ひとりごと

経営コンサルティングはイメージ商品か?(5/20/99)

光と影(6/7/99)

 

経営コンサルティングはイメージ商品か?(5/20/99)

業務の都合で経営などのセミナーに出ることが多い。そこで、最近気づくのがカタカナ用語の乱発である。

リストラ(リストラクチャリング)という言葉はすっかり市民権を得たようであるが、その後のリエンジニアリングから始まり、カタカナ語の増殖は続いている。人事分野ではコンピタンシーモデル、エンプロイアビリティー、モバイルスキル、戦略分野ではKFS、コアコンピタンス、問題解決ではMECE,イッシューツリー、営業ではカスタマーサティスファクション,製造ではジャストインタイム、販売ではワンストップショピング、ミールソリューション.........

ある、戦略系のコンサルタントの方が講演(講義)の際に多くカタカナ語を使っていたので、思いきって「カタカナ語はあいまいな感じがするが、意思疎通に支障を来したことはないか?また、メリットは何か?」などいろいろ質問をしてみた。すると、「英語の方がより抽象概念を表しやすい、また欧米の大学院で学んだ人は英語で考えることも多く、英語が混在してしまう」という返事をいただいた。そのコンサルタントの先生には、その後は講演(講義の際)、カタカナ語や英語の概念が出る都度、一番近い日本語に言い換えてもらうなどの配慮をしていただいた。

なるほど、日本語と英語の指す範疇は異なるようだ。 1996年に日米の著名人を呼んで実施されたフォーラム「慶應インターナショナルエグゼクティブ・プログラム」の席上(私も事務局として同席した)、グレン・フクシマ、在日米国商工会議所会頭・ADLジャパン代表、元米国通商副代表補は、『「規制緩和」の意味である"delegulation"は同じ言葉でも、日本側と米国側でその使われ方が異なる。日本側の意味することは「再規制」であり、米国側では「規制撤廃」の意味なのだ。これでは交渉の進展は困難だ..』と述べていた。同じ言葉でも国によっては表現する範囲が異なることはよくあることである。フランス語では「蝶」と「蛾」がともにpapillonという集合名詞のため、フランス人にはどちらかが区別がつかないという。そうなると、複数の言語が混じる会話ではその言葉の持つ抽象性や意味の範囲も都度定義・意識しなければならないのだろうか?

また、抽象概念といえば、英語でしか表現できないものもある、と言われれば、確かにそうとも言える。米国の学者、Robert Katzの言葉を引用すれば、業務・ビジネスに必要な技能(スキル)には人間関係スキル(ヒューマンスキル)、概念創造スキル(コンセプチュアルスキル)、業務遂行スキル(テクニカルスキル)の3つがあるそうである。また、一般に日本人は概念創造スキルというものが欧米に比べて乏しい、とも言われている。そうなると、日本語のいくつかの言葉の意味を包括する形で英語などの抽象概念が生まれてくるということも多いというが、果たしてそういう事のほうが多いのか?

考えてもみてほしい。

映画の字幕ではそれほど多くのカタカナ語は登場しない。十分日本語に意訳されており、それで意味は十分通っている。仮にそれが経営などの専門的な分野ではない、映画の字幕とは違うんだ、というにしても、例えば、カスタマーサティスファクションという言葉が出るはるかに前から日本では「お客様第一主義」という精神や言葉はあったではないか?また、コンビニエンスストアが出現するはるか昔から日本の田舎には「よろずや」が多く存在し、「ワンストップショッピング」を実現していた。そうなると、かならずしもカタカナ語で表現しなくても済むことばも多いのではないだろうか?漢字自体がある程度抽象的な意味を持っていることもあるので、漢字も使用して表現した方がもっと多くの日本人に理解してもらえるのではないだろうか。

かく言う私も、報告書や会話の中でかなりのカタカナ語を使っていた。それは、ある意味「舶来の概念」を用いて話た方がトレンドを押さえており、なんとなくイメージも学術的(アカデミック)で聞こえも良い。また、この「世界」に通じているというイメージも持たせることができるからである。仮にそうすると、ギョーカイ言葉や日本のポップス歌詞等のような、感覚で遣う程度のレベルにならないだろうか?また、イメージを先行させようとした場合、受け手が自分同様の環境でない場合は意思疎通の精度が大きくぶれないだろうか?

ギョーカイ用語やポップスの歌詞であれば、細かいニュアンスも含め、意思やメッセージが内輪で伝わりさえすればいいが、経営のコンサルティングにおいては顧客や関係者は必ずしも経営全体のプロとは限らない。また、概念的なカタカナ語であれば経営指導の具体性に欠く事も多いのではないだろうか?総論だけ言って実際の実行や相手にわかりやすく説明する、という役割を放棄しているのではないだろうか?

概して日本人は英語にコンプレックスを持っている。数年前、某外国航空会社のマイレージ制度の説明書きが、カタカナ語が多いので、問い合わせの電話をしたところ、英語がさもできそうな女性の担当者が電話口に出て「あの、辞書でちゃんと調べましたか?」と事務的に対応されたことがあった。たまたまその会社に勤務していた友人に聞くと、「当社の赤字プログラムなので、わざとわかりにくくして、問い合わせにも親切に対応しないようにしているんだよ」とまで言われてしまった。つまり、英語くらい自分で調べて理解しろ、と言われると、日本語では強気な人達も英語を前にすごすごと言うことをきいてしまうようである。

混迷の時代、欧米にまたしても先を行かれ、あせっているわれわれ日本人ビジネスマン。答えのすべてを欧米の考え方から持ってくる必要はないことを再認識するとともに、コンサルタントなどには「それが日本語でどういう言葉に言い換えられるのか」「具体的にどういうことか」はっきり問いただすことも必要ではないだろうか。

 

光と影(6/7/99)

山本 貞(てい)という画家の展覧会に行った。その名も「光と影」。同氏の近年の作品は、木漏れ日や木の影をテーマにした作品が多い。その自然描写、特に緑と茶色(新緑と土)の鮮やかな色の対比は見事であるが、それよりも何よりもこれらには、絵の主題であろう「影」が鮮明に描き出さされているのが印象的である。影をつくっている木の姿はないが、十分に影の存在で影を作っている木そのものや、まばゆい日差しが見る者の心中に描き出される。

「反映(1998)」「風のぬける道(1995)」

「地の光景(1996)」

同氏の緻密な筆調もさることながら、影が実物をよりリアルに映し出していることには驚かされる。「風のぬける道」では、120Fという大きさのカンバスのなかに,われわれもすっと入り込んで行けそうな、そんな印象であった。ふと、思い出すと、このような木漏れ日を作るまばゆい初夏から夏の日差しでなくとも、われわれは都市でも同様な光景を見ている。秋も深まる10月末くらいからは、日中でも日差しが差す部分と差さない部分の明暗がはっきりして来る。窓枠などの建物等のわずかな突起部分でも建物が一層深みのあるものになる。

向かい合う女性の顔と杯の図案を心理テストに用いるゲシュタルト心理学では、浮き出されている部分を「図」、浮きあげている部分を「地」と呼んでいる。「地」と「図」は原則として重複はなく、相互に入れ替わるとされている。また、「図」の部分だけでも、「地」の部分だけを切り離し、別々にしたところで、合わさった像がもたらす「意味」「価値」が形成させることはない。つまり。「全体は個々の総和よりも大きい」というわけである。芦原義信氏の「街並みの美学」でも、街路と建物を「地」と「図」になぞらえ、この調和が町並みの美観とバランスを形成している、としている。

ハワイのホテルの客室を予約する場合、「オーシャン・ビュー」や「マウンテン・ビュー」などと区別されるが、(中には他のホテルしか見えない「ホテル・ビュー」なんてものもあるが、海を見渡せる「オーシャン・ビュー」(厳密にはオーシャンフロントというが)は夜にはただただ、暗黒の海しか見えない。そして、昼間はなんてことのない「マウンテン・ビュー」の部屋は、丘の上まで続くハロゲンの街灯と海岸線沿いに続く夜景を見ることができるようになる。ホノルル港から夕刻出航するNavatek, Star of Honolulu, Wind Jammerなどのサンセットクルーズはまさにその「地」と「図」が入れ替わる時刻に「地」と「図」の境界である海岸線沿いに変わり行く情景を楽しむものである。ホノルル港から太平洋に沈む夕日を見つつ、ダイヤモンドヘッドを越えてハナウマ・ベイの付近まで行き、そこでUターンをして、今度はワイキキのホテルの夜景を甲板に出て眺めながら帰ってくるのである。また、暗くなる空と海と対象に、船内・室内が明るくなり、その中で繰り広げられるディナーショーやダンス・パーティーが一層盛り上がりを見せるのである。

ブラジルからやってきたアレンジャー、エウミール・デオダートが1972年に「木目サウンド(私のつけたニックネーム)」のクリード・テイラー プロデュースで発表したPreludeという米国デビュー作のジャケット(Pete Turner, Bob Ciano氏による)でも同様な手法が用いられている。

"Prelude" Eumir Deodato, 1972

この作品も「反映」・「地の光景」同様に、そこに木の実物の描写はない。しかし、緑色にフィルターされた「地」の部分と浮かび上がった影の「図」の部分が合わさり、見る者に、そこにない物を創造(想像)させてしまうのも、その手法を応用したものであろう。

語弊があるかもしれないが、単純平和よりもスリリングな生活を、「単なる善人」よりも「危険な香り」が漂う男性が好まれるとすれば、見えない「影」の部分が生活や人間の厚み・立体性を増しているのかもしれない。そして、もし、今の生活や恋人に単調さを感じているとすれば、もしかしたらその影の部分を探してみるのも良いかもしれない。


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