コリン・コンマス編4−バッハ・ブランデンブルク協奏曲第5番


夏の休暇は終わり、彼らのシーズンが始まる。

ペンバリー管弦楽団のメンバーもぞくぞくと休暇先から帰ってきた。皆、それぞれの休暇の思い出話に花を咲かせている。その中にはペンバリー管弦楽団の誇るソロ・コンサートマスター、コリンの姿もあった。
「皆さーん、注目してください!」
1ヵ月半ぶりに集まったオケのメンバー、事務方、そのほか関係者による軽い打ち合わせが始まった。休暇後で機嫌がいいのか、冗談が飛び出しては皆で笑いあう。
「それでは、最後に、何か連絡のある方はいらっしゃいますか?」
との言葉に、コリンが、最上の美音を生み出すその右手をすっと上げた。
「シーズン前の、教会での弦楽コンサートのことなんですけど」
と、彼の奏でるG線のような深い響きの声でコリンは言った。
「トリの『ブランデンブルク協奏曲』第5番の客演フルーティストからキャンセルの連絡が入りました。もう休暇前のことは覚えてないかもしれないけど、出演予定者はちゃあんとリストになってますから逃げ出さないで」
ここで皆の笑いが入った。
「…このことについて話し合いたいので、このあと上のカフェに来てください」

ペンバリー管弦楽団の弦楽奏者20名弱は、シーズンのオープニング・コンサートの一環として、教会で弦楽コンサートを開くことになっていた。その最後を飾る曲が、バッハの『ブランデンブルク協奏曲』第5番だったのだが、1週間ほど前に客演予定のフルーティストからキャンセルが入ったのだった。コンサートは1週間後、早く代わりのフルーティストを探さなくてはならない。
「うちのソロ・フルーティストは?」
「ジョンはちょうどその日まで休暇、サビーネは嫌だって」
「嫌って何が?」
「コリンとソロを弾き合うのが嫌なんじゃないの?」
一同、大笑い。コリンはちょっとむっとしたような顔をしてみせて、
「サビーネは、バロックがあまり好きじゃないんだよ」
と、嘘か本当か分からないことを口にした。また、ああでもない、こうでもないと考えるメンバー。
「知名度から、ベ○リンフィルのエ○ニュエル・○ユあたりに、頼めないかなぁ?」
「ヴィジュアルから言って、満員になりそうねー」
「あっちももうシーズンに入ってるんじゃないの?」
「コリンの意見は?」
一同はコリンに注目する。コリンはうーん、と腕を組んで考え込んだ振りをした。そして、重々しい雰囲気で一言。
「男は嫌だな、やる気がでない」

最初は真面目に話し合っていたメンバーだが、久々の再会で、しかも休暇後とあって、だんだんとそれぞれの土産話に話題が移って行った。そんな時、コリンの携帯が鳴った。着メロは、シーズンエンドに弾いた、ベルリオーズ『幻想交響曲』の『断頭台への行進』。
「そんな着メロにしないでよ!」
というメンバーの言葉に、くすくす笑いながら、コリンは電話に出た。
「ハロー、コリン?私、誰だか分かる?」
コリンの顔が、驚きと喜びで明るくなった。久しぶりに聞く声。しかし間違えようがなかった。
「YOKO!久しぶり、元気?声を聞けて嬉しいよ。まさか日本から電話してるんじゃないよね?」
「違うわ、今アムステルダムなの。ちょうど演奏会があって。5日後にはロンドンに行けそうなの。プライベートで2,3日。よかったら会えないかなぁと思って」
コリンの頭に名案が浮かんだ。

教会でのコンサートの前日。ペンバリー管弦楽団のリハーサル室に、今度の演奏会の出演メンバーが揃っていた。そこへコリンが日本人女性をエスコートしてやって来た。
「YOKO、ペンバリー管弦楽団へようこそ。みんな、こちらが今回フルートを引き受けてくれたYOKOだよ、名前や演奏を知っている人も多いだろうけど」
「よろしく」
和やかな雰囲気で、挨拶が交わされる。今はソリストとして世界中を飛び回っているYOKOだが、学生時代はコリンと同じ音大で学び、YOKOはフルートの、コリンはヴァイオリンのそれぞれ首席として卒業したのだった。管弦楽や室内楽のクラスで知り合い、それ以来友人として、演奏家として、いい関係を続けていた。
「曲順で練習していくけど、隣の部屋で吹いてる?」
「ここにいるわ、みんなの演奏が聴きたいし、久しぶりにコリンのヴァイオリンもね」

「じゃあ、10分休憩して、ブランデンブルクをやります」
演奏の緊張から解き放たれて、オケのメンバーは談笑しつつ部屋の外に出て行った。YOKOは既に組み立てて暖めておいたフルートに軽く息を吹き込んだ。それから煌めくシャンデリアのような、透明でいながら華麗な音色で吹き始めた。コリンはYOKOの邪魔にならないよう、ちょっと離れたところからその姿を見つめていた。
「ブランデンブルクは久しぶり。それ以上に、コリンと演奏するのは何年ぶりのことかしら?」
YOKOに話しかけられて、コリンは彼女の近くに寄って行った。
「学生のとき以来かな。相変わらずいい音してるね。オケはどうだった?」
「いい弦ね。よくまとまっているし、透明で温かな音色だし。コンマスがいいのかしら?」
コリンは自分が褒められたことより、自分の大事な仲間たちがYOKOの気に入ったのが嬉しくて、まるで子供のような満面の笑みを浮かべた。
「本当にいいオケなんだよ。もう最高。たまにソロで演奏するのもいいけど、僕はやっぱりこのオケで弾き続けたいんだ」
「そのうちフル・オーケストラともぜひ一緒に弾いてみたいわ。ね、ちょっと二人で合わせてみない?」
二人はお互いのソロのかけあいの部分を練習し始めた。

練習が終わり、メンバーはそれぞれの家へ帰っていった。コリンはYOKOを、彼女の宿泊しているホテルへ車で送って行った。
「YOKO、明日はどんなドレスにする?」
YOKOはコリンの思いもかけない質問に驚いて、運転席のコリンの整った横顔を見つめた。
「ドレス?考えてもいなかったわ。そうね、持ってきているのは、ワインレッドのと、シルバーと…」
「ブルー」
「え?」
「ブルーがいいな、しかも肩のでているやつ」
コリンはいたずら好きな少年のように、笑みを浮かべながら言った。
「そんなもの、持ってないわよ。他のでいいでしょ?」
「やだ。ブルーがいい。ブルーにして」
コリンはくすくす笑いながら、駄々をこねた。コリンはYOKOより年上なのだが、YOKOには昔から時々年下の弟のような気がしてならない。
「わかった、わかったわよ。肩はでてないけど、ブルーならいいのね?」
「ありがとう」
そして最高の笑顔。ホテルの前でコリンは車を止めた。ヴァイオリンの弦の上を自在に踊る左手をすっとYOKOの前に伸ばし、ドアを開ける。コリンのほのかな香水の香りが、YOKOには感じられた。
「お嬢様、お屋敷に着きましたよ。じゃあ、明日も迎えに来るから。おやすみ、よい夢を」
「おやすみ、また明日」
YOKOは部屋に戻ると、急いでブルーのドレスを出した。コリンのえくぼを浮かべた笑顔が目に浮かぶ。
「まったく、コリンったら!!」

澄み切った青空が広がる。コンサート会場となる教会は、それほど大きくはないが、天井が高く、ステンドグラスが見事だった。祭壇の前に椅子と譜面台が並べられ、周りには花が飾られた。YOKOはフルートを吹いてみて、響きを確認する。
「いい会場ね。残響も程よいし」
「チケットは売り切れたらしいよ。今年もいいスタートが切れそうだな」
コリンは弓の毛を張りながら言った。その顎には、彼の愛器ストラディヴァリウスが挟まれていた。コリンは軽く調弦すると、団員に声をかけた。
「そろそろ練習を始めよう、まずは『Eine kleine Nachtmusik』から」
コリンはヴァイオリンに軽く口づけをした…まるでコンサートの成功を祈るかのように。流麗な動作で楽器を構えると、彼は「コンサートマスター」の顔になった。

西日が教会の入り口上方にあるバラ窓を通って、虹色の光を会場内に投げかけていた。さすがにこの時季は日が長いので、コンサートが始まる時間になっても外は明るい。会場はペンバリー管弦楽団の演奏会を待ち望んでいた満員の聴衆で熱気に包まれていた。とりわけコリンファンクラブの面々は、相変わらず大きな花束を手に、コリンの登場を今か今かと待っている。20時になると、コリン以外のメンバーが楽器を手に登場した。会場は拍手の音で包まれた。団員が着席し、教会内は程よい緊張感のある静寂が訪れた。そして世界でも有数の名コンサートマスターであるコリンが、その優美な長身を燕尾服で華麗に包み、会場に現れた。その途端、教会じゅうに嵐のような拍手が鳴り響いた。聴衆は皆、この瞬間を待っていたのだ…彼らにとってコンサートのない2ヶ月は長かった。そして今日からまた、ペンバリー管弦楽団の見事なアンサンブル、柔らかな弦と個性の輝く管のハーモニー、なによりもコリンのヴァイオリンを聴くことができるのだ。拍手にはその喜びが感じられた。コリンは団員たちを起立させ、聴衆に向かい姿勢よく礼をすると、すっと楽団員のほうを向いた。団員が座り終えると、優雅な動作でヴァイオリンを構え、Aの音を出した。コリンはコントラバス、チェロ、ヴィオラ、ヴァイオリンと順に音を与えていった。その都度、コリンはメンバーと目を合わせ、笑顔を向ける。彼の柔らかだが意思のある眼差しと暖かな笑顔は、団員たちの本番の緊張をほぐし、安堵感を与えるのだ。団員が調音し終えたのを確認すると、コリンは燕尾服の裾をはらいつつ、音もなく椅子に座った。彼がその愛器を構えると、団員もすっと楽器を構えた。

コリンのアイン・ザッツに合わせ、モーツァルト『Eine kleine Nachtmusik』の華麗な音が教会内に響き渡った。今回の弦楽合奏は小規模なので、指揮者は置かず、すべてコリンのリードにより音楽が進行される。コリンの一つ一つの動作、視線が、楽団員に音楽を伝えていく…とりわけその芸術的に美しい弓使いは何よりも多弁であった。コリンに導かれたペンバリー管弦楽団の弦楽器奏者たちは、澄み切った音色で、音楽を奏でていく。彼らの演奏は、技術的にも表現的にも素晴らしかったが、何よりも音楽をする喜びに溢れたものであった。コリンをはじめ、団員たちの顔には、自然と笑顔が浮かぶ。1曲目が終わり、その最後の音の余韻が教会の高い天井に吸い込まれると、聴衆は心からの拍手を送った。2ヶ月待った甲斐があった…拍手は聴衆の気持ちを代弁していた。コリンは満足げに、流れるような美しい動作で立ち上がると、メンバーを立たせ、聴衆に一礼した。

彼らはそれから、マーラーの『アダージエット』、チャイコフスキーの『弦楽セレナーデ』から第1楽章と第2楽章、休憩を挟んでパッヘルベルの『カノン』、ヴィヴァルディ『四季』から『夏』と『秋』を演奏した。それぞれ難しさも曲想も違うが、コリンのリードの下、ペンバリー管弦楽団の弦楽器奏者たちは見事に弾きこなしていった。『四季』の演奏が終わり、拍手の中コリンは立ち上がると、大理石の彫刻のような整った手を軽く開いて拍手を制止した。少し席から離れ、聴衆のほうに歩み寄る。
「皆さん、今晩は聴きに来てくださって、本当にありがとうございます」
コリンの深く艶やかな声が教会内に響く。
「夏の休暇は楽しいもので、それがあっという間に過ぎ去ってしまったのも寂しいものですが、こうやって皆さんの前で演奏していると、また演奏する喜びを思い出して、逆にこの休暇がとても長かったように感じます。皆さんも同じように、演奏会シーズンが始まったことを喜びとしてくだされば幸いです。私たちの演奏を聴いて『やっぱり夏の休暇のほうがいいなぁ』と思わないでいただければよいのですけど」
聴衆は笑いながら、コリンに拍手を送る。
「楽しい夜もまもなく終わりとなります。最後の曲は、予定していたソリストが急遽出られなくなったのですが、素晴らしいフルーティストを迎えることができました…ご紹介します、YOKOです」
拍手がまた大きくなった。それを合図に、YOKOが、シンプルだが織りで模様の入った、上品な絹のブルーのドレスを着て、姿を現した。コリンはYOKOを迎えに歩いていき、その手を取った…ブルーのドレスが余程嬉しかったのか、満面の笑みで。コリンはYOKOの手に軽く口づけすると、二人並んで舞台の真ん中へ進んでいった。コリンが話している間に、次席のコンマスがコリンのいた席に移動していた。コリンが軽くA線を弾くと、YOKOはそれに音を合わせる。YOKOがコリンに笑顔を向けると、それを受けてコリンもコンマスに合図をした。

鮮やかな開始。ニ長調の明るい響きが教会の回廊に響く。合奏に導かれ、ソロに入る。チェンバロに乗って、フルートとヴァイオリンのソロが、まるで会話をするかのように、時には明るく、時には切なく、最上の音楽を奏でていった。YOKOとコリンは、お互いの呼吸を確かめるかのように視線を合わせながら演奏する…時々笑顔になりながら。久しぶりに一緒に弾いたとは思えない、抜群のコンビネーションであった。二人ともそれぞれの個性を出しつつも、ぴったりと息のあった音色と表現で、喜びに溢れた音楽を生み出していく。YOKOの音色は、透明だが温かで、ビブラートも美しく、教会の高い天井からきらきらと音がこぼれてくるかのようであった。コリンのヴァイオリンは、指板を自由自在に動き、美しいビブラートをかける左手と、どのような表現も可能にする完璧な弓使いの右手の、両方から生み出される至上のものだった。技術・音色・表現・解釈のすべてが、芸術の女神から恩恵を受けた天賦の才から創造される奇跡であり、またその弾いている姿は、名画から抜け出てきたかのような、それだけで人を魅了するものであった。聴衆はYOKOのフルート、コリンのヴァイオリン、チェンバロと弦楽合奏により構築されるバッハの音の世界に浸り、至福の時を過ごしていた。

最後の音が教会の空間からふっと消えると、その静寂と対照的な、嵐のような拍手が会場に鳴り響いた。コリンは団員たちを立ち上がらせ、聴衆に向かって姿勢よく一礼すると、団員たちに労いの拍手を送った。それからYOKOの方を向き、硬く握手をしてから、両頬に軽く口づけをした。YOKOとコリンはお互いを讃え、それからチェンバロ奏者、コンマスと握手をした。拍手の鳴り止まない中、YOKOとコリンは肩を組んで側廊奥の部屋へ下がっていった。彼らが下がるのを確認すると、団員たちは再び席に着いた。
「ペンバリー管弦楽団のファンは、いい聴衆ね。皆、心から楽しんでいたから、私もとても気分よく吹けたわ」
YOKOがそう言うと、コリンは何も言わなかったが、最高の笑顔をYOKOに向けた。それが彼の答えだった…YOKOはなぜコリンがソロにならずこのオケにこだわっているのか、理解した気がした。音楽界は稀有なヴァイオリニストをソリストとしては失っているのかもしれない、でもこれでいいのだろう…まだ拍手は鳴り止まない。コリンはYOKOに、手を差し出した。
「皆がお待ちかねですよ、お嬢様、お手をどうぞ」
YOKOは笑顔で、コリンの手に自分の手を重ねた。そして二人は、カーテンコールに応えるために、再び聴衆と団員の方へ歩いていった。

Special thanks to YOKO-sama

この話に出てくる曲を試聴しよう!

『Eine kleine Nachtmusik』(Listen to samplesの1,2,3,4番をクリック)

『アダージエット』(Listen to samplesの4番をクリック)

『弦楽セレナーデ』第1楽章と第2楽章(Listen to samplesの1,2番をクリック)

『カノン』(Listen to samplesの1番をクリック)

『四季』から『夏』と『秋』(Listen to samplesの2,3番をクリック)

『ブランデンブルク協奏曲』第5番(Listen to samplesの1,2,3番をクリック)
ちなみにこれがベ○リンフィルのエ○ニュエル・○ユです

おまけ:コリンの携帯着メロ『断頭台への行進』(Listen to samplesの4番をクリック)


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