国際サバイバル道場
インディアンの教え
あなたの幸せがここにある
HERE IS YOUR HAPPINESS
Happy person trys to change things
and if he can not charge them, he accepts them.
Happy person enjoys his happiness instead of being unhappy.
Happy person learns the most important word "LOVE" in the first place.
Happy person can say "NO" when he needs to say so.
Happy person makes an effort to be happy.
Unhappy person makes an effort to be Seemed happy by others.
Happy person knows what he needs.
Happy person holds on to good luck and makes an effort to be happy.
Happy person can make his own decision.
神は、私に変えられないことを微笑んで静かに受け入れられる力を与えてくれた。
そして変えられることは変える勇気を与えてくれた。
そして変えられることと変えられないことの違いを見分ける知恵を与えてくれた。
現代人が失った人間本来の積極人生哲学
東京の由緒ある家柄に生まれ育ち、東大を出て、ハーバード大学の客員教授などを経て早稲田大学工学部の教授になった心理学者加藤泰三は「アメリカンインディアンの教え」と「続・アメリカンインディアンの教え」いう本を出しています。
この本は彼がハーバード大学の図書館で見つけた「What The White Race May Learn From The Indian」(白人はアメリカンインディアンから何を学ぶか)と言う本の著書ジョージ・オートン・ジェームスの考え方を基にして書いたものです。
「続・アメリカンインディアンの教え」には現代人が見失った大事な人間の生き方、心のあり方などがインディアンたちの伝統と教えのなかに生きているのが書かれており、逞しさを失っている現代の我々に重要だと思われるので要点を拾ってみました。
1. 幸福な人は、変わるものは変えようとします。
そして変わらなかったものは静かに受け入れます。
インディアンは男も女も事実に直面していきます。そして直面することを通してそれに打ち勝とうとする意志をもっています。
インディアンのように「変えられることを変える」というのは心理的エネルギーを必要とします。
多くの人が、情報がない、知り合いがいない、お金がないという理由で変えようとしません。しかし問題は情報を得るための行動、知り合いを作るための行動、お金を作るための行動を起こさないところにあるのです。変えられることも変えないでただ不平を言って現実に直面することを回避して生きることの方が、確かに心理的には楽です。変えるということは創造的なことなのです。創造的な人は変えようとする動機が強いので不愉快な事、不都合な事、それらをそのまま放っておきません。
人生では一つの戸が閉まれば別の戸が開くのです。しかしそれは生産的に生きていればの話です。
人生が豊であるかないかということは、対象喪失の悲哀の過程をやり過ごすことが出来るか出来ないかにかかっています。
心豊かな人生とは対象喪失に適応した人生です。それは決して悲哀のない人生ではありません。むしろ、悲哀に満ちた人生です。
逆に、心貧しい人生とは対象喪失という状態への不適応です。先に進めない人生だからです。現在に生きないでいつも過去を見て生きています。現在という時間をいつも無駄にしています。
悲しみを知らない人生は未完成の人生です。悲しみに訓練された人生こそが勇気に満ちた人生であり、優しい愛に満ちることができるのです。
インディアンには子供のような平静で清朗な心があるから強いといえます。その心があるからインディアンは神の意志(運命)を誇りを持って受け入れることができます。その心を私達は失ってしまったのです。変えられることがあっても変える努力をしません。そして何もしないで事態が好転することを要求しています。また変えられないことにかぎって、それにこだわっていつまでも嘆いて時を無駄に過ごします。
2. 幸福な人は、喜びを大きくして悲しみを忘れます。
インディアンの妻は悲しい時でも素晴らしいトウモロコシ畑の話しをします。これはたとえ彼女の夫が亡くなったときでも、夫について話した後すぐに彼女は自分の子供のことや、素晴らしいトウモロコシ畑のことを嬉しそうに話だすのだそうです。彼女にとって夫を失ったということは悲しい出来事です。しかし同時に子供に恵まれていることも事実ですし、素晴らしいトウモロコシ畑があるということも事実なのです。
事実は一つではありません。悲しい事実もあれば、喜ばしい事実もあります。
インディアンは自分の悲しみを大きなものにしないで、反対に喜びを大きくすることで、悲しみを打ち消します。
何かの結果が望ましくなくても、それに至る過程を考えると充実していたと思える時もあるでしょう。結果に注意を向けるか、過程に注意を向けるかで人生の喜びと悲しみは違ってきます。人を見る時にも相手の長所を見るか、弱点を見るかで相手の評価は違ってきます。
自分の過去の人生を考える時も、よく考えてみれば「私の人生にもこんな素晴らしいことがあった」という体験は沢山あるに違いありません。数えてみれば思ったよりきっと沢山あるでしょう。しかしそれを誇りに思わないだけです。自信のある人と自信のない人が同じ体験をしても、自信のある人はそれを誇りに思い、自信のない人はそれを誇りに思いません。自信のない人の体験は少なくとも自信に満ちている人の体験をそれほど違わないかもしれません。自信に満ちている人は自分の打ったホームランに意識を集中し、三振から学んでいるだけです。自信のない人は三振に意識を集中し、ホームランを誇りに思わないだけです。
3. 幸福な人は、困難を自分を飛躍させるチャンスにしてしまいます。
人間の無力感を研究したセリグマンという学者は、若者の人生から障害や困難や不安や競争を取り除いたら、誇りを持ち活力のある若者はいなくなるであろうと書いています。大人は「最近の若者は...」と嘆くよりも若者を鍛えることです。大人はよく若者から困難を取り除いてあげるようですが、実はそれによって大人は、自分の力を感じようとしているだけなのです。今の教育で大切なことは若者に何をしてあげるかではありません。若者に何をしてあげたらいけないかを考えることです。
子供はどうして自分に自信を持って行くのでしょうか。それは自分の出来ることを自分の力で成し遂げることによってです。自分のできることを他人にしてもらうと楽ですが、それではいつになっても子供は自信をもてません。インディアンの子育ての最も重要なことは「甘やかさない」ことです。
子供は自分で困難を解決してこそ自信がつきます。しかし、逃げると逆に自信を失います。子供でも大人でも要するに「逃げる」ことで自信をなくすのです。そして実際に逃げることでその自分のイメージを強化してしまうのです。恋愛でも仕事でも、なにか修羅場があったときに、にげることは短期的に見ればもっとも心理的には楽です。しかし長期的に見ると生きることを辛くしています。自信がなければないほど人生は辛いからです。つまり困難から逃げることは人生を辛くすることです。
同じ事態に陥っても自信のある人は何事もなくやり過ごします。しかし自信のない人はその同じことに大騒ぎをして悲鳴をあげます。そして実際に辛いのです。しかし、その事実が辛いのではなく、その人が自信がないから辛く感じるだけのことです。
大切なのは、失敗した時にそれをどう克服するかという心理的基盤をつくることです。 つまり子供に自分の能力を使う機会を与えることです。 甘やかされて育った子供は劣等感を持ちます。鍛えられて育った子供は自分に自信を持ちます。
困難はある意味で自分を飛躍させる機会でもあります。困難こそ自分に自信をつけるまたとないチャンスなのです。困難こそ不機嫌に苦しむ人が機嫌よくなれる絶好の機会なのです。シーベリーは「修羅場は最初に作れ」と言いました。
本来自分が背負うべき責任を誰かに押し付けようとするのは「逃げ」です。自分を弱くするだけです。自分の人生の責任を背負う。それが他人の人生の責任よりも重くても、とにかくそれを背負う。それが逃げないということです。
4. 幸福な人は、「ノー」と言える「ちょっとした勇気」を持っています。
インディアンはあなたを好きなら好きと言います。嫌いなら嫌いであることを知らせます。ふりや偽善がありません。そして、話の中でその自分の感情を表現します。
不安な人は相手がイエスかノーか分かるまでイエスともノーとも言いません。相手の意志が分かるまで行動を起こしません。
ノーと言えない人は、自分がノーと言えば相手はひどく傷つき、不愉快になると思っています。しかし、ノーと言えない人が考えているほど、相手はノーという返事に傷つきません。ノーと言えない人は自分のノーが実際以上に相手を深く傷つけると思っています。
インディアンは礼儀のために真実を隠す事をしません。
ちょっとした勇気をだすことでなによりもいいことは、ノーと言った相手に素直になれるということです。明るい気持ちで接することができるということです。しかし「内心の怒りを押さえて依頼のすべてにイエス」と言ってしまうと相手に不満だから相手に素直になれません。不満だから相手に明るくなれないのです。
5. 幸福な人は幸せをつかむ努力をします。 不幸な人は幸せに見える努力をします
インディアンの辞書には世間体はありません。インディアンは簡素で自然な生き方をしています。
「インディアンの教え」によれば、家を整えておくために大変な労働を必要とし、そのために心労が絶えない家は家ではないといいます。お客さんに見せるために夫も妻も忙しくなるような家は家ではないといいます。そこに住む人の幸せや健康よりもそこの家の方が、或いはその家の家具のほうが大切になるような家は家ではないのです。
簡素な生活をする人は自分に自信のある人
世の中には幸せになるために努力することよりも周りから幸せと思ってもらうために努力する人がいます。自分の幸せを犠牲にしても幸せと思ってもらおうとします。自分がどのような人間であるかよりも、他人からどのような人間と思われるかが重要になってしまうのです。他人にどう見られるかがそこまで重要になってしまうのは完全な自己不在になっている証拠です。そして自己不在だからこそ自意識過剰になるのです。自意識過剰になると不用な品が家に溢れます。簡素な生活をしている人は自分に自信のある人なのです。
幸福を感じるには「楽しむ努力」が必要
「インディアンの教え」には「人に見せる」よりも、自分の健康と幸せが重要であると書いてあります。自分を受け入れれば自分の人生を人に見せる必要はなくなります。
「幸福になりやすいたちで、特に運がよくなくても幸福になる人もいれば、最高の環境がそろっても不幸な人もいる。というのも幸福を感じるためには、楽しむ対象をもっているだけではなく、楽しむ能力ももっていなければならないからだ」
実際の自分を受け入れられない人は虚勢を張って生き続けざるをえません。財産や名誉がなければ不幸な人もいれば、財産や名誉がなくても幸せな人もいます。ある状態を不幸に感じるかどうかはその人によって違います。状態そのものが人を不幸にするわけではありません。その状態が劣等感を通してその人を不幸にするのです。
世間体は日本人の不幸の象徴
世間体という言葉こそ「インディアンの教え」に背く言葉なのです。そのせいで私達は何とたくさんの必要のないものをもっていることでしょう。そしてそれを持つために何と無駄な苦労をしているのでしょう。
もし私達がもう少し自分に自信があれば、どれくらい日々の生活が楽しくなるか分かりません。もう少し自分に自信があれば私達はどれほど多くの犠牲から解放されるか分かりません。
「もっと簡素に生きよう!」。これが「インディアンの教え」です。なにもインディアンと同じにすることが必要なのではありません。ただもっと簡素に生きる事だけで人生が楽になり楽しくもなるのです。「家の中にばかりいないで、もっと戸外で生きること」です。
なによりも大切なのは、何かを見せびらかすことよりも、または近所の人たちから認めてもらう事よりも、はたまた人々を羨ましがらせることよりも、自分の個人的な健康と快適さと幸せを大切にすることがもっとも大事であるということです。
6. 幸福な人は、自分に本当に必要なものは何かを知っています。
私達は幸せになりたくてお金を求めています。しかし、いつのまにか幸せを犠牲にしてもお金を求めるようになってしまいがちです。手段がいつの間にか目的になってしまうのです。ところが、インディアンはいつも本質的なものを見失いません。
我々がインディアンから学んだ基本的なこととは、「簡素であることと、自然であることの大切さ」です。
財産がないのが一番とは思いませんが、財産があるからこそ不幸になることもあるのです。財産はないよりあった方がいいと思いますが、財産があれば幸せになれるというものでもありません。
財産を求めたために財産を失ってしまうことがあります。お金をもとめたために、お金よりも大切な家族、友人、自分の健康などを失うこともあります。そしてそれを失ってしまうまで、普通なかなか気付くことができません。
インディアンは困難と危険に真剣に直面していきます。それによってまた勇気を自らの中に培います。自制と、無心と、自己コントロールが精神力の砦であるのです。
インディアンには自制心があります。インディアンは未来を考え必要以上に動物は殺しませんでしたから、平原や森にはいろいろな動物が棲んでいました。しかし白人はそれができず、多くの動物を絶滅させてしまったのです。
7. 幸福な人は、機会を必ず生かし、自分を信じて決断します。
現代人には悩んでいる人が多く見られますが、それは時間を持て余しているからです。自然の中で暮らすインディアンにはしなければならないことが沢山あるので、そのために心配事があっても悩んでいる余裕がありません。仕事に追われるような人はあまり悩んでいることができません。仕事のない人が悩まなくてもすむようにするには趣味を持つことです。「暇こそが人生を充実させる上での大敵である」ともいわれます。趣味のない人こそ悩みの多い人生を歩むのです。
他人を祝福する人は大いに自分を祝福できるとも書いています。悩んでいる人がもっとも難しいことが、他人を祝福することです。なぜなら悩んでいる人は自己中心的だからです。そして悩んでいる人は自分の人生の喜びを削ってしまっているだけではなく、周りの人達の人生の喜びをも奪っているという事実があります。
多くの人が自分の前にチャンスが現れた時に決断できず、チャンスを逃してしまい、あとで残念がっていることがあります。
神経症的要求を持つ人は、自分がいつも人より特別に扱われるような資格があると思っています。自分は特別に考えられるべき人間だと思っているので、特別に扱われないと不公平な扱いを受けたかのように感じて怒りを覚えます。
自分は人と同じであれば普通の人と同じように不運なこともあれば幸運なこともあると考えることができます。そうすれば不運はそれほど辛くはないでしょう。しかし、自分は特別に幸運に恵まれるはずだと思っている人は不運には耐えられません。そしていつまでも悔やむことになるのです。
不運そのものより、幸運であるべき自分が不運であったという憤慨がその人を苦しめているのです。そのような人は特別な幸運がこないことを不運と考えるので、普通の人なら悔やまないことも悔やみます。普通の人は特別な幸運がこないことを不運とは考えません。従って、そのことを悔やみ悩むことはありません。
世界的に有名な能力開発研究家のウェイトリーは「失敗への道には見逃したチャンスがあちこちに転がっている。チャンスは決して向こうからやってきてドアをノックするものではない。それは自分の心の中にあるからだ。チャンスとは、周りの誰もが否定的な考え方をしていても、そんなことにとらわれずに前向きに考える方法をみつけることである。」と言っています。幸運とは日々のの生活の中に自然に現れる場合が多いのです。そしていつ不運を嘆いている人は幸運が自分の目の前に現れても気がつきません。
多くの人は危険や困難に際して迷い、悩み、そして何も決められずに終わり、後でずっと後悔するということを繰り返します。インディアンは冷静に危険や困難に対応し、自信を持って選択を行います。
心理的な成長に失敗した人はなかなか決断ができません。優柔不断は責任を逃れようとするところから生じます。心理的な成長に失敗した人はまた困難や危険に際して騒いでいるとそのうち幸運が来るか、誰かが解決してくれると思っています。
インディアンは危険なところにくると責任をとろうとします。危険に際して彼は他人よりも自分に頼って、どちらの道を選ぶか決断していきます。自信と決断は同じコインの表と裏です。そしてインディアンは結果が不愉快でも嘆いたり、叫んだりしません。結果を静かに受けれることができるのです。
参考となる他者の詳細情報:
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