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舞台袖で彼は、愛器ストラディヴァリウスをケースからゆっくり出した・・・今日はペンバリー管弦楽団の定期演奏会、プログラムはブラームスの交響曲第1番だ。彼、このオケの誇るソロ・コンサートマスター、コリンはステージマネージャーの合図に軽く頷き、満場の聴衆と団員たちの待つステージへと向かった。彼の姿が舞台に現れると割れんばかりの拍手。コリンはコツコツコツ・・・と長い足をもてあまし気味に自分の席へ向かう。楽団員たちはそんなコリンを見つめている。彼らにとってコリンは、ヴァイオリン奏者としては確かな技術・多彩な音色・豊かな表現力を持ち合わせる憧れの人であり、コンマスとしては信頼厚くリーダーシップがありどんな状況でもオケを導いてくれる絶対的な存在、そして常によく気が回り知的かつユーモアのある仲間であった。コリンは第一ヴァイオリンの一番前にある自分の席の前に立ち、そして聴衆に軽く会釈した。客席の1列目には、コリン・ファンクラブの面々が大きな花束を手に彼を見つめている。全ての演奏会で彼がコンマスを勤めるわけではないのだが、なぜかファンクラブのメンバーは彼が出る演奏会には地方公演も含め必ず聴きに来てくれる。ファンの情報網とはすごいものだ。知った顔なので、彼らに微笑んでみる。そして踵を返し、オーボエ奏者を向き、目でチューニングの合図をした。Aの音をとると、コリンは全ての団員に視線を向ける・・・不思議なものでコリンのあの瞳に見つめられると、団員たちは本番の緊張から解き放たれ、普段の力が出せるようになるのだ。チューニングが終わると、コリンは燕尾服のすそを優美に払い、席につく。しばらくして指揮者が入場すると、会場はまた拍手にわいた。コリンが立ち上がると全団員もそれに続く。彼は指揮者を迎え、堅く握手する。指揮者の目にもコリンへの信頼が溢れていた。コリンが座ると、拍手もやみ、ホールは静寂に包まれた。 指揮者がすっと手を上げるとコリンがヴァイオリンを優雅に構える。それを合図に皆楽器を構えた。指揮者とコリンの呼吸に皆が息を合わせ、そうして演奏が始まった。第一楽章…ティンパニの運命の足音のような音、そのうえに弦楽器と管楽器の渦のような旋律が重なる。コリンは視線、表情、体の動きを使い、指揮者の作り出す音楽を皆に伝える。そして彼の、弦と弓とが吸い付くような美しいボウイングは、何よりも多弁であった。序奏が終わり、提示部へ・・・指揮者はリハーサルよりも少し遅いテンポで振った。それに気付いたコリンは、少し走り気味の後ろのヴァイオリン奏者たちに背中で合図する。ゴシック建築のように重厚な音楽が築かれていく。そして展開部、嵐の前のような不気味な静けさから徐々に音楽は力を増し、その頂点で再現部へ。コリンは実力からいって充分ソロでやっていけるのだが、オーケストラの、この100人が一体化する瞬間を何よりも愛していた。今日もコリンは、団員皆が一つの気持ちで弾いているのを感じていた。 そして2楽章。コリンは軽く弦をはじき、調弦する。この楽章の後半にはヴァイオリンソロが待っている・・・何度も弾いているが、やはり緊張するものだ。指揮者はハンカチで汗を拭うと、コリンを向いた。コリンは笑顔で、準備が整ったことを伝える。1楽章とは対照的な、柔らかい旋律。コリンはオーボエ奏者に視線をやる。まずはオーボエソロ・・・甘美な旋律。指揮者が弦楽器に向けて手をかざす。コリンはそれを受けて、少し身をかがめ、音量を落とすよう伝える。オーボエの音色がホールに響き渡る。ソロを終えたオーボエ奏者にコリンは笑顔を向ける。オーボエ奏者もソロの出来に満足し、笑顔を返す。中間部を過ぎ、ヴァイオリンソロが近づいてくる。第一ヴァイオリンの譜面が2段に分かれ、Soloと書かれた上段は休みになった。オケをまとめるのは隣のフォアシュピーラーに任せ、コリンは息を整える。ソロが始まった・・・オーボエソロと同じ甘い旋律。コリンはゆっくりした深いヴィブラートをかける。大理石を彫り上げたような美しい手から奏でられる夢のような旋律に、聴衆も惹きこまれる。コリンの音色は、E線のハイポジションにもかかわらず、柔らかだった。そしてホルンソロとの掛け合い。ホルンの暖かな音色の上を、コリンのヴァイオリンが優雅に舞っていく。2楽章が終わり、コリンの美しい音がホールの空間に漂う。指揮者はしばらく手を下ろさず、会場の空気も微動だにしない。皆がコリンのソロの余韻を楽しんでいた。指揮者が手を下ろすと、客席から感嘆の溜息が聞こえた。指揮者はコリンに向き、彼だけに聞こえる声で「ブラヴォー」と囁いた。その賛辞にコリンも笑顔を返す。 3楽章に入り、多彩なアンサンブルが繰り広げられる。コリンはソロの重圧から解放され、楽しそうに弾く。管楽器と弦楽器が交互に主役を演じる。3楽章は短く、目立った旋律もないが、愛らしく、何よりもオケで弾く喜びに溢れた曲で、コリンのお気に入りだった。 3楽章が終わり、アタッカで終楽章へ。ダイナミックな強弱。ピチカートでストリンジェンドするところは、皆がコリンの呼吸に合わせ、気持ちを一つにして弾く。緊張するところだが、今回もうまくいった。そして嵐のような旋律。徐々に音量を増し、その頂点でティンパニのロールが鳴り響く。ティンパニがデクレシェンドすると、アルプスの山々を思わせる壮大なホルンの旋律が現れる。その旋律はフルートに引き継がれ、そして・・・トロンボーンの崇高で美しいコラール。ホールの隅々までその美しい和音が響き渡る。再びホルンが先程の旋律を音量を上げつつ吹き、一度盛り上がると波が引くように音量を収めていく。弦楽器奏者はつけていたミュートをはずし、指揮者とコリンに集中する。そして、この曲で最も有名な旋律が現れる。ヴァイオリンのsulGで朗々と歌われる旋律。木管楽器に引き継がれた後、ブラームスらしい重厚な音楽が繰り広げられる。コリンの美しい指は指板の上を踊り、滑らかなボウイングにより豊かな音色が生み出される。団員たちはコリンに導かれ、情熱的に演奏した。曲は終盤に入り、更に盛り上がりコーダへ。序盤にあったトロンボーンによるコラールが、今度は全合奏で高らかに堂々と演奏される。曲は熱狂的に、力強いハ長調の和音で締めくくられた。 最後の音の余韻がホールに消え、一瞬静まり返ったあと、割れんばかりの拍手が会場を包んだ。指揮者は手を下ろし、満面の笑みで楽団員たちをねぎらう。そして、素晴らしいソロを弾き、コンマスとしての役割を立派に果たしたコリンに、立ち上がるように指示する。コリンははにかみつつ、すっと優雅に立ち上がった。指揮者、団員、そして聴衆全てから拍手を受ける。ブラヴォーとあちこちから声が掛かった。前列のコリンファンクラブのメンバーたちは、感極まって涙目になっている。コリンは聴衆に軽く会釈し、指揮者と堅く握手をした。指揮者は全ての楽団員たちを立たせる。更に大きな拍手。聴衆の何人かは、立ち上がって拍手をする。一度指揮者が袖に下がると、コリンは席につき、団員たちもそれに続いた。拍手は鳴り止まない。指揮者が再登場し、団員を立たせようとするが、コリンをはじめ団員たちは座ったまま指揮者に拍手を送る。指揮者は素晴らしい演奏をしてくれた楽団員たちに心から感謝をし、もう一度立つようにコリンを促す。コリンが立ち上がると、全員が立ち上がった。指揮者は客席に向かって軽く礼をすると、再び袖へ下がった。コリンは指揮者が下がったのを確認すると、隣でサポートしてくれたフォアシュピーラーに笑顔を向け、握手をする。他の団員たちもそれぞれ周りの人と握手をして労をねぎらう。楽団員が袖に下がり始めると、聴衆も帰路につき始めた。コリンファンクラブの面々は花束を抱え、コリンに会うために舞台袖の入り口へ向かう。今日はあの甘美なソロを弾いてしまったので、お嬢さん方もいつもより興奮気味らしい、大変だな、とコリンは苦笑しつつ、頼もしい仲間たちに囲まれながら袖へ下がっていった。
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