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クラウディオ・モンテヴェルディー(イタリア)
Claudio Monteverdi *1567 クレモナ +1643 ヴェネツィア ♪ モンテヴェルディーは、まさにルネッサンス時代からバロック時代に移る時期に生涯をおくった作曲家です。マドリガル(多声の世俗的な声楽曲=教会音楽ではない合唱曲)の最後にして最大の作曲家で、また、オペラ(音楽劇)の最初の作曲家でありました(年代的には彼に先立ってオペラを書いた人はいましたが、音楽的内容と、後世に遺した影響の重要さからいって、最初としてよいと思います。あ〜すっごく難しいこと書いてるような文章になっちゃって、どうも好かんな〜…)。 クレモナで23才まで過ごした彼は、その後、マントヴァの宮廷に仕えました。そして46才でマントヴァを去り、76才で亡くなるまで、ヨーロッパ最大級の音楽文化都市、ヴェネツィアで、「サン・マルコ寺院礼拝堂楽団長」として務めていました。 さて、モンテヴェルディーの一生は、マントヴァの宮廷との戦い(?)に明け暮れたといっても過言ではない一生でした。この、マントヴァの宮廷が、何ともいい加減なところで、給料の支払いはとどこおるわ、王様の遠征に附いて行かされても旅費は自前だわ、年金は口約束だけだわ、彼はも〜きれまくり!モンテヴェルディーは心労のため、体調を崩すこともあり、それが後世まで尾を引いたと言われています。 ヴェネツィアで、マントヴァの2倍以上の給料をもらう身分になってからも、彼は再三、未払いの給料の支払いや、年金の確保を、マントヴァに働きかけつづけました。が、まるで効果なし。ずうずうしいことにマントヴァ公の方は、当時音楽家として最も高い地位に就いた彼とのつながりを持ち続けようと、機会あるごとにオペラの作曲を依頼します。ところが、彼がヴェネツィアの激務をぬって、せっかくオペラを完成させても、なんらかの陰謀によって、結局一つも上演されるに至らなかったのです。そのため、10あったうちの3つ以外は、失われてしまいました。このことは、後の世に生きている私達にとっても、モンテヴェルディーと一緒になって、代々のマントヴァ宮廷の人々を憎んでもいいんじゃないでしょうか……だって、もし全作品が残っていたら、もっともっと楽しめるオペラのレパートリーが広がっていたでしょうから。 しかし、モンテヴェルディーも、よく懲りもせずにマントヴァ宮廷のために書き続けたものです…もしかしたら、それまでの問題にけりをつけてもらえるかもしれない、という期待もあったかもしれません。それよりも、どんなにひどい目にあっていても、マントヴァ宮廷は、彼にとって、唯一教養ある人々のためにオペラが描けるところであったのでした。 彼がヴェネツィアにいる頃、世界で始めて公開のオペラ劇場が出来ました。それによって今まで貴族達だけの楽しみだったオペラを、一般市民も見られるようになったのです。しかし、そのようなオペラ劇場のための作品は、大衆にウケなければならない、採算をとらなくてはならない、ということで、芸術を追求する立場からは、制約されることが多かったのです。
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アルカンジェロ・コレッリ(イタリア) Arcangelo Corelli *1653 フジニャーノ +1713 ローマ ♪ 作品番号1〜4(各作品番号に、12曲入っているから、12×4=48曲)が、トリオソナタ(バロック時代の代表的な室内楽曲=合奏曲)、作品番号5が、ヴァイオリンソナタ(12曲)、同じく6が、コンチェルト・グロッソ(合奏協奏曲、12曲)。それ以外はすべて破棄してしまったという完璧主義のヴァイオリニストでした。
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ジョバンニ・バッティスタ・ペルゴレージ(イタリア) Giovanni Battista Pergolesi *1710 イエージ +1736 ナポリ近郊ポッツォーリ ♪ わずか26才でこの世を去った作曲家。現存するオペラ9作品を始めとして、たくさんの器楽曲・声楽作品を遺しています。彼のオペラ「奥様女中」がパリで上演されたのがきっかけで、パリでは、フランスオペラがいいか、イタリアオペラがいいか、国王派と王妃派に分かれて大論争を起してしまったのでした(ブフォン論争)。 私は、病気が悪化し、死ぬ間際に修道院にこもって書かれた、スタバート・マーテル(悲しみの聖母)が大好きです。有名な合唱曲です。私の妹もこの曲が大好き。でも、自分の部屋ではどうしても聴けない理由があるのです。それは、何か… 彼女がこの曲を聴くと必ず、部屋にムカデが出るのだそうです!!!皆さんにも、本当に美しい曲なのでぜひ聴いていただきたいと思います。その際には、そばに忘れずにキ○チョールとか、○―スジェットとかをおいておくことをお勧めします。実話なんだから!!!。 |
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