☆20世紀末以降の野宿状況概説―旧布施市域

@先ず初めに

 
ー見出しでは、大阪府東部の大阪市生野区・東成区に隣接する中央環状線西側くらいのエリアを 「旧布施市域」としたが、主に近鉄布施駅前およびその周辺の公園、共有空間などにおける野宿状況の概説をする。総ては筆者の実際にそれら現場で見聞きし、 実際に経験したものを、記憶をたよりにつづったものだ。
 言うまでも無く、ここでいうところの「野宿状況」とは、統治機構やそれを事実上動かす大小の資本、その価値観を受け入れる個々人のいうところの「路上生 活者」、「浮浪者」、「野宿生活者」、「ホームレス」の状況を意味する。また、「野宿している個々人」を都合上、筆者は自らもかつて列島中を流浪したこと から、「野宿の仲間たち」と表記するか単に「野宿者」と表記することにする。

@布施周辺野宿史概説(1999年頃くらいより)

 ー地 理的に言えば、布施という街は近鉄奈良線と同大阪線の分岐点である布施駅を中心にし、東をJR城東貨物線、西を内環状線に、南を勝山通り、北を産業道路 (旧R308)に囲まれた一角で、そこに南北に走るブラン通り商店街、近鉄奈良線高架下に東西に連なるぽっぽアベニュー商店街を軸にした商業地が住商工の カオス空間として現れる趣のある空間である。この街は隣接する大阪市最東部の生野区・東成区と同様に家内工業や工業が盛んで、かつ ては国家政策により持てはやされた中卒の「金の卵」たちが九州・中国地方などの地方から集団就職で送り込まれてきた街のひとつであった。(彼・彼女らの多くは現在、50代半ばから60代である)また、この街は一 大歓楽街を有し、隣接する生野区・東成区と同様に多くの華僑や朝鮮人が住まう街である。今も近鉄布施駅北側に残るバラック建ての「ゲットー」は悪名高き四 全総以降、ここ15年以上の間に「地上げ」や「街区整理」、「開発」の名の下にこれでもかとばかりに掃き消されていった。またこの10年における不況の嵐にネジなどの部品 類を製造する中小、家内工業が舞って散る枯葉の如く翻弄され、閉鎖に追い込まれていった。最先端宇宙開発関連、最先端テクノロジー関連(一部は軍事部品な どにも使用される)は生き残ったが、多くの失業者が生まれた。
 筆者の知る限りでは、布施駅付近で野宿者が見られるようになったのは、大阪国体以降だったと思う。当時、布施駅近辺に夜毎に1個のダン ボールハウスが見られるようになり、永和駅前のハローワーク付近でもダンボールハウスが2個ほど見られるようになった。1998年冬以降、その数は増え、 1999年頃には当時未だ夜間も自由に通行できた布施駅下の南北通路付近に10人前後の野宿者がダンボールを敷いてささやかな休息をとっていた。(この頃 には駅南側の三ノ瀬公園にも数人の野宿者がいた。釜ヶ崎など大阪市内からの野宿者はいたかもしれないが、多くは地元で失業したりした個々人だった)しかしなが ら、近鉄はこの通路を夜間閉鎖し、2000年頃より、駅業務終了後、毎日ご丁寧に追い出し、シャッターを閉めるようにな る。(駅員による蹴り出し、放り出しなどはここでも日常である)そこからは、駅を追い出された野宿者の多くは自転車と共に北側ロータリーにあったベンチ群や商店街、足代公園、三ノ瀬公園などで残りの休息をとった り、夜中歩き回ったりせねばならなくなった。同じ時期に府警布施署は、駅前環境の「浄化」として地元商工会・自治会自警団・近鉄・自民党・東大阪市果 てはガーディアンエンジェルスなどと共に若者の「不良行為」、「暴走行為」、「たむろ行為」などを取り締まるとしてカマボコ(=機動隊の装甲車両。灰色だが形が似ているのでそう言われる)と機動隊を週末ごとに常駐さ せ、巡回の警官には弾き語りをする若者たちや野宿者にまでも「こんな所で座り込まんといてくれ」と強圧的に追い出しにかからせた。これにより、駅前から追い出された野 宿者は周辺部に移動するなどしてしのぎ、足代公園などはその時、夜毎ベンチに10人近くが休息をとった。(2000年12月末〜2001年1月の長居闘争 時には駅周辺に18人いたのを大阪キタ越年越冬実行委員会の広域パトロールで確認している) 2001年秋以降、追い出しが落ち着いたように見えたが、一 度追い出されたところに野宿者は帰らず、それとは別に三ノ瀬公園に10人近くの缶とり野宿者が夜毎に布団敷きをするなどして過ごした。(この頃には長瀬川北側の某所でも廃車などに20名近くが夜毎に休息をとっていたが、関連法改悪などにより廃車に対する撤去が強化された年始前後に追い出されていった)2001年末からは 駅高架下駐輪場などに移動したその10人がダンボールハウスをそこで夜毎につくって冬を越す。2002年晩夏以降大阪城 公園でのシェルター建設強行に伴う排除のうわさが流れ、これのために大阪城公園から避難して来た10人以上のグループが北側ロータリー前のベンチなどで寝 始めたが、中高校生などの嫌がらせやベンチ破壊行為、地域住民や塩川氏の声のかかった布施署が青バイ部隊を駆使しての「ひったくり防止キャンペーン」のついでに、ベンチ破壊の責 任を野宿者にかぶせるような形で追い出しにかかり、同所のベンチ群を一切撤去した。この事は三ノ瀬公園の夜毎の野宿者数を増やし、また、周辺への一定量の 拡散を生んだ。(この時に追い出された幾人かの野宿者は「久宝寺(緑地)に行け」などと言われたという)野宿者の増えた高架下駐輪場では「野宿禁止」などと紙に大書きされた「警告」だけで簡単に6人の野宿者が追い出された。 …そして2003 年9月15日、東大阪市は三ノ瀬公園を駅南地区の治水目的工事だとして警察の見守りの下で全面封鎖し、15人以上の野宿者が追い出され、またそのほかの野宿者も植え込みに隠 して置いていた荷物を移動せざるをえなくなった。このことについて、現場監督職員は「決められたことですから。半分づつやる計画にはなっておらず、 2004年3月末まで全面封鎖とさせていただきます。工事のほかの目的はありません。」などとコメントしたが、その工期が終わった後も鋼板の囲いはGW連 休後まで残された。リニューアルされた園内には野宿者が屋根を求めた藤棚も、荷物を隠せる植え込みも無く、缶とり自転車や台車の通れないアクドイ工夫が入 り口総てに施された、「セパレートベンチ」完備の「見通しの良い」所になってしまったことからも「別の目的」があったことは明白であった。公園からも商店 街からも追い出された野宿者は駅高架下の1メーターくらいの軒先にささやかな休息を求め、追い出された駐輪場にも寝ざるをえなかった。ある者は夜中歩いて 彷徨った。怪しい生活保護詐欺グループが闊歩し、いい加減な巡回相談員が蠢き始めた2004年秋、その駐輪場に野宿禁止の貼り紙がベタベタ貼られ、またも や何の強制力も無い文書で10人が自主退去。有志が「あんな強制力の無い文書を恐れる必要はない。出て行けというのなら、奴ら”市当局”は行き先や代替場所を用意しなくてはならない。この吹きっさらしの厳冬に単に野宿者を追い出そうとし、または”犯罪”として警察権力に突き出すというのなら、奴らの了見が異常なのだから従う必要はない」と伝えて回り、その過程で越年期に「北河内路上通信」が発刊。 状況が一層厳しくなった2004年12月30日、この地ではじめての露天鍋交流会が某公園で行われるなど、市内野宿コミュニティー群との連携が本格的に模 索され始めた。2005年1月はじめ、年末より俄かに回ってきた巡回相談員が布施公園の3人の野宿者に「声をかけ」、その内の2人に「西成方面」に行くよ うすすめた上、あろう事か痛風で足の動かない状態のほぼ寝たきりの1人に「またXX日に来るからね」と毛布を渡して約束を守らず放置した。この巡回相談員 が来た後、2人は実際に「西成方面」へ「離脱」し、その後には「16日までに”物件”を撤去せよとの東大阪市の口頭の排除通告」(寝たきりの人間に”物件撤 去”とは何事か!)が同職員によって行われた。共同生活を奪っておいて、厳寒の時期に孤立させた野宿者に更なる攻撃を加えるこの手法に比べ、エサがほとん ど出ない中で限られた食料の中から可能な限り彼に食料を運ぶなどして餓え死にさせまいとした布施駅前の野宿者たちや若い任侠たちの懐の度量の広さを再認識させら れた。布施の野宿者など有志はその状況を聞き及び、夜の現場に急行、丸4日間何も食べられない状態だった「ワシは在日やから病院にも行けんし、ここで死ぬ 覚悟ですわ」とあきらめる本人に幾ばくかの食料を口にしてもらいながら話を聞き、結局「救急搬送」を選んだ本人を病院搬送することになった。(この地でも 救急搬送のほかに重傷病時の対応が不能である)この地からも2004年秋以降、大阪市内の「
行路病院」群への搬送が越境して行われており、府下のブロックごとの一元的「行路」対 応がその時点から既にはじまっていることを意味する。巡回相談員が、やはりこの地でも「追い出し」「排斥の前触れ部隊」でしかないということは2004年 晩秋以来明らかとなった。(追い出し時には生保詐欺グループが何処で嗅ぎつけるのか必ずうろつくという”偶然”がある) …現在、布施駅前の野宿者はエサもとれない中で缶とりをしながら、概ね助け合って生活している。
 
 近鉄布施駅周辺では、知る限りでも何例ものドメスティック・バイオレンス(女性に限らず)による路上や公園への避難が長期化した野宿者が人数から比して 多くなっている。また女性の路上合流もこの地の野宿人口に比して大きな割合を持っている。保守的な家主体主義が個人としての生を殺すような土壌が一部に根強く残るこ の地では、そういった理由もありうるのかもしれない。「家庭」や「家族」が理解や分かち合い、「保護の場」であるなどという幻想は、家庭内ネグレクト、ド メスティック・バイオレンスに遭っている個々人には全く意味をなさない。そういった事を考慮せず、加害者である可能性の高い「家族」の提出した「捜索願」 に沿って当人たちを単に戻すのは、更なる加害を促進する行為であることを踏まえない一切の「処置」は、単に暴力の上塗りでしかない。「家族しか助けてやれな い」は「家族やから肉体的、精神的暴力を加えたりしても良い」に安易に帰結するのだということを忘れるわけにはいかない。(☆)


@路傍の闘いは続く

 定まった拠点を持たない路傍の野宿者たちは、行政の対策からも、多くの野宿者支援グループからも 蚊帳の外のものとして扱われてきた。奴らは言う。「彼らは対策に乗ろうとしない」「彼らはこちらの 呼びかけに応じようとしない」… そういう前に、奴らは考え直さねばならないだろう。「一体、お前 たちが何を我々にもたらして来たのか」という路傍のより一層厳しい状況の野宿者たちの突きつけを、 声無き声を。 定まった居場所、定まった拠点は確かに部外者からは都合がよいだろう。しかし、路傍の野宿者たちは 定まった居場所、定まった拠点を1ヵ所しかもたないようじゃやって行けないのだ。雨天時、降雨時、 缶とりの日、その他の事情によって幾つかの場を使い分けていく中で生活している。バコシ=場越しは 路傍の野宿者の生活の知恵である。それを一つの場に規定しようと考えるのは事情を知らない部外者の 都合に路傍の野宿者の生活を陥れることになる。とはいえ、彼/彼女らの多くは「一人の方が気楽でい い」とはいいつつ、最低限の助け合いは常に求めている。この最低限の助け合いとは、「”村八分”の 状況ですら村共同体がそれだけは助け合わねばならないとした二分を含め、生きるために必要な情報を 得ること=最低限のコミュニケーション、そして攻撃からの共同防衛」ではないだろうか。実のところ、 路傍ではこれが最も大事なのだ。この最低限の助け合いを軸に個人と個人を結んでいけば十分に擬似コ ミュニティーを創造できる。路傍の野宿者の戦闘性を疑問視する声もあるが、それは半分では間違って いるといわねばならない。勝手な都合に振り回されて気分のいい人間など皆無に等しいが「割り切り」 も彼/彼女らには大切な時がある。便宜上の退却を選んで間違いでない時は、穏便に事を済まし、ほと ぼりが冷めた頃に舞い戻るという非正規戦を闘うという事に関しては脱帽ものである。要は彼/彼女ら とのコミュニケーションをどれだけ創れるか、そして共に闘う方途をどれだけ紡ぎ出せる労を時間を 共有することがあるかないかということなのだ。日常的に、路傍の野宿者たちは生きるために闘って いる。その闘いは、自らの存在を陥れようとする一切に対する不信とそれらへの追随の拒否、そして 自ら切り拓く明日への体力温存と生きるための執念などによって続く。路上へと追いやった一切よ、覚 悟せよ。この殺伐とした無味乾燥な支配管理するもののご都合で動く現状が次々と個々人を産業廃棄物 として「処理」し、打ち捨てていく限り、路傍への、テント村群への合流はとどまることを知らない。 「飯場」、「生保ボッタクリ業者」による「回収作業」、支配管理機構による「餌付け投降勧告」なん ぞにはとても「処理」しきれないと覚悟せよ。路傍の野宿者は語らず、唯、その存在を武器に語るのみ。
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