ADA(障害をもつアメリカ人法)の立法過程
〜障害者団体が与えた影響〜
久森 匡子
序章
第一章 ADAの背景
第一節 ADAの概要
第二節 障害者差別撤廃への歩み
第三節 障害者雇用と経済的重要性
第二章 障害者権利運動の流れ
第一節 公民権運動との連続性及び独自性
第二節 障害者の社会参加
第三節 障害者自身による草の根運動
第四節 ADA制定に向けて
第三章 障害者団体の活動
第一節 自立生活センターの役割
第二節 自立生活センターの発展
第三節 障害者団体間の協力
終章 これからのアメリカ社会と障害者の課題
序章
アメリカの障害者運動は人種差別や、女性差別撤廃運動などの「公民権運動」の影響を強く受けていると言われている。その運動の成果であるADA(障害をもつアメリカ人法:Americans with Disabilities Act)はまだできて10年しか経っていない新しい法律であるが、アメリカの建国の理念である自由と平等が障害者にまでも適用され、「障害者の独立宣言」ともいわれるほど多くの人にとって意味のある法律となっている。また公民権法などと並び、法の平等な保護の展開におけるアメリカの重要な法律の一つであるとも言える。障害者法は、市民的権利を保障する既存の法的枠組みの中に、新たに身体的、精神的「障害」を理由とする差別の禁止を加えた。能力障害をもつ人は「障害」のゆえに差別されてはならず、その能力に応じた社会参加を求める権利を有すということが障害者法の中ではっきりと承認され、法の強制力を伴って実施されるに至った。
しかし、この法律に基づいて障害者を雇用する場合には、障害者が職務の本質的機能を発揮するための適切な配慮をしなければならず、政府機関ばかりではなく、一般企業にも相当な支出を強要しかねないものであった。そのため、連邦議会にかかっても根強い反発があったことは容易に想像できるが、それらを強引に押し切り、大統領の署名にまで圧力をかけたのは、ひとつに結集された障害者団体の運動の成果だった。ADAは障害者の権利主張・擁護をする者(アドボケ―ト)が複数の方策を首尾よく実行し、法律の施行を成功させた例である。そこで、この論文では、ADAを支持する障害者保護団体がどのような戦略を用いて法律の制定に対し、政治的に働きかけていったのかということを明らかにして行きたい。当時の経済的状況及び議会の動きと絡め、いかにしてこの画期的な法律が制定されるに至ったのか、障害者団体の戦略に焦点をあてて論じていきたい。そしてその戦略がADA制定後10年経った今、有効に機能したかどうかを考察してみたい。
先行研究としては、ADA施行以前に生まれたアメリカ初の障害者差別禁止法であるリハビリテーション法504条の制定までにおける障害者団体の発展、および彼らの人権獲得闘争、またこれに対する政府の対策に焦点をあてた、リチャード・K・スコッチによる研究が挙げられる[i]。ただ、これはADAの前身である法律に焦点があてられているので、それ以後の障害者団体の活動や戦略に関しては延べられていない。またADAに関しては、1990年の制定後今年で10年目を迎え、その間に多くの人がADAを理解し、障害者に協力する様にするべくADAに関する多数の文献を出している。日本でもADAの成立により、近年バリア・フリーをはじめとする生活環境面での「アクセス権」を障害者の権利として認めていこうという機運が高まってきて、ADAの制定過程の概要や、ADAの内容の解説書などが数冊出されている。こうした、文献および論文は主にADAの施行規則や法律の内容を理解するために書かれたものが多い。ADAが保守派政権のもとで成立し、また1988年の法案提出からわずか二年という早さで法の施行にこぎつけた背景には、団結した障害者団体と、彼等のさまざまな方向からのアプローチ、すなわち法施行へ向けての彼等のたくみな作戦の成果があったと言える。このような障害者保護団体をADA制定過程における圧力団体とみなし、彼等の戦略という観点からADAを研究した論文、および文献はまだ限られている。そこで本論文では、ADAの立法過程における障害者保護団体の活動を研究し、そこに見られる障害者運動の政治的意味を考えて行きたい。ADAの法律そのもの自体の研究ではなく、その制定過程における圧力団体の戦略という角度からの政策研究にADAを用い、さらにこの立法過程において障害者団体が強く影響を受けたといわれている公民権運動と比較しながら、障害者権利運動の独自性を明らかにしていくことをこの論文のオリジナリティーとしたい。障害者団体がどのように公民権運動の影響を受け、戦略を継承していったのか、またどのような点で従来の差別撤廃運動と異なるのかについても言及していきたい。
先にも述べたとおり、ADAは法の平等な保護の展開における重要な法律であるため、この法律を理解し、また障害者運動の過程を追うことで、これからのアメリカ社会と障害者、およびADAに残されている課題を考えて行くことだけでもアメリカのみならず、日本や他国の障害者の活動に影響を与えることができるであろう。しかし、あくまでもアメリカ政治研究の論文なので、それだけではなくADAをその制定過程の側面から見て、ADAという法律、および障害者に対する社会政策に関する方策、戦略にせまっていきたい。
第一章 ADAの背景
第一節 ADAの概要
ADA(障害をもつアメリカ人法)の正式名称は「障害に基づく差別の明確かつ包括的な禁止を確立するための法律」である。この正式名称が示す通り、障害に基づく差別を完全に取り除くことを目的とし、人権や国籍などを理由とする差別に苦しむ人達に対する公民権(差別を受けない権利)と同じ内容の権利を、障害者に対しても保障しようという法律である。
この立法がなぜ必要であったかは、ADAの第2条の「立法事実の認定と立法の目的」に述べられている。およそ3600万人のアメリカ人が、1または2以上の身体的もしくは精神的障害をもっており、全体の人口が高齢化するにつれて、この数字が増加しつつあること、国勢調査のデータ、全米世論調査および他の諸調査研究によって、障害をもつ人々が集団としてわれわれの社会で劣位の状態を占め、社会的に、職業的に、経済的に、教育的に重大な不利益をこうむっていることが明らかにされていること、などが連邦議会によって認定されている旨がここに明記されている[ii]。
例えば1987年のルイス・ハリス社の統計では、今までに一度も映画館に足を運んだ事のない人は、健常者で22%なのに対し、障害者では全体の3分の2におよび、自宅を出て外に買い物に行ったことのない人は、健常者2%に対し、障害者では13%という結果が出ている。これに対し、なぜ地域に出ないのか、という質問を障害者に投げかけたところ、59%は外に出るのが怖いから、49%は交通機関のアクセスが整っていないから、40%は建物や道路などの障壁があってアクセスできないから、と答えている[iii]。これらの調査などから、アメリカの社会生活からこれだけ隔絶された人たちは他にいない、障害者にとって一番の問題は差別だ、彼らが欲しいのは慈善ではなくアクセスや機会の保障だ、などということがはっきりと認識されるようになっていった。
ADAではこのような障害者への差別をなくすべく四つの領域において差別禁止の規定がもうけられている。まず第一に、法の対象となる使用者(雇用主)は障害をもつ有資格の人を差別できないことを定めている。第二にレストラン、ホテル、ショッピングセンターなどの公共施設を、障害をもつ人が利用できるよう保障している。第三に、障害をもつ人に対するバス、電車などの輸送サービスの拡大を保証している。そして第四に、言葉や聴覚に障害を持つ人に対して、電話に相当するサービスを保証している。
障害者はこれらの規定により、法のもとで平等な権利をもち、差別に対しては苦情申し立て、訴訟をする法的基盤をもつことができるようになった。企業や自治体がADAの定める基準を遵守しなかった場合、ADAのもとでは、差別を受けた障害者が行政機関による救済、さらには裁判所による救済を求めることができる。救済の内容は、違法な差別を禁止したり、スロープをつけるなどの改善措置を命じたりするほか、事件によっては損害賠償の支払いも可能である。しかも、悪質なケースについては、連法司法省から訴えられることもあり、そうなるとさらに違反金の支払いが必要になる。そのため、事業主や自治体が、ADAの存在を軽視し障害者に差別されたと受け取られるような対応をとり続けるならば、障害者から法的な責任を追及されることは確実である。このことからADAが外見は強そうで実は弱いという「張子の虎」でないことが見て取れる。
ADAは1990年のブッシュ大統領の署名により法律として施行されるに至ったが、この法律によりアメリカにおける障害者達は、長年にわたり心血を注いで取り組んできた基本的な保障を得ることができるようになった。それは彼らにとって独立であり、選択の自由であり、自らの生活を自らコントロールすることであり、多様なアメリカ社会の主流に完全かつ平等に融合する機会である。
それでは、どのような過程を経て障害者運動がなされるようになり、ADA制定の動きがみられるようになったのか。次の節で見ていきたい。
第二節 障害者差別撤廃への歩み
奴隷制の影を引きずっていたアメリカは、人種差別という深刻な問題をかかえていたため隔離や差別には敏感であった。しかしそんなアメリカにおいて、障害者に対する差別の問題が重要な社会問題として取り上げられるようになったのは、最近のことである。どのような過程を経て差別撤廃の取り組みがなされるようになったのであろうか。ADAのモデルとなった法律をいくつかあげながら簡単にその経過にふれてみたい。
まずADAの前例になっているといわれている公民権法があげられる。これは、1964年に制定された、人種・皮膚の色・宗教・性別・出身国を理由とする雇用上の差別を禁止した法律である。制定当時はまだ障害者に対する差別撤廃について社会的コンセンサスが得られていず、障害者は「保護の対象」とみられていた。しかし、この公民権法のもとで、雇用平等法理が判例や行政規則を通じて具体的に形成され発展して行くと、障害者問題も新たな展開を見せるようになる。すなわち、これらの差別の判断基準に照らしたならば、障害者に対しても違法な差別が成立すると考えられるようになり、障害者運動も「保護の拡充」から「平等の要求」へと傾斜していくようになった。
その後1973年に、障害者に対する差別を禁止し彼等の市民的権利を保護する連邦法としてリハビリテーション法が成立した。この法律では、特に第503条、第504条において連邦が実施するプログラムとサービス、もしくは連邦の補助金を受けている全てのプログラムとサービスにおける差別が禁止されている。この法律に基づいて様々な法律や規則が公布され、それらは連邦政府および、その契約者、連邦基金の受領者に対して適用され、実効をあげてきた。しかし、こうした法律や規則はアメリカ人の生活全般にわたる広い範囲の問題に及んでいなかったり、及んでいても不十分だったりしたため、より包括的な内容の法律が求められるようになる。
1988年にはADAのもととなったAmericans with Disabilities bill of 1988という全米障害者評議会がまとめた法案が、上院、下院に法律案として提出される。これは先に挙げた二つの法律の規定だけでは不十分であり、障害者が社会に完全参加する市民になるためには包括的な公民権法が必要だとしてまとめられた。
そして1990年に、障害をもつ人のための包括的な公民権の保護を規定したADA,アメリカ障害者法が制定されるに至った。それではこのADA成立の大きな要因は何だったのであろうか。
第三節 障害者雇用と経済的重要性
ADA成立の要因の一つとして見落とすことができないのはレーガン政権以来の財政支出削減の流れである。当時の障害者が直面していた現状と、経済的状況を重ねてみていきたい。
ADAが起草された当初、4300万人のアメリカ人が身体的または精神的な障害をもっていて施設や鉄道などの利用に際して差別的な不利益を被っていた[iv]。ここでいう「障害」とは、生活における基本的な活動において肉体的または精神的に一つやそれ以上の損傷があるもの、またそのような損傷の記録を持つもの、さらにそのような損傷をもつとみなされるもののことをいう[v]。これはアメリカの人口の13%にものぼり、7人に1人が障害をもっているという計算になる[vi]。また、障害者のうち、3分の2が失業している状態でもあった。また、これら失業した障害者たちは連邦政府からの福祉手当として障害者年金を受け取っており、1989年の上院の報告によれば、これらの政府の給付は年間6000億ドルを超えるといわれていた。医療費やリハビリテーション費用、直接現金を生むような生産的活動をしていないことを社会のコストとして含めれば、障害者は毎年、国に約1700億ドル支出させているという計算が成り立つ[vii]。そのため、ADAの立案に参画したアメリカの障害者のリーダーたちは、「現在失業している障害者が就労の機会を与えられれば、それによって浮く福祉事業やサービスのコストは、アメリカの対外債務総額に匹敵する」[viii]といって政治家や経済界の人々を説得して回った。
さらに現状として、職のない障害者の42パーセントは働く意志があり、働く能力もあるということが分かっている[ix]。そのため、障害者を単なる福祉の対象として無為な生活を送らせて税金の「消費者」とするよりも、働く機会を与えることによって福祉の費用を軽減する一方で、障害者を「納税者」にすることができるという「経済効果論」が障害者運動の基本的な考え方になってきた。障害者や議会における彼らの支持者たちは1980年代後半に、この考えをもって企業や政府を説得して周り、それにともない、彼らも雇用機会の拡大によって障害者が独立することの重要性を認識し始めていった。
しかし、ADA法案が出された当初はこの法律は賛否両論を呼んだ。なぜならば、黒人や女性、他の人種、民族、マイノリティに権利を保障する公民権法と比べ、この法律を遵守することによって企業にコストがかかるからであった。ADAでは差別をなくすためにお金を使うことが義務付けられていて、各事業体は予算の一部を割いて障害者の職員のために環境整備をしなければならなかったのである。
多くの事業体、中でも中小企業はADAは高くつくかもしれないと不満をあらわにしたが、1964年の公民権法に対する反対に比べれば、驚くほど少なかった。新しいブッシュ政権や、党派の違いを超えた議員から支持を得ていた法案に反対を唱えたら、偏狭な差別主義者だと見られることを企業は恐れていたのかもしれない。また以前より多くの企業が、障害者を雇用の対象としてだけでなく、顧客としてみるようになってきたのも理由の一つであった。
逆に1973年のリハビリテーション法に遵守するため、環境整備を迫られた事業体の多くは、障害者のための配慮費用はそれほどでもなく、方法もごく単純で済んだ、と後に報告している。1982年に労働省が実施した調査では、環境整備の半分はお金が全然かからないか、かかってもほんの少額だったということが分かっており、環境整備の30%は100ドルから500ドルの費用で可能だという結果もこの調査は明らかにした[x]。
第二章 障害者権利運動の流れ
ここまではADAの概要やADA制定までの背景をみてきたが、この章においてはADA実現に向けて運動してきた団体に焦点をあて、障害者権利運動を考察していきたい。
ADAの制定に当たっては、自立生活運動および自立生活センターが与えた影響は大きいといわれている。また、全米障害者協議会という大きな団体や、様々な障害者団体が地域・州・市などで働きかけ、全米レベルでもADAの成立に向けて大きな運動を展開してきた。ADA成立の際にこのような障害者をバックアップする団体は、どのような戦略を用いて政治的に働きかけていったのであろうか。
1980年代半ばに障害者運動は、障害者が社会に完全参加する市民になるためには、包括的な公民権法が必要だという結論に達した。依然として障害者に対する偏見や、社会の彼らに対する期待の低さ、時代遅れの福祉制度が残っており、障害者が自立に向けて努力してもなかなか達成できず、彼らの新しい大志は社会に気付かれなくなっていた。障害者権利運動では、障害者に対して社会が作り出してきた神話や恐れの気持ち、固定観念こそが障害者の生活を困難にしてきたと訴えてきた。また、1984年まで障害者団体は、「公民権法」の修正、すなわち「公民権法」に障害者を対象として含めることを要求し続けてきたが、それが実現できないことが分かり、「公民権法」にならったものをどのように政治的に実現するのかという事が課題となった。
第一節 公民権運動との連続性及び独自性
障害者団体の運動を見ていく前に、まずここで障害者の権利獲得闘争が影響をうけたといわれている公民権運動との比較を行ってみたい。
先にも挙げたように障害者の権利運動は公民権運動に影響をうけたといわれ、1970年代の座り込み世代が巻き起こした一陣の疾風を次世代が見事に再生した動きとも言われた。これらの動きはマイノリティ集団としての障害者のアイデンティティーを一般社会に認識させ、自助の精神と運動家の精神を継承していった。1960年代のブラック・パワー運動や、フェミニズム運動、その他の社会運動と80年代の障害者権利運動と共通している点というのはこの点で、これらの運動はいずれも、より広い社会参加を求める、排除された人たちの集団的アイデンティティーに根ざした、積極的な自己イメージを強調したものである。というのは、どの運動においてもその当事者達は社会参加から排除される存在であり、自己のマイナス・イメージを原因として相互交流を妨げるのではなく、逆にその社会からの排除という共通の体験が各々のアイデンティティ−を共有する上での媒介となったと言えるのである。障害者達も、「障害者」というレッテルを貼られることによって社会から排除され、彼らの間での出会いの発展を妨げられてきた。しかし、非公式な接触と正式な組織を通じてコミュニティーを作る障害者が増え、障害者の団体が発展していく際には、社会参加を制限されたことへの彼らの不満が集団的な行動の目的となり、社会運動を促進することにつながったのである。
1960年代には、アフリカ系アメリカ人は白人支配の社会の中にありながら、もっと社会参加をしたいとの要求を、強力に様々な方法で示し、効果をあげていた。その結果、アフリカ系アメリカ人と白人の完全な統合はできないまでも、アフリカ系アメリカ人の社会参加を妨げてきた、多くの形式的で伝統的な障壁は、法改正や裁判例などによって打ち破られてきた。こうして公民権はアメリカの政治的イデオロギーの強力なシンボルとなったが、このアフリカ系アメリカ人の公民権運動のシンボルと表現方法が、障害者の権利主張者達の間で使われるようになったのである。彼らは障害者が,労働市場に参入する際の障害や、政府が支援する各種サービスを障害者が受ける際の障害が、差別的であり、障害者の能力についての正確な評価に基づいたものではないと訴えた。こうして公民権運動の表現方法などをモデルとして、障害者の社会制度へのアクセスが、基本的な市民の権利として求められるようになった。
また、障害者運動が促進された背景にはこの運動独自の特徴もみられる。確かに障害者運動は黒人や女性、同性愛者達の運動を見習ってはいたのだが、何百人、何千人もが参加したデモ行進があったわけでもないし、マーティン・ルーサー・キングやフリーダム・ライドの反乱など試金石となる出来事もなかった。マスコミや一般の人々から注目されないまま、水面下でひっそりと続いた運動だった。
しかし、障害者は目に見えない形で権利運動を広げていった。この運動に秘められた力とは、障害者に押されたレッテルについて直感的に理解できる「隠れ軍隊(hidden army)」の存在だった。アメリカに住む7人に1人は障害者であるため、自分が障害者である人や家族や友人、親戚に障害者がいる人など、様々な人が「隠れ軍隊」の隊員として全米に存在し、活動したのだ。またアメリカ社会における年齢構造の変化と高齢人口の増大も大きな要因として挙げられる。高齢者の多くは身体的障害をもつ障害者であるか、あるいはサービスを受ける必要のある人たちであり、障害者の権利主張運動に理解ある人だった。
このような背景のもと障害者のコミュニティーは形成されていくことになるのであるが、次の節では障害者団体がこれまでにどのように組織され、発展していったのかをみていきたい。
第二節 障害者の社会参加
障害者のためのプログラムや支援団体というのは、1960年代後半までは、大部分が健常者によって、組織されたり、成立したり、運用されたりしてきた。しかしその後、一般大衆の慈善や善意に頼るよりも、むしろ権利を基盤とした社会参加を障害者自身が要求するようになり、多くの障害者権利支援組織が障害者によって組織されるようになった。
ここで障害者の社会参加ということについて少し触れておきたい。先にも述べたとおり、以前は障害者の社会制度へのアクセスというのは、彼らに対する恩恵や慈善行為と捉えられていた。財源の少ない時代には、予算が厳しい、行政的に困難であるなどの理由で、障害者により多くの社会参加を許すという慈善行為を制限することは、政治的にできないことではなかった。予算の都合で障害者にかける経費を減らすことは合法的にできたのである。しかし、慈善として彼らが社会参加させてもらうのではなく、社会に参加するのが権利であるとなれば、それを侵すことは合法的ではない。障害者の社会制度へのアクセスが彼らへの恩恵ではなく、一市民としての権利であることは、政治的には明らかに有利である。そのため、障害者の利益になる様々なこと、健康に生きる権利,教育を受ける権利、生活保護を受ける権利などが、近年権利という考え方に基づいて主張されるようになってきたのである。
このような考えのもと、第二次大戦後から20年間の間には、アメリカ機能麻痺退役軍人会、全米聴覚障害者協会、アメリカ視覚障害者協議会、全米発達障害者市民協会、脳性麻痺者連合などの団体が結成された。しかし、この時点では様々な政治傾向をもっているこれらのすべての組織が、障害者のための一般的な公民権の問題に対して関心が向いていたわけではなかった。ほとんどの団体は,各々がその加入者の特別な地位の向上をはかることを追求していた。1970年代初期まで,障害者の権利主張に最も政治的に関わってきた全米リハビリテーション協会は、職業リハビリテーション分野での専門職を代表するが、その会員の中には、障害者であるサービスの受給者は含まれていなかった。
しかし,第一節で述べたように、1960年代のアフリカ系アメリカ人による公民権闘争、反戦、学生運動、再び盛り上がったフェミニズム運動などの広範かつ顕著な社会的抗争の中で、障害者が社会的団体におおいに参加することを求めたり、一層の自立と生活の自己管理を求めたりする要求が生まれていた。1972年には、障害者の組織拡大に努力していた人や、障害者のリハビリテーションプログラムに従事している人たちの間で、障害者がより社会参加できるようにすべきだとの考え方が生まれた。障害者の多くは、これらの運動に実際に参加し、アフリカ系アメリカ人が人種差別を、女性が性的差別を政治的な感覚でとらえたごとく、障害者を同じ目で直視するようになった。この新しい意識によって、他の運動の戦略的変化をどのように採用するかについての評価がなされた。変化を志向する権利主張者のモデルは、必ずしも成功するものではなかったが、そのモデルは障害者たちや、一般大衆の中にある潜在的な支援を鼓舞し、政府や団体の政策決定者たちに影響を与えるために、支援者を動員することを示唆した。
このように、社会的生活の主流に障害者を参加させようとする力によって、障害者が地方自治体や州レベルで新しい組織を結成したり、既存の障害者団体を活性化したりすることが促進されるようになった。障害者団体は戦闘的な立場をとり、多くの人々はデモや市民的不服従運動に積極的に参加した。新しく結成された組織には、一つの障害のみならず、多様な障害をもつ人がいた。
次の節においては、そのような団体の中から自立生活センターと行動する障害者の会を例にあげて、障害者団体及び障害者自身による草の根運動がこれまでにどのように展開されてきたのかをみていきたい。
第三節 障害者自身による草の根運動
まず、障害者権利運動の幕を開けた人物としてエド・ロバーツの存在を忘れてはならない。彼は「自立生活の父」と考えられていて、彼の活動によって障害者の生活に変革が生まれたとも言われている。障害者権利運動はバークレーで形成されたが、その源流はエド・ロバーツが十代で障害者になったころに辿れる。エドはポリオのため14歳で障害者となった。しかし、彼は様々に困難な時期を乗り越え、カリフォルニア大学バークレー校に在籍中には障害をもつ生徒の中退防止プログラムの運営を行うまでに至った。
1970年にはこの中退防止プログラムをもとにした身体障害学生プログラム(Physically Disabled Students Program:PDSP)がスタートした。エドや彼の仲間はそれまでの経験から得た知恵や洞察力を、障害者が自立して暮らすために生かすようになった。障害をもつ学生をカウンセラーとして雇い、障害者が利用可能なアパートを探す手伝いをさせたり、必要に応じた手伝いをさせる介助者を雇ったり、またよく故障し、障害者の自立達成を困難にする車椅子の24時間体制の修理プログラムを開始したりした。このように革新的自助の精神とグループの組織化で、PDSPは障害者に対して保護的な援助しかしない既存の医療制度を拒絶した。障害者の生活に何が必要かを知っているのは、医師や福祉の専門家たちではなく障害者自身であり、障害者が求めているのは社会生活と仕事の両面で地域に統合することだ、ということを目標にかかげ、自立生活運動は盛り上がっていった。こうしてPDSPは障害者の自立、社会の主流への完全参加、社会問題としての障害者問題などの概念を中心に発展し、障害者権利運動の最先端を担った。
この過程において明らかになったことは、あらゆる障害をもつ人たちが障害者の権利を求める闘いを共有できるということであった。それまで障害者は、どちらかといえば各障害者別にグループを作ってばらばらに活動しがちで、共通の目的のために何かをするということはなかった。PDSPも「身体」障害者のために設立され、車椅子利用者によって運営されていたが、プログラムがスタートすると、視覚障害者が援助を求めてきたりなどして、たとえ障害が違おうとも自立達成に関しては共通の意識や問題を抱えているということが分かってきた。そのためPDSPは介助者紹介サービスに視覚障害者のための代読者を入れるようにするなどした。
このようにしてバークレーのPDSPは大成功を収めたのであるが、その後、四年間大学側から適切なサービスを受けてきた学生が、卒業後サービスのない世界に放り出され、施設や自宅内での孤独で自由のない生活に逆戻りせざるを得ないという状況に直面した。また学生ではない障害者からもサービスが求められるようになり、彼らと学生との両方のニーズに対応できなくなってしまった。
そのため、エドや仲間は学生以外を対象にしたプログラムの設置を検討し、その結果1972年に同じくバークレーに自立生活センター(Center for Independent Living:CIL)がオープンした。CIL設立の目的は人権・社会問題として障害者問題にアプローチし、あらゆる障害者とともに地域への統合を実現する、という障害学生プログラムと同じものであった。また自立生活センターを設立するにあたり、障害者にとっての「自立生活」の概念が確立された。一つは障害をもっている人は選択する権利があるということ、二つ目は、障害者が社会の中で自立して生活できるためのいろいろなサービスを受ける権利があるということ、三つ目は障害者には自己決定権があるということであった。これらの重要な概念はのちのADA法制化の運動において大きな影響を与えていった。
バークレーでスタートした自立生活運動はいったん火がつくと瞬時に全国に広まっていったが、なかでもバークレーのセンターは依然として群を抜いていて、運動もサービスも最も盛んに行われた。1978年には連邦議会でロバーツが参考人として証言し、自立生活センターに転機が訪れた。連邦リハビリ局が各州を通じて、各自立生活センターに運営補助金を提供することが制度化されたのである。これにより、障害者がセンターを維持する財源が恒常的に確保されるようになった。
自立生活センターの数が増えるにつれ、障害者権利運動の哲学は都市部だけでなく、近郊や村落地域での障害者、家族、障害関係の専門家に広まった。医師や療法士よりも、自分たち障害者のほうが自分たちのニーズを把握しているという考えが、新しい自立の概念として広く世の中の人々に知れ渡るようになり、全米の障害者に自助、自己決定の概念が広まった。
この時期に結成されたもう一つの団体として「行動する障害者の会」が挙げられる。この団体は1971年にニューヨークでジュディ・ホイーマンによって組織された。彼は車椅子を使用する教師としての教員免許を得るため、ニューヨーク市を相手に訴訟を起こした。1972年の春までに、行動する障害者の会はいくつかの市に支部を結成し、1500人の会員を擁した[xi]。行動する障害者の会は訴訟からロビー活動やデモンストレーションへと至る戦術をとった。
ジュディ・ホイーマンとニューヨーク出身のソーシャルワーカーであったユーニス・フィオリトは1974年の障害者雇用に関する大統領委員会にともに参加していた際、横断的な団体である、アメリカ障害者市民連合を設立した。この連合は、視覚障害者、聴覚障害者などいくつかの既存の団体の連合体であったが、各構成団体の自律性を維持した。アメリカ障害者市民連合は、保健教育福祉省から運営基金を受け取り、その後、同省内での一連の示威行動を組織し、同省の政策に影響を及ぼそうと一致団結して努力した。
このアメリカ障害者市民連合にみられるように、1970年代、障害者の権利運動を行っていた多くの組織は、連邦政府の障害者政策を具体化させようと努力すると同時に、連邦政府から多くの財政援助を引き出していた。障害者雇用に関する大統領委員会は、障害者の組織化のお膳立てをするべく、職業リハビリテーションプログラムの充実、啓発的な障害者プログラム、その他の障害者援助プログラムに対して多額の基金を提供した。その基金は政策・研究センター、障害者の権利主張者団体の発展を可能にした。障害者を代表する多くの団体は、訓練助成金、技術援助契約、デモンストレーション・プロジェクト基金などの形で、保健教育福祉省の様々な部局から活動経費の多くを受け取った。さらに、障害者の権利政策の確立に関与する多くの人々は、政府部内の仕事と民間および公共関連部門の間を頻繁に行き来していた。政府の役人が障害者の権利主張団体の私的コンサルタントになったり、一方、障害者の権利主張者達が、連邦議会スタッフになったりもした。スタッフおよび基金に加えて、プログラムおよび政策構想に関する情報も、常に政府機関と非政府機関とのネットワークを通じて利用され、伝達された。
このように、1970年代には障害者権利運動は政府から重要な点で大きな影響をうけると同時に、障害を持つ活動家の間の個人的、組織的な連帯を強めつつあった。
しかし、1982年には、州など地方自治体は障害児の統合教育にかかる費用支出を嘆き、また企業はまだそんなに成果が明らかにされていなかった差別禁止法のリハビリテーション法がコストを拡大するのでは、と恐れをなすようになっていた。1981年に規制緩和を約束してスタートしたレーガン・ブッシュ政権のもと、ブッシュ副大統領が初めてついた重要な任務は、規制緩和対策委員会をリードすること、行政の規制のもつれを徐々に切り離していくことで、そのターゲットとなったのが全障害児教育法(障害者への公教育・統合教育の権利を保障した1975年の法)と1973年のリハビリテーション法修正だった。
リハビリテーション法修正とは、最終的に制定された法案の修正の過程で付け加えられた504条のことである。この条文とは「合衆国において、第7条(6)で定められた障害をもついかなる個人も、単に障害者という理由だけで、連邦政府の財政的援助をともなういかなる施策、ないしは事業への参加において排除されたり、その利益を享受することを拒否、ないしは差別されてはならない。」[xii]というものである。この条文がくわえられた当時、連邦議会と大統領がリハビリテーション法を検討している期間中も、議会のメンバーも障害者問題の関係者も、この条文に注意を払わなかったが、数年足らずして、第504条は驚くべき経費と利益の両方を抱える、画期的な法律として見られることとなったのである。
それまでの障害者運動の業績といわれたこれら二つの法律を根こそぎ解体するのがブッシュの役目であり、当時運動の最大の敵であったが、そんな彼に障害者達はどのように立ち向かっていたのか。このとき、多数の障害者当事者とその家族は、すばやく反旗を翻し、4万通のはがきをホワイトハウスに送りつけた。障害者による動員と反対の声はブッシュ大統領に彼ら草の根有権者の底力をみせつけることになり、当時の政権に大きな影響を与え、ブッシュは障害者のリーダー達との交渉に応じることとなった。
こうして彼はワシントンの障害権利センターの事務局長を務めていたエバン・ケンプと会うことになる。ケンプは「差別禁止法に敵対的な味方をしがちな企業家たちの不満や苦情にこれ以上耳を傾けないで欲しい。今の障害者は従来の利益集団のように官僚を説き伏せて言いなりにさせることを求めていない。自分達の力をつけたいのだ。」とブッシュとの交渉の場で訴えた。
その後全米各地でこれら二つの法律に関する公聴会が開かれたが、障害者の権利に関しての変更の話がでると、どこに行っても当事者か家族から反対の声があがった。そして1983年3月レーガン政権はこの二つの法律の規制緩和を止めた。ケンプらの運動家が勝利し、この結果障害者運動の中に、自らのもつ力と政治的洗練に対する新たな自信が生まれた。
このようにして政治権力のある人々から共感を得たことは、連邦政府が障害者の権利を保障する法律を受け入れる段階に到達していることに等しかった。
第三節 ADA制定に向けて
障害者権利運動が盛り上がっていく中、1983年に、全米障害者評議会(National Council on Disability)[xiii]のメンバーであり、障害者の公民権確立に情熱を燃やしていたジャスティン・ダート・ジュニア[xiv]が「障害者に対する国家政策」(National Policy for Person with Disability)と題する文書を書いた。これには障害者が地域の中に統合されていくには、どういう法律、どういった政策が必要なのかという事が詳しく書かれてあった。1986年に当時の大統領ロナルド・レーガンの諮問機関であり、大変保守的であるといわれていた「全米障害者評議会」は、このジャスティン・ダートが書いた文書を議会へ持っていくという方針を決めた。ダートが書いた文書がレーガン大統領任命による13人の保守派によってADA法案としてまとめられたのである。新しいことばかりが書かれてある革新的で多大な影響力をもつであろう文書をこういった保守的なグループが取り上げ、しかもそれを議会に持っていくということは信じられないようなことであった。しかし、これをうけて全米で草の根の組織化活動が開始され、このADA法案を法律として成立させる事が全ての障害者の目標となった。そして、障害者の権利擁護のためにいくつかの戦略が打ち出された。
その一つには、この法案の起草者であるジャスティン・ダートが全ての州を訪れ、各地でミーティングを開き、障害者のニーズをあらためて尋ねて回ったことが挙げられる。彼は最初に書いた文書に地域の人々の声を反映させるため、アメリカ全土を渡り歩いた。車椅子の障害者、盲人、ろう者、脳性まひ、または障害者の家族や親戚、医療・リハビリテ―ション・特殊教育関係者などあらゆる人々の意見や生の声を取り入れて、この文書をより完璧なもの、より意義深いものにしようというのがダートのねらいだった。そしてこの結果として、全ての障害者、家族、また障害にかかわるボランティアたちは「公民権」と「平等な機会」を欲しがっているということが分かった。そのため次には、数百万の障害者と障害者にかかわる人々が共通して求めるテーマであったこの「公民権」という概念を、障害者にあてはまるような形に具体化させなければならなかった。そこで、1973年のリハビリテ―ション法504条を前例にして、そこに述べられている障害者への「妥当な配慮」という概念をADAの中に取り入れ、1964年の公民権法ですでに定義づけがなされている「公民権」という概念とともに、既に成功をおさめてきたこれら二つの概念を民間部門にも拡大し、適用していくことを決定した。
二つ目の戦略は世論調査の結果を全ての政治家に示すことだった。ハリス世論調査機関によって全米の障害者の調査が行われ、その結果「障害者の過半数以上が障害による差別を受けた経験がある」ということが分かった。これらの結果とともに雇用されていない障害者数のデータなどを政治家に示した。
そして三つ目の戦略は、障害を持ち、雇用されていない人々のコストを計算したことである。つまり、「働いていれば得られたであろう賃金」に「様々な福祉手当の経費」を加え、その結果も政治家達に伝えた。仕事の無い障害者達は、働きたい意志はあるのだが、様々な差別に直面してそれを実現できないでいるが、「仕事についていないことによって失われたコスト」と「さまざまな福祉手当の経費」を合わせると、アメリカが抱えている債務の額と同じになるという結論がでたのだ[xv]。すべての政治家にとっては債務をなくすことは最重要課題であり、すべての政治家の願いであると言える。政治家にとって「福祉の費用」と「失われた賃金」の問題は無視しがたいテーマであったのだ。
障害者団体のこういった戦略にはかなりの誇張が含まれていたのだが、このような作戦が功を奏して障害者問題やADAが全米的な問題として浮上してきたのである。そして障害者運動が活発化し、障害者が直面している問題をうき彫りにすることによって、1988年には「障害をもつアメリカ人に関する法律(1988年)案(=ADA法案)」が第百連邦議会の会期終了間際に上程されるまでとなった。しかし、この時点では法案は見事と言っていいほど相手にされなかった。選挙を控えて準備を進めていた議員からは無視され、またマスコミや大衆からも全く注意を払われなかった。
そのため、大統領選も間近だったこともあり、次の大統領まで待ってもう一度法案を議会に提出しようという声が高まった。そして、1988年5月にエバン・ケンプと他の運動家は全米自立生活センター協議会年次会議のためにワシントンに集まり、この年の秋に控えた大統領選挙のための選挙戦略を練り始めた。まず、次回の大統領の選挙運動に関わるチームを二つに分け、民主党は民主党の候補に、共和党は共和党の候補に、相手は違っても同じ目的のために働きかけることを決めた。どちらにしても、障害者の権利確立を支持する言葉を候補者の口から有権者に言わせることには変わりはなかったからだ。障害者達は共和党選出のジョージ・ブッシュと民主党選出のマイケル・デュカキスという二人の候補者にアプローチし、ADAを公約にいれてもらおうと試みた。
ケンプはブッシュの選挙キャンペーンに関わった。ブッシュはケンプのアドバイスにより、デュカキスに先駆けていち早くADAのサインを公約にいれ、票を伸ばした。ブッシュは全米のネットワークに登場し、障害者に向けてのスピーチを行い、その中でこう語りかけた。
「米国では現在、3000億ドルものお金が、“福祉手当”や“失われた賃金”として使われています。障害を持つ人は本来福祉手当を受け取ることを望んでいず、また彼等は本当は働いて収入を得る事を望んでいるのに、仕事が無い為に仕方なくそうしているのです。私は、障害をもっている皆さんにも社会の表舞台に立ってほしいと願っています。」[xvi]
後に統計専門のルイス・ハリス社の副社長ルイス・ジュネビエは、ブッシュ陣営の直感の正しさを証明した。障害者有権者の選挙の動向を追っていた彼によれば、ニューオリンズなどでブッシュが障害者の権利を口にするや否や障害者有権者がブッシュに傾いた。1988年11月の選挙でブッシュがデュカキスに圧勝した後での彼の報告によれば、一般選挙でブッシュに乗り換えた障害者有権者が両候補の投票数差400万票の半数を占めていた、という。これは両者の7ポイント差のうち、1〜3ポイント差をも占めた。ブッシュはもともと17ポイントの差の遅れをとって選挙運動を始めたのであるが、この結果はその差が大きく逆転したことを示していた[xvii]。
こうしてADAを支持するブッシュ大統領による新しい政権が始まった。ADAは、当時ADAの成立に際してロビイストのリーダー的存在になっていたパトリシア・ライトや障害者関連ロビイストの抱える大きな課題となった。パトリシア・ライトはかなり巧妙な策略家で、障害者の権利を保障するADAの成立に命をかけていて、アイオワ州選出のトム・ハーキン議員やマサチューセッツ州選出のエドワード・ケネディ上院議員らとADA法案を書き直す事となった。ここでライトらリベラル派が注意した点は、法案を企業に受け入れやすい内容にし、法律としてより通りやすくしたことである。具体的にはアクセス整備をしなければならない範囲を狭めたり、懲罰的制裁金を求める裁判を起こす事ができるという条項を削除したりした。そのため、彼らが用意した法案はジャスティン・ダートや全米障害者評議会のレーガン派政治家が1988年に準備した法案よりも、保守的なものとなった。
こうしてADAは、障害者や、障害者に関わる家族・専門家など一部の人達だけの問題ではなく、アメリカ社会全体の問題として認識されるに至り、この時点でADAが議会を通過して、法律として成立することがほぼ確実となった。
ADA第二法案は障害者とその家族、政治家、専門家らの力強い連帯のおかげで議会で速やかに審議され、1990年1月には下院において377対28の大差で通過し、上院においても91対6の圧倒的支持を受けて議会を通った[xviii]。そしてその年の7月にはついにブッシュ大統領に署名され、法律として正式に成立した。この大統領が署名する儀式はかつてない大きなセレモニーとなり、マスコミの反響も大きく、どの新聞でも一面の大見出しで大きく取り上げ、ニュース番組でも大々的に報道された。実際にADAを手にとって読む人はほとんどいないであろうが、このようにADAが通ったというニュースを見聞きすることによって人々の行動が変わるだろう。このようなメディア対策も障害者団体の戦略の一つとして挙げられるだろう。
第三章 障害者団体の活動
第二章ではADAが議会を通過するまでの経過を見てきたが、この章ではADAの法制化に大きな役割を果たした障害者団体の具体的な戦略や活動について論じていきたい。
第一節 自立生活センターの役割
まず、アメリカに現在400は存在すると言われている自立生活センター(Center for Independent Living:CIL)が障害者に対して果たしている役割についてみていきたい。
アメリカの自立生活センターは障害者、家族、友人、地域社会に対して多くのサービスを提供している。自立生活センターは1972年、人権・社会問題として障害者問題にアプローチし、あらゆる障害者とともに地域への統合を実現することを目的として、初めてバークレーに作られた。その後各地に作られるようになったが、障害者に関する公共政策の専門家マーガレット・ノエスクによれば、自立生活センターは当初全国に52ヵ所しかなかったが、12年もたたぬうちに全国で300ヶ所以上に脹れあがったという(1999年現在では400以上)[xix]。そのほとんどが、バークレーのセンターをモデルにしていて、障害者を福祉の受給者ではなく生活者として捉え、障害者が地域社会で自立して生活する為の支援を行い、特にアクティビズム(政治参加・積極的な抗議運動)とアドボカシ−(権利主張の活動)に力をいれている。
自立生活センターは、支援する会員によって毎年選ばれる44人の理事によって運営されている。このスタッフのうち28人は障害をもつ人で、障害をもつ人本人が決定権を握り、自らも障害者雇用促進の一躍を担っている。年間予算は220万ドルで、この予算の75%を行政からの助成金に依存し、民間からの寄付も少なからず得ている[xx]。予算に関しては、CILは1978年以降、雇用援助プログラム及び視覚障害者自立援助プログラムに対して、連邦政府のCSBG(Community Service Block Grant)と呼ばれる補助金を得ており、現在その額は62000ドルに達している。バークレー市はこの連邦政府補助金と市独自の基金とを合わせて支出しており、その総額は約200万ドルとなっている。 また、年間のサービス受給者は2500人から3000人を数える[xxi]。それでは、自立生活センターは具体的にどのような活動をしてきたのであろうか。
全てのセンターは@情報・参照Aピア・カウンセリングB個人・制度的な権利推進(アドボカシ―)C自立生活技術トレーニングという四つのコア・サービスと呼ばれる基本的サービスを提供しなければならない。全てのプログラムは障害者に対して直接にサービスを提供するように組み立てられているが、制度的権利推進は、我々の社会から建築面、コミュニケーション面、態度面の障壁を取り除く目的を持っている。この目的が達成された時に障害者は、自らの障害に関連する障壁を経験することなく、住居、教育、雇用、医療、その他のアメリカンドリームを手にすることができる。またこの目的が達成されると障害者は地域社会のすべての面で分けられることがなくなり、直接的サービスの必要はだいぶ少なくなるのだが、多くの地域社会はこの目的達成からほど遠いのが現状である。
パラクォ―ドという自立生活センターを例に挙げてみていきたい。このセンターでは、障害者が社会の主流で可能な限り自立して実り多い生活をすることは障害者にも社会一般にもプラスになるという確信に基づき、セントルイス市とミズーリ州をこの障害者の権利という目的に向けて一刻も早く動かすためにバラエティーに富んだストラテジーを用いている。ここではパラクォ―ドがよく使う方策をいくつか紹介したい。
一つ目は直接のロビーイングである。これは法律策定に影響を与える目的で、議員、議会議員、他の政府職員に接触することで、障害者のエンパワ−メントに非常に効果的である。パラクォ―ドでは、過去数年間にわたって州議会会期中、職員の一人をフルタイムのロビイストとして活動させている。活動には、他の障害者権利団体とのロビーイング活動を連絡、調整する、新法や既存の法律の改正案を起草する、議員や州知事スタッフと直接の話し合いを通じて法律を変えるべく運動する、議員に適切なデータを提供する、上院・下院の委員会で証言をする、障害に関する法案に関して地元選出の議員に接触するように障害者に情報を流すことなどが含まれる。この活動の目的は、議員を動かして、障害者が自立して実りの多い生活をするのに役立つ法律を通させること、もしくは、障害者の利益にかなわない法律を通させないことである。パラクォードのロビーイングは、他の障害者団体とも協力して、(1)州全体での介助事業の実施、(2)21の自立生活センターの設立と州からの全センターへの補助金交付、(3)有罪判決を受け、罰金を払う場合に、1件について50セント上積みし、自立生活センターの活動資金とする仕組み、(4)全ての障害者が自動的に不在者投票をする権利を持つこと、(5)障害者用駐車場の大幅な改善、(6)知事に報告する障害協議会の強化、(7)医療サービス改善、(8)職業リハビリテーションの予算増、という成果をあげてきた。
二つ目には草の根ロビーイングが挙げられる。草の根ロビーイングとは他の障害者団体や一般の人を首長や議員、他の政策決定者に接触させ、障害者の生活を左右する法律、規則に影響を与えようと試みることである。地域に幅広い支持基盤があることを政策決定者が理解している場合に、法律や規則を変えられる可能性は高まる。ある問題に関して障害者団体に動員をかけるには、ファクス、電話を通じた「法律・権利推進連絡システム」が用いられる。一般の人を対象にするにはマスコミが便利である。関心のありそうな個人、団体の支持をまとめ、問題へのパラクォードの影響力を強めることには利点が多い。
また草の根の組織化も成されてきた。草の根の組織化とは障害者のエンパワ−メントへの地域社会の支持を強めるために、幅広い基盤を作ることである。目的は、必要な際に権利推進(アドボカシー)活動に参加する用意のある個人、団体のネットワークを作ることである。活動は通常二つの分野に絞られている。一つは既存の障害団体と協力すること、目的を共有する新たな障害団体の結成を促進することである。例えばパラクォードはセントルイス障害者市民連合、ADAPT(公共交通アクセスを求めるアメリカ人障害者)、知事に報告する障害評議会、ジャスティス・フォー・オール、全米自立生活協議会[xxii]と協力している。第二は障害者の権利がどのように貢献しているのか、そして介助など特定の課題に関して、社会に知らせることである。
メディアとの協力も重要な戦略の一つであり、権利を主張する際に有効である。テレビ、ラジオ、新聞で取り上げてもらえれば、その問題は社会の知るところとなり、世論の支持が得られるし、相手側にプレッシャーがかけられる。記者、ジャーナリスト、編集者、テレビ・ラジオのプロデューサーと関係を作っておくのが大切である。こういった関係を築き、深めていく方法は、障害者に関係する時事問題、催しに関して注意を促すプレスリリースを出すことである。メディアを通じて権利を訴えるには、投書欄や意見のコーナーに書いて送る手もある。これは特定の政策や事業の必要性を社会に訴え、社会に理解してもらう簡単な方法である。
このように権利主張・権利擁護をする者(アドボケート)は一つ、もしくは複数の方策(ストラテジー)を活用して多くの役割を果たすことができる。役割は広範にわたっている。すなわち、今挙げたような研究、組織のオルグ、ロビー活動、調査活動、メディア対策、そして過激な行動である。アドボケートは、ある特定の活動を気に入ったり、自分の得意分野を見つけたりするかもしれない。例えばある人は、ADAの下での都市間バスの要件を調べるのに関心を持つかもしれないし、別の活動家は障害者を差別するバス会社の前でデモを行うことがおもしろいと思うかも知れない。デモや抗議行動の方が注目を浴びがちだが、「人目を引かない」政策分析や、政策立案の価値もまさるともおとらない。肝心なのは全てのアドボケートが、それぞれのやり方はちがっても、力をあわせて、同じ目的に向かって一つの集団として活動することである。
第二節 自立生活センターの発展
次に自立生活センターが分化、発展してできた団体について紹介したい。自立生活センターからは障害者の法律擁護団体、障害者問題の研究機関などが生まれているが、障害者権利運動においてはこれらがネットワークを組むことにより、政策立案から実施に至るまでを一貫して担ってきた。
自立生活センターは直接サービスを提供する団体として設立された。しかし、サービス供給団体ができても、社会環境が整わないためにサービスはいきわたらず、法的措置による状況変革をめざす必要が生じ、第二の法律アドボカシ−専門の団体として、1979年に障害者権利教育擁護基金(Disability
Rights Education & Defense Fund:以下DREDFと略す)がバークレーに生まれた[xxiii]。DREDFは、自立生活センターの活動の一つであったリハビリテーション法に基づく啓発プログラムから独立する形で発足した団体である。設立後は、法律相談、政策提言、訴訟などを扱っていて、障害者の立法制定の民間拠点として活躍し、自立生活の権利擁護をサポートしている。
DREDFのロビー部門は1980年にパトリシア・ライト[xxiv]によって首都ワシントンに設置された。ライトは、それまでの障害者のロビー活動の排他的な雰囲気に新風を巻き込み、ADA制定の際にロビイストのリーダーとなった人物である。それまで既存のロビイストのほとんどは障害者の親か,福祉の専門家で、医療の観点から障害者に必要とされるもの、例えば養護施設や授産施設、作業所、職業リハビリプログラムなど何百万ドルもの補助金を獲得あるいは維持しようと試みてきた。しかし、ライトはこの障害者運動を十分理解し、障害者同士のコミュニティーを作ったり、障害者の権利を擁護したり、革新的な法律を作ることを奨励したりして、ADA制定に向けての法律や立法,草の根運動を先導してきた[xxv]。
1983年には、障害者の自立推進活動の論理的な裏付けとなる研究を行う必要が生じ、第三として障害者によるシンクタンクである世界障害者問題研究所[xxvi](World Institute on Disability:以下WIDと略す)が始まった[xxvii]。WIDは人権思想から発している自立生活運動を、アドボカシ−とサービスを行うという段階からもう一段上、すなわち障害をもつ人と周りの社会との関係について調査し、政策的なポリシーを考え、直接政府に政策を変えるよう働きかけ、また国際的な問題を扱う機関として設立された。実際には、障害をもつ人々の自立を援助する調査・研究と訓練センターがあり、情報を政策立案者、企業、地域や障害をもつ人のリーダー、メディア、一般社会へ提供している。財政は、政府や財団、企業からの補助金や個人の寄付金によって賄われている。自立生活センターとは情報収集、調査実施等において協力関係にある。
自立生活センターは直接サービスを提供するために作られたことは、これまでにも述べてきたが、それだけでは障害者の権利獲得に際して不十分であり、訴訟や研究などを特化させて行う必要が生じたためにこれらの機関は生まれた。障害者権利運動は、このような研究運動などの性格をもあわせもつことによって、一層発展し、説得力や法的強制力を持つものとなったといえるだろう。
第三節 障害者団体間の協力
それでは数ある障害者団体はどのようにADA制定という同じ目的に向かっていったのであろうか。この節ではADAの立法過程における障害者団体間の協力関係について考察していきたい。
1974年頃まで、多様な障害者団体が、公共政策に影響を与えるような共同行動に参加する試みは、ほとんど、あるいは全く存在しなかった。何年もの間、視覚障害者団体、聴覚障害者団体、傷痍軍人団体などの活動的な団体は、連邦政府の立法に影響を及ぼそうと努力してきた。しかし、何百もある障害それぞれにかかわる団体が、それぞれに特化された課題に取り組む傾向にあり、目的が相互に関連していたにも関わらず、正式な方法で提携しようとはしなかった。各々が法律に自分達の利益を反映させようと闘っていた。時には障害が違う団体の確執も生じたし、同じ障害をもった人でも団体同士で対立することもあった。しかしADAは、このばらばらな障害者達を差別への戦いという点において統一させた。約180の団体がADA第二法案を支持したのである[xxviii]。
ここで、ADAPT(=the American Disabled for Accessible Public Transit:公共交通アクセスを求めるアメリカ人障害者)と全米リハビリテーション協会という二つの団体の協力関係についてみていきたい。
テキサス州オースティン出身のADAPTのメンバー、ボブ・カフカと全米リハビリテーション協会メンバーのランディ・ジェニングスは1990年にワシントンにやってきてロビー活動を開始した。この二人は全く違うスタイルと戦略の持ち主で、いつもは障害者と専門家としてにらみ合う仲だった。
ADAPTは1983年に直接抗議専門の障害者団体として設立された[xxix]。抗議運動や座り込み、デモ、不法侵入などの市民的不服従(これらはアメリカの奴隷解放運動、女性選挙獲得運動で数多く使われてきた。)を駆使して議会を妨害するつもりだった。実際ADAPTのメンバーは8年間の間に全米各地で何百回も逮捕された。特に公共バスの協会である全米公共交通機関協会の会議は毎回妨害した。これに対し、全米リハビリテーション協会は、サービス利用者である障害者がいかに権利の擁護を必要としているのか、連邦議会にていねいに説明するつもりだった。この全米リハビリテーション協会のメンバーである、ジェニングスや他の障害者は今までADAPTのような団体とは距離をおいてきた。ADAPTの市民的不服従や大量逮捕などの考え方は好戦的分派集団とみなされたからだ。しかし彼らはADAという同じ目的のために非常に力強い連合をつくり、数え切れない障害者差別に関して議会の意識を向上させるのに見事に成功した。特にワシントンで彼らがイニシアチブをとった正義の車輪デモは、草の根運動の力の見せ所となった。
1990年3月初旬、カフカらテキサスの代表とジェニングスら専門家達が共にホワイトハウスの正面玄関前に集まった。それまでにあらゆる障害者団体に抗議デモの招待状を送り、集まったのは475人[xxx]。そのうち多くは車椅子利用者だったが、ホワイトハウス正面の歩道一面に広がり、ADAに署名して欲しいという要求を開始した。後から250人が連邦議事堂で加わった[xxxi]。かつてのリハビリテーション法504条施行支持のデモにも同じくらいの人数が参加したが、今回のように障害の種別や程度を越えて、専門家も加わって集まったことはなかった。
デモの最中にADAPTの全国的リーダー、マイク・オーバーガーが連邦議事堂の階段の下に電動車椅子で登場し、話を始めたとき、聴衆の力は一気に大きくなった。彼は議事堂の上までつながっている階段を指してこう言った。
「今、私たちの目の前にある階段は、私たち障害者に対する差別と長い歴史を象徴しているのではないでしょうか。自らの意志に反して収容施設に入れられ、障害者だからという理由だけで子供を引き離された私たち、住宅や仕事を拒否されてきた私たちへの差別です。こういった侮辱的対応や不公正さはこれ以上続くべきではない。」[xxxii]
そして彼が「アクセスは公民権だ(Access is our civil Rights)」といった瞬間に抗議参加者たちは、車椅子からわざと身を投げ出し、自力で83段にわたる議事堂の階段を這い上がり始めたのだ。アメリカ独立宣言のコピーをそれぞれが手にして這い上がり、上までたどり着いたら議員に渡すという筋書きで、その通り皆が行動し始めた。怒りに燃える障害者が両足が動かないにもかかわらず這い上がる光景は、素晴らしくもあり、不快でもあった。しかしその晩各テレビ局は、障害者は今公民権を求めている、と視聴者に伝え、ADAPTの意図に合った報道をしてくれた。
ADAPTのような過激なやり方は人々の注意を引きはするが、冷静な交渉を拒否してばかりいるように人々にはうつった。彼等も自分たちが連邦議事堂に集まりADA法案の早期審議、通過を要求しても無理だろうことは半分分かってはいたが、それでもあえて無謀な行動に出たのは障害者の力を見せたかったからだった。今まで人に依存する生活を送ってきた障害者がこのような行動に出ることで、自分の持つ力に気づき、自信を持てるようになるからだ。
このように障害者のロビー活動には、てんかんから精神病まであらゆる障害をもった人達が参加し、様々な団体の協力があったからこそADAという画期的な法律が議会に提出されてから2年という速さで法律として制定するに至ったのである。
終章 これからのアメリカ社会と障害者の課題
本論文では障害者達の自立生活運動、権利獲得運動の社会的目標であったADAの制定過程をおってきたが、最後にこれまでに論じてきたことをふまえて、障害者や障害者団体が行った運動や用いた戦略のどのような点が重要で、どのようにADA成立に寄与したのか、ということについて考えてみたい。
障害者の自立生活を促した要因として第一に挙げられるのは、障害者が運営主体となって、障害者の自立生活を総合的に支えるためのサービス拠点機能や、社会参加および自立生活運動の拠点的機能をもつ自立生活センターが連邦政府や州政府の財政的援助を受けて、全米各地に普及したことである。ここで重要なのは、組織や団体の運営を行っているのが、障害の当事者である障害者自身であるという点である。福祉の専門家や障害者の親達に頼るのではなく、彼ら自らが行動することで、より自立生活に対する想いが強まり、政治的に与える影響も大きかったのではないだろうか。そして、彼らが自ら運動に参加するようになった背景には、アフリカ系アメリカ人や女性達の公民権獲得闘争があり、それらに影響を受け、また彼らの戦略がモデルとなった。
障害者の運動で重要であったこととして二番目に考えられるのは、様々な障害をもつ人達がコミュニティーをつくり、障害の枠を越えて協力し合ったことである。より多くの障害をもつ団体が結集することによって、組織も拡大し、影響力が増したことは言うまでもない。
また3つ目に重要なこととして考えられるのは、自立生活運動を社会的な勢力として認知させ、その社会的発展を側面から支えた研究機関や権利擁護機関の存在である。先にも挙げた世界障害者問題研究所(WID)は、自立生活センターから独立し自立生活運動と連携して、自立生活の重要性を客観的に証明し、社会的に啓発する役割を果たした。一方で、障害者権利教育養護基金(DREDF)は何名もの法律家を雇い、自立生活に関連した障害者の全国的権利擁護機関として存在し、障害者の権利擁護をサポートした。自立生活運動においてはサービスの提供をするだけではなく、そこから発展して研究運動としての性格ももつようになったのである。このようにそれぞれの機関が独立してサービス提供や訴訟、研究などの性格を生かし、それぞれの局面で役割を果たしたことによって障害者の権利獲得運動は一層発展したと言えるのではないだろうか。
これら三つの要因によってADAは成立したといえるが、もう一つ忘れてはならないこととして、障害者権利獲得運動に特徴的な要因が考えられる。それは障害者が働くことによって得られる費用の問題である。アメリカは他のどの国に比べても経済的合理性を最優先させ、人間一人ひとりの完全な自立が尊ばれる国である。この国においては「福祉=税金の無駄遣い」という考えが根強いため、障害者をいつまでも税金の消費者にしておくよりも、積極的に社会参加させて納税者にするほうが、アメリカ経済にとっては有益であると考えられたのだ。ただADAにおいては、障害者を雇用する企業に、彼らが働けるように便宜の供与が義務付けられているため、障害者の雇用管理のために逆にコストがかかってしまう、という問題もある。しかし、これに関しては第一章第三節で述べたとおり、障害者のための配慮費用がそれほどでもないことが分かっている。実際ADA施行後に行われた大手デパート,シアーズにおける便宜の供与に関する実態調査で、92年から95年までの3年間において、便宜供与のための障害者一人あたりの平均コストは455ドルであることが明らかになった。しかも、全体の約7割のケースが、何ら特別な経費の支出を必要としなかったという。逆に500ドルから1000ドルもかかったケースは、全体の1%にすぎないということも分かった。シアーズでは、これら必要とされた人件費コスト全体を考慮しても、コストをはるかに上回る現実の収益が確保されている、と報告している[xxxiii]。また障害者は、障害を持たない人と比べても、仕事の効率が良く、欠勤も少なく、仕事における事故やミスも少ないということも分かっている[xxxiv]ため、障害者を雇うことが決してマイナスではなく、むしろ経済的にも有益になるということが分かるであろう。
このようにアメリカという国が、歴史的背景から隔離や差別に敏感であり、アフリカ系アメリカ人や女性達の公民権運動が先例としてあったこと、また経済的効率や合理性を優先させる国だということは、障害者の公民権としてのADAを成立させやすくした。しかしそれだけではなく、ADAが立法化されるまでの段階において、障害者自身がコミュニティーをつくり、異なる障害の団体がADA制定という同じ目的に一致団結して向かっていき、様々な角度からそれぞれが政治的に働きかけていったからこそ、障害者の差別撤廃の法律制定が実現したといえるだろう。
さて、ADAはこれまでみてきたように多くの障害者達及び障害者団体の悲願で生まれたが、その後どのように機能しているのであろうか。
ADAが施行されてから2000年6月26日で10年目を迎えたが、アメリカ連邦政府の独立機関、全米障害者評議会は、法に盛りこまれた内容は十分に実施されておらず、障害者が普通の生活をするには、まだ道のりがある、という報告書を発表した[xxxv]。報告書は「守るべき約束、連邦政府の米国障害者法施行から10年」としてまとめられ、クリントン大統領らに対策を求めた。同協議会のマーサ・ブリスト氏は記者会見で、「連邦政府の部局によって、ADAへの取り組みにばらつきがある。政策立案にあたって、全米レベルの総合的な戦略がないからだ」と語った。またADAの立案者の一人、メリーランド州選出のステイニー・ホイヤー下院議員は、報告書の内容について「ADAに対する違反行為がまかり通っている。これでは、ADAの実現に努力してきた関係者が浮かばれない」と述べた[xxxvi]。同報告書はクリントン大統領と議会に、一般市民のADAに対する関心を高めるよう対策を求めている。
本論文でこれまで述べてきたとおり、確かにADAは障害者の世界に地殻変動を起こし、自分自身をどうとらえるか、という点での急激な変容をもたらした。そして今や障害者達はアメリカ社会における少数派や社会からの排除に挑戦する権利を持つようになっている。しかし、多くの障害者にとってこの法律の成立が急進的であったくらいなので、障害者が哀れみではなく、権利を求めるようになったということは、障害のないアメリカ人には少ししか理解されていなかった。障害者にとっての新たな課題は差別や尊敬であり、医療を充実させることや障害のない人に勇気を与えたりする事ではない、ということを多くのアメリカ人は見過ごしてきたのである。1991年に発表されたハリス社の調査では、重度障害者に会うと賞賛したくなる人が92%、哀れみを感じると答えた人が74%、また「障害者に起こったことが自分にも起こるかもしれない」と恐れを感じる人が46%、「障害は面倒だ」という理由から怒りを感じると答えた人が16%という結果が出ている。さらにADA施行1年後というこの時期に、ADAを知っていると答えた人はたったの18%だった[xxxvii]。この調査から、ADAがこれだけ多くの障害者の努力と結束の結果生まれたにもかかわらず、障害を持たない人にとってはほとんど知られておらず、彼らにとっては無関係のものだったということが明らかになった。
またADAが立法化されてから10年の月日が流れた現在でも、先に挙げた全米障害者評議会の報告からも分かるように、ADAが十分に機能し、社会の全ての場面で障害者が健常者と同じような生活を送るのには程遠いのが現状のようである。この論文で述べてきたように、障害者団体は自分達の権利を得るために様々な活動をし、あらゆる障害を持つ人々が協力しあい、結束してADAの成立という目的を達成したのであるが、彼らにとっての本当の課題はそこから先にあったのではないだろうか。いくらアメリカ人の13%が障害者とはいえ、残りの87%は障害を持たない人なのであり、彼らと共に暮らし、同じような生活を送るためには、健常者の理解を得ることが何よりも重要である。これまで議会に対して行ってきたロビー活動などで発揮した凄まじいほどのパワーを、今度は障害を持たない人々にもアピールし、障害者に対して持たれている偏見や恐れの気持ち、期待度の低さなどを払拭して行く必要があるのではないだろうか。これからのアメリカ社会においてより多くの障害をもつアメリカ人が、障害をもたない人と同じように社会で幅広く活躍する日のためにこれからも障害者団体の権利運動は続いていくだろう。
[i] リチャード・K・スコッチ著 「アメリカ初の障害者差別禁止法はこうして生まれた」明石書店 2000年
[ii] 中野 良達ら編 「障害をもつアメリカ人に関する法律」 湘南出版社 1991年
[iii] ジョセフ・P・シャピロ著 『哀れみはいらない−全米障害者運動の奇跡−』
現代書館 1999年 P160
[iv] 中野 前掲 P141
[v] http://www.dinf.ne.jp/doc/thes/z00/z00011/z0001110.htm
[vi] Don Fersh and Peter w.Thomas,Esq
『Complying with The Americans with Disabilities Act』 P16
[vii] ジョセフ・P・シャピロ 前掲 P45
[viii] 八代 英太 富安 芳和 編 「ADAの衝撃」 学苑社 1991年 P36
[ix] Don Fersh 前掲 P18
[x] ジョセフ・P・シャピロ 前掲 P173
[xi] リチャード・K・スコッチ 前掲 P51
[xii] 同上 P75
[xiii] 障害者の機会均等のため、経済的な保障や生活の自立、あらゆる社会活動への参加を促すことを目的とする大統領の諮問機関。大統領の任命と上院の承認で15人のメンバーが選ばれていて、議会に法制面の勧告をする責任を担っている。
[xiv] ADA制定の中心人物であり、「ADAの父」とも言われている。大統領直轄の障害者雇用委員会(the President’’s Committee on Employment of people with disability)の議長を務めた。
[xv] 八代 英太 富安 芳和 編 「ADAの衝撃」 学苑社 1991年 P36
[xvi] 同上、P38
[xvii] ジョセフ・P・シャピロ 前掲 P186
[xviii] Don Fersh 前掲 P21
[xix] ジョセフ・P・シャピロ 前掲 P112
[xx] http://www.wnn.or.jp/wnn-v/book/tokyonpo/chap2-4-1.html
[xxi] 同上
[xxii] 全米の自立生活センターによって構成されている。
[xxiv] パトリシア・ライトは20年間障害者の権利擁護の運動に携わってきて,現在DREDFの長を務めている。2001年1月8日にクリントン前大統領より、「the Presidential Citizens Medal」 を受賞した。その他にもブッシュ前大統領より「the Distinguished Service Award」を、障害者として初めて「the Hubert H.Humphrey Civil Rights Award」を受賞している。
[xxv] http://www.dredf.org/press_releases/pathonor.html
[xxvi] 世界障害者問題研究所は、現在では全米だけでなく国際的な自立生活の調査研究に寄与している。
[xxvii] http://www.wnn.or.jp/wnn-v/book/tokyonpo/chap2-4-1.html
[xxviii] ジョセフ・P・シャピロ 前掲 P189
[xxix] http://www.humind.or.jp/welfare/disablep/jil97/aんnne-j.html
[xxx] ジョセフ・P・シャピロ 前掲 P193
[xxxi] 同上 P194
[xxxii] 同上 P196
[xxxiii] http://www.dinf.ne.jp/doc/prdl/jsrd/norma/nrm001/n182_059.htm
[xxxiv] Don Fersh 前掲 P21
[xxxv] http://www.cnn.co.jp/2000/US/06/28/ADA/
[xxxvi] http://www.cnn.co.jp/2000/US/06/28/ADA/
[xxxvii] ジョセフ・P・シャピロ 前掲 P462
参考文献
1次資料
・斉藤 明子訳 「アメリカ障害者法」 現代書館 1991年
・中野 良達ら編 「障害をもつアメリカ人に関する法律」 湘南出版社 1991年
・http://www.ncd.gov/newsroom/bulletins/b0700.htm
・ http://www.dredf.org/(Disability Rights Education & Defense Fund)
・ http://www.dredf.org/press_releases/pathonor.html
・ http://www.dredf.org/staff.html
・http://janweb.icdi.wvu.edu/kinder/linkframe.htm(The U.S. Equal Employment Opportunity Commission (EEOC)&The President's Committee on Employment of People with Disabilities)
2次資料
・八代 英太 富安 芳和 編 「ADAの衝撃」 学苑社 1991年
・リチャード・K・スコッチ著 「アメリカ初の障害者差別禁止法はこうして生まれた」明石書店 2000年
・ジュリスト」1990年12月15号 特集 障害者の権利
・アメリカ下院編纂/山岡 清二訳 「アメリカ議会と法案審議のしくみ」 経済広報センター構成 1981年
・ジョセフ・P・シャピロ著/秋山 愛子訳 「哀れみはいらない―全米障害者運動の軌跡―」 現代書館 1999年
・全米障害者評議会 「自立へ向かって―障害者に関する政府の法律・事業の評価および立法上の勧告―(翻訳)」 国際障害者年日本推進協議会 刊行年不詳
・ヒューマンケア協会編 「自立生活への衝撃―アメリカ自立生活センターの組織運営、財務」 1990年
・斉藤 明子 「ADAを成功させたアメリカ障害者運動のパワー」 福祉労働49号
現代書館
・障害者インターナショナル(DPI)日本会議編 「アメリカ障害者法とは何か」 1990年
・小川 信子/野村 みどり/阿部 祥子/川内 美彦 共編 「先端のバリアフリー環境」 中央法規出版 1996年
・ Don Fersh and Peter W.Thomas,Esq
「COMPLYING WITH THE AMERICANS WITH DISABILITIES ACT」
http://www.humind.or.jp/welfare/disablep/jil97/anne-j.html
(自立生活の歴史)
http://www.humind.or.jp/welfare/disablep/jil97/jim-j.html
(政策と障害者のエンパワーメント)
http://www.cnn.co.jp/2000/US/06/28/ADA/
http://www.dinf.ne.jp/doc/prdl/jsrd/norma/nrm001/n177 038.htm
(検証ADA新時代 ADAの施行状況について)
http://www.dinf.ne.jp/doc/prdl/jsrd/rehab/rhb/rh001/r069 002.html
(自立と権利獲得)
http://www.dinf.ne.jp/doc/thes/z00/z00011/z0001110.htm
(18カ国における障害者雇用政策)
http://www.dinf.ne.jp/doc/prdl/jsrd/norma/n194/n194_051.htm
(海外自立生活新事情 カリフォルニア州における障害者の権利擁護システム)
http://www.dinf.ne.jp/doc/prdl/jsrd/norma/n193/n193_045.htm
(カリフォルニア州における発達障害者の地域生活支援システム(その2))
http://www.dinf.ne.jp/doc/prdl/jsrd/norma/n189/n189_041.htm
(アメリカにおける障害者の自立生活運動と課題)
http://www.dinf.ne.jp/doc/prdl/jsrd/norma/n197/n197_070.htm
(アメリカ聴覚障害者へのサポート事情)
http://www.wnn.or.jp/wnn-v/book/tokyonpo/chap3-4.html
(行政とNPO第3章第4節)
http://www.wnn.or.jp/wnn-v/book/tokyonpo/chap2-4-1.html
(行政とNPO第2章第4節)
http://www.dinf.ne.jp/doc/prdl/jsrd/norma/nrm001/n180_036.htm
(検証・ADA新時代 ADAに対する職員研修)
http://www.dinf.ne.jp/doc/prdl/jsrd/norma/nrm001/n182_059.htm
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http://www.eeoc.gov/press/8-31-00.html
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http://sunsite.sut.ac.jp/pub/academic/political-science/speechs/bush.dir/b63.txtp
http://sunsite.sut.ac.jp/pub/academic/political-science/speechs/bush.dir/b43.txp
卒論あとがき
久森 匡子
やっと卒論が終わってほっとしたものの、なんだか後味の悪さを感じずにはいられないのは私だけでしょうか・・・。去年の2月頃から早1年間、卒論に取り組んできたわけですが、やっと提出というこの時になって、これはどういう事なんだろう、あれも調べてみたいという知識欲が旺盛になり始めてしまったのです。しかし、時すでに遅し。すべてを調べきれる時間がなく、妥協して終わらせてしまう形となってしまいました。あと1ヶ月あれば、もっといろんな事が調べられたのに・・・と今少し後悔しています。(1ヶ月あってもあんまり変わらないかもしれませんが。)
私はADAという障害をもつアメリカ人法における障害者団体の差別撤廃運動、および権利獲得運動について論じたのですが、まず反省点として、歴史的な叙述にとどまってしまったことが挙げられます。立法過程を追っていく場合、どういう出来事があって、誰と誰が対立して、という風に歴史を追っていくだけになりがちなので、私はあえて障害者団体をADA制定における圧力団体とみなし、彼らの戦略の分析を試みて、事実の羅列を避けようと考えていました。しかし、結果的に団体の活動の紹介などにとどまってしまい、突っ込んだ分析ができずに終わってしまいました。また個々の団体について予算や会員数、具体的な活動内容、出来事などについても調べようと思っていたのですが、団体によって資料が見つかったものと見つからなかったものがあり、すべてを網羅できなかったのが心残りです。
また、私は英文の資料や文献を探す際には、ほとんどインターネットで検索していたのですが、団体に関するホームページや関連記事がないものの結構あったので、インターネットだけでなく図書館のデータ−ベースなどをもっと上手く活用すべきだったと思っています。自分が疑問に思ったことやもっと知りたいと思ったことについて、あらゆる手段を使って調べればきっと答えがでたはずだと思っているのですが、自分がそこまでしなかったという努力不足にとても後悔しています。
最終稿を書く際には、先生や院生、他の人からのコメントはとても参考になりました。もっと3章を膨らませたほうがいい、とか結論をしっかり導くべきとか、様々なアドバイスをいただきましたが、それらのことについて深く調べてみたので、初稿のときよりはだいぶ分かりやすい論文になったのではないかと思います。また、コメントで自分の論文の良い点などもたくさん指摘してもらえたので、それは大きな自信につながりました。
反省点や心残りな点は多々ありますが、なにはともあれ無事に論文を書き終えることができたことには満足しています。お疲れ様でした!