24.情欲 (ずるい男)
1989年冬。
集中講座も無事に終わり、師走も押し迫っていた。
仕事から帰宅後、和彦は、予期せぬ人の訪問を受ける。
ドアの覗き穴から外を見ると、そこに映ったのは、なんと
父宗一郎の顔だった。 あわててドアを開けた。
「ちょっと寄らせてもらってもいいかな・・」
「お、結構、綺麗にかたづいているじゃないか」
・・一体、どういう風の吹き回しだ?
和室の方へ宗一郎を通し、普段あまり出すことのない急須を
取り出し茶を煎れる。
「・・・・・」 和彦は、黙っていた。
「・・・・・」 宗一郎も茶碗に手を伸ばし、黙って茶をすする。
1秒が1分のように感じられた。
「静香が、面白い事を言ってきたんだが」決まり悪そうに、咳払いをする。
「・・・・」
「ミスきものコンテストをやってはどうかと・・」
そんな話が二人の間で交わされるほど、宗一郎は、長く静香を
見舞ったというのか・・?
「学院の生徒はもちろん、一般からも出場者を募集して、、
そこに児童の部、外国人の部も設けるということだ・・」
宗一郎は、はははと笑った。
「とても・・・面白い案だと思います」
和彦は、静香からは何も聞かされていなかった。
自分に話すよりも前に宗一郎本人に持ちかけることができたのは、
ほほえましいことだ、本来そうあるべきだった。
「その児童の部に、宗也を出してはどうか・・などと言い出すんだ」
宗一郎の顔がほころぶ。
・・なんだって?! なるほど・・そういうわけか。 なんだって母は、
そんな背伸びをするんだ・・。 夫を責めたり、泣きわめいたりすれば
いいじゃないか・・。 宗一郎に対して、ご機嫌とりや気遣いばかりし
て、その歪みの受け皿になっているのは、いつだって・・いつだって・・。
和彦は、こぶしを握りしめた。
「来年早々にその案を会議に出したいと思う。
お前にも、斬新なアイデアを出してもらえたら・・と
思って、来たんだ」
和彦のほうを見て軽く微笑んだ。
「さて・・と」 宗一郎は、テーブルに手をかけると、
「よろしく頼むよ」 そう言って立ち上がった。
和彦は、複雑な面もちで、ドアに立って、宗一郎の後ろ姿を見送っていた。
父の訪問は意外だった。けれども、あまり好意的な印象は受けなかった。
むしろ、 母の提案に気をよくしてやってきた父の宗也への思い
を感じた。 静香や自分がどんなにアイデアを練ろうが、力を注ごうが、
全て宗也を擁護する方向へ向いていくような気がする。嫉妬と憎しみの
入り交じった思いで、胸を掻きむしられた。
最後の「よろしく頼むよ」だって、和彦への期待から出た言葉では
ないかもしれない。 「静香をよろしく頼む」 そんな風に取れる気がする
むしゃくしゃして、外へ出た。
車を飛ばして、甲州街道を西へ向かう。
着いた所は、西国分寺の女子大生のアパートだった。
・・いるかな? 見上げると、台所の窓に明かりが灯っている。
車を停めて、階段を駆け上がっていく。
カレシや家族にかち合うのではないかという心配も頭をもたげたが、
気がづくとチャイムを押していた。 覗き窓から漏れていた明かりが
黒く塗りつぶされた瞬間に、
「・・先生」 ドアの向こうから驚きの声が漏れてきた。
チェーンの外れる音の後、ドアが開かれた。
「近くまで来たので寄ったんだけど・・いい?」さりげなさを装う。
「ええ、ええ」彼女は、和彦を招き入れた。
彼女の他には誰もいなかった。
キッチンテーブルの上に何かの資料が積まれている。
それに今まで目を通していたのだろう。 カップの飲み物から、
湯気が上っている。 彼女は、興奮を隠しきれなかった。
書類を急いで束ねると、電話の下の棚にそそくさと片づけてしまった。
テーブルを拭きながら、声を弾ませて、
「何か飲みますか?」 と訊く。
少しでも、彼を留めておきたいという気持ちが表情に表れている。
和彦は、何も言わずに、彼女の腕を掴むと、ぐっと引き寄せた。
それに吸い込まれるように、彼女も体を寄せてくる。
ムードづくりなど何も必要なかった。
激しく求め合うように唇を重ねると、二人は、いきなり
ベッドになだれ込んだ。 暗い部屋にキッチンの明かりが
差し込んでいる。 薄明かりの中、彼女は、目を潤ませて和彦を
みつめた。「会いたかったの」と何度も囁いた。
和彦は、ブラウスのボタンを外しながら、じれったくなって、
手を胸にすべりこませた。 「先生・・」 彼女の口から息になって
漏れた。 彼女の髪を掻き上げ、首筋に舌を這わせる。
「先生、嬉しい」 彼女は、和彦の首に腕を回して、くるおしげに
唇を求めた。
その後は、お互いに欲望の赴くがままに激しく体を重ね合った。
どれくらいの時間がたったのかもわからない。
力が尽きて眠りに落ちるほど、何度も何度も抱き合っていた。
早朝に目が覚めた。・・金曜日だ。
けだるそうに和彦を見上げて、彼女が、
「今日しごとが終わったらまた来てくれますか?」と言う。
「夜、仕事は?」と尋ねると、
「2〜3日休んでいるから」と言った。
「分かった、そうするよ」 その答えを聞いて、彼女は安心した。
「もう少し寝るから。電話の横に鍵があるので、持っていってください」
そう言うと、吸い込まれるようにまた眠ってしまった。
和彦は、急いで自宅に帰り、着替えた。
☆
その夜、仕事を終えて、再び彼女のところへ行った。
上着のポケットから鍵を取り出す。 ピンクのウサギのキーホルダーが
ついている。
「先生、お帰りなさい。 本当に来てくれたんだ」
彼女は、夫を迎える妻のように走り寄って、和彦の肩に腕を回した。
それにつられて、彼も頬にキスをしていた。
「これ、全部つくったの?」
「腕を振るったでしょ・・」
テーブルには、美味しそうな料理が並んでいる。
「なあんてね、少し、友達に手伝ってもらっちゃったぁ」
「大学の? 二人分の食事で冷やかされなかった?」
「ううん、弟が泊まりに来るって嘘ついたから」
「・・本気にしたかな?」
「たぶんね。 誰も私にカレシがいるなんて思わないもの」
「そんなことないよ、お腹が空いてるんだ、食べよう」
和彦は手洗いを済ませ、テーブルにつくと、さっそく鶏肉料理に箸を
つけてみる。 心安らぐ家庭料理の味がする。
「おいしい」 もう一口食べた。
「それは、友達が作ったんだけど」 少し悔しそうに肩を落とす。
「・・君がつくったのは、どれ?」 あわてて訊く。
「その横のマッシュポテトと人参とインゲンのソテー。 それから
そっちのサラダ・・・」
さっそく味を見てみる。 マッシュポテトはよく裏ごしされていて
クリーミーな味だった。 上に何かソースがかかっている。
人参を口に入れ、インゲンとにらめっこをした後、
「ごめん、僕はこれが食べられないんだ」と正直に謝る。
彼女が、ちょっと残念そうな表情を見せる。
「でも、きっと美味しいんだろう、僕が好き嫌いが有りすぎるんだ。
だって、マッシュポテトも人参もとってもおいしいよ」
あわててフォローした。
彼女は気をよくして、
「こっちもおいしいから、食べてね」とサラダを薦める。
「君は、食べないの?」と尋ねると、手付けずの自分の皿を見渡して、
「うん、男の人に料理を食べて貰うことなんて、滅多にないから、なんか
興奮しちゃって」と、ため息をついた。
「どうして僕のことを言わなかったの?」
「・・・だって」 友達の作った鶏肉料理をナイフの先で突っつき
ながら、「彼女にとられたら大変だから」と言う。
「とられる? 僕を?」不思議に思った。
「うん、去年の秋にね、合コンがあったの。 その時、もう少しで
つき合えそうな男の人がいたんだけど・・」
彼女は、鶏肉を半分に切り分けると、片方を和彦の皿に移して、
「彼女にとられちゃったよ」とこぼした。
「・・・・」
「彼女、可愛いし、頭いいし、優しいし、しっかりしてるし・・」
形容詞が延々と続きそうだった。
「でも、そんな事があった後でも、友達でいる君って素敵じゃない?」
和彦は、言ってみてから、そんな気の利いた台詞がよく言えたものだ、
と内心、驚いていた。
「そう? そうかなあ」 彼女は照れながら 「そうかもしれないね」
と嬉しそうにうなづいた。
和彦はサラダのトマトを口に運んだ。
「悪いんだけど、これ残してもいい?」 きゅうりを皿の隅によける。
「いいわよ、嫌いなものは残して」
食事の後、和彦は、昨日彼女が片づけた資料を横目でみていた。
まだ電話台の棚に積んである。
「あれ、なに?」
「ああ」 彼女は、資料の束をもってきて、テーブルの真ん中に置いた。
「会社の資料や、そこで取り扱ってる教材なの」
「教材・・?」
「外国語のカセットテープを製造、販売している会社・・」
「あ、就職・・決まってるの?」
そうか、彼女は、年明け早々卒業なんだ。
「うん、もうすぐここも引き払うし」
「え?」
「あ・・先生。 心配してくれてるんだ」
和彦が一瞬見せた淋しげな表情を、彼女は見逃さなかった。
「先生には、新しい住所をちゃんと知らせるから」
そう言って、彼の手を両手で包み込む。
「もうすぐ、夜の仕事もやめる。 家族も細々と店は続けていける
みたいだし、私の月給の範囲でやりくりすればどうにかなりそう
だから。 妹や弟もアルバイトしながら、学校へ行くって・・」
晴れ晴れした表情だった。
それから、和彦とビイは、週に一度はどちらかの部屋へ泊まるように
なった。 大晦日の晩に、和彦の部屋のチャイムが鳴る。
ふたりはベッドの中にいた。 ビイは、あわてて服を付けながら、
「どこかに隠れなくちゃ」と、クローゼットの扉を開けた。
和彦はおそるおそるドアの外を覗きこんだ。
笹峰マツが立っている。急いでドアを開けた。
「若先生、突然にごめんなさい。今、娘夫婦と出かける途中なの。
たぶん、お家にいらっしゃるだろうと思ったから・・・」
そう言って、重箱の入った風呂敷包みを差し出した。
「マツ先生、ありがとうございます」 嬉しかった。
「でも、必要なかったのかな・・?」 マツは、玄関に揃えてある
ビイのハイヒールを目に留めた。
「あ、おはずかしいです。 この事は母には・・」
「分かってるわよ、誰にも言わない。 若先生も隅に置けないわね」
照れ笑いしながら、頭を下げると、歩いていった。
部屋へ戻ると、ビイの姿が見えない。
クローゼットを開けると、隅のほうでしゃがみ込んでいた。
「出ておいでよ、もう帰ってしまったから」
和彦は、手に風呂敷づつみを提げている。
「女の人? 誰?」
「ああ、これ・・」 和彦は、包みをほどいて重箱を取り出した。
「学院の笹峰先生がこしらえてくれたんだよ」
「女・・の先生・・」 ビイは、下唇を噛んでいた。
「女の先生だよ、でも、60を過ぎた母親みたいな人だよ」
「・・60歳。 そうなんだー」 ビイはほっとして、重箱の蓋を
ずらした。
「おいしそうだね、こういうの、作れるようにならないといけないのね」
と言った。
ビイは、台所で蕎麦をゆで始めた。
ミョウガやネギの薬味を刻み、テーブルに運ぶ。
スーパーで買ってきた、出来合いの蕎麦つゆを小鉢に注ぎ、
年越しそばを食べた。
その後、また冷蔵庫からビールを出してきて、正月の重箱を広げ
つまみ代わりにつついていると、ビイがしゃがみ込んでテレビの
下を覗いている。 何か落としたようだ。和彦は、急にその姿に
そそられて、つい後ろから抱きついてしまった。
ビイのうなじが覗くたびになぜか心が躍ってしまう。
1年半前から脳裏に焼き付いているあの女を思わせるからだった。
そして、その女が気になるのは、中学生時代に好きだった糸川香織と
うりふたつだからだ。
・・こうして後ろから抱けば、彼女みたいだ・・。
今、心がはっきりとそう言った。 和彦はその一瞬に、自分の本性を
垣間見たような気がした。
「ねえ、おにぎりが食べたい・・」ビイのうなじに唇をあてながら、
子供のようにねだってみた。
「おにぎり・・?」
「つくってくれる?」 ビイの背中に抱きつき、自分の左の頬を
彼女の頬に擦り寄せる。
「しようがないわね」
・・その涼しげな目元でみつめられると、言いなりになってしまう。
ビイは、美しい親友や和彦のことを恨めしく思う。
戸棚でみつけた花鰹にしょうゆを垂らし、おかかのにぎりめしを
こしらえた。 それを頬張る和彦を、頬杖をついて眺めている。
「今年の夏、那須でペンションの奥さんが夜食に握ってくれたのが
美味しくて、それ以来、夜食はおにぎりなんだ」
ビイに対しては、、普段人に感じるような警戒心を感じない。
たぶん、他の女性だったら、何かをねだることなんてできないだろう。
異性として、そんなにときめいているわけでもない。
一緒にいると楽なのだ。
母から逃れて、母親のような存在を別のところに求めている。
・・僕は、宗一郎にも劣る男なのかもしれない。
そう思った。 けれども、彼女との関係にやすらぎを求めつづけていた。
(つづく)
(話の続きへ)
メニューへ