48.吉祥文様(きっしょうもんよう)
「きものと女性の美」という講演会の宣伝ポスターの前で
滋実は立ち止まる。
モデルが聡美の友達の美恵子だったせいもある。
主催は、聡美の通っているきもの学院だが、講演者の名前。
・・学院長・魚住和彦。
つい半年前までクリニックに通っていた患者と同姓同名だ。
同一人物だろうか。
滋実は、講演会に出席した。
「・・たとえば洗い張りをするときに、きものを一度ほどいて
縫い合わせると、また完璧な一枚の反物に戻ることです。 その状態で
染め直しして、また着物に縫いあげるのです・・」
着物に込められた日本人の知恵について彼は語りつづけた。
着物への深い愛情が伝わってくる。
滋実は、その顔を初めて確認した。
サングラスや帽子を付けて無表情で座っていたあの男と目の前の人物が
同じ人間だとは考えづらい。 繊細で真面目な人間ほど厚い壁に
ぶち当たるものなのだろう。
☆
聡美の父、晴彦は、秋田の出身である。
小さい頃に実の父親が病死し、母親が近所で道場を開く菊谷醍醐(だいご)
と再婚する。 その後、郷(さと)と醍醐の間に4人の
子供がもうけられ、醍醐は、晴彦や弟たちに剣道を叩き込んだのだった。
晴彦は、大学に進学するため東京へ出た。
銀行に勤めてから暫く同僚たちと道場に通っていたことがある。
聡美や康平にも剣道をと思っていたのだが、聡美は、「かっこうわるい」
と言って空手を習い、康平は汗でアトピーが悪化するので体質的に
向かなかった。
ひさびさに、知り合いの肥田に電話して彼の道場に足を運んだ。
そこで和彦に出くわす。
「和彦・・」
「菊谷さん・・」
予期せぬ再会だった。
「手合わせ願います」
以前自分が呪っていた相手。聡美の父親である菊谷。
竹刀を握る両者の脳裏をさまざまな思いがよぎる。
和彦は、母静香の仇討ちを果たすかのように晴彦に向かっていった。
「面ー!」 和彦がまず一本取る。その後、つばぜりあいが続いた。
互いにへとへとになり、どちらが何本取ったかなど分からなくなる
ほど稽古をした後、一礼し面を外した。
「母がどうして僕に剣道を勧めたのか分かりました。 こういう形で
貴方と向かい合えてよかったと思います」
「私も、久々にスッキリした」 晴彦は、頼もしそうに和彦を目で追う。
和彦は、晴彦に誘われ、駅前の居酒屋に入った。
静香も宗一郎も亡くなった後、こうして菊谷と酒を飲むとは。
母と晴彦の間に涌くいくつかの疑問が晴れたといえば嘘になる。
しかしもう今となっては、誰がどこで道を誤ったか・・など知る由もない。
結局は、晴彦と静香の問題だった。
晴彦は、酒は強いほうではなかった。
始めのビール1杯で赤くなり、日本酒に少し口をつけた後は、もう
飲まなかった。
「昔は、もう少し飲めたんだが、本当に弱くなったもんだ」
「お前が息子だったら、ああして毎日のように一緒に稽古して
いたんだろうか」そう言って、和彦に酌をする。
「お前も人には言えない苦労があったことだろう。私が静香にお前を
生んでくれと頼んだのに、最後まで育てることができなくて、
本当に情けない」
「・・・いいえ、貴方のせいじゃ・・」
「いや、本当に悪かった。 ときどき思い出して影ながら幸せを祈って
はいたんだが・・」
その後、話が家族のことになり、息子が最近家に寄りつかないこと、
娘が家で子育てをしていることが話題に上る。
「自慢の娘も息子も結局は、親の思うようには育たないものだ・・ははは」
悟ったように見せかけて、内心淋しそうだった。
「娘が和彦の学院に通っているのを最近知ったんだが、聡美には、
会ったことはあるかな?」
「・・ええ、綺麗なお嬢さんですね」
晴彦も和彦も同じ顔を思い浮かべて目を細める。
「そうかな。子連れでもいいから見合いをしたいという男もいるには
いるんだが・・」
和彦が拳を握りしめる。
「聡美が“男の人に幸せにしてもらおうなんて古い考えでいたら、
本当の幸せは掴めない”なんて言うもんだから・・。
まあ、可愛い孫の父親になる相手だ、中途半端な男にやるくらい
なら、ずっとそばにいてくれたほうが安心だ」
和彦の拳が緩む。
「や、すまない、和彦。 お前に愚痴をこぼせた義理じゃないんだ。
申し訳ない」 そう言って深々と頭を下げた。
☆
8月30日で聡美は30になる。
和彦は、聡美の誕生日を学院の名簿で知った。
2日前に花を送ると、翌日金曜に彼女から電話があった。
「綺麗な薔薇をありがとう」
「明日、一緒に過ごさないか。ハルトンのロビーで待ってる」
木曜日の夕方、自宅で花を受け取ったのは、滋実だった。
その送り主のところに、「魚住和彦」と書いてある。
・・あの学院は、生徒の誕生日にこんな豪華な花束を送るのだろうか、
驚いていると、翌日の晩、聡美がソワソワしながら、
「明日、美実をお願いしてもいい? もしかしたら帰りは朝になってし
まうかもしれないけど」と言うので状況を察してしまった。
「聡美、だいじょうぶなの?」
聡美がうなづいた。
「・・勝手ばかり言ってごめんね、お母さん」
☆
和彦は、ホテルの38階に部屋をとっていた。
その夜、出生の秘密をうちあけると、
聡美は、しばらく何も言わずに夜景を眺めていた。
中野坂上方面に面し、目の前にグリーンタワービルが建っている。
あまりに複雑で因縁めいた関係に、聡美の心は揺れた。
「私とは偶然に出逢ったの?」
窓の中の聡美の目が後ろに映る和彦の目を見つめる。
「・・そうだよ。 運命だと思わないか」
「でも父が何と言うか・・」
「何度でも会いに行くよ、僕は諦めない」
後ろから包み込むように聡美の肩を抱いた。
「結婚したい」 何度目のプロポーズになるだろう。
「ええ、でも」 聡美が振り返る。
ああ、今ここで結婚を迫っている男がストラティスだったなら。
彼と一緒にいた頃の会話が蘇えってくる。
「ストラティス、私たちが正式に結婚する前に子供が生まれてしまうわ」
「・・だいじょうぶだよ、愛があれば子供は育つから」
「そうだけど・・・」彼の正式な離婚は、遠い夢のように思われたものだ。
「もう待てないよ」
和彦は、聡美を抱き寄せ頬ずりした。
聡美は、体を少しよじらせた。
逃げたいわけでない、彼の想いの深さに触れたかったのだ。
「結婚しよう」
「・・・・」
和彦が聡美を抱き上げると、彼女は彼の肩に腕を回した。
見つめ合って口づけする。
「結婚しよう」 和彦は、何度でも繰り返す。
聡美の口元から白い歯が覗く。
その目が笑っている。
「返事をくれないなら、もう言わない」
和彦は、ため息を漏らして彼女をベッドに放り投げると、バスルームに
籠もってしまった。
「和彦さん・・」ドアをノックするが、中から何も音がない。
「怒ったの?」 もたれかかるとドアが開いた。中に倒れ込むその腕を和彦が
引き寄せる。彼女を壁際に立たせて、蛇口をひねり、頭上からシャワーを
浴びせる。息を殺して真剣な眼差しで彼女の目を見つめる和彦。
聡美の体をがっしりと抱きしめると、その唇に自分の唇を押しあて、手首を掴み、
体をさらに強く壁に押しつける。
片手でネクタイをゆるめながら、もう片方の手で聡美の胸ボタンをはずす。
一枚ずつ彼女の服を剥がしながら、自分も投げ捨てるように服を脱いでいく。
そこで彼女を抱いた。
二人の息が、白い湯気にとけ込んでいく。
☆
翌朝、37階のエグゼキュティブラウンジで朝食をとる。
何も無かったかのように、平然とコーヒーをすする和彦。
ときどき聡美に微笑みかける。
今朝も懲りずに言うのだ。
「結婚しよう」
「・・・・」 聡美は、その言葉だけで満腹になりそうだった。
「結婚しよう」
何十回目のプロポーズになるだろうか。
さすがに和彦も痺れを切らして、両手を頭の後ろで組みながら
椅子の背に寄りかかり、口をとがらせた。
「そんなにいやなら、もう無理にとは言わないよ」と膨れてしまった。
「いつ父に会いに来るの?」 聡美が顔を上げた。
☆
9月の末に、和彦は、菊谷家を訪れた。
晴彦は、心から賛成はしていない。
滋実は、和彦が夫の先妻の息子であることに、あまりこだわらなかった。
ただ意外なストーリー展開に驚いている。
「俺は・・」と言いかけた晴彦に、滋実が、
「貴方は、相手が誰だとしても、そう言うんでしょ」と先回りする。
「まだ何にも・・」
「会ってあげましょうよ」
「・・お前はいつもそうだ」
晴彦と滋実を前にして和彦は正座した。伸びた背筋をさらにただして
「どうか聡美さんを僕にください。 美実ちゃんと聡美さんをきっと
幸せにします」と丁寧に頭を下げた。
「こちらこそよろしくお願いします」 滋実もそれに習う。。
暫く無言で硬直していた晴彦が聡美をみつめる、娘の意思を確かめている
のだと聡美は感じた。
それに応えるように大きくうなずくと、晴彦は咳払いを一つして、
「よろしくお願いします」 とかすれる声で頭を下げた。
(つづく)
(話の続きへ)
メニューへ