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楽屋のモニターで前プロのグリンカ『ルスランとリュドミラ』序曲を聴きながら、彼は出番を待っていた。彼、コリンは、中プロのラフマニノフピアノ協奏曲第2番のソリストとして、ペンバリー管弦楽団と共演することになっていた。このオケとは付き合いが長く、今回で20回くらいの共演だろうか。コリンは技術力・表現力ともに世界のトップレベルのピアニストであったが、オケにも造詣が深く、ピアノ協奏曲を弾かせるとオケとのアンサンブル能力において彼の右に出る者はいなかった。序曲が終わり、ピアノを運び入れるために弦楽器奏者たちが舞台袖にさがった。楽屋のドアをノックする音が聞こえ、マネージャーが緊張した面持ちでコリンに出番を告げる。コリンは笑顔で、弾くのは君じゃないんだから、と冗談を言ってマネージャーの肩を軽くたたいた。鏡を見て軽く身なりを整え、舞台へと向かう。袖ではヴァイオリン奏者たちが舞台のセッティングが終わるのを待っていた。コリンを見つけると彼らは声をかけ、一足先に舞台へ出て行った。コンマスがピアノのAをたたき、オーボエがそれにあわせチューニングする。指揮者がコリンのところへやってきて、今日もコリンの甘い音色に何人か倒れるかな、とからかった。コリンも笑って、一番最初に倒れないでくださいよ、と返す。ステージマネージャーが合図をすると、二人は舞台へ歩いていった。コリンと指揮者が舞台上に現れるとホールは拍手に沸いた。オケのメンバーも立ち上がって二人を迎える。コリンは客席に向かって軽く会釈すると、指揮者、続いてコンマスと握手をした。彼はすっと椅子に座るとその位置を調節し、黒のスタンドカラー・シャツの袖を弾きやすいように少し折った。コリンの長い足は鍵盤の下にやっと収まるくらいだったが、優雅に足を前後にずらし、右足をペダルの上に軽く置いた。そして準備が整ったことを指揮者に笑顔で伝えた。指揮者は頷く と、コリンが弾き出すのを静かに待った。 コリンは目を閉じて集中し、弾き始めのテンポと音色をイメージした。そして目を開け、ふわっとギリシア彫刻のような手を鍵盤の上に上げると、ピアニッシモだが会場の隅まで緊張感の伝わる最初の和音を弾いた。弔いの鐘のような重々しい和音が最初は弱く、徐々に音量と深みを増し、聴衆の心に響いていく。コリンの美しい指から紡ぎ出される音楽は、数小節で聴衆のみならず舞台上の指揮者やオケのメンバーも惹きつけた。会場を圧倒する和音が鳴り響き、左手の最低音の重たい足音を思わせる音と、心に迫るアルペジオが第一主題のテンポを作る。指揮者はそれにあわせ、オケに指示を出す。コリンが弾く重厚な音楽の上を、弦楽器のsulGで奏でられる旋律が響く。旋律がピアノに移り、コリンは多彩な音色と豊かな表現力でラフマニノフの世界を構築していく。どんなに超絶技巧の部分もそれを感じさせることなく、余裕すら見えた。第二主題は夢のような甘美な音楽。コリンは軽く目を閉じ、天からの啓示を受けているかのように顔を上に向け弾く。微妙にテンポを揺らし、ホールを柔らかな音色で満たした。コリンの繊細な指が鍵盤の上を滑るように動いていく。管楽器が旋律を吹くとき、コリンはそちらに目をやり、管楽器奏者が吹きやすいように伴奏をした。要所要所で常に指揮者とコンタクトを取り、オケとのアンサンブルが乱れぬよう細心の注意を払う。コリンのピアノは、どんなにフォルテでも決して乱暴にならず、またピアニッシモの美しさは格別であった。低音は深く響き、高音はシルバークリスタルのようにきらきらと輝いていた。細かな音は一つ一つはっきりと粒がたち、和音はバランスよく響いた。オケもコリンの音楽に導かれ、絶妙のアンサンブルを聴かせた。弦楽器、管楽器、打楽器そしてピアノがまるで一つの楽器のように一糸乱れぬ演奏をする。提示部が終わり、技巧的な展開部。オケとともに徐々に盛り上がり、恍惚的なまでに熱狂し再現部へ。冒頭のマーチが力強く奏でられる。コリンはほとんど弾き通しなのだが、一向に疲れを見せなかった。再現部も終わりに近くなり、ホルンソロの柔らかく美しい音色が響く。曲はしばらく静けさを保ち、チェロの旋律から徐々にテンポ、音量ともに増していき、ハ短調の重い和音で締めくくられた。 1楽章が終わってから少し間を置いて、指揮者はコリンのほうを向き、準備が整ったか確認する。コリンは笑顔で答えた。指揮者は棒を構え、ミュートをつけた弦楽器により導入部が演奏され、それに木管、ホルンが続く。目を閉じてそれを聴いていたコリンは柔らかなタッチで、甘美な、天上の音楽のような旋律を、美しい指から紡ぎ出す。その音楽の上を最初はフルートソロが、そして続いてクラリネットソロが、コリンのピアノにいざなわれるように、抒情的な旋律を奏でる。コリンは管楽器のソリストたちとアイコンタクトをとり、彼らの音楽に合わせた。同じ旋律がピアノに移る。コリンは目を閉じ、心の中に浮かぶ音色に集中する。コリンの奏でる夢のような音楽に、他の楽器は柔らかく彩りを加える。中間部に入り、不安げな調性、少しテンポも速まり音量も増していく。ピアノがソロになり、コリンはダイナミックな強弱で華麗な音楽を作り上げる。その頂点に続く技巧的な部分もうまくオケとアンサンブルをする。そしてカデンツァ。会場中がコリンの音楽に集中する。ミューズの愛情を一身に受けたかのようなその姿と音楽に、居合わせる全ての人々が魅せられた。ピアノのトリルの中、フルートの低音が柔らかく響き、最初のテーマに戻る。コリンの真綿のように柔らかな伴奏に、ヴァイオリンの旋律が甘く溶け込む。一度盛り上がりを見せた旋律も、波が引くように収まり、最後にはピアノだけになった。コリンは全神経を指先に集中し、この世のものとも思えないほど美しく甘い音色で最後の音を弾いた。 2楽章の余韻が消えるとすぐに3楽章に入った。緊張感のある出だしから一気にシンバルの鳴り響く華やかな音へ。それを受けてコリンのしなやかな腕が舞い、指が鍵盤を翔ける。歯切れの良い音をテンポにのせて弾く。コリンの形の良い指は、信じられないほどのスピードで正確に鍵盤をたたく。華やかで力強い第一主題が終わり、ピアノに導かれて柔らかく甘い第二主題がヴィオラによって演奏される。続けてコリンのピアノによって同じ旋律が奏でられ、夢のような世界を作り出す。コリンは軽く目を閉じ、手が動くに任せた。緊張感のあるピアニッシモの部分を経て、急激に盛り上がり中間部に入る。テンポも上がり、オケとの掛け合いが緻密になる。バッハ風のフーガの部分はコリンの得意とするところであった。華麗な世界がコリンとオケにより展開される。再び盛り上がりを見せた後、先程の甘美な主題が今度はヴァイオリンで演奏される。そしてまたピアノへ。コリンは天を仰いで目を閉じ、気持ちを込めて弾く。ピアニッシモの部分が再度演奏され、徐々に曲は音量を上げていく。コリンのピアノが翔け上がっていく。その頂点で管が響き、ピアノとチェロにより青い海の中を悠々といくような旋律が演奏される。そして更に盛り上がり、コリンの華やかなピアノソロが会場中に鳴り響いた。ソロを弾き終えて一瞬の静寂。ティンパニの一打を合図に先程の第二主題が今度は全合奏で壮大に奏でられる。コリンのピアノはオケの全ての楽器が鳴っている中でも、よく響き聴き取ることが出来た。曲は更に華やかさを増し、 力強く締めくくられた。 余韻がホールの空気に消え去ると、会場は拍手の嵐に包まれた。あちこちからブラヴォーの声がかかる。指揮者も楽団員もコリンに拍手を送る。コリンは立ち上がり、優雅な長身を少し傾け、客席に挨拶する。そして指揮者、コンマスと堅く握手をした。指揮者が楽団全員を起立させると、更に拍手が大きくなった。コリン・ファンクラブのメンバーが花束を手に舞台下へやってくる。コリンは跪いて、一人一人握手をしながら笑顔で花束を受け取る。すぐに両手で抱えきれないほどになってしまったので、コリンはちょっと待ってて、というしぐさをして指揮者と袖へ一度下がり、オケのメンバーは着席した。拍手は鳴り止まない。再びコリンと指揮者が現れる。コリンはオケに向かって拍手すると、コンマスに立ち上がるように頼んだが、コンマスは座ったままコリンに賞賛の拍手を送る。コリンはちょっと照れ笑いをして、オケに軽く礼をしてからコンマスの腕を取り立ち上がらせる。コンマスが立ち上がると他の団員もいっせいに起立した。コリンはもう一度客席に向かって会釈すると残りの花束を受け取る。そして再び指揮者とともに袖に下がったが、拍手が鳴り止まないので、今度は一人で舞台に現れた。コリンがピアノのところに立つと、客席はアンコールの期待で静かになった。ドビュッシーのClair de Luneを、と言うと、コリンは流れるような動作で座り、手を鍵盤に置いた。澄み切った夜空、冴え冴えとした、しかし冷たい月の光。月明かりに浮かぶ湖面とそれに映る木々。コリンの指は魔力でもあるかのように情景を描き出す。ピアノ一台が会場全体を圧倒する。聴衆も団員もコリンの作り出す世界に夢中になった。最後のアルペジオの音が静寂に吸い込まれても、誰一人として身動きできなかった。コリンが腕を下ろして、会場は堰を切ったかのように拍手で沸き返った。コリンは満足げに客席とオケに向かって一礼し、袖に下がっていった。楽団員もそれに続いて舞台から下がった。皆コリンに祝辞を述べ、握手を求める。楽団員たちは休憩の後メイン・プログラムのチャイコフスキー交響曲第6番があるが、コリンはこれで終わりなので、わざと楽団員にプレッシャーをかけたり、祝杯をあげながら楽屋のモニターでゆっくり聴いてるから、などとからかったりした。
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『ルスランとリュドミラ』序曲(Listen to samplesの1番をクリック)
ピアノ協奏曲第2番(Listen to samplesの1,2,3番をクリック)
Clair de Lune(『月の光』)(Listen to samplesの3番をクリック)
交響曲第6番『悲愴』(Listen to samplesの1,2,3,4番をクリック)