大統領と大統領補佐官による政治

〜ニクソンとキッシンジャーの場合〜

4 小用 悦子

序章:はじめに

1章:大統領補佐官の制度化までの過程

1節:1939年の行政改革

2節:大統領補佐官制度の特徴

2章:ニクソンとキッシンジャーの関係−政治的側面から−

1節:ニクソン−キッシンジャー外交史

2節:ニクソンの政治スタイル

3節:キッシンジャーの権限範囲

4節:ロジャーズ国務長官の立場

5節:訪中特使をめぐって

3章:ニクソンとキッシンジャーの関係−内面的側面から−

1節:キッシンジャーから見たニクソン

2節:ニクソンから見たキッシンジャー

3節:ニクソンとキッシンジャーの共通点・相違点

終章:結論

 

 

序章:はじめに

政治というものは何によって動くのだろうか。政策というものはどのように決定されるのだろうか。このような疑問が私の卒業論文の出発点となった。一つの国が一つの政策を決定するとき,たとえそれが内政問題であっても,外交問題であっても,大きな問題であっても,小さな問題であっても,何らかの要因があってこそ成し遂げられるものである。その要因は,世論であったり,環境であったり,経済であったり,さらには政策決定者の欲であったりもする。その中で私は個人というもの,個人の人間関係が大きく左右することがあるのではないかと考えた。政治は人が動かすものであり,政策は人が作り出すものである。この仮定から,超大国アメリカでの場合を考察していきたい。政策決定を行うときに,様々な要因が絡み合っているが,その中で個人というものがどのように影響するのかということを考えていこうと思う。アメリカでは大統領が頂点に立ち政治を行う。アメリカ大統領は独りで政治を動かす権力を担っている。そのアメリカ大統領はどのように政策決定を行うのだろうか。

一般的に,大統領の政策決定は合理的な表の面と,個性という情緒的・内面的な裏の面の二つからできあがると言われている。したがって,大統領が自らの権限をどのようにとらえているかというパーソナリティーによって,決定スタイルも大きく異なってくる。この決定スタイルには大きく分けて二つの分類がある。それは「強い大統領」と「弱い大統領」とである。前者は強大な大統領職を想定し,権力志向型となる。彼らはカリスマ的性格を帯び,国民に明確なビジョンを示し,自らの行動性を明らかにしようとする。このような大統領はその時代が緊張,激動,変革の様相を呈した場合に多い。一方,後者,つまり弱い大統領は権力の行使を嫌う。心情的にも性格の上からも政府による干渉をできるだけ少なくして,国民や議会を説得したり,指導したりすることはなるべく避ける。このような大統領は国家が比較的平静な国内・国際的環境に恵まれている場合が多い。前者の代表的な大統領は,自らを「リチャード王」と称し,帝王型大統領を志向して政治を行ったニクソンである。「強い大統領」であり,「ワンマン型」の政治を行ったニクソンは,キッシンジャーを大統領補佐官として迎え,その政策決定スタイルによって,さまざまな面でメリットをもたらし,外交における輝かしい業績を挙げた。この政権下では,内政外交ともに秘密主義が横行し独断専行することがしばしばあった。ニクソンはブレーンを重視し,閣僚は軽視された。特に,ロジャーズ国務長官がないがしろにされた話は有名である。

本論文ではウォーターゲート事件で,任期を27ヵ月残し失脚したこのニクソンに焦点をあて,政策決定過程を考察していく。なぜ,ニクソンはキッシンジャーを登用し,様々な業績を挙げることができたのだろうか。大統領とその補佐官の二人の関係がどのようなものであったのか,そして二人のどのような個性が政策におけるメリット,デメリットになったのかを,この論文において分析したいと思う。大統領がどのようなスタイルで政策決定を行うのかは,その大統領のパーソナリティーと深く関わっている。そこで,ニクソンの個の部分に迫り,さらに,キッシンジャーの個の部分にも迫り,補佐官を使う政治というもの,そしてニクソンとキッシンジャーの政治というものを分析していく。そして,最終的に,政治は人が作り出すという仮定に自分なりの結論を出していきたい。

代表的な先行研究としては,ニクソンとキッシンジャーの精神面を分析した中西信男の「アメリカ大統領の深層 =最高権力者の心理と素顔」がある。これは,政治学ではなく,心理学を専攻する教授が書いたものである。ニクソンや,ケネディーなどの大統領の深層心理と著者の言う「国民の集団的幻想」,さらに大統領の深層分析を通じて,アメリカ政治の一面と大統領選挙の特徴を解明しようとしている。特に大統領選挙において,国民が指導者に対してカリスマ的あるいはメシア(救世主)的姿を求め,不合理なほど大きな夢と期待を抱いている点を強調している。この書は,心理学者が書いている為,政治学の面からは気付く事がない見方をしている。しかしその反面,心理面のみの分析に止まり,その心理をもたらした原因については触れられていない。ここでは彼らの生い立ちに問題があるとしているが,政治家としてホワイトハウスで権力を行使するに当っては,生い立ちだけでは語る事の出来ない様々な要因が働いているはずである。大統領であるニクソン,大統領補佐官であるキッシンジャーの心理を分析するには,彼らの心を動かす,政治的な側面も見なければならない。この点が不足していると思われる。そこで私は,ニクソンとキッシンジャーについて心理分析を行うと同時に,彼らの政治的な側面も見ていきたいと考えている。

また,英語で書かれたものに関しては,ウォルター・アイザックソンの「キッシンジャー 世界をデザインした男」がある。これは,著者がキッシンジャーとのインタビューを通して,キッシンジャーの複雑な性格を余すところなく書き出し,偏見のない伝記を書こうとしている。これは偏見のない伝記と言えば確かにそうであるが,キッシンジャーだけでなく,彼を取り巻く人々の様子も盛り込まれていて,一つの小説のようである。これは,インタビューから書いた伝記であるので,踏み込んだ議論が行われていない。非常に,詳細に,かつ忠実にキッシンジャーについて書いてあるが,もっと政治的な側面から分析し,理論的に説明していかなければならない。したがって,私は,その点も踏まえていきたい。

本論文を書くための資料として非常に有効だったのは,ジョセフ・G・ボックの「White House Staff and National Security Assistant」である。この論文はアメリカ大統領のホワイトハウススタッフの起用の仕方を各政権に分けて分析しているものである。この中のニクソン政権について書かれた部分が非常に有効であった。これはニクソン政権に焦点を置いて書いた論文ではないにもかかわらず,事実関係が網羅されており,大統領補佐官制度そのものについて書いてある資料よりも詳しく書かれていた。

今まで,キッシンジャーやニクソンを個別に研究した人は多い。大統領制や大統領職,大統領補佐官制についての研究もある。しかし,これらを総合して,研究しているものは少ない。大統領の政策スタイルはその大統領の補佐官の個性によって異なると言いつつ,個々の大統領について論理的に研究しているこのはほとんどない。アメリカ政治の政策決定における大統領補佐官の影響力というものに注目し,その代表的なものとして,ニクソン−キッシンジャー政権を取り上げ,政治的側面さらに心理的側面の両方から,大統領と大統領補佐官の二人による政治を分析するという形をとった先行研究はない。私は,事実の列挙に止まらず,二人の人間としての側面に迫ってこの政権を分析することに,本論文のオリジナリティがあるのではないかと思う。嫌い合っていた二人がどのように政策をまとめていったのかという疑問に対し,その当時の政治的な流れと共に,二人の考え方も分析していく。政治は人間と人間の軋轢によって生まれているのではないかという仮定に迫るかのように,心の動きに注目していくことにこの論文の面白さがあり,個性があるはずである,

ニクソン−キッシンジャー政権というのは,ロジャーズ国務長官を軽視したという点で,非常に特徴がある。秘密主義が横行し,独断で政策決定の行われることが多かった。先行研究のなかでこの点に大きく触れているものはない。しかし,ニクソン−キッシンジャー政権を語る上で,この事実は非常に重要だと考える。なぜ,国務長官が在りながら,キッシンジャーなのか。なぜニクソンとキッシンジャーはうまくいったのか。ロジャーズ国務長官のことを踏まえた上での研究を試みる。国務長官側から見たニクソン−キッシンジャー政権を知る事で,新たな見方が出来ると考えられる。そしてそれは,ニクソンとキッシンジャーの関係を客観的に見る上で重要な役目を果たすであろう。

本論文はアメリカ研究の論文としては,特異な形式のものであり,歴史を辿ったものであると同時に,大統領の政策決定スタイルを分析することによって,将来の大統領補佐官というものの方向性を考えさせるものである。人間というのは,今を生きるものであるから,現在,そして自分の生きる将来というものに関心を寄せがちである。しかし,先のわからない将来に無知な状態で足を踏み入れるのは,リスクが大きい。思いもよらない危険に遭遇する可能性があり,またその危険への対処に戸惑うはずである。ここに歴史が存在する。過去の経験を,将来にあてはめて考えてみると,思いのほか早く解決策が見つかるかもしれない。過去の経験があてはまらないかもしれないが,それは過去になかったこととして,新しい経験となる。本論文はニクソンとキッシンジャーによる政治を政策スタイルの面から,またパーソナリティーの部分から分析することにより,国務長官を軽視した政治はどのようなものなのか,また大統領補佐官に大きな権限を与える政治スタイルはどのようなものなのかを判断する上で有効である。今後,ニクソンのような大統領や,キッシンジャーのような人物が政界に現れたときに,我々がどのように彼らを判断すればよいのかという一つの指針になる。その意味で,この論文はアメリカ政治における存在意義がある。

これから本題に入るが,この論文の全体の流れとしては,第1章では大統領補佐官制度を説明していく。大統領補佐官が正式に認められるようになっていった過程とその制度のもたらす特徴について述べていく。そして,第2章では,ニクソンとキッシンジャーの関係を政治的な側面から考察する。彼らの行った政治を振り返り,彼らのどのような関係が数々の業績をもたらしたのかを述べていく。さらに第3章では,ニクソンとキッシンジャーの関係を心理的側面から考察する。彼ら個人のどのようなパーソナリティーがメリット・デメリットとして働いたのかを中心に論文を展開していく。最後に終章でこの論文のまとめをし,結論付けていく。

 

1章:大統領補佐官の制度化までの過程

1節:1939年の行政改革

アメリカ人にとって,大統領は国家の最高責任者であるばかりでなく,国家的な英雄として存在する。その英雄は,ホワイトハウスにおいて想像を絶する重大な権限を背負っている。さらに,世界中の国々がその政策に一喜一憂している。一般的に,権力者は孤独である。その孤独が彼を英雄たらしめるのかもしれない。結果責任を負う覚悟をして,政策の選択を決断する場合,権力者の孤独感が顕著に現れる。ところが,行政機構が巨大化しており,アメリカ大統領が孤独な決断を下すというのが不可能となっている今日,孤独な権力者をサポートするのは一体誰なのだろうか。

ニクソン大統領がキッシンジャーを補佐官として登用した以前にも,歴史的には,大統領が個人的に私的スタッフを活用した例は存在した。第7代ジャクソン大統領のとき,若干の親しい閣僚,ジャーナリストなどを含む友人が,公式の内閣とは別にジャクソンの相談に預かり,台所内閣(Kitchen Cabinet)と呼ばれたことがある。また,外交に忙しくなったウィルソンが,旧友のハウス大佐を私的顧問ないし使節として用いたことも有名である。しかし,私的スタッフを大々的に用いたのは,フランクリン・ルーズヴェルトで,彼は選挙戦の段階でコロンビア大学の教授などを政策の立案,演説の草稿書きなどに使い,彼らはブレイン・トラストと呼ばれるようになった。当選後も,公式の閣議とは別にブレインを身近に置いて,適宜使用していた。コロンビア大学教授であったレイモンド・モーリィ,また内政では失業救済面で,のちに外交面で大統領の私的使節として活躍するハリー・ホプキンズなどが有名である。

このように従来大統領は私的スタッフをおいてきたが,このことに対して多くの批判があり,行政改革の一環として,大統領直属機関の公式の確立が望まれていた。大統領権力の強化を恐れる議会側の抵抗もあったが,1939年,行政再組織法で正式に大統領府(Executive Office of the President)が設立された。そこで注目すべきは,一つは従来財務省に属していた予算局を大統領内の機関とし,予算が大統領直轄になったことである。ちなみに同局は,ニクソン大統領の時代に,行政管理予算局(OMB)として拡充改組され,行政各部の調整をする役割ももつようになった。二つは,ホワイトハウス事務局(White House Office)が置かれ,大統領直属のスタッフが設けられたことである。このことは長期的に決定的重要性を持つ。なぜなら一人で責任をもつ大統領が自己の分身を正式にもち,大統領個人が大統領職という組織に転じたと言えるからである。この補佐官制度は年々拡充され,大統領の政策決定の中枢的機能を果たすことになる。

補佐官の数は当初は6名だったが,その後増大し,顧問,補佐官代理,特別補佐官といった名称の補佐官も増え,大統領個人によって異なるが,また数え方にもよるが,最近は50人ほどの補佐官が任命される。彼らは大統領の分身として,任命にあたり上院の承認を必要としない。さらに,その下の補佐役,秘書,初期などの膨大なスタッフ存在する。ホワイトハウス事務局の構成員の総数は,1973年には542名を数え,その後少し減少し,1990366名となっている。

 

2節:大統領補佐官制度の特徴

では,大統領補佐官制度にはどのような特徴があるのだろうか。大統領府に属する官僚は行政特権があるために議会に召集されることはない。このため非常に仕事がしやすい反面,往々にして秘密政治の温床ともなる。そして,この大統領補佐官の権限,使い方は個々の大統領によって異なる。しかしながら,大統領補佐官は大統領に直属した行政官僚として,巨大な権限を持っているのは疑う余地のないことである。それは,次の理由からである。

第一に,大統領に距離的に近い位置にいるということである。閣僚はホワイトハウスから離れた役所で執務をしている。したがって大統領に直接会うことは容易でなく,特別な場合を除いては面接係秘書のアポイントメントを取った上でなければ会うことは許されない。しかし,ホワイトハウスのスタッフ,なかでも補佐官は大統領と同じホワイトハウスで執務しているがゆえに,必要に応じてしばしば大統領に会うことができる。そのため大統領に近いがゆえに閣僚より権力をもつことになりやすい。

第二に,閣僚は各省庁の長官として業務の総括をしており,そのために雑用に忙殺され,その上議会にもしばしば出席しなければならない。しかし,補佐官にはそうした雑務もなく,議会に出席する義務がないため主要任務に集中できるのである。

第三に,ホワイトハウスのスタッフというのは,大統領の就任前から側近として大統領に関わってきた人ばかりなので,個人的な信頼関係のもと大統領に直接アクセスできるのである。選挙運動,あるいはそれ以前から大統領に関わりあいを持ち,長年の個人的信頼のゆえに側近に登用されて,ホワイトハウスに入る。このような人々は非常に強い権力を大統領の名において行使することが出来るのである。

第四は,官僚制ゆえに閣僚がそれを維持するため部下の意見の調整に意を用いるという煩雑な仕事をしなければならないことにある。これに対し,ホワイトハウスのスタッフは官僚的な複雑なシステムから自由であり,率直に大統領に進言することが出来るのである。

ここで,アメリカの官僚制と大統領補佐官の違いについて触れておくと,アメリカでは,大統領が内外の政策を最終的に決定する。それを,実行に移すのが官僚の役割である。したがって,そこには政策の決定を行う大統領と政策を実施する官僚の間に重要な次元の違いが存在する。したがって,ここに官僚と大統領補佐官の役割の違いも存在しているのである。実際のところ大統領は単独で政策を決定することは少なく,多くの補佐官や主要な閣僚が決定に参画する。さらに第2の役割として,政策に継続性を持たせることが挙げられる。たとえ大統領選挙で政権が別の党に移ったとしても,そこには政策上の継続性を持たせるのが官僚の役割なのである。ところが,このような官僚の役割ゆえに,自己の機構の利益,もしくは自己の利益を優先し,それを促すような行動に出るという問題が生じてくる。ある情報が自分の支持する政策に反するとか,自分の地位を危うくするものであれば,できるだけ高官の目に達しないように,その場で情報を取捨選択して自己の不利益なものは切り捨ててしまうということがしばしば行われてしまうのである。大統領が政策をスムーズに行えるようにサポートしていく大統領補佐官と,あくまで自己の地位や立場から決断を行う官僚との違いは明らかなのである。

このようなことから,大統領補佐官の持つ権力というのは,当然大きくなるものなのである。大統領は内政,外交政策を問わず,そのスタッフを自分の延長としてみている。その一方で,閣僚や省庁については,扱いにくい同盟者とか,重荷,厄介者とさえ見なすときもある。先にもみたように,スタッフが大統領の近くにいることがその大きな理由である。ホワイトハウスのスタッフのトップは絶え間なく大統領の周囲の軌道を行き来するが,閣僚らには自分たちの軌道がある。ホワイトハウスの高官は大統領とともに暮らしている。彼らはひっきりなしに大統領執務室に訪れ,また大統領と電話で話をしたりする。彼らは大統領の意見を知り,その勝利感を感じ取り,挫折感をも共に味わう。また大統領の気分を読み取って,彼を激励すべきときか,独りにしておくべきときなのかを悟るのである。彼らは,家族や王室の廷臣のような存在で,大物閣僚の権力と競い合う。

一般的に補佐官たちは心からの大統領の信奉者である。その信条は各省の官僚の独立した見解には決して汚されないのである。異常な程自信が強くて独立的な人物を除けば,補佐官たちは政策や政治を大統領個人の視点から見る傾向がある。仕事と影響力の双方で,全面的に依存しているので,反対することが大統領の利益につながる場合でさえ,彼の政策上の決定に断固反対することはめったにない。補佐官の自然な動きは,大統領に何ができるのかを伝え,それを支援することであり,決して大統領は何をすべきではなく,そうしないようにと説得するということではない。というのは,政治的ピラミッドの頂点に近ければ近いほど,ボスへの忠誠心の多寡が決定的基準になるからである。

では,ここで外交政策の実施を担う国務省と大統領補佐官との比較をしてみる。大統領補佐官と国務省を比べてみると,補佐官のほうが国務省よりも大統領の政治的関心に対してより注意深いことがわかる。大統領が政治の舞台で何をやりたがっているのかについても国務省よりも敏感である。国内政治が外交政策の決定の一因であると大統領が認めるのは事実上道義に反することであるが,それが一因であることは誰もが理解していることであり,大統領は政治的風向きに鋭いものの意見に耳を傾ける。これこそ,大統領が補佐官の助言に頼る理由なのである。このように,補佐官は国務省よりも著しく優位に立っている。大統領の近くにいるため,大統領と常時接触することができるほか,ほぼすべてのハイレベルの会議に出席でき,大統領に対して,決定的言葉を言うチャンスが持てるのである。その職は他省庁の立場を批判する秘密メモを書くことである。それに加えて,対立する見解を調和させたり,外交,国防,援助,対外宣伝,情報などを一つにまとめたりする人物も必要である。国務省としてはその仕事を請け負いたいのだが,同省は官僚機構の中のひとつの部族として存在しているため,ある政策決定をする上で存在する調停者としてライバル,つまり他の省庁に受け入れてもらえないのである。しかし,ホワイトハウスの優越性については他の省庁も受け入れざるを得ない。このような違いが補佐官と国務省の間に存在している。

さらに,国務省に関して言えば,様々な批判がある。その一つとして国務省は何をやるにしてもスローで,他の関係省庁と十分な意思疎通を図ったあとでないと行動に移すことはないということが挙げられる。だから,政策すべてが出遅れてしまい,効果的で一貫した外交政策が要求される場合に,他の政府機関に対して外交面で強力なリーダーシップを発揮することができないということになってしまう。このように国務省が他の省庁よりも機動力を欠いている一つの原因は,マッカーシズムによって地位を低下させられてしまったということであろう。さらに国内に支持基盤を持っていないということも国務省の脆弱化に繋がっていると言える。このようなことから,国務省が外交政策の助言者として大統領の補佐役としての地位を確立するには,さらなる努力が必要かもしれない。しかしそれもやはり,大統領がリーダーシップをとれる人か否かという問題と同じように,国務省の長である国務長官がどのようなリーダーシップをふるうかということに大きく左右される。

 

2章:ニクソンとキッシンジャーの関係−政治的側面から−

1節:ニクソン−キッシンジャー外交

1969年ニクソンは第37代大統領に就任し,念願のホワイトハウス入りを果たした。当時のアメリカは内政と外交の両面にわたって,極めて困難な問題が山積みしており,窮状の打開のために,新政権,特にニクソン大統領に卓越した政治指導力や斬新な政策理念が求められていた。まず,国内に目を向けると,ケネディー・ジョンソン両政権期の高度成長政策ならびにベトナム戦争の影響とともに,物価騰貴の趨勢が顕著となり,インフレ対策が深刻な課題となっていた。その上昇速度は増していき,適切な措置が取られなければインフレが長期化し,経済生活に重大な悪影響が出てくるのは明らかだった。さらに,人種差別問題やベトナム戦争批判などを契機とする世論の分裂など,アメリカ社会の民主化や対外政策の再検討を迫るような変革のエネルギーが充満していた。一方,対外関係においては,60年代初頭から問題となっていた国際収支の赤字は改善の兆候がみられず,それどころか,旺盛な民間資本の海外投資やベトナム戦費の増大とともに一層悪化していった。そのままでは,第2次大戦後の国際経済秩序の支柱というべきIMF体制の維持もあやぶまれてきた。

ニクソン大統領は対外関係に自ら積極的に取り組む姿勢を示したが,国務長官には法律家のウィリアム・ロジャーズを任命して堅実な実務処理にあたらせる一方,特に外交・軍事に関する特別補佐官にハーヴァード大学の国際政治学者ヘンリー・キッシンジャーを起用して,その協力のもとに対外政策の思い切った調整作業に乗り出した。キッシンジャーは国際関係についてイデオロギーよりは力と利害を重視する現実主義の立場に立ち,従来の「冷戦戦略」に対し批判を強めていたが,同様の認識にたって,事態の打開を図ろうとするニクソンにとり,欠かせない存在となっていた。

ニクソンとキッシンジャーの目指したものは,まずベトナム戦争の処理だったが,その基本方針はアメリカ軍の撤退をはかりながら「名誉ある平和」を確保することにあった。政権発足後間もない691月末に拡大パリ会議が開始されたが,ニクソンは5月に非南ベトナム軍の相互撤退や国際監視下の停戦など,8項目からなる和平提案を示し,6月に25千人の撤退を発表したのにつづき,翌月ベトナムの自主防衛力の強化とアメリカ軍の軽減を骨子とする戦争の「ベトナム化計画」を発表した。

グアム・ドクトリンと呼ばれる「ベトナム化計画」は,同盟国との安全保障に関する約束はするが,アメリカの直接の軍事介入は極力抑えるという方向への転換と言える。だが,そうした介入への抑制を可能にするためにも,共産圏諸国との関係の調整が必要であり,ニクソンは19702月「平和のための戦略」と銘打った外交教書で,包括的なニクソン・ドクトリンを発表した。これは,第1に,世界におけるアメリカの力,特に経済力の相対的低下という現実を踏まえて,過剰介入や同盟国への負担の肩代わりを行う必要性を強調したが,ベトナムをふくめ,将来の軌道修正を意図するものであった。また,アメリカが国際的役割を果たす上でひきつづき強力な軍事力を保持する方針を確認する一方で,共産主義圏に対し,硬直した対決姿勢をとるのではなく,交渉や取り引きに積極的に取り組んだり,相手陣営内の対立を活用する柔軟な権力政治的アプローチをとる方針を明らかにしたものである。

このような新ドクトリンはイデオロギー的対決路線の立場から際限のない介入に道を開いたトルーマン・ドクトリンからの転換を示していたが,キッシンジャーの卓越した手腕のもとに,それが最初に劇的なかたちで成果をあげたのは対中国政策だった。ニクソンはベトナムからの撤兵を進めるためにも中国との関係を調整し,国際秩序の協力者にする必要があり,他方中国側も中ソ対立の状況のもとで対米関係の改善に応じるだろうとの見方をしていた。米中接近は714月中国がアメリカ卓球チームを招いた「ピンポン外交」とそれに続くニクソンの訪中希望の表明で盛り上がり,キッシンジャーと周恩来総理との北京における秘密裡の会談をへて,7月にニクソンの訪中計画が発表されるにいたり,世界にニクソン・ショックともいうべき衝撃を与えた。

このように対中接近の第一歩を踏み出す一方,ニクソンは対ソ外交でも積極的に動き,69年に核拡散防止条約で合意に達したのに加えて,727月にはソ連を訪問して,核戦力の数量的規制を意図した交渉の第一段階である戦略兵器制限交渉(SALTT)をまとめた。また通商の改善その他の促進もはかられたが,これらがデタントの機運を高めたのは確かであった。

 

2節:ニクソンの政治スタイル

前節でみてきたように,ニクソンとキッシンジャーの二人による外交は輝かしい業績を挙げた。それは,ニクソンは大統領に当選するや否やヘンリー・キッシンジャーを補佐官に登用し,ホワイトハウスの国家安全保障会議(NSC)を中心とした外交政策推進システムを形作っていったからである。ニクソンは官僚政治によってアイゼンハワー政権の政策決定が妨げられたことを顧みて,出来る限り官僚政治を排除し,NSCを本来の目的である諮問機関から政策の立案決定の機関へと性格を変えた。アイゼンハワー政権においては,関係各省庁の合意が95%達成されており,大統領はイエス,ノーしか答える選択肢しかなかったのである。NSCの機構作りの第1点は重要問題別委員会の設置にあったが,第2は国家安全保障担当補佐官の地位と権限が前例のないほど強化されたのが特徴である。キッシンジャーはNSCスタッフの長として,また各種重要問題委員会の議長として政策立案過程の管理にあたるだけでなく,大統領の個人的なアドバイザーとしての役割を果たした。ニクソンはキッシンジャーと二人だけの会合で,重要な決定をしたと言われている。このように,キッシンジャーは大統領補佐官として前例のないほどの権限を獲得したが,これはニクソン大統領が自らを中心としたホワイトハウスで政策決定を管理し,それを限られた少人数で行おうとした姿勢からでたものである。

「ニクソン政権の登場とともに,ワシントンにはささやかな流行語が生まれた」と言われている。それはオプションとプライオリティという言葉である。オプションとは,何をどれだけできるかという広範な代案を並べ,その可能性と限界を見極め,探ることであり,プライオリティとは,このオプションの中からそのときどきの「利益への貢献度」に従って行動への順番をつけることである。つまり,まず一体何が可能かを突き詰めた上で,できることからやっていかねばならない,受け身の自己防衛的な,そして利己的な姿勢である。ニクソン政権の運営は,まずこの効果的なオプション作りのプロセスを確保することから始まった。そこで,第一に試みたのが,大統領がオプションをすくいあげる仕組みの制度化,また非個性化であった。これは,ジョンソン時代からの180度の転換であった。それは,例えば,ジョンソンが昼夜関係なく補佐官を呼び出して,重要な決定を行っていたのに対し,ニクソンが「私の執務は原則として午前7時から夕刻までオフィスで行う」と宣誓したことからもわかるだろう。ニクソンは,執務時間を世間一般のサラリーマン並みにしただけではなく,重要な政策決定プロセスそのものもシステム化してしまった。ニクソンはキッシンジャーを事務局長とする大量のスタッフを抱えたNSCを常設し,水曜と土曜をめどに定期的に開き,大統領自らが直接討議に参加する「重役会型」の機能をもたせ,この週2回の会議にアメリカの外交,国防政策のあらゆる問題についてのプライオリティを集約させる唯一の場とした。

ニクソンは,指導者が成功するためには,彼と使命感を共有し,早期警戒システムとして機能し,政治的な直感を所有し,指導者を過ちに陥らせないようにする能力を備えた中核的スタッフを作り上げなければならないと考えていた。そしてそのポストに就く者には,頭脳と心と気力という三つの資質を求めた。また,有能な指導者は,権限を委譲することを知らなければならないとも考えていた。なぜなら,大統領は全ての政策を自分で行うことはできず,他人のやったこと全てをやり直すこともできないからであり,大統領は大きな決定をするために雇われているのであって,小さなことは委譲するという責任を国に対して負っているのであると考えた。従って,ニクソンにとっては,権力を信頼して委譲することのできる相手をもつことが重要なのである。ニクソンはこのような理念のもと,スタッフを編成したのである。

また,ホワイトハウスの補佐官やスタッフのところには,マスコミを近寄らせないことも重要だと考えていた。何かの声明を公的に表明しなければならないときは,副大統領や官僚をあて,補佐官は表に出すべきではない。補佐官は目立たなければ目立たないほど,役に立つと考えていた。補佐官をマスコミにさらし,その存在そのものが否応なく問題化し,そうなった時点では,彼らが大統領にとって役に立たなくなり,時に厄介者となるのである。さらに,スタッフの人数が多いと,お金がかかるばかりではなく,もっと悪いことに,多すぎるスタッフは創意を窒息させ,意思決定を麻痺させてしまうとも考えていた。

こうしたニクソンの政策決定スタイルがもたらしたメリットとしては,ニクソンの理想とする,「ホワイトハウスから外交政策を取り仕切る」形式がとれたことである。ニクソンの考えとしては,内閣においても,さらには国家安全保障会議においても,重要な対外政策上の決定を多数決で行ってはならないというものだった。ニクソンは補佐官を起用し,補佐官に権限を持たせるスタイルをとることで,大統領自身が最も信頼する仲間たちの前で自分の考えを披露し,それらの人々の意見を言わせることができたのである。さらに,一番重要なこととして,一度決定が行われた政策を,彼らに支持させることができたのである。大統領とその側近を含めたトップの総意のもと対外政策を行うことができたのである。

またこのようなメリットがある一方で問題点ももたらしている。その問題点の第一は,ニクソン大統領がNSCを重視するあまり官僚機構を決定過程から排除した点である。NSCは外交問題に関する重要な情報を独占し,国務省など関係省庁にそれらの情報を提供しなかった。例えば,キッシンジャー訪中においては,ニクソンとキッシンジャーは中国とのやりとりをロジャーズ国務長官に話していなかった。そして,キッシンジャー訪中の数週間前から,ニクソンの側近たちはロジャーズをどのように扱うのか頭を悩ませていたのだ。ロジャーズはキッシンジャーがインドとパキスタンを訪問することに強く反対し,訪問すれば両国に対する国務省の外交方針を混乱させることになると主張したため,事態は一層面倒なこととなる。ニクソンはこの問題を片付けるため,ロジャーズに嘘をつく。キッシンジャーのパキスタン到着後,彼が急に中国側から予期せぬ招待を受けたのだと,ニクソンはロジャーズに打ち明けた。しばらく後に,このことに関し罪悪感を覚えたニクソンが,キッシンジャーの行っている秘密外交について詳しい説明を行ったが,キッシンジャーがパリで北ヴェトナムと交渉していることも,ロジャーズはこのとき初めて聞かされた。このようにして,国務長官として政権に仕えながら,その最も重要な外交政策の決定から締め出されていたことを,ロジャーズは悟っていったのである。そしてそれ以降,ロジャーズ国務長官だけではなく,国務省全体の士気が低下していったのは言うまでもない。

第二の問題点は,秘密主義の横行である。ニクソン大統領はキッシンジャーとふたりで会議を行い,それゆえに外交的効果もみられたのであるが,カンボジア秘密爆撃,パリ和平協定に関する対南ベトナム軍事援助継続の密約など,後になってその存在が議会によって暴露され,批判されたものも少なくない。このように,ニクソンとキッシンジャーが作り上げていった国家安全保障機関は,大胆な新機軸,秘密,不意打ち,策謀を基本とするのに打ってつけの装置となった。その反面,主要な政策について,官僚機構や世論の合意を形成したり,衝動的な行動をとりがちな,鼻っ柱の強い大統領をチェックすることには向いていなかったのである。

3節:キッシンジャーの権限範囲

キッシンジャーはもともとのニクソン信奉者ではなかった。むしろ,ニクソンを嫌い,ニクソンを軽蔑していた人々の中にいた。キッシンジャーは自分の生涯の中で,もっとも深い影響を受けた唯一の人こそ,大統領候補指名を目指して果たさず,二度までもニクソンに負けた相手,ネルソン・ロックフェラーだと述べている。では,そのようなキッシンジャーがなぜニクソンの大統領補佐官となったのだろうか。

ニクソンは歴史的大転換をはかるためには,アメリカは新しい有効な対外政策上の枠組みを作り出さなければならないと考えていた。ニクソンは,そのような自分と共通の認識を持つ人間を必要としていた。そして,それを実現させるためには,自分と親密に,かつそれを内密に行うことのできる秘密主義者の人間が必要だとも考えていた。それがキッシンジャーだったのである。

ハーバード大学の教授だったキッシンジャーは,ニクソンが大統領に当選したとき,「もしも機会が与えられるならば,ロックフェラーは入閣すべきだ」と考えていた。ポストとしては国務長官が一番良いだろうとも思っていた。それは,ニクソンは自分で国務長官の仕事をするという意図をほとんど公言した通りに実行するだろうと考えており,さらに国務省にはロックフェラーの人柄が要求するような自主性があるというようには考えていなかったからである。ところが,実際ニクソンから政権に参加するように求められたのはキッシンジャー本人だったのである。

キッシンジャーは従来から政策決定過程をもっと公式化したほうが良いと考えており,ジョンソン政権のようなあまりに非公式な会議で政策を決定するのは良くないと考えていた。はっきりした概念に基づいた政策,一貫した行動,あるいは微妙な違いの感覚などが入るチャンスのないもっと系統だった機構作りが必要だと考えていた。その考え方はニクソンと同じだった。キッシンジャーはロックフェラー陣営やハーバードの仲間に何を言われるかが気がかりではあったが,結局ニクソンからの依頼を引き受けることにした。こうして,ニクソンとキッシンジャーの二人三脚が始まったのである。

キッシンジャーはまず自らスタッフの選考を行った。当初はその選考過程において,ニクソン側との摩擦もあったが,ニクソンが全面的にキッシンジャーの人選に任せるようになった。もともとNSCのスタッフを選ぶ責任は,大統領の国家安全保障担当補佐官が行うことになっており,キッシンジャーは官僚組織の制限に束縛されず,根本から新しい機構を作ると言うニクソンからのお墨付きをもらって,できるだけ有能で,強力な人物を集めようとした。

キッシンジャーは,自分がしっかりとした意見をもったら,知性と個性を備えた人たちにそれをぶつけて試してみるのが大切だと考えており,人選もその考えに基づいて行われた。その結果,質の高いチームが出来上がり,ニクソンの任命した内閣が有能,高潔で我の強い人たちばかりの集まりで,効果的にチームとしてはたらくことのできなかった事実に比べて,はるかに外交政策上の決定において機能した。このことが,キッシンジャーの大統領補佐官としての影響力を高めた理由でもある。

ニクソンは,国家安全保障問題担当補佐官の役割を強め,キッシンジャーをより中央集権的な政策立案機関の責任者に据えたいと考えるようになった。この考えに同意したキッシンジャーはNSCを媒介として政策決定を行う制度作りを始めた。そして,キッシンジャーの弟子のモートン・ハルぺリンの助言から,NSC組織に二つの巧妙で重要な変革を思い付いたのである。ひとつは国務省次官が議長を務め,議案や提案がNSCの公式会議に提出される前に審査する各省高官連絡会議の廃止である。その代わりに,審査会を置いて,国家安全保障問題担当補佐官を議長とすることにした。これによってキッシンジャーは,国務省その他の省庁から大統領に提出される書類を承認する権限をもつことになったのである。さらにそれによって,NSCの会議の議事日程を彼が好きなように決められるようにもなったのである。

もう一つの変革は,国家安全保障問題担当補佐官が国家安全保障会議研究資料(NSSMs,ニザムス)と呼ばれる書類の作成を命じることができるようにすることだった。NSSMsは国務省,国防総省,その他の省庁がいつどのようなことをするのかをはっきりと決めることになる。この指令はキッシンジャーがどの政策を検討するべきなのかを決める重要な手段となり,またこれによって国務省から情報を得ながら秘密裏に交渉を行うことが可能になった。彼はただ内々に交渉を行っている問題についてのNSSMsを出せばよいのである。

さらに,キッシンジャーは補佐官のもっとも重要な仕事の一つとして,大統領の政策と目的を説明することがあるとも考えていた。キッシンジャーは当初ニクソンとの約束のなかで,政権に参加してもいいが,それまでやってきたように新聞記者とは会わないということを決めていた。ところが,報道機関を無視できないことを知り,たいていの新聞記者の申し出を受け入れるようになったのである。

これまで見てきたように,キッシンジャーは政策決定者としての役割を獲得した。さらに,ニクソン訪中や中東和平で大統領特使としても活躍し,加えて,政府のスポークスマンとして,議会やマスコミ,あるいは外国政府に対して外交問題に関する説明を行った。このようにキッシンジャーは政策決定者,外交特使,政策スポークスマンなどの役割を演じ,ほとんど「外交における大統領」の役割を果たしていた。しかもウォーターゲート事件が起きると,ニクソン大統領はその対策に追われ,その上NSC会議の開催が減少したため,一層のキッシンジャーの役割が上昇していったのである。

 

4節:ロジャーズ国務長官の立場

では,外交問題を担うはずの国務長官の立場はどうだったのだろうか。キッシンジャーが大統領補佐官に任命されてすぐ,ニクソンとキッシンジャーは国務長官の人選について話をした。ニクソンは政策立案者よりも交渉に長けた人を探していた。ニクソンは外交官を信用していなかったので,大統領の政策について国務省の支持をとりつけられるような強力な行政官を望んでいた。それが,ウィリアム・ピアース・ロジャーズだったのである。

ニクソンはロジャーズを国務長官のポストに理想的な人だと考えていた。ニクソンは,ロジャーズの所管問題に明るくないところをプラスに考えており,なぜなら,それによってホワイトハウスの政策指導が保障されると思っていたからである。同時にロジャーズは,ニクソンが知っているうちでもっとも手強く,冷静で,我が強く,野心に燃えている人物のひとりであった。交渉者として,ソ連をやり込められるという期待があった。これは外交政策に素人である点を大統領から信用されて選ばれた国務長官という意味では,非常に異色な人選だっただろう。

この新しい国務長官にとっては,二つしか選択の余地がなかった。ホワイトハウスから指令を受けて,国務省,議会および国民に対して大統領の政策の弁護者となるか,あるいは自分の部下の代弁者になるかのいずれかだった。もっと平穏な時代だったら,ロジャーズ国務長官は自分に対する様々な要求の間からバランスをとることができただろう。彼にできたことと言えば,いざというときに大統領と闘うのを渋り,しばしばニクソンの意見とは異なる見解を示して,心理的にニクソンよりも優位に立とうとすることだけだった。

ところが,実際は,重要な交渉はニクソン自身の統制下におくものとしていたのであり,ロジャーズが表に立つことはなかった。このようなニクソンとロジャーズの微妙な心のすれ違いが,皮肉なことに,キッシンジャーの地位を強める結果になったのである。事実,ニクソンの全任期を通じて,大統領がホワイトハウスの執務室で国賓を引見し,長い間話し込むたびに,他に同席したアメリカ人はキッシンジャーひとりだけだったのである。

政策をめぐる対決は早い時期から起きていた。ロジャーズ国務長官は自分が同意しない指令については,大統領自ら伝達した場合にだけ実行する,という立場をとった。大統領がみずから指令を伝えるというのは,ニクソンにとっては心理的に受け入れることができないことだった。ニクソンはあらゆる口実にかまけて,直に対決するのを避けた。また,ニクソンは何度も政策に関する全ての発信電報に関しては,ホワイトハウスの承認が必要だと指示した。しかし,この指示はしばしば守られず,またいずれにせよ国務長官が部下と交信する手段はたくさんありすぎで,とても命令で統制できるものではなかった。そして,その結果,時が経つごとに,そのような対立を避けるため大統領,あるいは国務長官に代わってキッシンジャーが,国務省を経由せずにホワイトハウスの情勢分析室と現地とを結ぶ経路を使って重要な外国の指導者とやり取りをする機会が増えていったのである。

ニクソン政権にあたっては,国務長官に抜きん出た役割を与えることは,国務省官僚に対するニクソンの不信,ニクソンとロジャーズとの関係,ロジャーズの未経験,さらにキッシンジャーの強い確信によって不可能になっていた。ロジャーズが自分の職務の優先権を主張し,これが問題を複雑化し,逆にロジャーズ自身の立場を弱めると言う皮肉な結果になったのである。

大統領は実政策に関する助言ばかりでなく,心情的な支えを必要とする。大統領は,自分の顧問たちが強力で,自信をもっていることを知る必要があるばかりでなく,顧問たちも,大統領の地位に伴う孤独と責任に思いやりをもち,故意に大統領の心理的負担を重くしたりしない,と感じる必要がある。ニクソン大統領とロジャーズ国務長官の間に欠けていたのは,こうした無形の要因であり,その理由の一部は,ニクソン政権以前にさかのぼる。二人がかつて親密な間柄であったからこそ,ロジャーズはこの無形の要因を顧慮した行動がとれず,またニクソンはこの要因を認めようとはしなかったのである。

 

5節:訪中特使をめぐって

ここでは,具体的にニクソンとキッシンジャーがどのように政策の擦り合わせを行ったのかを見てみる。「ピンポン外交」を発端として,中国とアメリカは互いに国交回復へ向けて動き出した。そして,大統領の訪中前に彼の部下が特使として北京を訪問するという構想が考え出された。ここで,その特使を誰にするのかという問題が起きる。

最初ニクソンはデービット・ブルースこそ理想的な特使だと言っていた。これは,二人の意見が一致した。ところが,ある程度まで事態が進んだ今,失敗の憂き目に遭いたくないという理由で,彼は却下となる。その後も,ニクソンとキッシンジャーは候補者の品定めを行う。ジョージ・ブッシュやエリオット・リチャードソンや,ネルソン・ロックフェラーの名前までもあがった。だが,いずれの候補も隠密旅行の手はずを整えようとすると問題が生じることが明らかだった。それは,彼らが訪中すると,後のニクソン訪中への関心が薄れかねないということだった。

そして,ニクソンはキッシンジャーを任命する。キッシンジャー自身は自分にそのような白羽の矢が立つとは思ってもいなかった。一方のニクソンは,この特使選びで実に冷酷無比にキッシンジャーを弄んだ。ニクソンはこのとき腹心キッシンジャーに対し,嫉妬に近い敵対感情をあらわにしていたのである。それは,キッシンジャーが心の何処かで,この特使になりたいと思っていたのを見抜いていたからである。

ニクソンがキッシンジャーを選んだ理由は,名の知れた人物を特使にすれば名声をさらわれるが,彼にすれば米中友好回復の立役者としての栄誉を自分自身が確保できるだろうということだった。ところが,たとえそれが,マスコミに出たことのないキッシンジャーであっても,自分の影を薄くするのではないかという心配が彼を襲う。このとき,ふたりの間に,新たな関係が生まれ始めていた。

ニクソンはキッシンジャー以上に自分の栄誉を確保するために様々な策を講じる。キッシンジャーに北京以外での会談を命じ,後の自分の訪中での劇的効果を狙ったり,訪中後発表される声明文にキッシンジャーの名前は出さないように命じたりした。これに対し,キッシンジャーは非常識な命令だとし,あっさり無視していた。

このような二人のやり取りは,もちろん,国務省には何も知らされていなかった。長官のロジャーズにでさえ通告せず,突然中国側から持ち出された話のようにするため,水面下で行われた。このようにキッシンジャーの訪中が最後まで極秘で行われたのは,ひとつには米中共同声明発表の劇的効果を倍増させるためであり,もうひとつには,国務省官僚から横槍が入るのを防ぐため,そして,世論や米国議会であれこれ騒がれて計画の実現に支障をきたすのを危惧した為である。実際,キッシンジャーの訪中は成功したのだった。

以上のことからわかるように,ニクソンとキッシンジャーは二人で相談しながら,政策ひとつひとつを決定していったが,ニクソンが主に意見を主張し,それに対しキッシンジャーが冷静な意見を言うという形が主流だった。同時に,ニクソンは自分の利益を優先しがちであり,一方でキッシンジャーはそんなニクソンの壁として立ちはだかった。結局のところ,ニクソンの意見が選択され,キッシンジャーはそれを実行する為に最大限の努力を行ったのである。二人は互いに駆け引きを行い,心の中を探りあいもした。しかし,大統領と彼をサポートする補佐官として彼らは自分自身を捉えていたので,その範囲内で心の葛藤は処理された。どんな問題に直面しようとも,キッシンジャーが補佐官として,ニクソンの意見を立てていたのである。

 

3章:ニクソンとキッシンジャーの関係−内面的側面から−

1節:キッシンジャーから見たニクソン

では,一体ニクソンとキッシンジャーのどんなパーソナリティーが彼らを結びつけたのだろうか。ニクソンは典型的な強迫的人格として考えられている。すなわち,ほぼ統合され,大量に抑圧された敵意を典型的な防衛機能で放出し,さまざまな道徳的投射を用いて自分自身と他人を過度に統制するタイプの人間だという事になる。さらに,彼は,精神病質的人格類型にかなり近いことが明白である。非合法な監視や追跡を命令し,大規模な範囲にわたって秘密に録音した,かの有名なウォーターゲート事件がそれを象徴している。彼は世界や他人,そして自分自身についての不安や疑惑をいつも感じていた。このような彼の心理状態は,家庭外では攻撃的だが,家庭では「聖女」のような強い母と忍耐力のない弱い父との間で育った彼の生い立ちのもとにあると考えられる。

ニクソンは遥かに高いところに目標をおき,自分のパワーを他者に与えたいという強い欲求をもつ権勢動機の高い人間である。ニクソンは,トルーマンとともに「ワンマン型」の大統領だといわれている。ここでいう「ワンマン型」には,官僚を排除したことも含まれている。ニクソンは,自分の努力で獲得したパワーに対し,非常に執着心がある人間だと言える。他者への回疑心,そして,パワーへの憧憬が,彼独自の政治スタイルを生み出した。そして,似通った性格のキッシンジャーを相談役としておくことにより,その性格はさらに強まっていったのだろう。

このようなニクソンのことをキッシンジャーはどのようにみていたのだろうか。キッシンジャーがニクソンと初めて対話したのは,ニクソンが大統領に当選した後の1125日であった。「動作がなんとなく上の空の感じだった。言っていることがちぐはぐで,まるで言葉と動作がそれぞれに別の動機から出ているようだった。」と後にキッシンジャーは言っている。ニクソンの神経質さと,それを隠し,無理に快活そうなふうを装っているのが手にとるように分かったと言う。そこで,キッシンジャーはニクソンからニクソン自身が国務省をあまり信用していないこと,外交政策をホワイトハウスから取り仕切ること等を決心していると聞かされた。

キッシンジャーはニクソンが大嫌いだった。しかし,初めて会話をしたときに,キッシンジャーはニクソンが「思っていたよりも思慮がある」と感じたと言う。官僚制ではなく,ホワイトハウスから政策を行うという信念の通じ合った二人は一緒に政治を行っていくことになったが,キッシンジャーがニクソンに対して抱いた,弱々しく,存在感に欠けているという印象はなかなか抜けなかった。後にキッシンジャーは「ニクソンに目的意識と自信を与えること,そしてその気詰まりな性格をカヴァーすることが第一の仕事になるだろう。」と述べていた。

キッシンジャーはニクソンのなかに,様々な矛盾した特徴が混在しているのを見て取っていた。「ひとりの人間のなかでいくつもの相対立する個性がなんとか目立とうと争っている。理想主義者で思慮深く,寛容なものあり,執念深く,狭量で,感情的なものあり,内省的で哲学的,禁欲的なニクソンもいれば,衝動的で直情的,移り気なニクソンもいた。」とキッシンジャーは回想している。ニクソンの冷酷なまでの野心は,これらの様々な個性の「大いなる戦い」の結果なのだとキッシンジャーは考えていた。「普通,人はひとつの核を中心とし,それに肉づけるように成熟していく。ニクソンには核になるものがいくつもあって,そのために彼は心に平安が得られなかったのだ。」ともキッシンジャーは述べている。そのようにニクソンが様々な面を持っていたことで,二人は輝くこともあり,くすむこともあった。多くは暗い影を背負っていたのだが,キッシンジャーがニクソンの多面性を理解し,そのよい面がでるようにしていたら,政治運営はもっと開かれていたものになっていたのかもしれない。しかし,実際にはニクソンの悪い部分にキッシンジャーの性格が迎合し,さらにそれが強められたと考えるほうが当然のように感じられる。

 

2節:ニクソンから見たキッシンジャー

一方,キッシンジャーはというと,父の自信のない,家庭にあまり関心を持たない性格と,強い母の組み合わせにより「抑うつ的性格」になっていた。抑うつ的性格というのは,気分が落ち込んだり,対人関係で引っ込み思案になったりする性格のことをいう。この抑うつ的性格は両親に対する相反する感情,自信の欠如,無力感をともなうもので,この反動形成として,後のキッシンジャーの権力への接近がみられるのである。この引っ込み思案と一匹狼的な性格は,彼の外交政策にも影響を与えた。キッシンジャーは国際政治の権力の象徴的存在であり,また高名な学者であり,さらにノーベル平和賞受賞者であるが,その華やかな外見は抑うつ的人格を飾る虚像の一部でしかないのである。

このようなキッシンジャーのことをニクソンは自慢に思うと同時に,畏怖を抱いていた。さらに,キッシンジャーがかつてはロックフェラーに仕えていたという事実から,ニクソンはキッシンジャーを傍らに侍らす喜びを高めていた。ニクソンはケネディ流の,インテリたちを自分のほうへ惹きつける魅力を備えてはいなかった。ロックフェラーのように選りすぐった超一流の頭脳を財力にものを言わせて結集することもできなかった。しかし,大統領となった今こそ,ロックフェラーの王冠を飾る宝石を手に入れることができるようになった。ニクソンにとってキッシンジャーはそのような存在だったのである。

ニクソンはキッシンジャーの,アメリカ社会のエスタブリッシュメントと距離を置きつつ親しまれる付き合い方をしている点を良しとしていた。キッシンジャーは東海岸の外交政策にかかわるエリートたちに愛されながら,その出自とその気質とから,すっかりそのなかに溶け込むことはなかった。キッシンジャーは生まれつきのエスタブリッシュメントの一員ではなかったし,そうなる気もまったくなかった。

ニクソンにとって,そのようなキッシンジャーのあり方は理想的だった。ニクソンは農村で生まれ育ち,「大都市の弁護士」になることを夢みていた。彼にとって,都市部,つまり東部はどんなに手を伸ばしても手に入れることの出来ない憧れのものだったのである。ちやほやされながら,決して心を動かされることはなく,エリートたちに対して優越感を抱くことはあってもその反対にはならないキッシンジャーは,まさにニクソンにとって憧れだった。ニクソンはエスタブリッシュメントたちが自分のことをどう考えようとも気にしないことを誇れるようになりたいという夢を抱いていた。キッシンジャーを自分のお供にすれば,その望みが実現できるような気がしていた。だから,ニクソンはキッシンジャーを自分の政権に参加させようとしたのである。

しばらくしてから,ニクソンはキッシンジャーの奇妙な性格と野心を油断ならないものとみるようになった。「ヘンリーを信用してはいないが,利用することができる。」政権発足間もない頃,キッシンジャーの競争相手の独りに語っている。ニクソンは,キッシンジャーの,相矛盾する性格にとりわけ悩まされた。不安に揺らぐ偏執症の面を見せるかと思うと,自我の強い誇大妄想家に変身する。5年半の年月の間に,ニクソンのキッシンジャーに対する賞賛の念はしだいに嫉妬と,裏切りの疑惑に蝕まれていった。もともと個人的な心の通い合いという基盤があったわけではないし,愛憎相なかばする同盟関係とでもいうべきものは,徐々に後者のほうに傾いていった。キッシンジャーに依存する度合いが大きくなればなるほど,大統領には鬱憤と苦い思いが募っていったのである。

 

3節:ニクソンとキッシンジャーの共通点・相違点

ニクソンもキッシンジャーもその生い立ちにより,前者は疑い深く,脅迫的に,後者は抑うつ的な人間になっていった。それがのちに,国政を担う上で,彼らの政策を特徴付けていく。ニクソンは自分の行動を,大胆で予測しがたいものとして描きたがる癖があって,何かにつけて自分とキッシンジャーがまったく違ったタイプの人間であることを強調したがった。とはいうものの,表面的な違いを超えて,彼ら二人の内面にはいくらかの類似点があり,それらが,ふたりを強く繋ぐ絆の礎となったのである。ふたりとも,それぞれが長い間求め続けてきた権力をようやく手に入れ,お互いの相手のなかに自分の不安定さが映し出されているのを見て,その不安定さをいつまでも持ち続けていたのである。

ニクソンとキッシンジャーはふたりとも,現実主義政策の実践者である。これは冷徹な現実主義と道徳に煩わされない力と政治との混同のことである。二人は,「外交政策はセンティメンタリズムではなく,国力の評価に基づいて生み出されるべきである。」という信念を持っていた。また,二人は疑い深く,秘密主義で,人が何かをなす場合,その動機として最悪のものを想定する傾きがあった。そして,敵と思ったものを別の敵にけしかけることを得意とした。陰口が多く,お互いの敵を持ち出し,共通の敵愾心を持っては同盟の絆を深めるのである。彼らは,自分たちに挑んでくる相手があると,向こうは何かよこしまな考えを持っていると考えてしまうのである。キッシンジャーの腹心として長年二人を鋭く監察していたローレンス・イーグルバーガーは次のように語っている。「キッシンジャーもニクソンもかなり妄想症なところがある。そのためお互いに煙たがったが,またそれだからこそ,お互いの敵と想定される者に対して,共同戦線を張ることにもなったのだ。ふたりは外交政策の推進に共謀者めいた姿勢をとった。」

さらに両者は孤独好きだった。そして,自分のことを孤独好きだと考えることが好きだった。それが,秘密主義,隠蔽主義に傾く元ではあった。情報や信望を人と分かち合うのが嫌いだったので,部下や同僚と接する際にも物事をはっきりとさせたがらなかった。また,ニクソンとキッシンジャーはどちらも不意打ちをかけて敵方をあっと言わせるのを楽しみにしていた。ヴェトナム問題でも,軍備制限問題でも,米中関係問題でも,国務省と細かく打ち合わせをせずに,こっそりと交渉を重ね,ドラマティックに発表した。そして,キッシンジャーには,身の回りにいる人間の性向を取り入れてしまう性質があったので,彼らの間に存在する類似点はますます強くなっていった。互いに相手に対する先入観を強め,健全とは言い難いほど,長い時間をともに過すことで,キッシンジャーとニクソンはやがて官僚主義と敵意に満ちた世界に対する共謀者としてつながりを深めていった。

このように,彼ら二人に共通する特性がたくさんあったとはいえ,キッシンジャーとニクソンの間には大きな性格の違いも存在していたのである。そして,そのために両者は全く違って見えてくるのである。その違いとは,キッシンジャーは自分の周りの世界を鋭く意識しており,その中で自分の役割に対する自覚を持っていたが,ニクソンは全くそうでなかったと言うことである。この違いは様々なところに見られた。キッシンジャーは批判的な意見に関して非常に敏感であったが,ニクソンは他人がどう思うかということに関して鈍感だった。キッシンジャーは敵を味方に取り込み,批評家に気に入られることに懸命になっていたが,ニクソンはなんとかして仕返ししてやろうと画策した。キッシンジャーは個人的な付き合いを好んだが,ニクソンはそれが大嫌いだった。キッシンジャーは怒るとそれにかかわった人間に八つ当たりしたが,ニクソンは相手と直接対決することを思うと気後れするので,会うのを避けて,復讐の方法を考えてやきもきするのだった。また,キッシンジャーは明確な分析力をもって,問題の本質にまっすぐ迫る。一方,ニクソンはもっと直観的な取り組み方をし,様々な選択肢のなかから結論を出すまでに何時間も問題を煮詰めていった。

キッシンジャーとニクソンの相違をもっとも鋭く示しているのが,以下の1973年のトマス・ヒューズによるスピーチである。ヒューズは長期にわたって国防総省に務め,退任した後にカーネギー財団の総裁になった人物である。

 

ふたりとも救いようがないほど隠し事をしたがりましたが,キッシンジャーのほうはやり方に面白味がありました。ふたりとも官僚が大嫌いでしたが,ニクソンは会うのも避けるほど。ふたりとも二枚舌でしたが,キッシンジャーには説得力がある。ふたりとも猛烈な反イデオローグだったけれども,ニクソンは時としてイデオローグに逆戻りする。ふたりとも権力が分散することがないよう油断おさおさ怠りないのですが,キッシンジャーは鎮静剤を施すこともある。ふたりとも根っからの策謀家ながら,ニクソンのほうが少しは率直。ふたりとも極端な忠誠心を求めながら,キッシンジャーは批評家に好かれている。ふたりとも秘密主義の傾向がありますが,どちらも揃って自分が説いたことは実行しない。ふたりとも疑い深いのに,キッシンジャーは社交的な性質を抑えきれない。どちらも誠実さを誉められることはありませんが,キッシンジャーの表現の明確さが抜群。ふたりとも合衆国憲法第一条修正条項を崇拝してはいませんが,キッシンジャーはマスコミを呆気に取らせることができました。

 

ニクソンとキッシンジャーはその性格の似ている所も違う所もあった。違う人間であるからそれは当然ある。後にニクソンが,「我々は仲間だったが,個人的な友人ではない。決して敵ではないが,それでも個人的な友人ではない。」と述べたように,二人は微妙な関係だった。しかし,何故二人が外交における業績を挙げたのかというと,外交政策を立て直そう,アメリカにおける新しい外交政策を立ちあげるのだという強い信念があったからである。彼らは,政権発足前にリンケージ論というものを作り上げた。彼らはそれを基本として,外交政策を進めていった。その政策を推進する上で,二人は性格の違いを乗り越え,協力するしかなかった。キッシンジャーは補佐官として,またひとりの人間として自分の理想とする政策を推進する為には,ニクソンの足りない部分を自分が埋めるしかなかった。それは,ニクソンにとっても同じことが言える。二人は,自分たちの性格の共通点・相違点をプラスに変え,理想を推し進める為,権力にしがみつく為に,対外政策を行っていったのである。

 

終章:結論

以上見てきたように,ニクソンは,ホワイトハウスから外交政策を取り仕切ることに積極的だった為に,同じ認識を持つキッシンジャーを起用するに至った。そして,そんな彼ら二人を本当に結び付けたのは,外交を好み,外交に執着し,外交を求める気持ちの強さである。共に過した時間の大半を,まるでふたりだけのセミナーのように世界に広がる問題をくまなく巡り,取り得る道をひとつひとつ検討することに費やしていた。その強い結びつきこそ,彼らの強みであった。したがって,大統領と大統領補佐官という立場から彼らをみてみると,それほどまでにキッシンジャーに権限を与えたのは彼ら自身だったからである。彼らの性格が迎合したからである。

ニクソンの場合,大統領補佐官の役割は,その仕事のやり方のために,従来より一段と大きくなっていた。ニクソンには一時的に夢中になって仕事をするという癖があった。閉じこもっている間,ニクソンはそのときの決定は大統領補佐官たちが行うものだと考えていた。その代わり,むきになって仕事をしている間,ニクソンは大統領補佐官に自分の発作的な命令を取捨選択させていたのである。さらに,ニクソンにとっては,彼自身がひどく嫌い,恐れていた一対一の対決を防ぐためにも大統領補佐官というものが必要だった。大統領補佐官はニクソンが衝動的に命令を出したり,あるいはいったん来客と会うとその意見に同意しがちな性向を抑制しなければならなかったのである。

大統領補佐官の使い方はその大統領によって異なるわけであるが,そうであるからこそ,もっとも効果的な政策決定が行えるのではないか。大統領という職についていても,ひとりの人間である。大統領補佐官は大統領の私的なスタッフとして置いてよいのであるから,その大統領の個性,性格,カラーによって,その使い方が異なっていてよいと思う。さらに,大統領補佐官の使い方がうまく,大きな業績を残すことができる大統領は,自らを良く知り,政治というものをよくわかっている人間であると評価できよう。

例えば,今度大統領に就任したジョージ・W・ブッシュは副大統領を初めとして各省の長官に強力な人間を置いている。そして,自らはそれらの人間を統率する指導者としての立場を取ると考えられる。おそらく,自分が先頭に立って政策を実行するより,自分の元に上がってきた政策を選択したりまとめたりする立場を取る方が,自分の能力を一番に引き出せると考えているからである。このように,自分の力を最大限に出せるようにスタッフ機構を編成できることは非常に魅力であり,また,それをうまく編成できるか否かに政権の存続がかかっているということは,緊迫感があって良いだろう。その意味で,ブッシュもまた,自らを良く理解しているのかもしれない。

今後,ニクソンのような大統領や,キッシンジャーのような人物が政界に現れたときに,我々がどのように彼らを判断すればよいのかというのは容易に答えられる問題ではない。しかし,ニクソンとキッシンジャーの二人の性格が重なりあったからこそ,彼らの政治スタイルが生まれたことだけは議論の余地はない。彼らの政治理念が,補佐官と二人で政治を行う形を取らせたのである。ニクソンはキッシンジャーを求め,キッシンジャーはそれに応えた。政治的な側面よりもむしろ彼らのパーソナリティーが強く反映されたというその事実が大統領補佐官に頼る政治というものを特徴付けているのである。

アメリカ大統領が自分の政策決定過程を,自分の個性に合わせて編成できるという事実から,補佐官でなく,例えば副大統領だったとしても,ニクソン−キッシンジャー政権のような政治スタイルになる可能性がある。しかし,先に延べた補佐官制度の特徴により,補佐官に最も重きを置く場合,最も秘密主義になり易い。ニクソンとキッシンジャーの間に友情は芽生えなかったが,外交を求める気持ちが彼らを結びつけた。外交で歴史的転換を果たそうとする強い気持ちが政治を動かした。それは,まさに,人が政治を行っているからなのではないかと考える。結果,例えばそれは中国との国交回復,が良かったから全て,それは政策決定過程であるが,を良しとするわけにはいかないが,少なくともニクソンとキッシンジャーはその政治スタイルから成功をもたらした。大統領の個性がその政治スタイルを生み出すという事実がある以上,政治は個性が反映されるのだという私なりの結論に行き着いた。

 

あとがき−卒論を書き終えて

こよう えつこ

やったぁぁ。書き終わったよー。自分で書いておきながら、最後の確認で結論読みつつ、(ほんとバカなので)涙がこぼれそうになりました。(実は涙もろいのです。ZONE見て泣かなかったときはごめんね、やっちゃん。)ガタンガタンガタンガタン…一分くらい謎な音をプリンターが発し、プリントアウトできず。壊れたか?やっとできあがったのに…。ありがとね、卓ちゃん。最後の最後までお世話になりました。電話に出てくれたときは、天使に見えたよ。(言い過ぎたかな?)思えば、本当に長い道程でした。今年の夏は、本当にゼミをやめようと思って、先生の所に相談しに行きました。先生が、「やめるのは簡単です。もうちょっと続けてみてください。部活が大変なのは、分かっていますから。」と言って下さったときは、本当に感動して、もうひとふんばりしようと思いました。あのときの先生の一言がなかったら、今ごろこんな感動を私は味わっていなかったと思います。そして、夏合宿で酔っ払うこともなかったし、肝だめしすることもなかったのです。英語の文書をほとんど読まなかったし、夏の課題は日本語にしてもらって、みんなからは絶対反感来るだろうと思っていたのに、みんなそんなことなく私を迎え入れてくれて、みんなにもほんとに感謝です。だから、第一稿は絶対に締め切りに間に合わせようと必死にやりました。最終稿もです。(遅れると予想していたみなさん、残念でした。)12月は最後のステージ直前で、それはかなり辛かったけど、先生への恩返しと思って書きました。人間やればなんとかなるものだとこのゼミを通じてあらためて感じてしまいました。大統領補佐官を取り上げようと思って、早一年。自分なりに満足のできるものができました。何故って、半年前の時点では、ここまで辿り着くなんて想像できなかったから。私の場合、書いた内容よりも、書いたその事実が大切なのです。(あーぁ、最後まで久保ゼミのアンダークラスだわ。)大統領補佐官は書いていてなかなか面白かったです。泥臭い人間模様と政治とを絡めて書きたいという思いはチョビットだけできたかな?3年生のみんなは、資料の見つけ易いものを選んだ方がいいよ。まあ、私ほど駄目な人はいなそうなので、私がアドバイスするまでのことでもないだろうけど。やめたいと心底思った割には、続けると決心してからは、卒論を嫌だと思わなかったし、ゼミに行くのも楽しかった。不思議なものです。でもでもっ(ゆーすけ調)、久保先生とみんなのおかげでここまでやってこられたのは、疑いのない事実です。ほんとうにありがとうございました。今夜は夢にニクソンとキッシンジャーが現れそうだなぁ。最後の最後まで、私は私らしくドタバタジタバタしてしまいました。2001年2月5日3時。あと11日で23歳のえつこでした。

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