15.悲しい雨 やがて、魚住少年は、中学生になる。 威張り散らしていた近所の子供達も、五分狩り頭のくりくり坊主で、 様にならなかった。 「格好悪いよなー」 それでも、頭の形の良い魚住少年は、八頭身がますます際だって、 美しかった。 成績は、全教科が学年で1番である。 体育の時間は、持久走や鉄棒のような単独種目なら、2〜3番目だった。 どうしても、町会長のうちの正哉を堂々と抜いて1番に躍り出ることがで きない。 団体競技になると、回りとの連携プレーがぎこちなくなった。 それを知っているクラスメートは、バスケットボールのゲーム中、 彼にボールをパスしようとしない。 そんな中で、剣道部に入部した。 母が、 「何か一つ続けられるものを持つと良いわね」といい、 「何がいいかな?」と尋ねると、 「剣道なら、袴も付けるし礼法も重んじる世界だから」と 勧めたからだ。   友達と呼べる人間は、特にいなかった。    休み時間になると、いつも目立たない場所で読書をしている。 笑うことなど、殆どなくて、どことなく陰りがあった。 「クールで魅力的」と囁く女子は、幾人かいた。 和彦には、どうでもいいことだった。 気になる女子はいるにはいた。  糸川香織だ。華奢な体つきで一見可憐な感じがする子だった。  彼女のことは一年の頃から気になっていた。 剣道部に仮入部してまだうさぎ跳びばかりさせられていた頃だ。 同じ体育館で腕立て伏せや腹筋をする体操部の新入部員の中に彼女がいた。 どの運動部からも補強に耐えられなくなった者がどんどん辞めていく中、 彼女は、確実に残っている。いつも早くから来て、誰に言われるでもなく マットや平均台の用意をして先輩を待っていた。その姿は、大きな夢を描いて いるようにも見えた。彼女は、見る見るうちに上達していった。 平均台の上から足を滑らせて床に叩きつけられる彼女を何度も目にした。 腕に包帯を巻いて何週間ものあいだ見学していたこともある。 が、回復すれば一心不乱に練習に励んで遅れを取り戻していた。 和彦も彼女に負けまいと剣道の練習に打ち込んだものだった。 そんな二人は、2年になって両クラブの優秀選手として活躍するのだった。 常に県大会では、トップクラスの成績を修めるのである。 香織とは2年から同じクラスになる。 彼女は保健委員になった。 和彦が、朝礼や体育の授業中に時折貧血を起こすのだが 彼女が自分の肩を差し出して、「つかまって」と言う。 最初はとまどいながら細い肩に腕を回していたが、華奢な体は意外にしっかり していた。 彼女の髪の甘いシャンプーの匂いが心地よかった。  保健室のベッドに寝かされてふと脇を見ると、小さく kaori という縫い取り のされたハンカチが落ちていた。和彦は、それを迷いもせずに拾って胸ポケット にしまいこんだ。 2年の3学期、その日は朝から腹痛がしていた。 音楽室でもよおしてきたが、まだ終業ベルにはほど遠かった。  腹の中からギュルギュルという音が聞こえてくる。  そんな時だった。 斜め後ろに座っていた香織がすっくと立ち上がって音楽の 教師のところに耳打ちしにいく。 「魚住、ちょっと来なさい」 腹のことに全神経が集中していた和彦の気が一瞬紛れたようだった。 教師のところまで歩いていく。 青ざめた顔をしている彼を見て 「また貧血が起こったのか、保健室に行って休みなさい」 と教師が言った。 そのときに香織はついてこなかった。 和彦は、急いで教室を出てトイレに駆け込んでいった。 3年の1学期、もうすぐ夏休みに入るころ。 学校帰りに、人のいない川べりに座るのが好きな和彦は、 水の流れに目をやって、一日の緊張を癒していた。 誰も来ない、自分だけの「秘密の場所」だった。 学校の給食室の調理師が二人とも重たい風邪を引いて寝込み、4日間 弁当になった週があった。 和彦は忙しく仕事をしている母にその ことを言いそびれ、昼食時に川べりに逃げ込むようになって3日経とうと していた。 寝そべって空を眺めてみると、青くて大きい夏の空がある。  時折、空高く横切っていく飛行機を見送りながら 「あれに乗っていけば、知らない土地での新しい生活が待っているの  かなあ」 と、想像を巡らしていた。 草を踏む音を耳にして、あわてて起きあがると、 そこに糸川香織が立っていた。 「いつからそこにいたんだ?」 香織は、気まずそうに、少しあとずさりした。 「・・つけてきたのか?」 香織は、小さくうなづいた。 和彦は、人に無防備な姿をさらすのが嫌いだった。 「ごめんなさい」そう言って立ち去ろうとした香織を、 「待って」と、 引き留める。 香織は、そろそろと歩いてきて、 彼の隣に離れ気味に腰掛けた。 暫くは、どちらから会話を始めるでもなく、水面を見つめていた。 「もう部活も卒業だね・・」 香織が先に口を開く。 だまってうなずく和彦。 「・・お互い頑張ってきたね」 再びこっくりうなずく和彦。 「魚住君、食べ物の好き嫌い、多いでしょ?」 ・・・金杉に聞いたな? 金杉というのは、例の町会長の息子正哉のことだ。正哉とは、1年から ずっと同じクラスだった。 相変わらず、和彦について、有ること無いこと言いふらしているようだ。 「・・貧血治したほうがいいよ、今日みたいな  お弁当の日は私がつくってきてあげる。好きなものだ  けをたくさん詰めて・・」香織が息をはずませた。 意外な申し出に少し驚いた。 和彦の心は躍ったが、それを見せまいと無表情を装った。 「どうして?」 和彦は、小石を水面に投げた。 「心配だから・・」  聞き慣れない言葉に戸惑いを感じた。 香織のさりげない気遣いにはいつも助けられてきた。 保健室へ行く途中のつかのまの時間もやすらぎだった。 人に心を開いたことがないから、うまく表現できない。 「・・私のところも、お母さんが継母なんだぁ」 それで自分に似た匂いでも感じるというのか・・。 「はっきり分かったのは最近なの。小さい頃の記憶の母は、少し違うかな  ってずっと思ってた。でも怖くて・・訊けなかった」 香織は、突然に家庭の事情を話したことで逆に和彦の気持ちを 傷つけたのではないかと、彼の表情をうかがった。 「おかしな話してごめんね」 暫く二人は黙って川面を見つめていた。今度は香織が水面に石を 投げる。 「私・・今、料理番組なんか見てるの。お弁当も自分でつくって  るんだ・・だから、明日は魚住君も分もつくってきてあげるよ・・」 こんなシーンを前に何度も空想したことがある。  例えばバレンタインデーなんかに彼女がやってきて、 「あなたの事が好きです」 とか言って、手編みのマフラーなんかを手渡していくシーンだ。 気がつくとそんな妄想の中にふたたび彼女と自分を置いていた。 和彦は、香織のほうをチラリを見た。  彼女と目が合った瞬間、胸の高鳴りを抑えられなくなりそうになる。  「・・・・・・」 目の前の香織が何か言った。聞き覚えのある名前を口にしたような気が する。 「このあいだ、金杉君につき合おうって言われたんだけど」 今度は確かに聞いた。 金杉・・! その名前を聞いたとたん、和彦は、心の高鳴りがすーっと引いていくのを 感じる。  「・・・私の事、好きだって。どうしたらいい?」 なんだって、ヤツへの返答を自分が考えねばならないんだ。 「そんなこと・・」 必死で無関心を装う。   「・・・・」  「好きならつきあえばいいし、他のやつが好きなら断ればいい」 それだけアドバイスすれば十分だろうと思った。 自分には、関係のない事・・。  ところが、妄想も覚めようとしたとき、香織は振り絞るように言う。 「私は、魚住君が好き・・」 和彦は耳を疑った。  頭が真っ白になり、自分の鼓動しか聞こえなくなった。 彼女が自分を好きだと言った。 自分は? 自分は? ・・好きだ・・好きだ! でも、言葉が出てこない。 それより金杉に先を越されたことに憤りを憶えた。 二人で示し合わせて楽しんでいるんじゃないだろうか。 そんな疑念がよぎった瞬間、思わずつぶやいていた。  「嘘だ」  喉が詰まって声にならない。 「今、なんて?」 「からかってるんだったら、やめてほしい、迷惑だ」 そう言い放っていた。なにか本意でない気がする。でも、それしか 言えなかった。 「ひどい、からかってるなんて」 大きく見開かれた香織の目から涙が溢れおちた。 「・・金杉とつきあえばいい。そうだ、彼とつきあえよ」 処理しきれない思いをそんな言葉でしか表せない、それは実際には 望んでいないことなのに。 泣きながら走り去っていく香織。  藍染めの木綿のハンカチに包まれた弁当箱がぽつんと残されている。 中には、にぎりめしと煮物が入っていた。 その後、2日間、香織は学校に来なかった。 ところが、翌日、登校してきたかと思うと、3日前のことが嘘であるか のように、明るく振るまった。 そうして、その日から、正哉と一緒に 下校するようになってしまった。 和彦は、いつもの土手へ足を運んで、立ち止まった。 誰かの笑い声が聞こえるではないか。 覗いてみると、そこにいたのは、香織と正哉だった。 香織は、和彦の気配を感じて、わざと大きな声を出した。 「私、前から金杉君が好きだったの。金杉君とつきあう」 「ちくしょう」 和彦は、不愉快になった。 香織にからかわれた。 それも秘密の場所まで金杉に教えられてしまった。 悔しくて、回りの石や木の枝を、手当たり次第投げながら帰った。 香織のこしらえた弁当を食べたことを思い出して唾を吐いた。 それから数日後の終業式の日、家に帰る途中、あの川べりで誰かの叫び 声を耳にした。 近づいてみると、正哉をはじめとする例のガキ大将どもが 集まっているではないか。 木の葉の間から、ひしめき合って笑う背中が見えた。  覗き込もうとして、足を滑らせる。   「やばい、誰か見てるぜ」 彼らが振り向いた。   「ちっ」 正哉がそこを退くと、覗いたのは香織の顔だった。 顔は、涙でぐちゃぐちゃになり、全開になったブラウスを、手で必死に 引っ張って、胸を隠している。 香織は、目を見開いて和彦を見た。 「お前らー」 和彦は狂乱した。足元に転がっている木の枝を振り回しな がら、小学校の時のように、正哉に向かって走っていった。 「この野郎」 和彦は、正哉に一撃を加えた。 「ふん」 正哉は、鼻で笑った。  「やっぱりそうか。 お前が香織の事を好きなのは、知っていたんだ。  だから、からかってやったんだ」  「お前」 和彦は拳を振り上げた。 「行こうぜ」 正哉たちは、笑いながら散っていった。 香織は、髪を振り乱しながら、狂ったように泣き叫んだ。 手足がすりむけて、血が滲んでいる。  「見ないで」 しばらくショックで動くこともできない。 和彦が近づくと、再び小さな叫び声をあげた。 「来ないで」 恐怖で全身が痙攣している。 「大丈夫か?」 手をさしのべるが、触れようとしない。 雨がぽつぽつ降り出した。 「送るよ」 散乱した鞄や靴を拾おうとする和彦を、もの凄い形相で  睨み返した。 「私の事を好きなら、好きって、どうして言ってくれなかったのよ。  私も貴方の事が好きだって言ったでしょう?どうして?」 そう言いながら、悔しそうに泣きじゃくった。 雨が大降りになってきた。  香織は、よろけながら、立ち上がると、和彦の手を払いのけて、足を ひきずりながら、帰っていった。 和彦は、雨に打たれながら、その後ろ姿を見つめていた。  その晩、香織が手首を切って自殺してしまったと、翌日人づたいに 聞いて耳を疑った。おそるおそる葬儀場に行ってみると、クラスメートが 参列していて焼香をしている。奥の祭壇の真ん中に置かれた遺影を見ると それは確かに香織だった。一年の頃はじめて見たようなはつらつとした 笑顔だった。     それより、最後に見たあの香織の後ろ姿は、ずっと胸に焼き付いて離れない。 雨が降るたびそれは何度も何度も蘇えってくる。 今でも、和彦の心には、その雨が降り続けている。 (つづく)



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