53.入籍 11月下旬に聡美の実家にサキスからポストカードが着いた。 それを彼女のところに康平が届けにやってくる。 「え? ストラティスの双子の弟だって?」 マンションにいたのは、和彦だけだった。 聡美は、かっぱ橋へ買い物に行っていた。 「そうです、サキスっていうんですけど、今度  こちらへ剣道を習いに出てきます」 ・・やっかいだな、和彦は眉間にしわを寄せた。 「姉は、心変わりするかもしれませんよ」 「そんなことないさ。 剣道で彼の弟と張り合えるなんて面白い」 その彼がやってきたのは、11月30日のことだった。 ストラティスが借りていたアパートが空室の状態なので、 サキスは、そこに住むことになった。 そして、兄が勤めていた 目黒の女子高校の英語教師をすることになったのだ。 誰から見ても、ストラティス・パパンドレウと同一の人物である。 ちょうどストラティスが聡美に出逢う前の状態の彼の姿が そこにあった。 それを目にした和彦は、気が気でなかった。 12月に入った最初の金曜の夜に、道場で初めてサキスと 対面したとき、和彦は思わず半歩後ろに飛び上がってしまった。 その日の和彦は、やたらと殺気立っていて、息の根を止めんばかり にサキスを攻撃し、彼に一本も取らせなかった。 着替えを済ませ、玄関で靴を履いていると、サキスが英語混じりのおぼ つかない日本語で、 「貴方が魚住さんなんですね・・兄から聞いていますよ」 聞き覚えのある声だった。  「兄の友達だったんですよね」 「ええ」 和彦は、あまり目を合わせなかった。 「聡美さんと結婚するんですね」 ・・いったい何が言いたいんだ。 僕がそのためにストラティスを ギリシャへ追いやったとでも?  「ストラティスも聡美の友達と結婚したんだそうじゃないですか」 「そ、そうなんですが・・・」 サキスがうつむいた。 「でも」 ふたたび顔を上げて、「兄の記憶が戻ったら、聡美さん  や美実を貴方から取り戻しに来るかもしれませんよ」 鋭い目で和彦をみつめた。 「もう聡美は新しい人生を僕と歩き始めたんだ。 すべては過去の  ことなんだよ」 和彦もそれに挑むような目でサキスを見つめた。 和彦は、その晩執拗に聡美を求めた。 「い、痛い、やめて」 「放さないよ。 どこにもやらない。 誰かが君を奪いに来たら、  そいつを殺すよ」 和彦は、くっきり歯形が残るほど、聡美の肩をがりがり咬んだ。 「君は、僕のものだ」  何かに脅かされるように何度も目を覚まして、その度に聡美を 抱いた。 眠るときにも彼女の手を握らなければ落ち着けないほど、 和彦は興奮していた。 「どこにも行かないから、安心してゆっくり眠って・・」 そう言ったとき、枕元の時計はすでに午前4時ちかかった。               ☆ 翌朝、朝食の間も和彦は落ち着きがなかった。 美実は、前夜から実家に行っている。両親が 「たまの土曜くらい二人きりにならないと」と言うので 「じゃ一晩だけ」と甘えてしまった。 「え? 入籍を年内中にしてしまうの?」 「そうだよ、いけないかな?」 和彦の目が充血している。  「あ、でも・・」 聡美は、首をかしげた。 「どうせ2月には結婚するんだし、2ヶ月くらい早くたって  変わらないだろう」  「ええ、まあ」  「そうと決まれば、今日中に婚姻届を出しに行こう」 和彦は、食事の途中で箸を置き、和箪笥の一番上の引き出しから 何か取りだして戻ってくる。  「・・婚姻届け?」 「これの受付は、年中無休なんだ」 そう言って、食事もそっちのけで書き込み始めた。自分の分の記入を 終えて捺印すると、聡美に用紙とペンを向けて、 「さあ、君も書いて・・」と言う。 「ゆっくりお食事しましょうよ」 和彦は、聞く耳を持たなかった。みそ汁の椀を口元に運ぶ彼女の手をふり ほどいて、代わりにペンを持たせる。 「わかったわ」  聡美は、妻の欄に自分の名前を書いた。 これが、菊谷聡美と書く最後になるわけだ。 ストラティスと交わした会話が甦ってきた。 「ねえ、いつになったら私は貴男の正式な奥さんになれるの?  3年後、5年後、10年後?」 「お金がたまり次第・・」 「じゃ、銀行強盗でもしない限り、私は貴男の奥さんにはなれないわね」 「お願いだから、虐めないで・・」 今は逆だった。 男のほうから、入籍しようと迫られている。 全て記入し終えて、菊谷の印鑑を取り出す。  和彦が朱肉を彼女の手元に引き寄せた。 しばらく手を休めて和彦の顔をみつめていると、和彦は、 聡美の印鑑を持つ手を掴み、朱肉に押しつけて、名前の欄に 押印させてしまった。 「さ、できあがり」  再び聡美が箸を手にして食事をつづけようとすると、 「でかけるよ」と言う。 「ね、食事くらいゆっくりさせてー」 「だめだめ。 役所にこれを届けてから」 「えー、 そんなに急がなくてもー」 「いいの、いいの」 箸を手にしたままの聡美の腕をグイグイ引っ張った。 「あー、あー、ご飯が食べたいのにー」 「ふざけてる場合じゃないんだよ」 和彦が箸を取って、代わりに 彼女にコートを手渡した。 「でかけよう」 聡美の背中を押して玄関へと追いやる。 聡美はため息をつきながら、潔く靴を履いた。 車に乗り込んで、渋谷区役所へ向かう。 和彦は、職員に用紙を提出する最後の最後の瞬間まで ろくに口もきかなかった。 あまり和彦の言いなりでちょっぴり悔しく なった聡美は、最後の段になって、彼の手から封筒を奪った。 「これを今破ったら、結婚は成立しないんですよね」 職員に尋ねる聡美。 目の色を変える和彦。 笑う職員。 「出す直前になって“やっぱり”っていうのもたまにありますよ」 「冗談はやめてくれ」 和彦は、封筒をスッと抜き取ると、すぐさま職員に手渡した。 確認するように聡美の顔をうかがう職員。 「お願いします」 聡美は、くすくす笑いながら言った。 そうして、婚姻届が受理されたのだった。 その帰りに和彦は、学院近くの店で「魚住」の印鑑を注文した。 数日後にできあがったものを聡美の手に握らせて、 「もう、これしか使えないからね」と安堵の笑みを浮かべた。 そうして聡美の妊娠が明らかになるまで何週間も要さなかった。    (つづく)



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