"representation"と経済統計・国民経済計算との関係についての議論
経済統計(ecostat)メーリングリストにて,1997年2月〜3月)

Special thanks to Prof.Mitsuru YAMADA

 


このファイルをお送りくださった山田満先生による註(原文のまま)

*ここに掲載するメールは、山田の個人的記録として保存してあったものであり、以下の点について編集してあります。

*山田のメール部分に関しては、ここに掲載するに当たって、一部、誤記の訂正などを行ないました。また、他のメールに関しても、議論に影響を与えない範囲で不必要な部分の削除をおこないました。

*しかし、議論の内容を変えるような変更は一切してありませんので、了承願います。

お問い合わせ先:山田満 ([email protected])


古井戸による註

*この議論は、1997年1月25日、専修大学で行われた国民経済計算研究会と専修大学社会科学研究所定例研究会部門との共催による研究会にて、佐藤博先生のご報告があり、たまたまそこに出席していた古井戸が佐藤報告の概要をecostat MLにご紹介したときの最後の感想部分から始まります。佐藤先生のご報告の内容についての文責はすべて古井戸にあります。


 


From ???@??? Wed Feb 12 23:32:21 1997

古井戸 宏通@森林総研.つくば

「社会統計学」の意義(佐藤博先生)、最終回です。

4.蜷川統計学の意義

 統計は、集団を物語る数字である。(ここまでは誰もが認める)
 しかし、「集団」概念についての認識は英米・独で異なる。

 

(1)2つの集団論

 ドイツ:「存在たる集団」または「大量」

 英米 :「意識的に構成された集団」または「解析的集団」

 

 蜷川の立場は、「存在たる集団」から大量観察法によって「解析的集団」が抽出され、この「解析的集団」英米的な統計解析法によって解析されるという風に、統一的にとらえ、大量観察法+統計解析法を「統計方法」として一括した。

 

(2)調査論重視(統計利用者の統計学)

 「統計の信頼性批判」

  →抽象的概念たる「大量」を、大量観察の4要素(単位、標識、時、
  所)を満たすように定式化する過程に注目 「統計の正確性吟味」

  →ミスプリ等の技術的問題

 

(3)確率論の成立基盤・適用対象を、<純解析的集団>に限定
 「純解析的集団」とは、

「いつ、どこで」を一切考えなくてもよい統計値の集合であって、
 数字がいくらでも得られ、極限値が求めうるもの。ミーゼスの「コレクティーフ」概念に近い。

 eg.出生性比:どの国でも同じ

 

 蜷川統計学3部作

1)統計学研究I(岩波、1931)

2)統計利用の基本問題(岩波、1932)

3)統計学概論(旧岩波全書、1934)

 

 ご講演は以上で、蜷川統計学の限界、といった論及はとくにありませんでしたが、討論の中で、「部門統計としての経済統計の枠組について、蜷川自身は示しておらず、大橋・野村両氏によってなされた」との言及がありました。

 

 

#討論は多岐に及びましたが、1つ印象に残ったのは、標本調査のオルタナティブとしての「典型調査」(毛沢東の農村調査に適用)に触れられ、

「何をもって典型とするか、という問題があり、この点で想起さ
 れる言葉は、

『どこにでもいそうでどこにもないもの』

(ドストエフスキー『悪霊』第4篇)」

とおっしゃっていたことです。

 

#1つ、なんとなく引っかかっていることがあります。「統計は集団を物語る数字である」と言うときの、「物語る」という概念の方は問題にならないのでしょうか。知の歴史における「表象」repre'sentationの変遷は、フーコー『知の考古学』において議論されたところであり、また、SNAでいう「表章」representation概念に関しても、行列形式とT型表示の選択、部門分類のあり方、生産の境界、等々、ア・プリオリには語れない問題がたくさんあるように思われます。

以上で終わります。

ありがとうございました。

 

古井戸 宏通@森林総研.つくば

--

FURUIDO Hiromichi [email protected]

FFPRI

Tsukuba, Ibaraki JAPAN

 


From ???@??? Wed Feb 12 23:32:23 1997

佐野@福井です。雪です。勉強日和りです(ほんまかいな?)

>  ご講演は以上で、蜷川統計学の限界、といった論及はとくにあ
> りませんでしたが、討論の中で、「部門統計としての経済統計の
> 枠組について、蜷川自身は示しておらず、大橋・野村両氏によっ
> てなされた」との言及がありました。

集団の存在を認めないという故・内海庫一郎先生の立場には言及されなかったようですね。はじめて知ったときには、ちょっと度肝を抜かれましたが。「集団など存在しない!」ってのは凄いでしょ。

> #討論は多岐に及びましたが、1つ印象に残ったのは、標本調査
> のオルタナティブとしての「典型調査」(毛沢東の農村調査に適
> 用)に触れられ、

> 「何をもって典型とするか、という問題があり、この点で想起さ
>  れる言葉は、

> 『どこにでもいそうでどこにもないもの』

> (ドストエフスキー『悪霊』第4篇)」とおっしゃっていたことです。

 

予想ですが、静岡大学に移られた藤岡先生が、近々、この問題に、社会統計学の方法として一つの回答を出されるはずです。私も興味をもっていて、「社会的に重要な情報とは何か?」という問題にもかかわっています。乞うご期待。

 

> #1つ、なんとなく引っかかっていることがあります。「統計は
> 集団を物語る数字である」と言うときの、「物語る」という概念
> の方は問題にならないのでしょうか。知の歴史における「表象」
> repre'sentationの変遷は、フーコー『知の考古学』において議論
> されたところであり、また、SNAでいう「表章」representation
> 概念に関しても、行列形式とT型表示の選択、部門分類のあり方、
> 生産の境界、等々、ア・プリオリには語れない問題がたくさんあ
> るように思われます。

 

まったく気が付かない論点でした。「物語る」と「表象」と「表章」ですか。「蜷川」と「哲学」と「統計」の順ですね。

 

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Kazuo Sano faculty of ECoNomics Fukui Pref. Univ. 0776-61-6000(FAX:6014) [email protected]

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From ???@??? Thu Feb 13 02:40:27 1997

At 11:31 2/12/97, FURUIDO Hiromichi wrote:

> #1つ、なんとなく引っかかっていることがあります。「統計は
> 集団を物語る数字である」と言うときの、「物語る」という概念
> の方は問題にならないのでしょうか。知の歴史における「表象」
> repre'sentationの変遷は、フーコー『知の考古学』において議論
> されたところであり、また、SNAでいう「表章」representation
> 概念に関しても、行列形式とT型表示の選択、部門分類のあり方、
> 生産の境界、等々、ア・プリオリには語れない問題がたくさんあ
> るように思われます。

 

山田@高崎商科短期大学です。

representation概念に関して。

フランス語読みにとって、いつも引っかかる、問題の切所ですね。

もう、僕は勉強はしていませんが、手元の本棚に手を伸ばせば、例えば、次のような記述に出くわします。引用文中、フランス語固有の文字表記は省略しています。

----------------------

 De tous les aspects de la relation entre comptabilite nationale et rapports de production, on s'est efforce d'etudier ici, a titre principal, celui de la representation des rapports de production dans les concepts de la comptabilite nationale francaise(base 1959 et 1962). ---J.-C. Delaunay: Essai marxiste sur la comptabilite nationale, Editions s ociales, Paris,1975, p.19.

-------------------------------

あるいは、

La CN (la comptabilite nationale---山田) est une representation globale, detailee et chiffree de l'economie nationale dans un cadre comptable. ... ... ...mais il faut insister immediatement sur le fait que la CN est une representaion. On entend souvent dire que la CN est objective, qu'elle est la photographie du reel.

C'est au moins oublier que d'un meme objet il peut exister de nombreues photos qui different par l'eclairage, l'angle de prise de vue, etc. C'est surtout omettre que l'objet que la CN represente, met en scene, n'est pas deja la, mais est construit par la CN elle-mame.

---Jean-Paul Piriou: La comptabilite national, nouvelle edition, coll.<Reperes 57>, Editions La Decouverte, Paris,1991, p.4.

------------------------------

結局、蜷川統計学というのは、「唯物論」を自称していながら、表象・物語り・言説の物質性を承認できず、観念論の独断のまどろみに沈んでしまったのだと僕は理解しています。「真の認識」を歪める表象・物語・言説(古い言葉を用いれば、ブルジョア・イデオロギーや小ブルジョア・イデオロギー)の存在は、「かろうじて」認めているのに。

もっとも、だからといって僕は蜷川統計学の歴史的意義を過小に評価する立場には与しません。

 

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山田 満

Mitsuru Yamada

高崎商科短期大学

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From ???@??? Thu Feb 13 23:30:03 1997

 

佐野@自称不可知論者です。フランス語が読めないので、ちょっと寂しいですが、日本語のところだけ少し質問させて下さい。

 

質問1

「表象・物語り・言説の物質性」というのは、「人間が観念によって行動してしまうところがあるので、観念が物質的な力をもつ」と理解していいのでしょうか?

質問2

「観念論の独断」というのは、先験的な「真の認識」を主張することと理解していいのでしょうか?

#でも「物質」というのも、考えているうちに分からなくなる言葉ですね。どんな定義が可能なんでしょう?

 

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Kazuo Sano faculty of ECoNomics Fukui Pref. Univ. 0776-61-6000(FAX:6014) [email protected]

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From ???@??? Fri Feb 14 03:57:06 1997

At 10:21 2/13/97, Kazuo Sano wrote:

> 佐野@自称不可知論者です。フランス語が読めないので、ちょっと
> 寂しいですが、日本語のところだけ少し質問させて下さい。

-----------

山田@高崎商科短期大学です。

佐野さんからの質問に答える前に、フランス語のテキストの翻訳しておきます。長くなりますが、粗っぽく訳せば、次のようなところです(フランス語部分は英語に置き換えています):

J.-C. Delaunay(ドローネ)のテキスト:

「国民経済計算と生産諸関係とのあいだの関係の全ての局面について、原理的な観点から、フランス国民経済計算の諸概念のなかにおける生産諸関係のREPRESENTAION(の全ての局面)を研究しなくてはならないであろう」(この訳は、ちょっと危ないですね)

Delaunayは、他の箇所で次のように書いてもいます:「...国民経済計算という言語活動(ランガージュ)はニュートラルではない。国民経済計算は REPRESENTAIONの体系である。そうである限り、それは表象された(REPRESENTEDされた)対象についての理論、すなわち、そのランガージュとその構造とを唯一説明する理論と不可分に一体化されている(フランス語で impliqueと言う動詞が使われてます)。そのランガージュとその構造とを唯一説明する理論と一体なのである。」山田によるコメント1:ここでは、国民経済計算を、ひとつのランガージュ、理論的言語活動として捉えるという立場が示されています。(注:ランガージュはソシュール言語学の概念で、通常、ラング(言語体系)と区別されて、言語活動と訳されています。)言語活動は言語活動である限り、「物質性」を持っています。

 

J-P Piriouのテクスト(省略した部分も訳しておきます):「国民経済計算は、簿記(会計)の枠内での国民経済の包括的かつ詳細な数字で示された表象である。ここで国民経済計算は表象(REPRESENTAION)であるということが強調されなくてはならない。しばしば、国民経済計算は客観的であり、現実(THE REAL)の写真であると言われるのを聞くが、それは少なくとも次のことを忘れている。同じ対象に関して、沢山の写真があり、それらは異なったアングル、照明によって種々なのである。(山田のコメント2:この論議は敵の土俵での論議で危ない;なぜなら、「ある対象が既にあり、それを見る視点が様々ある」という凡庸な見方に巻き込まれてしまうからです;そこでピリオーは次のように決定的に書き続けます。)それは、とりわけ次のことを忘れている。国民経済計算が表象する対象は、既にそこにあるもの(デジャ・ラ;所与)なのではないということである。(コメント3参照)。それは国民経済計算自体によって構築されたものなのである。この意味で、国民経済計算は「客観主義的な」観点を持ち得ない。国民経済計算は経済的な「所与の事実」の集成物ではないのだ。国民経済計算は、「構築主義的な」議論の進め方の上に打ち立てられている。それは、経済的なリアリティーを対象へと構築するのである。(山田のコメント3:REPRESENT;ここでピリオーは、わざわざMISE EN S CENE[上演する]というフランス語をRepresenterとうい動詞の言い換えとして付け加えています;これはDarstellen というドイツ語の翻訳と理解され、ピリオーがアルチュセール(フーコーの師匠ですね)の「資本論を読む」の読者であることが分ります)。... ....実際、国民経済計算は、理論的な諸考察と実践的な諸関心の合流点で構築される歴史的生産物なのである。... ...」

 

なお、著者の経歴は、

Delaunayさんは、現在の所属は確認していませんが、フランスかカナダの大学の先生で、パンセという雑誌に面白い論文をいくつか書いているほか(かなり以前)、剰余価値論に関する興味深い研究書#があります(もちろん、剰余価値率の推計方法に関する論議や実際の推計も含まれています)。#本は、僕の手元にあります。

 

Piriouさんは、パリ大学(ソルボンヌ校)の経済学の先生で、物価指数論に関する本#があります。#本は、僕の手元にあります。

 

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佐野さんの質問に関しては別メールで。

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山田 満

Mitsuru Yamada

高崎商科短期大学

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From ???@??? Fri Feb 14 03:57:08 1997

山田@高崎商科短期大学です。

佐野さんからの質問に答えます。難問だぁー!-----

佐野さんの質問:

>先ず、質問1

 

>「表象・物語り・言説の物質性」というのは、「人間が観念によって
>行動してしまうところがあるので、観念が物質的な力をもつ」と理解
>していいのでしょうか?

#####################

なにやら、場違いの哲学の教師(伝道師)みたいな気分で落ち着きませんが;結論からいえば、違うと思います。

言いたかったことは、人間にとって「表象・物語・言説(この三つの言葉の並べ方、いい加減ですが、気にしないでください;本当は、言説的形成体(ディスカーシブ・フォーメーション)というフーコーの言葉を使えば済むのですが)」は、意のままには作り出し、操作できない存在だということです。我々は、制限はあっても表象・物語を意のままに作り出し、操作できると考えがちであるけども(例えば、私は、私の物語を作り、そのイメージにしたがって行為を組み立てることができる)、それは次のことを忘れている。我々が表象を作り出し、物語を語るとき、常に既に、我々は一定の歴史的に形成された言説的構成体(表象体系、物語の体系)の場のなかでしか、そうすることができない。われわれが何かを見、聞き、考えるとき、常に、我々に常に既に与えられている一定の表象体系のもと、物語の体系の下で、モノを見たり、聞いたり、考えたりしています。例えば、「わがはいはばかである」という音を聞いたとします。われわれは、そこで「意識することなく」、雑音の中で、その日本語の音の塊を識別するはずです、そして、「は」と「ば」の音の区別をおこない、さらに、「わがはい」「は」「ばか」「である」という音の塊の区分を行っているはずです。これは、自明なことでしょうか?、我々が意識して意のままに自分で行っている行為なのでしょうか? 違うと思います。それは「日本語圏」という生活の場(言説的形成体の場)に、我々が既に在るという事実を示しているのだと思います。われわれは、その事実を選べません。言いたいことは、我々の外部に、物質性として「日本語の言説的形成体」が存在しており、われわれは、その場に一体となって組み込まれているということです。我々が、できることは、言説の諸要素を組み合わせたり、変形したり、ズラしたりすることだけです。(文学的才能のある人は、「ばか」が「ねこ」の置き換えであることを看取するかもしれませんね、さらに、雑音が激しければ、「ばか」を「ねこ」と聞き違えるかも知れませんね。)

 

「観念が物質的な力を持つ」のではなく、「観念」が物質的なのですね。妙な言い方だけど、「観念は物質的だから、観念では、どうにもならない力を持っている」;その力のことを、物質性、唯物論的力と呼んでいます。

------------------

佐野さんの質問:

>質問2

>「観念論の独断」というのは、先験的な「真の認識」を主張すること
>と理解していいのでしょうか?

########

佐野さんの考え(理解)に同意します。蜷川統計学は、「真の」認識を歪める諸作用に関しては、あれこれ指摘し、現実歪曲性とか、統計の階級性とか、言い立てますが、現実歪曲作用を「批判的吟味」によって取り除けば、そこに「裸の」真の事実(=認識)が立ち現れてくるといった議論(こういうのを「恐ろしい透明性の神話」と言います)を行いがちですが、現実歪曲を行う諸作用を取り除いても、「裸の、真の」事実など立ち現れません。他の認識作用(表象作用)によって構築された世界が立ち現れるだけです。蜷川統計学には、「統計方法」による「大量」の捉え方の独自性についての言説(理論)を含んでおり(統計による現実反映の「一面性」とか言う論議)、その意味で、統計方法の物質性(=構成的・プロダクティブな力)を認めているのですが、根幹のところで、「透明性の神話」に戻ってしまうように思われます。

 

------------------------------

佐野さんの質問:

>#でも「物質」というのも、考えているうちに分からなくなる言葉で
>すね。どんな定義が可能なんでしょう?

#############

唯物論の定義については、僕は、最晩年のアルチュセールの定義に従うと佐野さんへの私信で述べたことがありますが、「物質」の定義については難しいですね。先ず、確認することが必要なのは、「科学的(物理学による)定義」と「哲学的定義」とを区別しなければならないというレーニン(何かと評判の悪い人ですが、やっぱり、エライものはエライ!)の見解に従うことことが必要だということでしょうか。その上で、「哲学的定義」としては、次のような物語で僕の考えを説明していきます。「全ての事を知り尽くしていると自称する山田君が、今ここにいる。そして、山田君の前方10メートルには大きな頑強な障害物がある。ところが、全てを知り尽くしている山田君は、僕の前方には障害物など何もないという観念に取りつかれている。山田君は、20メートル前方に進もうと決意し、全速力で駆け出す。ガチーン!!! イテッ! 何だ、これは、どうなってるんだ、べらぼうめぇ! 許さん!」

 

「物質・物質性」とは、そんなもんだと思います。科学的活動における実験的検証でも同じ事でしょう。理論と一定の仮説によって、ある出来事が、ある条件下で起きると推測する、理論と仮説に基づいて精密な実験装置を構成し実験を行う。首尾よく結果がでれば、成功、何も起きなかったり、おかしな事が起きれば、「なんだ。こりゃ、どうなっとるんだ!」。科学的研究の対象は物質性を持っているから、こんな事が起きるのですよ。って僕は、考えています。

 

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山田 満

Mitsuru Yamada

高崎商科短期大学

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From ???@??? Fri Feb 14 23:54:59 1997

佐野です。朝から山田さんのメールを見て、目が覚めました(笑)。

#廣嶋さんの国勢調査問題には、きっと金子さんがコメントしてくれる はずです。何せ、統計審議会委員と昵懇の間柄ですから(ホンマ?)

やっぱり、山田さんの話は、論文を読んでも分からない。メールだと、解説してもらえるので、はじめて分かるんですね。合点が行きます。

> 我々が表象を作り出し、物語を語るとき、常に既に、我々は一
> 定の歴史的に形成された言説的構成体(表象体系、物語の体系)
> の場のなかでしか、そうすることができない。

その通りですね。精神的な活動の環境が先に与えられているが、その環境がどの様なものであるか、個々の精神はよく知らない。精神とは・・・? 情報処理の主体とでもしておきましょう。情報とは・・・? ???

 

> 「観念が物質的な力を持つ」のではなく、「観念」が物質的なの
> ですね。妙な言い方だけど、「観念は物質的だから、観念では、どうにもならない力を持っている」;その力のことを、物質性、唯物論的力と呼んでいます。

 

「観念」というのは、「精神活動の環境」としての「言葉の体系」と、個々の「精神活動」に区別されるようですね。つまり、個々の精神活動の主体にとっては所与である言葉の体系が「物質としての観念」であり、それは主体の思い通りにならない性質をもっていて、それを「物質性」あるいは「物質的な力」と呼ぶわけですね。

 

> 現実歪曲作用を「批判的吟味」によって取り除けば、そこに
> 「裸の」真の事実(=認識)が立ち現れてくるといった議論
> (こういうのを「恐ろしい透明性の神話」と言います)を行
> いがちですが、現実歪曲を行う諸作用を取り除いても、「裸
> の、真の」事実など立ち現れません。他の認識作用(表象作
> 用)によって構築された世界が立ち現れるだけです。蜷川統
> 計学には、「統計方法」による「大量」の捉え方の独自性に
> ついての言説(理論)を含んでおり(統計による現実反映の
> 「一面性」とか言う論議)、その意味で、統計方法の物質性
> (=構成的・プロダクティブな力)を認めているのですが、
> 根幹のところで、「透明性の神話」に戻ってしまうように思
> われます。

 

納得の一言。でも確信犯という可能性はないんでしょうか。少し気になります。

 

> 「物質」の定義については難しいですね。先ず、確認すること
> が必要なのは、「科学的(物理学による)定義」と「哲学的定
> 義」とを区別しなければならないというレーニン(何かと評判
> の悪い人ですが、やっぱり、エライものはエライ!)の見解に
> 従うことことが必要だということでしょうか。その上で、「哲
> 学的定義」としては、次のような物語で僕の考えを説明してい
> きます。「全ての事を知り尽くしていると自称する山田君が、
> 今ここにいる。そして、山田君の前方10メートルには大きな頑
> 強な障害物がある。ところが、全てを知り尽くしている山田君
> は、僕の前方には障害物など何もないという観念に取りつかれ
> ている。山田君は、20メートル前方に進もうと決意し、全速力
> で駆け出す。ガチーン!!! イテッ! 何だ、これは、どう
> なってるんだ、べらぼうめぇ! 許さん!」

 

ふむふむ。これも妙に納得できますね。よく現実とのズレということを言いますが、どこまでいっても観念とその対象との間にはズレが存在して、そのような対象のことを物質と呼ぶわけですね。失恋なんかしたときの相手は物質的なんだ(バレンタインデー)。でもそうやって観念は鍛えられてゆくはずなのに、ズレがないとすれば、進歩もないですね。

 

> 「物質・物質性」とは、そんなもんだと思います。科学的活動
> における実験的検証でも同じ事でしょう。理論と一定の仮説に
> よって、ある出来事が、ある条件下で起きると推測する、理論
> と仮説に基づいて精密な実験装置を構成し実験を行う。首尾よ
> く結果がでれば、成功、何も起きなかったり、おかしな事が起
> きれば、「なんだ。こりゃ、どうなっとるんだ!」。科学的研
> 究の対象は物質性を持っているから、こんな事が起きるのです
> よ。って僕は、考えています。

 

やっぱり山田さんとは考え方が近いと思います。コンビニって凄く科学的に管理されてるそうですが、あれこそ社会科学の典型では?

 

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Kazuo Sano faculty of ECoNomics Fukui Pref. Univ. 0776-61-6000(FAX:6014) [email protected]

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From ???@??? Fri Feb 14 23:55:07 1997

徳島大の伊藤です。古井戸さん、佐藤先生の講演要約ご苦労さまでした。佐野さんと山田さんのコメントが入ってからだと気後れするなー。
>(2)調査論重視(統計利用者の統計学)

 蜷川先生は「調査論」重視という評価は妥当なのでしょうか?

 

> ご講演は以上で、蜷川統計学の限界、といった論及はとくにあ
>りませんでした

 

 残念ですねー。

 

>#1つ、なんとなく引っかかっていることがあります。「統計は
>集団を物語る数字である」と言うときの、「物語る」という概念
>の方は問題にならないのでしょうか。ア・プリオリには語れない問題がたくさんあるように思われます。

 

 まず、私の解釈から始めます。「物語る」=「反映する」であり、「客観的に存在する」対象たる社会集団があって、調査によって得られた数字がそれをなんらか反映している。「正しく」反映しているかどうかは、概念規定や分類の仕方が正しかったかどうか(信頼性の吟味)と実際の調査の技術的なミスはないかどうか(正確性の吟味)をする必要がある。(部門分類あり方と生産の境界は「信頼性の吟味」に入ると思いますが、その一団の数字をどのように配列するかという意味での表彰形式とは別の問題のように思います。 さて、ここからがやっかいなところです。おそらく、山田さんへの質問になるでしょう。山田さんは「ある対象が既にあり、それを見る視点が様々にある」という凡庸な見方は「危ない」議論といわれる。Aさんはある統計を吟味してAさんの立場(抱いている観念)から見て「正しい」反映かどうかを判断するであろうし、BさんはBさんでそうするであろう。これは凡庸な見方である。私の理解では、山田さんは次のような違った見方をするように思います。そもそも統計を対象の反映とみなすのは間違いであり、「理論的な考察(何の?)と実践的な諸関心(誰の?)」の構築物なんだから、「正しい」反映を探しても出てこない。その構築物を生み出させた構造(歴史的物的規定性)こそが明らかにされるべきことがらである。対象の「正しい」反映は『どこかにありそうでどこにもないもの』。

 うーむ、・・・違うなー。山田さんはそんなこと言っていない。山田さんは、「真の認識」を否定しないし、<<科学的実践>>を擁護する立場(ポジション)を強調されるのだから・・・?完全に混乱してきました。凡庸なる見方を支持する(毒されている)私としては、どうもすっきりと山田理論がつかめないのです。勉強し直して、出直します。

 

 

 


From ???@??? Fri Feb 14 23:55:09 1997

 山田さん、佐野さん、伊藤さん、私の感覚的な疑問に対して、とても深いところでのご教示をくださり、まことにありがとうございます。さらに深まりつつある議論を伺いながら少しずつ勉強している段階ですが、山田さんの「コメント3」についてちょっとだけ質問させてください。

 

>ここでピリオーは 、わざわざMISE EN SCENE[上演する]というフランス
>語をRepresenterとうい動詞の言い換えとして付け加えています;
>これはDarstellen というドイツ語の翻訳と理解され、

 

 この言い換えのミソは、

「上演する」という行為が、本来、あらかじめ用意された「もの」を舞台の上にもってきて見せる行為ではない(たとえ「脚本」はあったにせよ)、という所にあると考えてよろしいのでしょうか。

 

 representationをRobertで引くと「誰かの目の前または精神の前に置く行為」が基本的語意であり(darstellenを独独でひいたらどうなるのでしょう)、さらに詳述されているいくつかの意味のうち一番関連しそうな所をみると、 Le fait de rendre sensible(un objet absent ou un concept) au moyen d'une image, d'une figure, d'un signe, etc.とありました。

「(存在しない対象や概念を)イメージ、図、記号といった手段で意識できるように呼び戻す行為」とでも訳すのでしょうか。(フランス語には全く自信がありません。)

 

p.s.ピアニストのアルトゥール=ルービンシュタインの語録に「近頃の若いピアニストは、よく練習するが、予め作った『演奏』を観客の前で開陳するだけで、感心しない」とかいうのがあったのを思い出しました。

 

古井戸 宏通@森林総研

 

 


From ???@??? Mon Feb 17 07:07:57 1997

山田@高崎商科短期大学です。

またしても、長くなってしまいますが、

古井戸さんからのご質問に答えます。

 

広嶋先生の今日的な実践的課題(介護保険法)への関心と並行して、このような哲学論議が行われてしまってるところが、やっぱり、経済統計学会らしいと思います。良くも悪しくも含んでの伝統だと思うのですが、どうでしょう?

 

以下の回答は、20年前の学生時代に勉強した時の記憶に基づいているので、間違いが含まれているかも知れませんが、頑張って書きます。

 

---------------------------------------------------------

At 11:56 2/14/97, FURUIDO Hiromichi wrote: >山田さんの「コメント3」についてちょっとだけ質問させてください。
>

> >ここでピリオーは 、わざわざMISE EN SCENE[上演する]というフランス
> >語をRepresenterとうい動詞の言い換えとして付け加えています;
> >これはDarstellen というドイツ語の翻訳と理解され、
>

>  この言い換えのミソは、

> 「上演する」という行為が、本来、あらかじめ用意された「もの」を舞台の
> 上にもってきて見せる行為ではない(たとえ「脚本」はあったにせよ)、と
> いう所にあると考えてよろしいのでしょうか。
>(省略)

> p.s.ピアニストのアルトゥール=ルービンシュタインの語録に「近頃の若い
> ピアニストは、よく練習するが、予め作った『演奏』を観客の前で開陳する
> だけで、感心しない」とかいうのがあったのを思い出しました。

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たぶん、古井戸さんの考えに「同意します」。でも、この際、以下の幾つかの点について確認しておきます。

 

REPRESENTATION, MISE EN SCENEおよびDARSTELLUNG について:(1)先ず、ドイツ語には、DARSTELLUNG に関連する語句としてVORSTELLUNG という語句があります。語義は、手元の独和辞典を引けば、両者とも「上演(する)・演技(する)・表現(する)」とあり、一見したところ、両者は同じ語義を持つように見えます。しかし、それは「そう見える」に過ぎないように思われます。これは重要なことですが、両者の意味には次のような差異があるからです。第一に、VORSTELLUNG には、「表象(する);思い浮かべさせる」という意味があるのにたいし、DARSTELLUNG には、言葉を厳密に理解すれば、無いということ、第二に、DARSTELLUNG には、「叙述(する)」という意味があるほか、化学の用語として「析出(する)・抽出(する)・遊離(させる)」という意味があるが、VORSTELLUNG には、それらの意味は無いことです。この意味の差は、両者とも「上演・表現」という同じ日本語の語句に置き換えられているけれども、この「上演・表現」という同じ言葉が実は違う意味作用を持っているのではないかという疑問を抱かせます。

ここで、古井戸さんが、ルービンシュタインへの言及を交えながら、MISE EN SCENE ( DARSTELLUNG)は「あらかじめ用意された「もの」を舞台の上にもってきて見せる行為」ではないものとしての「上演・表現」を意味すると推測するのは、「正しい」と思います。

VORSTELLUNG の根幹にある意味は、完全な形で既に存在しているモノを見えるような形にして前に(眼前に)持ち出す(=示す)ということです。ここには、「背後にあるモノ」と「それを(たんに)表現するモノ」という関係が、言い換えると、「表現されるモノ」と「それを代理して表現するモノ」という二項対立に基づいた関係が想定されています。鏡(あるいは写真)による反映というイメージが成立するのは、VO RSTELLUNG の意味の場においてです。もちろん、鏡が歪んでいることもあるでしょうが、歪んだ鏡の向こうに「映し出されるモノ」が完全な形であり、「正しく」映し出されるのを待っているというイメージが成立していることには変わりありません。このことは、鏡の置き方や照明のあて方によって「正しい」鏡像は様々あり、「正しさ」は観点に相対的であるといった論議を持ってきても同じです。ところがDARSTELLUNG には、こうしたイメージはありません。「表現(叙述・提示)するモノ」の背後に「表現されるモノ」は存在していない。「表現されるモノ」は、「表現するモノ」と共にある。あるいは、「表現されるモノ」は「表現するモノ」としてのみ存在する。というイメージがDARSTELLUNG のイメージです。「析出・抽出・遊離」という訳が当てられる化学の例でも、例えば、金鉱石に含まれる金を「析出・遊離」し、ここに差し出し、示すというイメージは、背後にあるモノとそれを映し出すモノというイメージとは違います。金鉱石に含まれる金を遊離し、取り出し、提示するという過程がDARSTELLUNG の過程であり、この過程の成果が金として示されるのです。

ところで、厄介なのは、日本語と同様、フランス語でもドイツ語にあるような(DARS TELLUNG とVORSTELLUNG といった)意味の区別はなく、REPRESENTATIONという語句で両者が訳されているということです。DARSTELLUNG の訳語としてMISE EN SCENEを追加しているのは、この両者の違いを喚起するためなのです。

 

(2)DARSTELLUNG という言葉を認識論上の鍵概念として仕上げ、提示したのはアルチュセール(1965年のパリ・ユルム街・高等師範学校での「資本論を読むゼミナール」)ですが、その背景に二つの事柄を確認できます。一つは、この認識論上の鍵概念はフロイトの精神分析から由来しているということです。前年(1964年)にアルチュセールは、パリ高師に精神分析の大家ラカンを招きゼミナールを開かせていますが、フロイトの著述(僕がドイツ語のテキストで確認したところでは、特に「夢判断」に顕著だったように記憶しています)におけるDARSTELL UNG という概念の働きについて徹底的な解明がなされているのです。フロイトにおける夢表現(夢のテキスト)は、まさにDARSTELLUNG なのです(実際に幾つかの箇所で、この言葉が当てられていたように記憶しています;フランス語訳では、REPRESENTA TIONがあてられています)。フロイトにとって夢は無意識の表現ですが、「無意識」は夢表現(夢のテキスト)から離れて背後のどこかに存在している訳ではない(無意識は、例えば、「夢」のような表現の中に効果=作用としてしか存在しえない)。もう一つは、この認識論上の鍵概念は、アルチュセールにおいては、マルクスの名前に結びついて語られる理論上の一大変換(因果性の概念における革命)を説明する叙述のなかで明示的に語られているということです(マルクスをヘーゲルのではなく、スピノザの継承者として位置づけるという今日の哲学研究の方向を決めた見解の提示と結びつけて;神即自然、神即無限というスピノザの汎神論/唯物論;神=原因、自然=結果)。幸いなことに、アルチュセールらの「資本論を読む」の初版本の日本語訳が「ちくま学芸文庫」から出版されているので(全三巻本;現在二巻まで刊行)、アルチュセールほか著「資本論を読む 中」ちくま学芸文庫、の240ページ以降、とくに252ページ以降を参照願います。

 

なお、DARSTELLUNG (上演)に係わる演劇論として;アルチュセール「「ピッコロ」、ベルトラッチとブレヒト」(アルチュセール「マルクスのために」平凡社ライブラリー[文庫本です]所収)があります。余談ですが、哲学者のジャック・デリダはアルチュセールの遺体の埋葬に際して読んだ弔辞のなかで、「彼のテクストの中で一番好きなもの」として、このテキストを取り上げ、その一節を読み上げました。

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では、今日はこれで。

**伊藤さんへの回答は、後日に投函します。**

 

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山田 満

 

 


From ???@??? Mon Mar 10 05:03:42 1997

山田(満)@高崎商科短期大学です。

長くなりますが、御免なさい。

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At 10:41 3/6/97, FURUIDO Hiromichi wrote:

>  伊藤さんの山田さんへのご質問は、やや傍流にそれてしまった私の質問から、
> 議論を本流に戻してくださるもののように思われ、山田さんのご回答およびそ
> の後の議論の展開を楽しみにしております。

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伊藤(国彦)さんへの回答が遅れていて申し訳ありません。別に、回答に窮している訳ではありませんが、この季節は冬眠期間なので無礼しています。そんなわけで、伊藤さんへのちゃんとした回答は、もう少し待ってください。今日は、代わりに、「上演Darstellung」概念にひっかけてチョット別の話題から問題に迫ってみます。例によって言葉遊びの「哲学ゲーム」です。

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新宮一成氏(京大の先生らしい)の「ラカンの精神分析」(講談社現代新書)という啓蒙書(これは、良い本です)を斜め読みしていたら、次のような一節に出会いました:

「精神分析とは、人間という動物の欲望が、<他者の欲望>によって人間化される過程を再現する場である。」(p.77)

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**ここで「再現する場」の、「再現する」はrepresentというよりは、dar~stellenだと思います。1970年代の中頃、英国の一部の社会科学者の間で流行った言葉遊びにrepresentをrepresentとre-present(re + present)、そしてpresentという言葉に意識的に分割し使い分けながら、(かつ、意識的に区分を曖昧にしながら)三者の間を行き来しながら現代文化(イデオロギー)の諸相を論じたり、政治的な代表制(例えば、労働党は労働者階級を代表する政党であるかどうかといった論議)について論じたりするというのがありました。正統的な学問の伝統(?)からみれば言語道断のこうした「言語ゲーム」を正統的学問の鼻先で戯れてみせることで彼らは、正統的な学問や世間の常識が前提としてきた約束事の世界を覆して見せ、マテリアルな現実の世界を露呈させ、伝統的なものの見方・考え方に反省を迫った訳です。「王様は裸だ」ということを露呈させるためには、「高度な・アクロバティックな」言語の戦略、言い換えれば言語のバトル(闘争)が必要だというのです(現実を直視し、歪みない鏡に写して見れば良いのだというのは「凡庸な経験論者」の幻想に過ぎない)。80年代以降、新古典派の経済学者のなかから「経済学はレトリックだ」という考え方が出てきていますが、それもこの延長線上で可能になった発言でしょう。**ところで、「再現する」re-presentは、確かに、presentしているモノを再び(re)プレゼント(present)することですが、present(現存=現在)しているモノがプレゼント(現在=提示)されるのはre-presentされることを通してのみだということを理解することが必要です。re-presentされる過程を抜きにしては、presentしているモノはpresent(現存)しないということです。例えば、「労働党が労働者階級を代表している」という言表(=言語表現)を考えれば、これは「労働者階級」という存在がpresentしており、そのpresentしているモノの利害・関心・意思を「労働党」がpresent=represent=代表している(お好みなら「反映している」)と解釈されますが、これは凡庸な考え方である。なぜなら、「ある政党・団体・制度的勢力」が「ある社会的集団」を「社会集団」として組織し、彼らの利害・関心・意思に形を与え(=articulateし)、彼らを「制度化された社会的勢力」として形成する歴史的・社会的過程を抜きにしては、「労働者階級」はpresentしないからです。もっと言えば、「ある社会的集団」のpresentすら、「ある政党・団体・制度的勢力」による領域区画化・組織化の働きなしにpresentしないとまで言うことができます。(ここで、「ある政党・団体・制度的勢力」のpresent事態の説明についてはどうなのかという問があれば、それは「卵が先か、鶏が先か」という問と同じ誤った問(=存在しない問)を立てていると言って良いでしょう。)

***たしかに、presentするモノはpresentする過程に先立ってpresentしていると言うことができます。金鉱石に金が含まれていなければ純金を析出(dar~stellen)することはできないのだから。しかし、ここで決定的に重要なことは、dar~stellenする過程なしに純金はpresentしないということです。宝石店にpresent(~ation)してある純金を見ているぶんにはdar~stellenの過程は隠されているけども、純金をpresent させるのはdar~stellen=re-present(の過程)なのです。この意味で、蜷川統計学が信奉している反映論的認識論(典型的な観念論哲学)は「結果と原因を取り違えている」(ニーチェ)。

この論議にひっかけて「命題の真偽問題」がでてくることに気がつくはずです。相対主義の泥沼にはまりこむことなく、「(科学的)真理」について論じること...(伊藤さん、ここのとこが難しいとこなんですね!****科学の実験過程を例にとれば、ある一定の「科学的」理論と仮説の下で、ある観測条件を与えたとき、ある一定の条件の下で、ある現象が起こると推測し、実験装置を構築し実験する、その結果、首尾よく推測した事態が起きれば、その推測をたてた命題は検証されたとする(科学の現場は反証主義ではなく検証主義の確信・信念で動いていると思うのですが、佐野さん如何でしょうか)。この科学の実験過程(科学的実践)で重要なのは、科学的推論を構成するランガージュ(言語活動)とそれに不可分に連結した(articulate)した実験の進行なのであって、結果として生じる事象は、たしかに実験に先立ってpresentしていると言うことができても、実験の総過程(da r~stellen)なしにpresentしないということです。

++++++++++++++++++++++++

ここで話題を変え、先の引用文の解説をしておきます:「精神分析とは、人間という動物の欲望が、<他者の欲望>によって人間化される過程を再現する場である。」(p.77)

----------------------------

*****上の文章で、「<他者の欲望>によって」とあるのは、「社会関係の網の目に取り込まれ、組み込まれることによって」というふうに読むと僕ら社会科学系の人間には分りやすいと思います。解説すれば:「人間」は「人間」になるために、先ず、自身が「人間でないもの」と区別されたもの(=人間の仲間)であることを認める必要がある(人間に育てられたアヒルは「自分を人間の仲間だと思い込んでいる」などと言われます)。しかし、これは危うい状態だ。そこで、次ぎに、人間であるためには、自身が人間の仲間であることをお互いの関係の中で絶えず確認しあえるような関係が必要である。このような関係の最も源基的な形態は、「私(子供)-あなた(母)-彼(父親)」の文法的主語の三角関係である。動物としての人間の子供は、「私−あなた−彼」の三角関係の中の「私」という場所に自らを置き、組み込まれることによって人間の仲間として自らを「主体化」する(私は私である;このことは、私があなたでないことを彼が認めていることから明らかだ)。ここで「主体化」は関係への「服属化」である(英語でもフランス語でも主体という言葉の裏側には服属という意味がくっついている)。ここでの彼は、街角の「警察官」が怪しい人物に呼びかける「おいこら、そこのお前」(「えっ、俺のことか」と、その呼びかけられた人物は思う)と言うところの彼(警察官)でもある。アルチュセールがイデオロギー装置と読んだのはこの過程を支える仕組みのことでした(凡庸な政治的言語としてのイデオロギーとは違います)。

******一昨年の北海道での総会報告のときに配布したペーパーで、私が「出入国管理制度・外国人登録制度は(国家)のイデオロギー装置としての機能を果たしていると書いたのはこの意味からです。「外国人を外国人として呼びかけ・呼び止め、外国人として主体化する装置(この国の中で、お前は外国人なのであり、外国人としての振る舞いをしなければならない)。

*******同様な意味で、統計調査(典型的には、人口センサス)は国家のイデオロギー装置としての機能をもっている。人口センサスは、国家の行政的権力が及ぶ外延的・内包的領域(内包的とは、例えばラテンアメリカのある種の国々では、都市のスラムや山岳部の地域の一部は国家の行政的権力が及ぶ範囲外にある)を確定すると共に、そこに在住する人々を国民として、あるいは外国人として、さらにあるファミリーないし世帯の一員として「呼びかけ、国民として、外国人として主体化する」装置だからです。そして、ペルーの1990年(?)人口センサスが明らかにしたように(調査時点での事実上の外出禁止令を公布したなかで、軍隊・警察を総動員した家宅捜査的状況の中での調査の実施)、イデオロギー装置の背後には国家の荒ぶる力の行使が控えている。平時には、決して現れない隠された状況。私は、良い悪いを言っているのではありません。

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山田 満

Mitsuru Yamada

[email protected]

高崎商科短期大学

 

 


From ???@??? Mon Mar 10 23:34:20 1997

佐野@福井です。寝ぼけた頭には効きすぎます。

 

> 今日は、代わりに、「上演Darstellung」概念にひっかけてチョット別の話題から問
> 題に迫ってみます。例によって言葉遊びの「哲学ゲーム」です。・・・中略・・・

> 「言語ゲーム」を正統的学問の鼻先で戯れてみせることで彼らは、正統的な学問
> や世間の常識が前提としてきた約束事の世界を覆して見せ、マテリアルな現実の世界
> を露呈させ、伝統的なものの見方・考え方に反省を迫った訳です。

 

「現実の世界」は人前に露呈しがたいと考える自称・不可知論者の私には、遊びは遊びとしか思えないのですが。どの遊びが面白いかが問題であって。

 

> ***たしかに、presentするモノはpresentする過程に先立ってpresentしていると言う
> ことができます。金鉱石に金が含まれていなければ純金を析出(dar~stellen)するこ
> とはできないのだから。しかし、ここで決定的に重要なことは、dar~stellenする過
> 程なしに純金はpresentしないということです。宝石店にpresent(~ation)してある純
> 金を見ているぶんにはdar~stellenの過程は隠されているけども、純金をpresent さ
> せるのはdar~stellen=re-present(の過程)なのです。この意味で、蜷川統計学が
> 信奉している反映論的認識論(典型的な観念論哲学)は「結果と原因を取り違えてい
> る」(ニーチェ)。

 

げげっ!「唯物論はあるが弁証法はない」という内海先生の蜷川解釈を真っ向から否定するとは言語道断。ちゃぶ台をひっくり返す(パラダイムチェンジ)ようなものですね。でも面白いから応援しますが。

 

> ****科学の実験過程を例にとれば、ある一定の「科学的」理論と仮説の下で、ある観
> 測条件を与えたとき、ある一定の条件の下で、ある現象が起こると推測し、実験装置
> を構築し実験する、その結果、首尾よく推測した事態が起きれば、その推測をたてた
> 命題は検証されたとする(科学の現場は反証主義ではなく検証主義の確信・信念で動
> いていると思うのですが、佐野さん如何でしょうか)。

 

反証主義というのはもちろん「タテマエ」です。社会科学の方法としての統計学を考える基準の一つにすぎません。実験をやってる人たちにとっては、再現性が重要だろうと思います。だから検証主義と言えるかもしれませんね。

 

> ここで話題を変え、先の引用文の解説をしておきます:
> 「精神分析とは、人間という動物の欲望が、<他者の欲望>によって人間化される過
> 程を再現する場である。」(p.77)

> ----------------------------

> *****上の文章で、「<他者の欲望>によって」とあるのは、「社会関係の網の目に
> 取り込まれ、組み込まれることによって」というふうに読むと僕ら社会科学系の人間
> には分りやすいと思います。

 

わかりやすいですが、<他者の欲望>をこんな風に翻訳して間違いはないのですか?

 

> 自身が人間の仲間であることをお互いの関係の中で絶えず確認しあえるような関
> 係が必要である。

 

人間であることを一度確認してしまえば、平時には再確認する必要はないのでは?有事には、自分が人間であることを再確認する必要に迫られることが多々あるのでしょうが、「有事とは何か?」という問題ですね。

 

> アルチュセールがイデオロギー装置と読んだのはこの過程を支える仕組みのこと

 

イデオロギー装置は有事の必要条件かな。

 

> ******一昨年の北海道での総会報告のときに配布したペーパーで、私が「出入国管理
> 制度・外国人登録制度は(国家)のイデオロギー装置としての機能を果たしていると
> 書いたのはこの意味からです。「外国人を外国人として呼びかけ・呼び止め、外国人
> として主体化する装置(この国の中で、お前は外国人なのであり、外国人としての振
> る舞いをしなければならない)。

 

イデオロギー装置によって主体化(差別化)されることが、主体と主体の軋轢(有事)の必要条件である、と理解しましょう。

 

> *******同様な意味で、統計調査(典型的には、人口センサス)は国家のイデオロギ
> ー装置としての機能をもっている。

・・・中略・・・

> 、そこに在住する人々を国民として、あるいは外国人として、さらにあるファミリー
> ないし世帯の一員として「呼びかけ、国民として、外国人として主体化する」装置だ
> からです。そして、ペルーの1990年(?)人口センサスが明らかにしたように(調査
> 時点での事実上の外出禁止令を公布したなかで、軍隊・警察を総動員した家宅捜査的
> 状況の中での調査の実施)、イデオロギー装置の背後には国家の荒ぶる力の行使が控
> えている。平時には、決して現れない隠された状況。私は、良い悪いを言っているの
> ではありません。

 

これから国家はどうなるのか?

ちゃんとイデオロギー装置としての機能を果たし続けられるのか?イデオロギー装置としての統計の存在意義はまだあるのか?いろんな疑問が生じますが、答えは???

 

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Kazuo Sano Faculty of Economics Fukui Pref. Univ. 0776-61-6000(FAX:6014) [email protected]

http://www.ecn.fpu.ac.jp/staff/sano/

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From ???@??? Tue Mar 11 03:49:12 1997

山田@高崎商科短期大学です。

金子さんからコメントがあったので追記しておきます。

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At 8:18 3/10/97, 金子治平 wrote:

>  ちょっと私の仕事に関係ありそうなので、フォローします。この議論は、結構古
> くから見られます。

> イギリスの人口センサスの初期にも、イデオロギーとして認識しているかどうか
> は別として「人口センサスによってイギリス人になった」ような意味の投書が新聞に
> 見られますし、日本でも高野岩三郎が「日本人」としての国勢調査参加を呼びかけて
> います。また、私の記憶があいまいですが、上杉先生の著作では、植民地(台湾)
> における国勢調査のイデオロギー的な側面を強調していたと思います。
> 最近では、歴史学や社会学の人が「日本人論」として興味を持っており、多分、
> 神戸市立大学の富山一郎君(歴史社会学)が取り扱ったはずです。(著作は読ん
> でいませんが、数年前に高野の論文などについて聞かれましたので)
> 以上。

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*英国の例は、全く知りませんでしたが、他は金子さんのおっしゃるとおりです。アメリカ合州国の人口センサスに関してはアメリカ合州国の歴史学者が立派な本を書いていますが、英国についてもあるのでしょうか。

 

**上杉先生の国勢調査(人口センサスの歴史論)については、学生のころ上杉先生のゼミナールで上杉先生の「経済学と統計」所収の国勢調査論(第一回国調についての文章)を読んだときに、国勢調査の「イデオロギー的機能」について上杉先生に教えられました。先生の教えに、「それはアルチュセールのイデオロギー論を使えば、上手く説明できる」と生意気に発言した思い出があります(1974〜75年の頃だと思います)。先生は、楽しそうな顔をしていましたが、その構想は果たされずに終わってしまいました。僕は、もう勉強する気はないので、今後もやりませんが。上杉先生、御免なさい。金子さん、お願いします。

 

***1980年の国勢調査の時だったと思いますが、国勢調査反対論が「市民運動」として噴出し、問題になったと思いますが、その反対論の論点はプライバシー問題だけではなく、「国勢調査は国家による国民統合の装置だ」という(極左的)反対論があったと思います。例えば、大坂に「人民新聞」という中国派の新聞が当時あって、そこではそういう主張が展開されていたように記憶しています;彼らが世界資本主義論の旗頭のサミール・アミン(当時、ユネスコの研究所に在籍していたと思いますが)を招待して講演が行われた時に、僕はチョット知り合いになったんですが。まあ、そんな極端な例を持ち出すまでもなく、同様な見解は沢山あったと思います。他方、我が経済統計学会(当時は経済統計研究会)のほうは、プライバシー問題には理解を示しつつ、「国民統合の装置論」には全く理解を示さなかったように感じています。「国勢調査反対だと、こら、お前、何を馬鹿なことを言ってるんだ」というのが、経済統計研究会の雰囲気。この問題には、立ち入らないことにしましょう。デモクラシーの過程論を抜きにして、国勢調査はデータがいっぱい得られるから良いのだといった論議の流れにならないことを祈っています。ちなみに、僕は国調は「そういうものだ(イデオロギー装置)」と納得しつつ、調査に協力していますけど。

 

****フランスのアナール派以降の歴史社会学の流れのなかでの「国民形成論」は、全て共通する問題意識をもっていますよね。

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では、今日はこれで。金子さん、コメントありがとう。それにしても、経済統計学会はもっと頑張らないと、みんな他の分野の研究者たちが経済統計学会が手がけても良いような仕事を先にされてしまいますね。学会の存在意義は何処に。

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山田 満

Mitsuru Yamada

[email protected]

高崎商科短期大学

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From ???@??? Tue Mar 11 03:49:15 1997

山田@高崎商科短期大学です。

佐野さんからコメントがあったので追記(弁解)しておきます。

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At 10:39 3/10/97, Kazuo Sano wrote:

> 「現実の世界」は人前に露呈しがたいと考える自称・不可知論者の私には、遊びは
> 遊びとしか思えないのですが。どの遊びが面白いかが問題であって。

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*「どの遊びが面白いかが問題であって。」(佐野):レトリックの戦争になりそうですね。ミネソタのセント・トーマス大学のJames Arnt AuneがRHETORIC & MARXISMなんていう本を書いていますね(1994年刊)。いまだに最先端の言語ゲームです。

 

*「「現実の世界」は人前に露呈しがたい」(佐野):マテリアルな力として常に露呈していると思うのですが。「伝統的な意味での認識論」が想定していた認識としては露呈しがたいとしても。

 

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At 10:39 3/10/97, Kazuo Sano wrote:

> げげっ!「唯物論はあるが弁証法はない」という内海先生の蜷川解釈を真っ向から
> 否定するとは言語道断。ちゃぶ台をひっくり返す(パラダイムチェンジ)ようなも
> のですね。でも面白いから応援しますが。

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いわゆる「反映論」「統計の対象反映性論」が行っていることは、結局のところ聖書(バイブル;大文字の本ですね)に照らしてモノを見るということ、聖書に照らして「あるモノ(例えば失業統計)」を検診し、あそこが悪い、ここが悪いといっているだけなのです。ここで聖書とは、現実を歪み無く反映しているテキスト(=正しい社会科学の理論とそれによって認識された現実像)のことです。偉大なガリレオは、この世界は神が創った、そして神は数学の言語でもって話しており、従ってこの世界は数学の言語でもって書かれたっ書物(バイブル)である、だから我々は数学の言語でもってこの世界という書物を読み解くことができる、と言いましたが、この数学を「正しい社会科学の理論」に置き換えれば経済統計研究会の「正しい社会科学の理論に基づく反映論的社会統計学」ができ上がるわけです。こうした経済統計研究会の立場は、「正しい社会科学の理論」が「清く正しく」存在しているときには有効なのですが、今日のように「偶像」が決定的に落ちた時代には全く機能しないばかりか、害悪ばかりをまき散らします。+++僕だって、1930年代のファシズムの時代に生まれ落ちれば、頑強なスターリン主義者として「振舞う」という政治的選択をすることがあると思いますが(そういう人になれればよいのですが)、今は、時代が違う。チョット混乱するかもしれないけど、「正しい社会科学の理論」(それは存在するという信念は必要だと思います)を求めて競い合うことは大事だと思いますが、唯一のひとつの理論に収斂していくことには手段を選ばず反対していくことが僕の信念です。時代の状況次第で「頑強な反映論論者になっちゃうぞ」などと臆面も無く言ってしまう僕は、学者として破廉恥モノですね。

 

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At 10:39 3/10/97, Kazuo Sano wrote:

> 反証主義というのはもちろん「タテマエ」です。社会科学の方法としての統計学を
> 考える基準の一つにすぎません。実験をやってる人たちにとっては、再現性が重要
> だろうと思います。だから検証主義と言えるかもしれませんね。

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クーン派の科学史家からのポッパー派の科学哲学的科学史家への攻撃が思い起こされますね。「お前らポッパリアンは、実際の科学の現場を全く知らずに、論理学の火遊びを行っているだけじゃないか。べラボーめー」

 

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At 10:39 3/10/97, Kazuo Sano wrote:

> > ここで話題を変え、先の引用文の解説をしておきます:
> > 「精神分析とは、人間という動物の欲望が、<他者の欲望>によって人間化される過
>
> 程を再現する場である。」(p.77)

> > ----------------------------

> > *****上の文章で、「<他者の欲望>によって」とあるのは、「社会関係の網の目に
> > 取り込まれ、組み込まれることによって」というふうに読むと僕ら社会科学系の人間
> > には分りやすいと思います。

>

> わかりやすいですが、<他者の欲望>をこんな風に翻訳して間違いはないのですか?

--------------------------------

僕が引用した新宮先生の本には、「ラカンの言う大文字の他者の本質はまず言語である」と書かれていますね。佐野さんの指摘の通り、精神分析やそれに依拠した哲学論議の専門家の人達からは、「お前なんか何も分らんのに黙っていろ」って言われるに相違ないです。でも彼らの議論ってのは、19世紀末ウィーンで生まれた、ユダヤ教とキリスト教の宗教的神話に結びついた家族神話に関連したような奇妙きてれつなお話から出発し、ラカンなどはそれにコジェーブのヘーゲル論(欲望のゲーム)を化合し、さらに僕などには理解不能の数学的言語まで動員し展開しているお話ですから分らない。そこでとりあえず「分らない所は」すべて脇にどかしてし、インチキ解釈をしてしまったわけです。その解釈は間違っても一向に構わないわけで(このあたり、短大の先生というのは気楽でいいものです)。というか、それ以上の精神分析学の論議を僕は信用していないということです。ぼくの精神分析・ラカン理解は、アルチュセールの記念碑的論文「フロイトとラカン」(1964)に基づくのですが:少なくも、フロイト=ラカンの精神分析を(フランクフルト学派とは違った意味で)社会科学の領域の場へと開いたという一点で。Lois Althusser, Ecrits sur la psychanalyse:Freud et Lacan, Le Livre de Poche, 1993;

 

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At 10:39 3/10/97, Kazuo Sano wrote:

> イデオロギー装置は有事の必要条件かな。

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人間の主体性というのは、「危ういもの」というのが精神分析のテーゼで、常に、自分が何者であるか確認し主体化していないと壊れてしまう危うい存在だと。何処まで本当のことか疑わしいのですが、欧米人は常に「愛してる」と言われ続けないと不安で不安でしょうがなくなると言いますよね(日本人は、「あ、うん」の呼吸なのだそうです)。

イデオロギー装置は、人間社会がある限り常に至るところに在るということで、有事になると(イデオロギー装置が機能不全に陥ると)人間なら狂気に走り(アイデンティティー喪失)、国家の場合なら正統性の危機が訪れ暴力装置が全面に出てくると・・・。イデオロギー装置というのは、日常ではほとんど気づかれない「エーテル」のような存在だと考えるのですが。

 

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At 10:39 3/10/97, Kazuo Sano wrote:

> これから国家はどうなるのか?

> ちゃんとイデオロギー装置としての機能を果たし続けられるのか?
> イデオロギー装置としての統計の存在意義はまだあるのか?
> いろんな疑問が生じますが、答えは???

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*国境を越えた企業活動、労働者の移動、情報の伝達、どれを取っても国民国家の危機ですよね。そこでヨーロッパのような国民国家を超えた「共通の家ヨーロッパ」という意識の芽生え(創出)、それに連動するように地域主義の台頭。どこまで我々はこの世界をコントロールしながら新しい世界に向けて移行していくことができるのか。尊敬するクリステヴァお姉さんのようにチョット待って、もう一度国家や家族の意味を考え直してから先に進みましょうという発言も聞こえてきます。ヨーロッパなど見ていると危険な状況ですよ。少なくも情報革命で「世界市民」が誕生して万歳なんて状況ではないですが。

 

*統計調査の環境悪化などと言われるのは、国家のイデオロギー装置の危機でもあるわけですよね。国家が一度国民化したはずの住民を国民化しにくくなっている;企業を国民企業として掌握しにくくなっている。国家として「人口センサス」を実行できなくなったときは、そのとき「日本国」は終焉を迎えるのでしょうね。その時には、何か、怖いことが起きるような気がします。

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では、今日はこれで、また長くなって御免なさい。

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山田 満

Mitsuru Yamada

[email protected]

高崎商科短期大学

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From ???@??? Tue Mar 11 23:07:50 1997

佐野です。山田さん、丁寧な解説ありがとうございます。感覚的にものを言ってるだけの不勉強な私ですが、ご容赦を。

 

> *「「現実の世界」は人前に露呈しがたい」(佐野):マテリアルな力として常に露
> 呈していると思うのですが。「伝統的な意味での認識論」が想定していた認識として
> は露呈しがたいとしても。

 

たしかに私は後者の意味で言いました。そしてマテリアルな力の存在も、否定するつもりはありませんが、これについては何も言えないというのが、不可知論者を自称する所以であります。

 

> いわゆる「反映論」「統計の対象反映性論」が行っていることは、結局のところ聖書
> (バイブル;大文字の本ですね)に照らしてモノを見るということ、聖書に照らして
> 「あるモノ(例えば失業統計)」を検診し、あそこが悪い、ここが悪いといっている
> だけなのです。ここで聖書とは、現実を歪み無く反映しているテキスト(=正しい社
> 会科学の理論とそれによって認識された現実像)のことです。

 

伊藤さんが問題にされているのはここかな?

大西さんの「構成説から仮説主義へ」(『「政策科学」と統計的認識論』,p.137-)を読むと、「聖書」も「仮説」の一つであることを明確に自覚する必要があり、そのような「仮説」の意義を積極的に評価すべきであると主張されているようです。この点については、賛成で、面白い仮説がないことこそ問題であると感じています。

 

> 「正しい社会科学の理論」(それは存在するという信念は必要だと思います)

 

存在可能性を否定することはできませんが、やっぱり「正しい」という言葉にひっかかりますね。「正しい人」の存在と同じような語感があって、そんな人っているのって感じですね。どうも違和感があるんです。

 

> そこでとりあえず「分らない所は」すべて脇にどかしてし、インチキ解釈をし
> てしまったわけです。

 

あの解釈は素人の私にも分かりやすいですが、あまりにも単語が違いすぎて、ふとホンマかいな?と思えただけです。

 

> それ以上の精神分析学の論議を僕は信用していないということです。

 

やはり山田さん流の理論を構成して頂いた方がありがたいです。社会統計学のテキストの序章あたりに置けるような。(実は福井大学で社会統計学の非常勤を頼まれて、テキストをどうしようか悩んでいます。)

 

> イデオロギー装置というのは、日常ではほとんど気づかれない「エーテル」の
> ような存在だと考えるのですが。

 

この辺りの感覚はなんとなくわかります。人間生活ってそういうものですよね。初めに言葉ありき、初めにイデオロギー装置ありき、でしょうか。

 

> *統計調査の環境悪化などと言われるのは、国家のイデオロギー装置の危機

 

どうしましょう。安心して生きて行けなくなったら。年金も健康保険も、ネズミ講みたいで困っちゃいますね。

 

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Kazuo Sano Faculty of Economics Fukui Pref. Univ. 0776-61-6000(FAX:6014) [email protected]

http://www.ecn.fpu.ac.jp/staff/sano/

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From ???@??? Wed Mar 12 02:27:15 1997

山田@高崎商科短期大学です。

残務処理的に、佐野さんのコメントに幾つか追記しておきます。伊藤(国彦)さんへの回答は次回に。伊藤さん、遅れて御免なさい。

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At 10:28 3/11/97, Kazuo Sano wrote:

> > *「「現実の世界」は人前に露呈しがたい」(佐野):マテリアルな力として常に露
> > 呈していると思うのですが。「伝統的な意味での認識論」が想定していた認識として
> > は露呈しがたいとしても。

>

> たしかに私は後者の意味で言いました。そしてマテリアルな力の存在も、否定する
> つもりはありませんが、これについては何も言えないというのが、不可知論者を自> 称する所以であります。

-----------------------

前期ウィトゲンシュタインの言葉に「人はこの本(論理哲学論考)の全き意義を、例えば、次のように述べることができよう。そもそも語られ得るものは、明瞭に語られ得る。そして、語り得ないのものについては、人は沈黙しなければならない。」というのがありますよね。彼によれば、「語り得ないもの」について語ろうとするところに様々な形而上学・哲学的問題が出てくるのであって、哲学的問題なんて本当はないんだと言うわけです。いま、我々が論議していることは、ウィトゲンシュタインの論議とは全く異なったコンテキストでの論議ですが、一つだけ共通していることが在るように思います。ウィトゲンシュタインの「語り得ぬもの」も、我々の「マテリアルな力」も、共に「どうでもよいモノ・無価値なもの」では全くなく、それどころか、それこそが我々の人生にとって本当は一番大切なことなのだと言っていることです(このあたりのところは、ウィトゲンシュタイン理解の争点になっているのかも知れませんが)。それだからこそ、ウィトゲンシュタインは、あれほどの精神の集中力でもって「語り得るモノの境界」を定めようと努めたんです(その試みの限界線上に「語り得ないモノ」の領域が露呈してくるというわけです)。我々の「マテリアルな力」の露呈に関して言えば、それは「語り得ないモノ」であったとしても、我々に「驚き(の感情)として」「(実験の)失敗の苦い経験として」「精神的・肉体的痛みとして」あるいは「悦びとして」語りかけてくるのだと思います。こうした感情こそが、我々の人生の原動力になると共に、学問研究の・新たな領域への知的挑戦への原動力になるのだと僕は考えています。

 

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At 10:28 3/11/97, Kazuo Sano wrote:

> 伊藤さんが問題にされているのはここかな?
> 大西さんの「構成説から仮説主義へ」(『「政策科学」と統計的認識論』,p.137-)> を読むと、「聖書」も「仮説」の一つであることを明確に自覚する必要があり、
> そのような「仮説」の意義を積極的に評価すべきであると主張されているようです。
> この点については、賛成で、面白い仮説がないことこそ問題であると感じています。

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反映論というのは、「絶対的な参照枠(=聖書)」を想定しないと成立しないお話なんですね。「聖書」は「仮説」になってしまったら成立しないので;基督教もユダヤ教も崩壊してしまう。だから、大西さんの論議も「反映論」の軌道から外れて宇宙空間上にぶっ飛んでいって欲しいのですが。大西さん、行方不明?

 

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At 10:28 3/11/97, Kazuo Sano wrote:

> > 「正しい社会科学の理論」(それは存在するという信念は必要だと思います)>

> 存在可能性を否定することはできませんが、やっぱり「正しい」という言葉
> にひっかかりますね。「正しい人」の存在と同じような語感があって、そんな
> 人っているのって感じですね。どうも違和感があるんです。

--------------------------

「どうも違和感があるんです。」(佐野):それは全く正しい懐疑的精神で全く異存ないのですが、ただ人間いつも「正さ」を求めて振舞うことは、やっぱり大切で、そうでなければ「拠り所無き人」となって怖いような気がするのです(自分のアイデンティティーの問題としても、また、社会的には「キチンとした正さ」を僕らが示していかないと「オウム教(狂)まがい」が隙を突いて進出してくるとか...)。てなこといいながら、二十世紀末には「ツイスト・アンド・シャウト」で踊り明かそうなどと考えている僕は、ニーチェというよりは、青島幸男/植木等のギャグの影響のもとで育った子供たちの一人。

それは、ともかく、「正しい社会科学の理論」なんて無いし、あってはならないのだけど、にもかかわらず「正しい理論」を求めてばく進するんだという意気込み・信念がないと「やってられない」のが人間ではないかと思っちゃってるんです。「理屈」として分っちゃいるけど、「止めてくれるな、親父っさん」の気分なんですね(親父っさんは、ロゴスの表徴としてです;東大駒場祭のテーマ「止めてくれるな、お母っさん」など思い出さないでくださいね)

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山田 満

Mitsuru Yamada

[email protected]

高崎商科短期大学

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From ???@??? Tue Mar 18 03:33:09 1997

徳島大の伊藤です。山田さんと大西さんの質問にお答えをしておきます。山田さんQ;それはそうと、伊藤さん、一つだけ教えて。僕も、あるところで、「その問題は既に決着済みだ」と言ったら、すぐに、「決着しとらん」と強い否定の発言が帰ってきました。可愛そうな山田君は、袋叩き状態ですね。でも、その先生、どう決着したと言われたのですか。

 

伊藤A:「構成説が勝利した」とのことでした。

 

>山田さんQ:僕らの見解は、「反映論vs構成説」という問題の立て方自体が間違っている(存在しない問題を問題にしている)というものなのですが。

 

伊藤A:同様の見解でした。「反映論」か「構成説」かという問いの枠内で、強いて答えれば、「構成説」に軍配があがるということです。フッサールの現象学あたりで決着はついているだろうということでした。しかし、基本は問題の立て方そのものにあるようです。

 

大西さんQ:廣松渉の著作を教えて欲しい。

 

伊藤A:分かりやすい本として、『哲学入門一歩前』講談社現代新書です。この本には、「原子主義(アトミズム)」の評価もあって、大西さんの議論とかかわると思います。私が続けて読んだもう少し『新哲学入門』岩波新書にも同様の内容が書かれています。 昔もそうでしたが、廣松氏の著作は難しい。てなわけで、どこがどう決着したかは、私は飲み込めていません。廣松氏によると、現象学も突き抜けて、「主観-客観」あるいは近代認識論の「外的対象-心的内容-意識作用」という大前提そのものが問題である、としています。

 もちろん、上記の評価が正しいものであるとはいいません。教えていただいた二人の哲学の先生はそうおっしゃった、というだけのことです。私には哲学の素養がありませんので、「反映論vs構成説」という対抗にそくしてそれがいかに止揚されたかをたどれる書物はありませんか、とむしのよいお尋ねをしたところ、次の本を紹介されました。 岩崎武雄『西洋哲学史』有斐閣(古い本なので絶版かもしれません)ぼちぼち勉強します。私なりに咀嚼しましたら、また参戦いたします。それまで、山田・佐野・大西トライアングルの中には立ち入らぬよう「傍観」致します。冬眠!冬眠!しばらく起こさないでね!!

 

山田さんQ:イアン・ハッキング(Ian Hacking)のRepresenting and Intervening, Cambridge U.P.,1983(翻訳は、「表現と介入」産業図書です)を頭パンクするほど読んだらよいと思います。

 

伊藤A:ハッキングは面白いようですね。さっそく注文します。「国民統合装置論」の議論とのかかわりで、政治学でM.フーコーの権力論や統治論を紹介・適用している方がいます。政治学では、超マイナーな存在らしいのですが。というのも、その一人が私の同僚です。彼らは、統治における統計・統計学の役割にもふれ(フーコーが取り上げている)ていておもしろいです。その参考文献にも、ハッキングはでてきました。 栗栖 聡(1993)「権力」『現代の政治思想』東海大学出版会。 米谷園江(1996.12)「ミシェル・フーコーの統治性研究」『思想』岩波書店。

 

>追記:大西さんへ。可愛そうな山田君は、袋叩きにはなりたくない!!!! やばいなー。「やっぱり構成説が正しい」と言ったら、私も袋叩き・・・。

 


From ???@??? Tue Mar 18 06:13:48 1997

山田@高崎商科短期大学です。

伊藤(国彦)さん、忙しいときに、どうも有り難うございました。

伊藤さんへ:以下のコメントは、私の独り言です。外に出ると花粉症にやられるから、家で、じっと冬眠していてください。

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At 19:03 3/17/97, [email protected] wrote:
> 伊藤A:「構成説が勝利した」とのことでした。>

> >山田さんQ:僕らの見解は、「反映論vs構成説」という問題の立て方自体が間違っている(存在しない問題を問題にしている)というものなのですが。

> 伊藤A:同様の見解でした。「反映論」か「構成説」かという問いの枠内で、強いて
> 答えれば、「構成説」に軍配があがるということです。フッサールの現象学あたりで
> 決着はついているだろうということでした。しかし、基本は問題の立て方そのものに
> あるようです。

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山田によるコメント1:伊藤さんからの回答を聞いて,「安心」しました。僕が了解しているところでは、現在「我々の外界」で行われている探求・議論は、「決着がついた」ことを前提にした上で、「(科学的)実在論」と「反実在論・非実在論」との間のどこに位置決めをするかを巡ってのものです。ハッキングの前掲書は、この問題に正面から取り組んだものです。理論の問題として、我々の統計に対する理解、統計活動に対する理解、統計的研究に立ち向かう態度を現在の「知の水準」に照らして根本的に考え直す仕事が、やっぱり必要なのだと考えてしまいます。

 

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At 19:03 3/17/97, [email protected] wrote:
> 大西さんQ:廣松渉の著作を教えて欲しい。>

> 伊藤A:分かりやすい本として、『哲学入門一歩前』講談社現代新書です。・・・廣松氏によると、現象学も突き抜けて、「主観-客観」あるいは近代認識論の
>「外的対象-心的内容-意識作用」という大前提そのものが問題である、としています。

--------------

山田のコメント2:廣松先生(まつは、松ですね)の論議は、例の「四肢構造論」のことでしょう。学生の頃、一生懸命に勉強しました。「世界の共同主観的存在構造」(勁草書房;現在は、岩波書店から著作集が出ている)です。確かに、現象学の乗り超えがテーマでしたね。おせっかいにも、しゃしゃり出て発言させてもらえば、僕らの学生時代には、「マルクス主義の地平」「マルクス主義の理路」あたりから(いずれも、当時、勁草書房から;もしかしたら、現在、講談社学術文庫あたりに収められているかも)廣松哲学に入門しましたが(唯物論の問題、弁証法の問題)。ちなみに、経統研の最大の哲学の敵は、マッハらしいのだけども、廣松氏はマッハの翻訳者としても有名ですね。この問題、深入りしていくと「袋叩き」になりそうですね。

 

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At 19:03 3/17/97, [email protected] wrote:
> 伊藤A:ハッキングは面白いようですね。さっそく注文します。「国民統合装置論」の
> 議論とのかかわりで、政治学でM.フーコーの権力論や統治論を紹介・適用してい
>る方が

> います。政治学では、超マイナーな存在らしいのですが。というのも、その一人が私の
> 同僚です。彼らは、統治における統計・統計学の役割にもふれ(フーコーが取り上げて
> いる)ていておもしろいです。その参考文献にも、ハッキングはでてきました。

----------------

山田のコメント3:伊藤さん、本(論文)の紹介ありがとう。早速、読んでみます。経済統計学会では、ハッキングは、「確率革命」の翻訳本の中に書いていたり、統計的推測に関する本があったりするので結構有名ですね。たぶん、フーコーとの絡みででてきた本は、Ian Hacking(1990)The Taming of Chance, Cambridge U.P.だと思います。統計学史の本ですね。ハッキングは、科学哲学・科学史の重鎮でもありますが、欧米では、有名なフーコリアンですよね。The Foucault Effect(フーコー効果)というタイトルの論文集が出版されていますが、そこにハッキングは、統計学史研究におけるフーコー効果を主題とした論文(統計学史研究方法論にかんする論文)を執筆していますよね。その成果が、The Taming of ...ですね(それに、フーコー絡みで、以前に「確率(論)の出現」という本も書いていましたね)。山田のコメント4:政治学でフーコーを使うのは、日本では、やっぱりマイナーなんですか。欧米の、政治学・政治社会学・歴史社会学では、むしろ、確立された一潮流なんじゃないでしょうか。でも、いい人が同僚にいて羨ましいです。**それから、関連するかどうか微妙ですが、シェバリエの「危険な階級」(翻訳:みすず書房)なんかも、統計・統計学研究と社会との関係を考える上で必携の本ですよね(こちらは、金子さんの十八番かな)。

 

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At 19:03 3/17/97, [email protected] wrote:
> >追記:大西さんへ。可愛そうな山田君は、袋叩きにはなりたくない!!!!
>  やばいなー。「やっぱり構成説が正しい」と言ったら、私も袋叩き・・・。

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**間違いなし。

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では、今日はこれで。しばらく冬眠します。

僕も、たまには勉強しないとね。

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山田 満

Mitsuru Yamada

[email protected]

高崎商科短期大学

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