の決裂と批判

 3節 ランブイエ外交の特徴

3章 アメリカの対応

1節         クリントン政権による外交交渉

 1項 オルブライト国務長官による交渉

2項 軍事的圧力と空爆への準備

 2節 国内での議論

  1項 批判と反駁

2項 世論の動向

 3節 議会

終章 アメリカのシナリオ

 

序章

 1999年3月に始まったコソボへのNATO軍による空爆は、まだ我々の記憶に新しい。このコソボでの戦争はその規模の大きさや今だに続く混乱から、どれほどの重要性を持つ事件であったのか容易に想像できる。コソボというごく狭い範囲内での大規模空爆、深刻な人権侵害、難民問題、最もショッキングであったのはそれがヨーロッパ世界で起こったという事である。空爆によって一応の和平合意が為されたものの、問題が解決したわけでは全くない。ではあの空爆はいったい何であったのだろうか。

 前NATO事務総長ハビエル・ソラナ氏はForeignAffairsに発表した論文中で、「空爆は、すべての外交手段がうまく機能しないのを見届けた上で実施された」と語っている。[1]そしてクリントン米大統領も空爆を始めた3月24日のテレビ演説でその悲劇を“道徳的義務”であると正当化した。一方で国連憲章を無視してまで空爆に踏み切ったことや、中国大使館誤爆などからアメリカは激しい非難をあびた。ロシアや中国といった国はもともとアメリカが空爆の意思を持っていたのだと批判をした。確かに事後評価では、空爆の結果を見ると、必ずしも最良な選択であったとは肯定できない。しかし過程を見ずして結果を見ただけで批判するのは安易である。そこでコソボ空爆に至る過程を分析することで、アメリカがどのような意図を持ってコソボ問題に取り組んでいたのかを探るのが本論文の目的である。本当に空爆の意思を持っていたのか、それとも空爆が唯一の選択であったのか、交渉過程で最も重要な局面であったランブイエ和平交渉に的を絞って論ずる。

 論の進め方は、まず1章でランブイエ協議へ至る背景について述べる。コソボ問題に関するアメリカの方針と、西側交渉国のコンセンサス形成過程について紹介する。そして2章で実際のランブイエ交渉内容についての検討に入る。3章ではランブイエ交渉の最中にアメリカの起こした行動について、外交と国内での議論の両方面を取り上げて述べる。以上の分析をもとに終章で結論としてコソボ問題に対するアメリカのシナリオ、アメリカの政策意図について考察する。資料は多くを議事録や公聴会の記録に依存している。また交渉の当事者による記録、インターネットや新聞記事からの情報も世論や事実関係を知る上でたいへん有効であった。

 先行研究について、コソボ問題については多くの論文が書かれているようだが、その多くがNATOの行動の是非を評価するもので、どちらかと言えばNATOを非難するものが大多数である。NATOに関しての研究書も概説書が多い。私が知る限りでこれらの題材を扱った代表的な研究書は、コソボ問題がごく最近のことであるため多く存在するわけではない。有ったとしてもそれらはユーゴスラビア問題の一部として扱ったものである。そのような研究書の中でTimJudah,”Kosovo War and Revenge”Yale University Press,1999)とJulie A.Mertus,”Kosovo How Myths and Truths started a War”(University of California Press,1999)を代表的な研究書として上げたいと思う。これらの文献は研究書というより記録といった感じで、広範囲に渡っての分析が行われている。どちらも時系列的にユーゴスラビア問題を記録しているという点で内容も類似しているのだが、JulieA.Mertusの方は主にアルバニア人の人権問題にスポットを当てており、TimJudahは様々な視点から戦争の起源を探り西側の介入やコソボの未来について分析している。前者は特に結論としての終章を設けておらずこの問題に対する理解を求めることが目的のようである。後者は最後にコソボの過去を再度ふりかえり未来を予想すると共に、NATOや国連の役割等についても言及している。これらの研究書はコソボ問題の全容を理解する上で非常に参考になる。

 アメリカの外交の理念とコソボ介入の実体に関しての研究書にはDavid Fromkin”,Kosovo Crossing: American Ideals Meet Reality on the Balkan BattlefieldsThe Free Press,1999)がある。これは他の研究書と違ってアメリカの行動を肯定している点で貴重である。こちらは前述の2冊とは違ってアメリカに焦点を当てて、人道主義をアメリカの使命として軍事行動を論じているが、結論ではアメリカンパワーにも限界があることを強調している。アメリカの現在までの軍事行動の歴史を述べた上でバルカンの問題にふれる構成を取っているのだが、コソボ問題についてはそれを特に取り上げて論じるというよりもアメリカの一行動として言及しているのみである。そういう点でコソボ問題の全容を捉えにくく客観性に欠けていると言える。

 そういった中にあって、本論文のオリジナリティーはコソボ問題の中でもアメリカの視点からのコソボ問題に注目することである。ユーゴスラビアはヨーロッパの問題としてアメリカと直接関係付けられないことが多いのだが、それを敢えてアメリカ中心の視点から考え、空爆へ至った要因を分析することをオリジナリティーにしたい。そしてアメリカを評価するのではなく交渉過程に注目することで政策意図を分析するものである。

 

1章       ランブイエまで

 本章ではユーゴスラビアでの交渉に当たっていたコンタクトグループとしてはどのような戦略、共通認識を持っていたのか論ずる。コンタクトグループの参加国はアメリカ、イギリス、フランス、ドイツ、イタリアのNATO同盟国にロシアを加えた6カ国である。まずアメリカの政策方針、戦略、主張を明らかにした上で、他国との認識の違いをいかにして乗り越えてコンセンサスを形成したのか述べる。

 

1節 アメリカの方針

 アメリカとユーゴスラビア問題の直接的関わりは、95年のボスニア・ヘルツェゴビナ和平に始まる。当時結ばれたデイトン和平合意[2]はアメリカが主導し、クリントン大統領はその外交的成果について自画自賛した。しかしながらボスニアの状況が改善する一方で、コソボでの状況はミロシェビッチ前ユーゴスラビア大統領がコソボでの自治権限を取り上げたことから、争乱の危険性が高まりつつあった。1998年を通じコソボのアルバニア人とセルビア(ユーゴ)軍との戦いは激化し、バルカン半島全体へと飛び火しボスニア和平も危機に晒される危険性があった。アメリカはNATOの「平和のためのパートナーシップ(PFP)」を通じての協議プロセスを採るとともに国際監視団を送り込み、同時に国境での軍事演習で圧力を加えることで混乱を回避しようと試みた。

 

1項 オルブライト演説

 アメリカがコソボ問題の仲介に乗り出したのは1998年5月である。デイトン合意を導くのに貢献したマケドニア大使クリス・ヒルと国務省のジム・オブライエンが交渉役に立ち、ユーゴスラビアとの停戦合意プロセスが始められた。9月23日には即時停戦と対話の開始を求める国連決議1199号が出され、[3]それをもとにコンタクトグループによるミロシェビッチ大統領の説得が行われた。

 オルブライト米国務長官は10月に行われるコンタクトグループ参加国によるロンドンでの会議の直前に、ブリュッセルでの北大西洋会議(NAC)で‘the legitimacy to stop a catastrophe[4]と題された声明を行った。この声明でアメリカのコソボ戦略が明らかにされている。ミロシェビッチの蛮行と非協力的な姿勢への批判を行った上で、NATOの行動を回避するための条件を提示した。

@コソボでの軍と警察の即座の行動停止と撤退、

A国際社会のコソボへの自由なアクセスを求める、

Bコンタクトグループと戦犯裁判所による草案に基づく政治的解決への合意を求める、

このような条件を示し、オルブライトはミロシェビッチが国連決議1199号を遵守しない場合のNATOの武力行動の正当性について、「NATOが軍事行動を正当化するという困難かつ必要な決断をすべき時である」として強調した。この声明で最も重要な点は、最後に語られたコソボの独立への不支持である。「我々はコソボの独立を支持しない。コソボをセルビアから出すのではなくセルビアをコソボから出したいのだ」と、オルブライトはミロシェビッチ大統領とコソボのアルバニア系住民の双方に対しNATOの目的が決してどちらかの立場を支持するものではないことを明らかにした。コソボの独立を認めれば民族運動を活性化させ、コソボの状況を見過ごすのと同様にバルカン諸国の安定を危機に晒すことになる。唯一可能な選択は現状の維持であり、オルブライトはこの演説でその方針への変更は無いことを明らかにした。

 

2項 ロンドン会議

 コソボ問題へ関する限りアメリカの取った外交方針は武力に裏付けられた外交であった。一方、ロシアを含むヨーロッパ諸国の立場は、武力の必要性は否定しないもののその行使には必ず国連の委任が無くてはならないというものであった。

 NATOは9月24日に開かれたポルトガルでの会議で出撃態勢通告(ActivationWarning)を承認し、NATO軍を介入への準備に入らせた。これは国連決議を受けての、抑圧的行動を終わらせ政治的解決と人権状況の即時改善をセルビアへ対し要求する目的のもので、国連決議を履行させるための軍事的圧力であった。しかし西側同盟国のリーダーが直面した問題は、実際にNATOが国連の委任無くして主権国家に対しての軍隊の動員を実行することができるのかどうかである。

 9月30日には米国家安全保障会議はコソボについての会合を開き、国連の決定の必要性を主張する英仏独露の見解を退けNATOの行動を推進する内容の決定を行った。アメリカはNATOがその望みのままに行動できるという立場を取っていた。アメリカは常に国連決議が必要ならば、ロシアにアメリカの外交政策に対する拒否権を与えることになるという認識を持っていたためである。

 英仏政府は人道的危機に直面して徐々に態度を変更させた。英国議会は「コソボでの例外的事例について、武力の行使は国連決議の下で行われるべきだが、目前の悲劇に際しては国連の権威無くしても正当化され得る」との見解を示した。シラク仏大統領は改めて「軍事行動は国連安保理によって決定されなければならない」と語ったが、同時に「状況によってはフランスは危機を回避するために介入することを躊躇しない」とも加えた。[5]ロシアの同意を得るのは不可能であり国連の委任を得ることも不可能であるという認識があってのことだが、それでもやはりどういった基準で例外を認めるかについては不明確なままであった。この問題についての決定的な要因を見出せないまま、各国は判断を迫られた。

 10月8日にはコソボについての最も重要な会合が開かれた。ロンドンのヒースロー空港でクック英外相、ヴェドリヌ仏外相、キンケル独外相、オルブライト米国務長官、ホルブルック特使にイワノフ露外相の全員が集った。彼らは軍の問題、国連決議の必要性について再び討論した。英仏独は国連へ持ち込んだ上での軍事行動を主張したが、オルブライトとホルブルックはそれを問題外とした。イワノフは断固として反対し「国連に承認を求めるのならばは拒否権を行使する。国連へ持ちこまなければ我々は非難するのみ」とロシアの立場を明らかにした。[6]しかしそれは裏返せばロシアがNATOに対し何らの妨害もしないことを暗示した。ロシアはNATO戦闘機を迎撃するシステムを持っており、セルビアへ供給することでNATO軍を脅威に晒すことができたのだがそれを放棄したのである。

 アメリカとロシアの対立がある限り国連が機能しないことが明確になり、イギリスとフランスは国連の承認を求めることを断念した。同じ日に北大西洋会議(NAC)は和平交渉が決裂した場合の空爆計画を承認した。この重要な決定が簡単に行われてしまったのは、当事者全員がごく短期間のデモンストレーションでユーゴスラビアを屈服させることができると信じていたからであり、ミロシェビッチ大統領もそれを承知していたことからランブイエでの交渉に困難を招くこととなった。

 

2節 コンタクトグループの決定

 199810月に一度は合意(HolbrookeAgreement)が成立し、停戦が実現したものの、同年のクリスマスに再び戦闘が開始された。1月26日、オルブライト米国務長官とイワノフ露外相がセルビアに対し合意を遵守するように呼びかけた。その翌日にはアメリカがコソボ問題の解決のためには武力行使も辞さないという外交戦略を発表し、28日にはNATOのハビエル・ソラナ事務総長がコンタクトグループによる解決法をサポートする旨の発表を行った。同日、国連のアナン事務総長がNATOの本部を訪れ、軍の行使の必要性に理解を示した。[7]

 1月29日にロンドンで開かれた外相会議で、その地域の平和と安定への脅威が依然として続いていることを確認した。外相達は以下の合意を行った。[8]

・両者がコンタクトグループによる原則を盛りこんだ基本合意を受け入れる。

・両者への提案はコソボの代替政府に関する項目を含み、それを合意の枠組みとする、

・ユーゴスラビア政府とセルビア政府、コソボからアルバニア系住民を2月6日までにランブイエへ召喚し、コンタクトグループの直接的介入の下、ベドリヌ仏外相、クック英外相を議長として交渉を始める、

・コンタクトグループはコソボ住民の正当な権利を認識した上で彼らの利害を反映させた交渉を行う、

・交渉は7日の間に和平案に合意する、協議の進展によっては1週間の延長を認める、

 会議では紛争の拡大にはセルビア治安部隊とKLAの双方に責任があるとアルバニア系住民の責任も明確にした上で、旧ユーゴスラビア戦争犯罪法廷への協力をユーゴ政府に求めることでも合意した。合意内容は30日にクック外相がユーゴ入りし、ミロシェビッチ大統領、アルバニア人組織の代表等に直接伝えられた。

 数日後にはコンタクトグループの交渉人が合意を行う上で譲歩し得ない原則と基本要素(non-negotiable principles/basic elements)を提示した。ランブイエで言及されたのは、コソボの統治、人権、履行等の原則で、コソボへ大統領や政府、議会、警察の新設を認める幅広い自治権の付与を認める内容となっていた。[9] 

 以上のような交渉を経て合意への基本原則に関するコンセンサスが形成され、パリ近郊のランブイエで和平交渉が開始された。

 

2章 ランブイエ和平交渉

 ライブイエ協議は開始される以前から2週間以内の合意の実現は「まったく楽観視できない」と言われた。本章においては現実にランブイエ和平協議が決裂に至るまでの経緯を述べた上でその成果や批判についても言及し、交渉が決裂に至った要因について考察する。

 

1節 交渉過程

 ランブイエでの協議はKLA代表の到着を待ち、26日に始まった。和平交渉はデイトンでのボスニア和平交渉を参考に、ランブイエの森の中で関係者以外の出入が一切できないという外界との接触を制限した集中討議の形が取られた。セルビア人、アルバニア人の直接対話という最重要局面に達したにもかかわらず両者は全く顔を会わせることなく、それぞれが仲介役を通じて和平案への検討を行う形で交渉は進んだ。

 

1項 交渉の概要

 ユーゴ側は独立につながらなければコソボの自治の中身については譲歩するが、暫定自治に対してのアルバニア人側の同意を交渉の前提としていた。しかしアルバニア人側は独立を前提としない対話には応じないとする立場を取り、またKLAは3年後にコソボの立場を決定するための住民投票、すなわち完全独立、が絶対条件であると主張した。交渉期限は1週間後の13日であったが、ユーゴ/セルビア政府代表団の協議拒否で11日になっても実質的な交渉に入れずにいた。クック英外相はセルビア大統領との会談後「ユーゴ政府が交渉の進展を妨げている」と批判した。[10]結局13日までには決着はつかず、外相会談で20日までの交渉期限延期が決定された。会談に先立ってオルブライト米国務長官は、はじめてユーゴ政府代表団とアルバニア人代表団を同席させて和平への合意を促した。また個別記者会見でオルブライト長官は「アルバニア人側には合意をする用意があるようだ」が「ユーゴ側が交渉を遅らせた」と批判するに加えて、「NATOによる空爆の恐れはまだ続いている」と強調した。[11]

 2月19日になっても解決策は見出されなかった。交渉期限は20日の正午であったが、双方とも和平案の最重要点に関して依然として拒否を続けていた。交渉期限の48時間前になってコンタクトグループは新しい妥協案の検討に入った。もとの和平案にユーゴ、アルバニア人双方の意見を加味した案であったが、しかしこの案に対してもアルバニア人側は住民投票に関する記載が無いことを理由に、ユーゴ側は政治的解決法には賛成だがNATO軍の駐留は絶対に認めないとの立場から署名を拒否した。コンタクトグループは失敗に直面し、再び交渉期限を3日延長することを決定した。この頃には英仏外相の議長としての影は薄れ、オルブライト米国務長官が自ら交渉を進めるようになった。

 21日にオルブライトはユーゴ政府代表団、アルバニア人代表団双方と個別会談を行った。交渉期限までにユーゴ側の譲歩を引き出すためには、まずアルバニア人側が和平協定案に全面合意している必要があるとの判断に基づき、特にアルバニア人側への説得が行われたが失敗に終わった。アルバニア人代表団の中では住民投票へ触れない限り合意はできないというKLAの発言力が強まっていたためである。そこで交渉人は新たな和平案で「人民の意志に基づきコソボ問題の最終的解決のためのメカニズムを決定する」 [12]と住民投票を暗示させたものの、アルバニア人代表団は拒否した。

 セルビア側が意向を変えない以上、アルバニア人側の合意こそが空爆の引き鉄を引くことになる。再び交渉期限が迫る中、2月22日にアメリカの調停者達は最終案をアルバニア人側に提示した。この案では明確に「住民投票」の言葉が記されたが[13]、これ以上の譲歩は不可能であり合意しなければ空爆を強行することを示した。しかしコソボへの自治権は認めないという共通認識に反するこの文書に対して、ロシアはもちろん他の調停国も抵抗し署名を拒否した。

 合意は得られないまま交渉期限は切れたが、アルバニア人代表団はコソボで協議した後ならば先の妥協案に署名することを表明した。そこで2週間の協議期間の後に再び3月15日にパリで協議を再開することが決まり、合意文書は凍結された。

 3月15日に和平交渉はパリで再開し、18日にアルバニア系住民が単独で和平協定案に署名した。ホルブルック特使が依然として合意を拒むミロシェビッチ大統領と会談するが決裂し、23日に空爆の決行が決定したのである。

 

2項 コソボ代表団の決定

 協議以前の段階からコソボ代表団は困難に直面していた。KLAの代表はユーゴスラビア政府に犯罪者として告発されており、パスポートを持たず、ランブイエへ出発するにもセルビア軍に阻まれるという事態にあった。フランスがセルビアを説き伏せることでやっと彼らはランブイエへとやって来たが、アルバニア人の代議員は互いに対立してきた敵同士で構成されていた。住民が一方的に宣言した「コソボ共和国」のコソボ民主連盟からルゴバ大統領、ブコシ、アガニら計5人と、野党連合から4人、コハディトーレ誌のスロイ編集長、そしてKLAの政治局長のサチとスポークスマンのクラスニチら5人である。各団体の立場は次の通りである。[14]

ルゴバ:平和的な独立を目指し、合意に対しても柔軟な姿勢をとる。

スロイ:ルゴバとKLAの和解への悲観的な考えから合意も困難だと予測していた。

KLA:3年後の独立が保証されない限り合意には応じない。

いかなる決定に際しても彼らは全員一致のコンセンサスを求めなくてはならなかった。

協議が進むうちにアルバニア人代表団の中でも多数派のKLAが発言力を持つようになり、その中でも最も影響力が強かったのがKLA政治局長のサチであった。

 代表団の大半が合意の意思を固めていたにもかかわらず、最後の最後まで和平案への署名へが遅れた大きな要因がサチであった。彼はKLA政治代表デマチから住民投票を絶対条件とするKLAの方針を強調されていた。その状況で署名をしたら彼はKLAの方針への裏切りに対して死で報いなければならなかったが、署名をしなければKLAも対象としたNATOによる空爆が行われることになる。またセルビア政府がインターポールに協議の終了後アルバニア人代表団がランブイエから出たら、彼を逮捕するよう依頼していたのである。彼はオルブライトによる個人的な説得にも応じず、署名についての多数決にも他のKLA代表と共に反対し続けた。結局、意見の一致を見ず、スロイがコソボでの協議期間後の署名を申し出ることで状況を打開した。[15]

 KLA政治代表のデマチに対してオルブライト国務長官が直接電話で説得し、彼女の要請でボブ・ドールがデマチへ説得を行ったが、アルバニア系住民の強行姿勢は変わらず曖昧な状況が続いたが、代表団の決定への抗議からデマチが政治代表を辞任したことで、318日の単独合意に至ったのである。

 

3項 ユーゴスラビア政府代表団の決定

 ユーゴスラビアの最高実力者であったミロシェビッチはランブイエでの交渉には参加していなかった。よってランブイエの交渉の舞台でユーゴ政府代表団は有名無実の存在であり、協議の最中の重要な会談はほとんどがベオグラードで行われた。

 ミロシェビッチにとって、NATO主導の軍のコソボへの駐留を認めなければならないというコンタクトグループの和平案は受け入れられないものであった。軍はコソボをユーゴから引き離し、彼の地位を危うくするからである。しかしミロシェビッチが、最悪の結果を招いた自分の過ちに気づいたのはアルバニア系住民が和平案の受け入れを表明したときである。彼の行動の原因として2つ上げられる。

 1つはアルバニア人側が和平案を拒否するかもしれないとの楽観的な予測に賭けたことである。ユーゴ代表団はアルバニア人が最終的に署名するとは考えておらず、アルバニア人が署名を行うまさにその直前まで彼らは全員でカフェで談笑していた。そして結末を知って愕然としたのである。

 2つ目はNATOの空爆への懐疑心である。ユーゴとの関係が深く、自国にも同様の問題を抱えているロシアがそれに反対すると信じていたこと、そして空爆が行われても短期間のデモンストレーションで終わると信じていたことがその理由として上げられる。ミロシェビッチはロシアがNATO空爆へ反対しなかったことを知らず、ロシアがロシアと同調するベラルーシと共に彼にNATOへ対抗し得る最新兵器を供給すると信じていた。[16]加えて199810月に一度空爆の危機を回避した経験、同年12月のイラクへの空爆が70時間という短時間で終了したこと、ヨーロッパにおいての空爆が世論として受け入れられがたいことがミロシェビッチにその様な行動を取らせたと考えられる。

 アメリカ人仲介者クリス・ヒルは2月の交渉期限切れ目前にベオグラードへ向かいミロシェビッチの説得を試みようとしたが、ミロシェビッチは彼に会う事すらを拒否し、「空爆されてもコソボは手放さない」と発言した。[17]ミロシェビッチ大統領は3月22日、23日のホルブルック米特使による説得にも態度を変更させることは無かった。23日には「戦争直前宣言」を出し、それを受けて24日にNATOによる空爆が開始されたのである。

 

2節 交渉の決裂と批判

 国際社会の批判とNATO軍の圧倒的な軍事的脅威にさらされながらも、なぜ和平合意の成立が失敗に終わったのか。この疑問は、つまるところ、なぜ短い協議期間の間に充分な協議を尽くさないまま合意を急いだのかということであろう。

 決裂要因の1つはアメリカの予測の甘さではないだろうか。ミロシェビッチの思惑に付いては既に述べたが、クリントン政権はミロシェビッチのボスニア問題時の協力的姿勢を期待し、彼の強行姿勢への予見に欠いていたことは明らかである。ランブイエ協議にボスニア・ヘルツェゴビナ和平協議と同じ形式の協議方法を用いたことからも、アメリカがデイトン合意同様の成果へ楽観的な予測をしていたことがわかる。そして長期間の交渉を続けて行くよりも、短期間出終わると予測された空爆での解決を選んだのである。そしてコソボがボスニアとは違っていたことに空爆が始まってから気付いたのである。

 次に考えられるのは、セルビア人のアルバニア系住民への攻撃姿勢の強化とコソボの状況の悪化である。3月にはコソボからすでに23万人もの難民が流出していた。[18]難民はマケドニアやアルバニアへ流れ込んでおり、新たな紛争の火種を撒くのは確実である。よって必要以上に交渉に時間をかけることが「ヨーロッパの安定」という大義名分を自ら無に帰してしまう可能性を持ったのである。

 当然ながらこの様なランブイエでの交渉に対しては様々な方面から批判が行われた。またアメリカ国内からすらも批判があった。これについては3章で述べる。国際社会での主要な批判者はロシアやベラルーシ、中国である。これらの国々はユーゴスラビアとの関係が深く、NATOの当方拡大へ危機感を持っている。それに加え、ロシアと中国は自国内に同様の民族問題を抱えている事からも、NATOによる介入の前例を作るのは避けたいという思いは当然である。したがって国際社会において、また国連安保理の場で様々な批判が展開された。

 ロシアはコンタクトグループ参加国として、また仲介役としてもランブイエ協議に参加していたが、実質的には仲介というよりはセルビアを擁護する形で参加していたと言って良い。ヒル米特使が和平案の軍の駐留に関する記述を最重要事項として「軍の駐留に付いて十分な議論を行った」と語った際、それに対しボリス・マジョルスキーロシア代表は即座に「現在に至るまで軍の駐留に関して公的なプレゼンテーションを受けていないし、ロシアはその議論に参加していない」と発表した。またアメリカが22日出した案に対しても非難した。そして2月23日の最終期限に際しては「合意が達成できるまで交渉を継続すべきだ」との考えを表明した。

 2月18日にエリツィン露大統領がクリントン大統領に対し電話と手紙の両方を通じて「コソボには触れさせない」と彼の意見を伝えたとユーゴスラビアの報道機関が発表した。[19]ホワイトハウスはこの報道を即座に否定したものの、アメリカもNATO加盟国もロシアの反対を認識していたことは明らかである。

 最終的にアルバニア側が署名をする際にはマジョルスキー露代表は仲介役としての立会いを拒否した。ロシアはそうすることでこの和平プロセスから距離を置いた。3月23日、まさに訪米しようとしていたプリマコフ首相は、訪米中の空爆開始の可能性を否定できないという知らせを受け大西洋上で専用機をUターンさせて訪米を中止し反意を明らかにした。しかしこの段階ではもはやロシアに局面を左右させる力はほとんど無かった。

 

3節 ランブイエ外交の特徴

 ランブイエ協議の外交的成果は、アメリカの望んだ結末ではなかった。しかし互いに違った利害を主張するコンタクトグループが分裂すること無く協議を終わらせることができたことこそが成果であった。交渉当事者であったマーク・ウェラーによるとこの協議を通じて、外交の基本理念に重要な変化が見られた。国際社会でのアクターの変化、基本原則の変化である。[20]

 アクターの変化とは主に各国の影響力の変化、国連権威の失墜、プレイヤーの細分化を示す。協議に対し親ユーゴスラビアのロシア、フランス、イタリアは軍事行使には消極的な態度を示していた。逆に欧州連合(EU)はアメリカに依存する形となったボスニア・ヘルツェゴビナ問題への反省から、コソボに関しては影響力を発揮しようとしていた。その結果、EU軍による「ヨーロッパ防衛構想」はコソボへの介入によって現実味を帯びた。アメリカとイギリスは、欧州安全保障協力機構(OSCE)とNATOの支配的な役割を維持するという目的を全うした。一方でこのプロセスから距離を置き、NATOの独自の軍事行動を抑えることができなかったロシアの失敗は特筆すべきである。最もロシアの面目をつぶすことになったのはモスクワよりわずかに人口が多いだけのスラブの小国に対してリーダーシップを発揮できなかったことである。

 国連システムに対する挑戦は、地域的な安全保障システムに対する国連安保理決議の権威を危ういものとした。西アフリカ諸国経済共同体(ECOWAS)のリベリアとシエラレオネへの介入、NATOのボスニア・ヘルツェゴビナへの介入といった問題から続くこの風潮は、コソボへのNATO介入でいっそうプレッシャーを強めている。

 プレイヤーの細分化の問題は、国家単位ではない民族集団が提起した。コンタクトグループに、特にアメリカにとって、驚くべきことに、彼らはコソボ代表団のごく数人に対してすら影響力の限界を感じた。そしてこれにはユーゴスラビアの1マイノリティーに過ぎないグループの有する権利の正当性の問題が付随する。国家主権と民族自決権の対立の問題である。これは次に述べる外交原則の問題とも関連する。

 それまでユーゴスラビア問題は国際社会の要請から3つの原則が維持されてきた。それは領土主権(territorial unity)、不介入(non-intervention)、非武力行使(non-use of force)である。しかしこれらの基本原則は変質した。

 領土主権の問題に関しては、原則は維持された。国家が国境の永続的保持を求めるのは当然であり、民族自決権は通常その政府によって適用範囲が定められることになっている。ボスニア・ヘルツェゴビナ問題は旧ユーゴスラビアでの民族自決の拡大を阻止するために国際社会が介入し、デイトンでボスニア・ヘルツェゴビナが統一国家内に属しつづけることが確認された。コソボでのケースにおいても自治権について制限が設けられた。1991年の独立への住民投票も無視され、ランブイエでもこのアプローチが継承された。

 不介入原則は、例外的に無視された。セルビアはコソのボ自治権を一方的に剥奪したのであり、これはユーゴスラビアの連邦法では違法行為である。コソボは非常に差別的な方法でセルビアへの従属が強制された。アルバニア人の公民権剥奪と人権の抑圧は6年に渡って国際的機関によって批判されてきたがユーゴ政府は必要な対策を取らなかったため、コソボにおけるベオグラードの主権はもはや問題とされなかった。

 非武力行使については当事者である国家の承認が無い軍事行使は国際法で禁止されており、1990年以降の15回の軍事介入は国連の承認の下で行われた。NATOはコソボへの軍事介入を国連の承認無く決定したが、それは国際法の人権被害を未然に防ぐ圧倒的な必要性を根拠に正当化された。

 国際社会でのアクターの変化が意外性を含む一方で、基本原則の変化はNATO、主に英米本意で変質したと言える。そういった変化が一時的であれ継続的なものであれ、コソボ問題の重要性がここに凝縮されていると言えよう。

 

3章 アメリカの対応

 アメリカは当初はコソボへ介入する意図は無かったのだと言われている。しかし状況の悪化によるデイトン和平のへ危機から介入の必要ができたのである。そして協議を成功させるために、ロシアを仲介してユーゴ、セルビア政府への説得を試み、同時にイタリアに駐留するNATO軍や地中海へ派遣された米軍艦による軍事的圧力がかけられた。コソボ側に対してもアメリカが直接的な説得を行った。3章ではそういったアメリカのランブイエ交渉裏での根回しや取り組みについて、オルブライト国務長官やクリントン大統領の行動に注目して述べるとともに、それに対する国内世論の評価や共和党による対応についても言及する。

 

1節        クリントン政権による外交交渉

1項 オルブライト国務長官による交渉

 コソボ戦争はオルブライト国務長官がとりわけ率先して交渉を行い、そして空爆という決定を推進したことから、コソボ戦争は別名「マデレンの戦争」と呼ばれている。ランブイエ交渉を通じてオルブライト長官はヨーロッパに行動を起こさせる事に成功した。このプロセスはイスラム教徒のアルバニア人を軍事行使によって支援することに抵抗を感じるヨーロッパ諸国を説得するためには必要であった。しかしながらランブイエの成果は屈辱的なものだった。ミロシェビッチはほとんど譲歩せず、アルバニア系住民も妥協しなかった。長官はこれを「これまでで最悪の経験だった」と語っていたという。[21]

 コソボ問題に関する限り、オルブライトは19991月からは毎日イワノフ露外相との交渉を行っていた。親ユーゴスラビアのロシアを和平プロセスに取り込むことが、コソボ問題の解決には不可欠である。そこで協定の内容についての合意を形成する必要があったのである。ロシアはセルビア政府が望まないことには同意しないという立場を取っていたが、和平案へのいくつかの修正を条件に協定が結ばれた。ロシアを懐柔したことで、オルブライトは平和維持軍への国連の承認を得ることにも成功した。また、NATOによる介入へ批判的な見解を発表していたコソボ共和国のルゴバ大統領へ対してNATOの空爆や交渉への支持を確認し、ランブイエでは自ら城内を往復して交渉を行った。アルバニア系住民に対して直接説得を行うとともに、コソボ報道機関を支援しているジョージ・ソロスへ説得を要請し、コソボ訪問の経験があるボブ・ドール前上院多数党院内総務をマケドニアへ派遣し合意に応じるよう説得に当たらせた。[22]ユーゴ側が交渉に応じない限り、アルバニア系住民に和平案に合意させた上で空爆を決行することのみが彼女の威信を守るものだった。

 オルブライトの行動には彼女自身がホロコーストの経験から得た「ミュンヘンの教訓」の影響が大きい。[23]武力行使の価値を信じる国際主義者で、強硬派を自認している。実際に交渉の間、決して譲歩的な姿勢を見せることなくハードラインを維持しつづけた。2月25日にフランスから戻って行った下院の小委員会での演説では、「ミロシェビッチの挑戦行為を赦せばバルカンだけでなく大陸におけるアメリカの権威を失墜させることになる。和平の主要な障害はミロシェビッチにありもはや彼に選択肢は無い」と主張した。[24]

 

2項 軍事的圧力と空爆への準備

 クリントン大統領がコソボ問題に本格的に取り組めたのは、2月中旬に弾劾裁判が終わってからである。2月14日に大統領はラジオでの演説でコソボ介入への意向を明確に示した。

 ユーゴ側に対しては停戦と妥協を強要する軍事的圧力がかけられたが、ユーゴへの圧力として、クリントン大統領はまず2月11日に訪米中のシュレーダー独首相と会談を行った。和平交渉が決裂した場合はNATOによる空爆を行うという方針を確認し、ロシアへの協力を要請する声明を発表した。声明では「ロシアを政治、経済的に安定させることの必要性で一致した」とプリマコフ首相の支援の必要性を説いた。[25]交渉の遅れや失敗に対しては躊躇無く空爆へ踏み切るというドイツの強い姿勢に、クリントン大統領もその貢献を歓迎した。

 19日にはホワイトハウスでシラク仏大統領との会談が行われ、会談後の共同記者会見で「ミロシェビッチ大統領がコソボ撤退の約束を破ったり和平合意を受け入れなかったりした時は、武力を行使する意見で結束している」と述べ、反米派で交渉による決着にこだわっていたフランスとも空爆への強行姿勢で足並みをそろえた。そして交渉が20日に決裂した場合は「空爆を避ける選択肢は無い」と発表し米軍機に空爆作戦の態勢に入るよう指示したことを明らかにした。エリツィン大統領が空爆に反対していることに関して、クリントン大統領は「ボスニア和平のときも、ロシアと対立したが、最終的には共同で和平維持にあたった。同じことがコソボでも起きると信じている」と語った。[26]

大統領は米空軍に対して空爆作戦への態勢に入るよう命令し軍事的圧力を強める一方で、オルブライト国務長官を再度ランブイエへ派遣した。NATOの準備している空爆作戦には260機の米軍機が加わりマケドニアで待機する平和維持軍にも米軍4000人が派遣された。[27]1998年の段階ではアメリカにはコソボへ軍を派遣する意思はなかったのだが、派遣を決めたのは他NATO同盟国に求められたためであり、その規模は議会の所謂「ベトナム症候群」への配慮もあってそれまでのアメリカの介入例とは比較にならない少なさである。コーエン国防長官は2月の上旬の段階で派遣は20004000人規模であると発表し、[28]オルブライト国務長官も数千人規模にしかならないと言及した。[29]28000人のNATO軍のうちイギリス軍8000人、フランス軍5000人であるのに対しアメリカ軍が4000人にしか満たないことからも、アメリカの軍事介入への非積極性が見られる。

ランブイエでの交渉が決裂に近づくにつれ武力介入への語調を強めた。2月24日の交渉期限が切れた後には議会へ軍派遣の承認を求め、ベオグラードへ特使を派遣して直接交渉にあたらせ段階的に圧力を強めていったものの、交渉の決裂によって324日に大統領のテレビ演説で空爆開始が明らかにされたのである。

 

2節 国内での議論

1項 批判と反駁

 クリントン大統領は1999年1月の一般教書演説で「NATO加盟国とともにセルビアの抑圧をやめさせコソボ住民の自治成立を働きかける」との外交政策を明らかにし、2月26日の外交演説では「米国が強国の座を保つには、遠く離れた地のことでも取り組みを怠れば自らに跳ね返るという点を思い知らねばならない」と主張した。[30]大統領は3月24日の空爆を始めた日のテレビ演説では「この悲劇を終わらせるのは道徳的義務であり米国の国益にとっても重要だ」と語ったが、米国の死活的利益については1999年国防報告で次のように報告されている。[31]

@米国土の防衛 

A敵対的地域同盟や派遣国の出現の防止 

B主なエネルギー供給源、戦略的資源への自由なアクセス 

C同盟国や友好国への侵略に対する抑止と打破 

D航海や飛行の自由の確保

ユーゴスラビアはアメリカと同盟関係になく介入から直接的利益が得られるわけではないため、国民の支持を得るためにも国際社会との関係からもクリントン大統領には困難な交渉が必要とされた。

 ワシントン・ポスト紙にコソボ介入の代表的な批判者であるキッシンジャー元国務長官のコソボ批判が提起された。元長官は「米軍は世界の至る所に出ているが、戦略的目的が曖昧で任務を終える出口をどこに置くかも定かではない」と批判し、コソボ紛争について()米国にとって伝統的な意味での安全保障の脅威ではない、()人道上の理由で介入するならアフリカはどうするのか、()基本的には欧州の問題で、米国は後方支援程度で良い、()イラクや北朝鮮への米軍の対応が手薄になってはならない、としている。[32]

 ハーバード大学教授であるサミュエル・ハンチントンは”The Lonely Superpower”(邦題「孤独な超大国」)と題されたフォーリン・アフェアーズ論文において、アメリカが不明確な国益のために「ならず者超大国」として孤立化しつつあると指摘した。ミロシェビッチのような指導者はアメリカに立ち向かう人物として評価を高めるし、彼らが超大国アメリカをはねつけようとするのは然るべき反応である、世界の大部分はアメリカに「世界の警察官」の役目など望んではおらず、アメリカが当該地域の秩序維持に当たる必要は無くバルカンにおいても各国の集団的安全保障を重視すべきだと論じている。[33]

 そのハンチントンの論文に対し、同じくハーバード大学教授でクリントン政権第1期で国際安全保障問題担当国防次官補を務めたジョセフ・ナイはアメリカの国益の不明確さに同意しつつも、バルカンの「民族浄化」にアメリカ市民が「自国の国益の中に含まれる特定の価値観を海外で広めることを国益と考えている」ことを指摘し、コソボでの残忍な事件を見て見ぬふりすることは無理だとNATOの選択を擁護した。[34]

 一方で3月19日に記者会見した大統領は「コソボ介入は泥沼化に至るのでは」という問いに対し、「人的な惨事を防ぐべきだ」「このままだと状況は悪化し紛争封じこめにより大きな対価を払う」という回答とともに「残り任期中に安定した欧州との同盟関係を築きたい」と答えた。[35]弾劾裁判直後のクリントン大統領にとっては、人道的危機への義務感に加えて大統領として成果を上げることもコソボ介入への誘引の1つであった。

 

2項 世論の動向

 コソボへの対応についてヨーロッパ諸国の世論は徐々に高まっていった。空爆に批判的であったフランスでさえコソボの難民被害の惨状からNATO支持の声が強まった。一方でアメリカ国民の世論の動向は特異で複雑である。世論の後押しがあったことがコソボへのアメリカの介入の要因に上げられているが、「コソボがそんなに大事なのか」、「世界中に手を広げるつもりか」といったコソボ批判も展開された。

 クリントン政権のコソボ政策に対し、ギャラップの世論調査[36]では1999年の3月以降、支持が60%弱、不支持40%前後と、絶対的とは言えないまでも国民の過半数は政策を支持していた。しかし「クリントン政権が明確で熟考された政策運営をしているか」という質問に対しては、常に「そうは思わない」という回答が過半数を占めている。

 武力行使については、NATOの1加盟国として空爆を行うことについては、199810月の段階から辛うじて過半数を超える程度であった。地上軍の派遣に関しては当初、反対が大多数を占めていたものの、状況が悪化するにつれ徐々に賛成者が増加した。いかし依然として最大でも支持者は40%であった。そしてその際の地上軍派遣の理由については70%が「アメリカは難民救済の道徳的義務を有しているから」ということであった。

 人権問題について、アメリカの予算を難民救済に使用すべきかという問いには、コソボの難民に関しては60%が支持したものの、セルビア人難民については60%が不支持を表明した。

 世論には多くの矛盾点が見られる。例えば武力行使に関して否定的な意見が多い一方で技術的には空爆の他に地上軍の派遣が必要だという意見が過半数を占め、コソボ介入の最良の選択は地上軍を派遣することであると80%が回答している。しかし明らかなことは国民のほとんどがアメリカの道義的義務を確信しており、そのためには犠牲を惜しまないということである。全体的にコソボ介入に関する国民世論は分裂しており満場一致のコンセンサスが形成されることは無かったものの、コソボへの介入は道義的義務感から容認されたと言うことができるだろう。

 

3節 議会

 クリントン大統領は議会の反発を苦慮し、コソボへの軍隊の派遣に関して議会の承認を求めることを躊躇していた。[37]政権党の民主党は若干の反対者を出したものの、当然ながら大統領への支持を表明した。[38]一方、議会の多数派である共和党は軍事介入には消極的であるが、コソボ問題に関しては賛否で分裂していたというのが事実である。結果的に空爆に賛成したジョン・マケイン上院議員はクリントンの外交政策を「一貫性を欠くうえに自信を喪失している」と批判していた。しかし議会でランブイエ協議に対して「交渉のありかたが基本的なところで間違っている」と語ったが、「武力行使の脅威を背景に合意期限を設定するのは効果的だが、そのためには武力行使がこけおどしであってはならない」と付け加えた。一方で空爆に反対したロバート・スミス上院議員は「議会が空爆を承認しない限り空爆のための予算を認めるつもりは無い」と断言した。[39]

  下院と上院の2つに分かれた議員は違ったアプローチを取った。議会が空爆を承認することはありえないと予測されたが、クリントン大統領は軍の派遣に関し3月11日に下院に、3月23日に上院に承認を求めた。それぞれの協議は全く違う状況下で行われた。下院はランブイエ協議の決着が付いていない段階で、コソボでの和平合意の履行のための平和維持軍の派遣を承認する決議をし、上院はNATOの空爆が確実なものになった上での軍事行使への承認を行った。

 下院では、オルブライト国務長官が10日の下院歳出委員会で戦闘開始のゴーサインを避けるために米軍派遣の是非を問う討論の採決を控えるように異例の要望をしたにもかかわらず決議が強行され、[40]44人の共和党員が賛成にまわったため219191で可決した。決議に賛成の意を示したステンホルム議員は超党派的協力が不可欠であると主張し、ボブ・ドール前下院院内総務の意向について言及した。アルバニア系住民の支持者であるドールはオルブライト長官の要請で3月上旬からマケドニアでKLAの説得を行う会談を行っていた。それだけでなく、1998年6月の段階からドールはセルビア空爆の準備に着手するようクリントン大統領に書簡を送っていた介入支持者である。[41]したがって、この様な超党派の動きによって、下院はこの時点でクリントン大統領に白紙委任状を与えた。[42]

 上院での決議はクリントン大統領への数回の要請の後で行われた。上院での協議は、下院のものとは対称的に、充分な前説明が行われた。決議に際しては上院でも超党派的に草案が作成されたが、共和党員の多くは反対にまわった。賛成派、反対派それぞれの主な主張は以下の通りである。[43]

≪賛成派≫

ケリー(マサチューセッツ):何もしないという選択肢は決して受け入れられない。これはアメリカが一方的におこした行動ではない。

ルービン(ミシガン):ボスニアの時もっと早く行動を起こしていれば虐殺行為を回避できた。今、行動を起こさない事は行動を起こすことよりもリスクが大きい。

リーバーマン(コネチカット):ミロシェビッチは合意を破った上に残虐行為をエスカレートさせている。行動を起こさなければアメリカにもNATOにも傷がつく。

≪反対派≫

スティーブンス(アラスカ):この決議は第3次世界大戦を始めるようなものだ。

ハッチンソン(アーカンソー):コソボより悲惨な場所は他にもある。リスクが大きい上に、「バルカンの安定」というだけの大義名分では納得できない。

カイル(アリゾナ):交渉の間ミロシェビッチは武力の脅威に屈しなかった。クルーズミサイルでも彼を屈服させることはできないだろう。

サーモンド(南カリフォルニア)NATOはソ連からの攻撃への防衛手段として結成された。NATOのあり方として間違っている。NATO軍を主権国家への脅迫に使うのか。

 マケイン議員らを含む16人の共和党員と3人を除く民主党員全てが賛成し5841で空爆が承認された。バイデン議員は歴代の大統領が避けてきた議会の承認をクリントン大統領が求めたことに賞賛の意を示し、クレイグ議員は投票結果を受けて軍事介入の妥当性への理解を示した。しかしスミス議員はルワンダでの失敗について言及しその決議への反対姿勢を維持し続け空爆中にいっそう批判を強め、予算への制約を試み、軍の撤退要求を出すことになる。

 議会は実質的にクリントン大統領の決定へ対する拒否権を持っていなかった。空爆開始後に世論の動きと共に徐々にその影響力を強めたものの、大統領へ決定的な攻撃を加えることができなかった原因は、結局、共和党が一枚岩ではなかったためだろう。ドールのアルバニア人の説得にも見られるように、共和党はコソボ介入に関しては必ずしも批判的ではなかった。1992年当時、ブッシュ大統領がユーゴスラビアへコソボへの攻撃を止めるように警告したクリスマス・ウォーニング[44]の存在の影響が理由として考えられるが、しかしやはりここでも人道保護というアメリカ的価値観の影響力の大きさをを無視することはできないだろう。

 

終章 アメリカのシナリオ

 1章から3章までランブイエ和平交渉の表裏を見てきた。交渉が開始されるまでにアメリカの主導でコソボ介入へのコンセンサス、NATOによる武力行使とそれに対する国連安保理決議の回避について合意され、コソボの自治権を認める方向でランブイエ協議内容が確認された。アメリカからはオルブライト国務長官が直接交渉に参加し、クリントン政権はユーゴスラビアへの軍事的圧力を強め議会もそれを承認した。ランブイエ交渉は3度の延期の末にアルバニア系住民の単独合意に終わり、最後まで譲歩しなかったユーゴスラビアへ対する空爆が決定された。

 コソボに対するアメリカの政策は人道主義というアメリカ的価値に基づいて実行された。オルブライト国務長官の思想やクリントン大統領の個人的思惑の影響も推察されるが、世論や議会の支持に見られる通りアメリカ市民の正義への使命感といったものこそがコソボ介入への推進力となった。空爆に関しては、アメリカにはロシア等が批判したような攻撃意図は無かったと結論する。なぜならソラナNATO事務総長が発表した通り、ミロシェビッチ大統領に対する交渉や説得は十分なものであったことは明らかであるし、空爆はアメリカの単独行動ではなく、むしろアメリカは軍隊の派遣に消極的ですらあったのであり、NATOの一致した見解の下に行われたからである。しかし国連の不承認問題に関しては国連を活用する意図を持っていなかったことは明らかである。それは1章で述べた通り、ロシアや中国に拒否権を行使させないためであり、アメリカの国連軽視傾向の露骨な表れでもある。

 アメリカのコソボへの介入目的は、当然まず第1に人道的問題の解決であり、セルビア人によるアルバニア系住民への虐待と難民化を阻止することである。そうすることによってバルカン半島全域及び東欧諸国への民族紛争の波及を防ぎ、デイトン体制を維持することができる。その上でNATOを強化・拡大し、それに基づくヨーロッパの安定の維持を図ることである。その方法はロシアとの関係を悪化させることなく、コソボのアルバニア系住民とミロシェビッチ大統領を対話によって説得しコソボの独立は認めないが安定的な自治政府を確立させ、NATO軍による駐留を通じてその地域の安定を図り拡大への試金石とするといったものであろう。

 しかしそういったアメリカの計画が現実のものとならなかったのは、2章で考察したように、NATO同盟国とユーゴスラビアの双方が互いの強硬な姿勢を見誤るといった誤解のために空爆を実行せざるを得なくなったためであると考えられ、それゆえロシアはもちろん中国との関係も危うくなった。結果的には国連やロシアの影響力は否応無く減退し、NATOがその目的を達成したことでアメリカは改めて超大国として力を示すこととなった。

 コソボの介入事例が例外的なものであるにせよ、ここで明らかになったことはアメリカの「道義的義務観」である。どのような状況に陥ってもその「道義的義務」については、常に多方面から支持された。空爆が終わって1年半以上過ぎたが、コソボでの人権や難民の状況はあまり改善されてはおらず、「3年(現時点からは2年弱)後の住民投票」時の混乱も予測され問題は依然として山積している。それに加え空爆でアメリカも予想外に多くの戦費を費やし疲弊した。にもかかわらずコソボ戦争をアメリカの勝利であったと多くのアメリカ人が考えている。その根拠に「道義的義務」を全うしたという確信があるのだろう。

 しかし「道徳的義務感」というものは曖昧で主観的な観念である。日本の満州侵攻やナチスの虐殺もこの大義名分の下に行われた。また、国際法や国連憲章を無視した軍事行動はレーガン政権に始まるが、そうした介入事例のほとんどが不の結果を招いているのも事実である。ハイチ、コロンビア、ソマリア等と並んで結果的にはコソボも介入の失敗事例に加えられるのではないだろうか。高名な心理学者であるノーム・チョムスキーが発表した論文の中で、介入したがためにより酷い結果をまねく事もあり、コソボでも空爆後の難民増大や逆虐待が予見可能であった以上、害の無い選択である「何もしない事」が最良の選択であったと論じている。[45]同様の主張として、ヘルムズ上院外交委員長によって、フセイン同様にミロシェビッチも「放逐」しておくべきであるという報告がまとめられている。[46]これらの主張は極端ではあるが、果たしてコソボへの介入が本当に道徳的、人道的であったのかという疑問は多いに議論されるべきである。しかしコソボ介入という前例を作ったことが問題なのであるならば、介入しなかったという前例を作ったとしていたらどうであっただろうか。ミロシェビッチの「放逐」を認めるならば第2・第3のミロシェビッチの出現を許すことにもつながることを覚えておくべきである。

 コソボ空爆は免れ得なかったと結論したとはいえ、アメリカの今後の政策に残した教訓は大きい。ハンチントンやナイが主張する通り、「ならず者国家」化、孤立化への傾向を改めるためにもアメリカはその国益の明確化が必要であり、「道徳的」軍事行動にも線引きが必要になる。アメリカは今後、結果を重要視すべきか、国益および義務感を全うすべきかという究極の選択を迫られることになるだろう。

 



[1] Javier Solana,”NATO’s Success in Kosovo,” ForeignAffairs, Vol.78,No.6,

[2] オハイオ州デイトンで行われた集中協議であり、ボスニア・ヘルツェゴビナを自治州とすることで和平合意が成立した。この交渉は協議人が軟禁状態を強いられるといった閉鎖的な環境の中で行われた。

[3] UNBIS Plus on CD-ROM:国連安保理は国連決議1160号およびコンタクトグループにカナダ・日本を加えた19986月のボンでのG8の声明をもとに、ユーゴスラビアとセルビア政府に対し、即時停戦、人権状況の改善、政治的解決等を呼びかけた。

[4] Tim Judah,Kosovo War and Revenge (Yale University Press,1999),p.184

[5] Tim Judah,前掲書, p.182

[6] 同上 p.183

[7] “Madeleine’s War,” TIME, May 17,1999,  

[8] Digital News Archieves  1/30,1999

[9] Marc Weller “The Rambouillet conference on Kosovo,” International Affairs  

 Vol.75, No.2  April 1999, p.225-226

[10] Digital News Archieves 2 /13,1999

[11] 同上 2/15,1999

[12] Tim Judah, 前掲書, p.213

[13] 同上 p.215

[14] Congressional Universe-Document 3 /23, 1999  http://web.lexis-nexis.com/

[15] Tim Judah, 前掲書, p.214

[16] Digital News Archieves 10 / 7,1998

[17] 同上 2 / 20,1998

[18] 星野俊也「米国のコソボ紛争介入」『国際問題』20002 No.479

 空爆終了時には78万人の難民が流出していた。

[19] Digital News Archieves 2 / 20,1999

[20] Marc Weller, 前掲書, p.212-219

[21] 「すっぽかされたアメリカ」『News Week1999.3.10

[22] 同上

[23]“Packing Heat” Time, March 1, 1999

[24] Congressional Universe-Document 2/25, 1999

[25] Congressional Universe-Document 2 /11, 1999

[26] Digital News Archieves 2 /20, 1999

[27] Tim Judah, 前掲書, p.196

[28] New York Times, Feb 4, 1999

[29] New York Times, Feb 5, 1999

[30] Digital News Archieves 2 / 28, 1999

[31] 同上 4/4, 1999

[32] Digital News Archieves 2 /28, 1999

[33] Samuel P. Huntington,”The Lonely Suoerpower,” ForeignAffairs, Vol.78 No.2

  (March/April 1999) p.35-49 

[34] Joseph S. Nye, Jr.,”Redifining the National Interest,” ForeignAffairs, Vol.78 No.4

  (July/August 1999) p.22-35 

[35] Digital News Archieves 3 /20, 1999

[36] http://www.gallup.com/poll/indicators/indkosovo.asp

 

アメリカは武力介入に参加すべきか?

 

Favor

Oppose

No Opinion

99 Apr 6-7

58%

36%

6%

99 Mar 30-31

53

41

6

99 Mar 25

50

39

11

99 Mar 19-21^

46

43

11

99 Feb 19-21^

43

45

12

98 Oct 9-12**

42

41

17

http://www.gallup.com/poll/releases/pr990408.aspより)

 

誰がコソボ戦争の勝者か?

 

Winner

Loser

NEITHER (vol.)

No opinion

June 4-5, 1999

A. The United States

53%

34%

5%

8%

B. The NATO military alliance

52

32

4

12

C. Yugoslavia

21

65

2

12

D. Bill Clinton

58

33

4

5

E. Slobodan Milosevic

26

64

2

8

F. The Albanians in Kosovo

22

65

2

11

G. The Serbian people in Yugoslavia

17

73

2

8

http://www.gallup.com/poll/indicators/indkosovo.aspより)

 

[37] National Journal, April 3, 1999

[38] http://www.democrats.org/

[39] 「クリントン外交に火の粉が降る」『News Week1999.3.31

[40] Digital News Archieves 3 /11, 1999

[41] 同上 6 /10, 1998

[42] Congressional Universe-Document 3 /11, 1999

[43] 同上 3/23, 1999

[44] Tim Judah, 前掲書, p.73-74

 ブッシュ大統領は1992年のクリスマスイブに、ミロシェビッチ大統領に対しコソボでのセルビア軍の行動を中止しなければ米軍を派遣すると警告した。

[45] http://www.zmag.org/current_bombings.htm

 和訳盤はhttp://www.jca.apc.org/~yyoffice/shimin7chomsky.htm

[46] http://infoweb.asahi.com/paper/special/yugo/990226.html

 

 

《参考資料》

Robert Yehling, Charles Oldham, “50 Years of NATO” (The Bean Company, 1999)

Madeleine K. Albright,”The Testing of Amerikann Foreign Policy,” ForeignAffairs,

Vol.74,No.6(November/December, 1998)

Michael Mandellbaum, “A Perfect Failure: NATO’s War Against Yugoslavia,”  

 ForeignAffairs,Vol.78,No.5,(September/October 1999)

John Deutch, Arnold Kanter, and Brent Scowcroft,”Saving NATO’s Foundation,” 

 ForeignAffairs,Vol.78,No.6,(November/December, 1999)

Charles Krauthammer,“The Short, Unhappy Life of Humanitarian War,”

 The National Interest,No.57,(Fall 1999)

Christopher Layne and Benjamin Schwarz,”For the Record,”

 The National Interest,No.57,(Fall 1999)

佐瀬昌盛「NATO 21世紀からの世界戦略」(文芸春秋,1999

渡邉啓貴「米欧関係(NATO)に見る21世紀の同盟」『外交フォーラム』1999.8

町田幸彦「コソボ紛争―冷戦後の国際秩序の危機」(岩波ブックレット,1999

「コソボ紛争勝者は誰だ」『AERA1999.6.21

http://www.time.com/

http://www.cnn.com/ALLPOLITICS

http://www.washingtonpost.com/

 

 

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