北朝と南朝そして明治維新
 


 明治維新前、「孝明天皇暗殺」と呼ばれる説があります。幕末の倒幕・佐幕両派の抗争の中で、岩倉具視と長州志士等によって、刺殺または毒殺されたという説です。孝明天皇の突然死により倒幕派が大きく前進したためかなりの信憑性があると思われます。
 孝明天皇の周辺を考察してみると、下記のようなことが分かってきます。

 このように孝明天皇と薩長土肥の間には政策の違いが明白でした。ですから孝明天皇は「暗殺」され、倒幕派により政治の分からぬ「幼君」(睦仁親王)が擁立されたのではないかという利害関係が見えてきます。暗殺の実行主犯は側近であった岩倉具視が考えられます。その後、孝明天皇の義兄弟にあたる将軍・家茂も急死しました。

 さらに田中光顕伯爵の言葉によると明治天皇も暗殺され、何者かがすり替わっていたという説が出てきます。


 田中光顕伯爵の言葉より、、、(抜粋)

 私は六〇年来かつて一度も何人にも語らなかったことを今あなたにお話し申し上げましょう。現在この事を知っている者は私の外には西園寺公望公爵只御一人が生存していられるのみで、皆故人となりました。・・・・

 実は明治天皇は孝明天皇の皇子ではない。孝明天皇はいよいよ大政奉還明治御維新と云う時に急に崩御になり、明治天皇は孝明天皇の皇子であらせられ、御母は中山大納言の娘中山慶子様でお生まれになって以来中山大納言邸でお育ちになっていたと云う事にして天下に公表し、御名を睦仁親王と申し上げ孝明天皇崩御と同時に直ちに大統をお継ぎ遊ばされたとなっているが、実は(睦仁親王は暗殺され、これに代わった)明治天皇は御醍醐天皇第十一番目の皇子満良親王の御王孫で、毛利家の御先祖即ち大江氏がこれを匿って大内氏を頼って長州へ落ち、やがて大内氏が滅びて大江氏の子孫毛利氏が長州を領有し、代々長州の荻に於いてこの御王孫を御守護申し上げて来た。これが即ち吉田松陰以下長州の王政復古御維新を志した勤皇の運動である。

 吉田松陰亡き後この勤皇の志士を統率したのが明治維新の元勲木戸孝允即ち桂小五郎である。元来長州藩と薩摩藩とは犬猿の間柄であったが、この桂小五郎と西郷南州とを引合わせて遂に薩長連合せしめたのは吾が先輩の土佐の坂本龍馬と中岡慎太郎である。

 薩長連合に導いた根本の原因は、桂小五郎から西郷南州に「我々はこの南朝の御正系をお立てして王政復古するのだ」と云うことを打ち明けた時に、西郷南州は南朝の大忠臣菊池氏の子孫であるから衷心より深く感銘して之に賛同し、遂に薩藩を尊皇討幕に一致せしめ薩長連合が成功した。之が大政奉還明治維新の原動力となった。明治天皇には明治維新になると同時に「御醍醐天皇の皇子征東将軍宗良親王のお宮を建立してお祭りせよ」と仰せになり、遠州の井伊谷宮の如きは明治二年本宮を造営せられ、同五年御鎮座あらせられ同六年には官弊中社に列せられた。


 この言葉には明治天皇がすりかえられた事また薩長同盟の真相が書かれています。非常に興味深い文章です。
 では実際に即位前と即位後の明治天皇(睦仁親王)の特徴を比較してみましょう。
 
 
即位前(睦仁親王時代)
即位後(明治天皇時代)
睦仁親王は疱瘡(天然痘)をわずらった。疱瘡の後遺症として、顔面に「あばた」が残った。 明治天皇の「御真影」(これは「写真」ではなく、キヨソーネが描いた「肖像画」)に描かれた顔に「あばた」は無い。又、実際の顔にも 「あばた」の事実は存在しない。
元治元年(1864)年7月の「禁門の変」の際、砲声と女官達の悲鳴に驚いた睦仁親王(当時13才)は、「失神」した。 明治天皇は威風堂々、馬上から近衛兵を閲兵し、自ら大声で号令した。
睦仁親王は幼少より「虚弱体質」で、毎年風邪をこじらせていた。又、16才になっても、宮中で女官と一緒に「遊戯」にいそしんでいた。 体重24貫(約90Kg)の巨漢で、側近の者と相撲をし、相手を投げ飛ばしたと言う。
睦仁親王は16才になっても、書は「金釘流」、つまりは「下手」であった。又、政務にも無関心であった。 明治天皇は、書が「達筆」であった。又、学問にも熱心であり、教養豊かであった。
即位前の睦仁親王に、「乗馬」の記録は残っていない。つまり、馬には乗れなかった。 明治天皇は、鳥羽伏見の戦の際、馬上豊かに閲兵した。
 

 事実だけとって見ても「睦仁親王」と「明治天皇」が「別人」であったと考える方が、むしろ自然では無いでしょうか?

  状況を整理して考えてみると、下記のようなシナリオが考えられます。

 倒幕派は、頑迷で退廃的で「佐幕派」であった孝明天皇と、その皇子で虚弱体質で利用価値のない睦仁親王を暗殺し、長州に住んでいた南朝の末裔を擁立する。つまり「北朝」系の孝明天皇・睦仁親王に代わって、「南朝」系の明治天皇(大室寅之祐)が即位する。明治維新とは、実は「王朝交替」だった。

 してみると先帝の孝明天皇(北朝)の「忠臣」だった徳川将軍家や会津松平家が、明治天皇(南朝)にとっては「逆賊」となったことや北朝の血筋である皇族の住む皇居の前に、南朝ゆかりの楠木正成像があるという矛盾が解けてきます。
 これを裏付けるひとつの事実を挙げましょう。「皇統譜」(皇室系図)には明治天皇の正妻は「昭憲皇太后」と記されています。本来、天皇の后妃ならば、「皇后」と付けるられるべきです。つまり、この場合、「昭憲皇后」と言う訳です。しかし、実際には「天皇の母」や「先帝の后妃」に付けられる「皇太后」の尊称が付けられています。更に、明治天皇の子・大正天皇の生母は典侍だった柳原愛子(なるこ)です。なぜ、明治天皇と昭憲皇太后の間に子供が出来なかったのでしょうか? 昭憲皇太后が子供を産めない体だったのでしょうか?もし昭憲皇太后が睦仁親王の正妻だったとしたら、すべて説明がつくと思いませんか?

 「南北朝争乱」の根は非常に奥が深かったということでしょうか、、、
 


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