** 憎悪 **
突然それはやってくる。 最初は耳鳴りがする。何度も同じことを経験しているから、この時点でもう、これから自分がどうなるかがわかっている。わかっているから抵抗しようとする。テレビのバラエティー番組を見たり、ワイルドな自慰をしてみたり、なるべく滑稽な踊りを、さも愉快そうに踊ってみたりして、何とか自分の精神のテンションを上げようと試みる。しかしながら、抵抗虚しく耳鳴りは少しずつ大きくなり、突然意識は目前の世界を遮断してしまう。 全ての意識が、全ての脳細胞の一つ一つが、それらの興味の対象を、その耳鳴り一点に固定してしまうのだ。やがて、耳鳴りは具体性の伴った音声に変わっていく。誰かの笑い声が聞こえ始め、そして渦巻く千人の嘲笑、万人の嘲笑へと。 この頃にはもう耐えられなくなって、小生は布団に頭から潜り込み、がたがた震えている。 オレは世界一、役立たずな人間だ。否、自惚れるな!学校のクラスに一人いるかいないかくらいの、使い物にならない人間。その上、個性すらない。 ここから、逃げたい。この世界から消滅してしまいたい。オレの存在そのものを責められているようで、怖くて恐くて、こわくって仕方がないのだ。真夜中に鉄鍋をガンガン打ち鳴らしながら、「助けてくれ」「南無阿弥陀仏」、喉も裂けんばかりに連呼し街を巡回したい。そうしたいがやらないのは、結局、誰も助けてくれないことがわかっているからだ。それどころか、キ印の烙印を押され、特殊な病院にブチ込められるのさ。あはは。 …「今日はいつになく夜風が涼しいみたい。」 つい先ほど廊下で看護婦同士がそんな言葉を交わしていたのを僕は反芻している。どうでもいいことが頭から離れない、そんな場合は、決まって朝まで眠れない。真っ白なシーツの敷かれた汗臭いベッドに僕は仰向けになったまま、素足だけを外に下ろし、リノリウムの床に落ちているはずのスリッパをまさぐる。 まさぐりながら、この精神病院に勤務する医者の顔が脳裏をよぎる。酒井という中年の女だ。この女、全く笑わないし(それどころか僕が愛想笑いをしても冷たく見つめ返す)、病気(君はわかっていると思うけど、僕は本当に正常だ!)の診断時には何度も同じことを繰り返し喋らせた上で、僕が早口なことや発声が不明瞭なことを責める立てるのだ。早口で発声不明瞭、そんなことは指摘されずとも昔からわかっている。何度も直そうとして、直らないから今に至るわけで、それを改めて責めらると救いがない、そうだろう? ベッドの少し下側に入った位置で、スリッパは見つかった。このスリッパは、その酒井への当て付けとして前回の外出日に購入したもので、薄緑のビニール地にデフォルメされた兎の顔のイラストがプリントしてある。確かにそれを見た酒井は嫌な顔をしたが、それは全く当て付けになっていない。誰も僕の存在に興味がないから。 つい、話がそれてしまって、ごめん! それで僕はヘッドに寝転んだまま、そのスリッパを足先にひっかけ、そのまま上体を起こした。消灯されているが、室内はぼんやりと明るい。ここは四人部屋で、ベッドとほんの少しの個人スペースを置いて、それぞれはカーテンで完全に仕切られている。今、僕は運良く窓側の位置にいるが、今度の部屋移動で窓側を取るのは無理かもしれない。ずっと窓側ばかり続いてきたからなぁー。 窓向こうにある北病棟から、時々叫び声が聞こえてくる。隣のベッドからは囁き声が続いている。病的に痩せた、高見という男の声。あっ、「病的」という表現は変か。高見は本当の病気だからね、頭の病気だけど。 今、枕もとの置き時計を見ると、午後11時35分。 何故か胸騒ぎがして勢い良く立ち上がり、スリッパを引きずって窓ガラスに近寄ると、中天に銀色の満月が見えた。日中は薄汚ないこの病院の建物も、月の光の下で鈍くひかっている。昔、少しだけ礼拝に通った教会のような厳かさすら感じられる。 |
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僕は窓を全開にして、月を直接見上げた。うん、ルナティックだね!そうしている内に、酒井の執拗な嫌味や、この前に見舞いに来てくれた友人が僕より病院の味方をしていたことなんかを思い出し、我慢ができなくなって、よよよと泣いてしまうのだ。それを垣間見た夜勤の看護士、看護日報にこう追記する。「夜間11時40分頃、情動失禁の症状有り」。つまらん。 まだ耳鳴りは続いている。 いつの間にか恐怖は殺意にすり変わっている。 殺さなければ殺される。 蔑まれるために生まれてきた。 嘲笑(わら)われるために生まれてきた。 そして全てを憎悪するために。 ( 2003-7-31 ) |